Masuk
ジュハは、新学期初日からかなり酒を飲んでいた。
五年制の建築学科も、いよいよ最後の後期。
卒業制作の展示会も終わり、あとは卒業論文を書くだけ。
長かった学生生活も、ようやく終わる。
そう思うと、なぜだか無性に酒が飲みたくなった。
大学生活四年半の間、ここまで飲んだことは一度もない。
建築学科は酒を飲む人が多いイメージだったが、ジュハ自身は酒を好まなかったため、そこまで飲む機会もなかったのだ。
だから、その日の彼女は珍しく酔っていた。
道で大柄な男とぶつかったとき、何も考えず軽く頭を下げて謝ったのも、そのせいだった。
「謝り方にしては、ずいぶん適当だな?」
そう言われ、ジュハは男をじっと見上げた。
初対面でため口か、と文句を言うには、どう見ても自分より年上だ。
もっとも、そんなことはどうでもよかった。
生まれてから今まで実際に見た人間の中で、
目の前の男が一番大きくて、一番整った顔をしていたからだ。「じゃあ、土下座でもしましょうか?」
どう見ても酔っている顔なのに、
目を細めて問い返す声は妙に冷たかった。皮肉めいた言い方でもある。
怖いもの知らずな表情、声、態度。
酔えば誰だってそうなるものだ。
たとえ相手が彼だったとしても。
ドヒョクも、自分が少し酒を飲んでいたせいで余計な一言を口にした自覚はあった。
だから適当に流して立ち去るつもりだった。
――そのはずだった。
しかし、足は動かなかった。
目の前の女と視線が合った瞬間、
何年も沈黙していた身体が反応を始めたからだ。ドヒョクもまた、ジュハと同じように目を細める。
ジュハはその目をまっすぐ見つめ返した。
酔っているせいか、不思議と威圧感は感じなかった。
「それで、どうしろって言うんですか?」
ジュハの声を聞きながら、
ドヒョクは彼女の背後へちらりと目を向けた。重低音の音楽が鳴り響くクラブの前。
酔った口調や視線でなければ、
未成年と勘違いしていたかもしれない。化粧っ気のない顔に、ラフな服装。
あまりにも幼く見えた。
周りに女と呼べる存在なんてほとんどいなかったが、
自分が思い描いていた「普通の女」とは、まるで違っていた。少しだけ吊り上がった目尻は、
狐のようでもあり、兎のようでもある。その不思議な顔には、
隠しきれない好奇心が浮かんでいた。「何歳だ?」
唐突な質問だった。
だがジュハはすぐに悟る。
――この男、私を口説こうとしてるんだ。
そんな直感が走った。
酔っている女を甘く見ている男だと思い、
ジュハはさらに鋭く睨み返す。どの口が。
……なのに。
自分に興味を持っているのだと思うと、
なぜだか男の全身を眺めてしまった。理由は整った顔だけではない。
薄暗い路地で、点滅するネオンに照らされるたび、
うなじのあたりに入った刺青が見え隠れしていた。ジュハはゆっくりと視線を下ろす。
そして思わず、小さく笑った。
四年半、勉強漬けだった彼女でさえ、
ズボン越しにもはっきりと存在を主張するそれを見れば、 おおよその察しはつく。――普通じゃない。
初対面の相手の前で反応してしまうなんて、
とんでもない変態だ。それでも、
少しだけ興味を惹かれた。「……へえ」
しかも、それで終わりではなかった。
視線を向けられた途端、
見せつけるようにさらに大きくなっていく。この状況は、ジュハにとってもドヒョクにとっても
戸惑うしかないものだった。ドヒョク自身にも、
なぜこうなっているのか理解できない。だが、
ジュハもまったく興味がないわけではなさそうだった。彼女の視線は一点に釘付けになったまま離れない。
露骨で、執拗な視線だった。
――俺も酒が入ってるせいか。
一度抱いてしまえば、それで済む話だ
そう思いながら、
ドヒョクはジュハへ小さく微笑んだ。まだ二十代前半とはいえ、
もう立派な大人だ。警戒心を解くには、
笑顔ほど便利なものはない。危ない男。
頭の中では、とっくに警報が鳴っていた。
それなのに、
どこか妖しく微笑むその顔を見た途端、 心のもっと奥で「やめたほうがいい」と誰かが囁いている気がした。もっとも、
彼の笑顔がそんなふうに見えたのは、 酔ったジュハの勘違いだったのだが。それでも、
そのどんな警告も、もう彼女を止めることはできなかった。笑った顔が――
何十倍も格好よく見えてしまったから。「家はどこだ?」
「教える義理はありません」
「別に家まで送ろうなんて下心じゃない」
そう言って、ドヒョクは腕時計へ視線を落とした。
時刻は午前一時になろうとしている。
女と一緒にいるところを部下に見られたくはない。
しかも酒も入っている。
選択肢は、それほど多くなかった。
気になる点や違和感があれば、何でも遠慮なく教えてください。 これからもよろしくお願いします!
「……ご主人様、何ておっしゃってた?」「え、あ、その……何だったかな……。『今すぐここへ来て土下座しなかったら殺す』って……」「……くそっ」道赫は手近にあった服を掴み、慌てて着始めた。普段は下着一枚で寝ている。だから着替える時間すら惜しかった。部下たちは、まだ伝えなければならないことがあった。けれど。怖すぎて声が震える。ここまで怒った道赫を、最近の彼らは見たことがなかった。「あ! そ、その、それとボス……。『連絡も会いにも来るな』って……」その言葉に、道赫の動きが止まる。……連絡は、もうしてしまった。でも、ご主人様は電話には出てくれた。だったら、まだ完全に見限られたわけじゃないかもしれない。今から行って土下座すれば。許してもらえるかもしれない。「……そ、それを破ったら……二度と……会わないって……。これが……最後の……チャンスだって……」「……この、クソ野郎どもが……。こんな所までわざわざ来る客なんかそういるか? たった一人の客もまともに迎えられねぇのかよ……!」道赫は堪えきれず、二人の脛を蹴り飛ばした。顔は殴らない。もし珠葉が戻ってきたとき、目立つ傷なんてあってはいけない。それだけが、辛うじて残っていた理性だった。けれど。珠葉がどれほど冷たくなれる人なのか、一番よく知っているのも彼だった
「朝から今まで、一度も連絡ひとつ寄こさなかった人?」「そ、その……兄貴が仕事の都合で朝方に寝ちゃって……。いえ、それより、その……申し訳ありません。俺が……」本当のところ、仕事だったのかどうかなんて基燦にも分からない。ただ必死で、自分のボスをかばっているだけだった。謝るべきなのは自分じゃない。それでも、とにかく頭を下げる。今この場で彼女の怒りを少しでも和らげられるのは、自分しかいないのだから。「私が門の人たちに『連絡してきたら二度と会えない』って伝えたのに、その人が今まさに電話してきてるんだけど?」珠葉は鳴り続けるスマホの画面を基燦へ見せる。基燦は心の中で悪態をついた。――あのクソ野郎ども……!伝言があるなら、真っ先にそれを伝えろよ!そう怒鳴って、頬でも引っぱたいてやりたかった。普段なら下剋上もいいところだ。だが、どうせこのあとボスに殺される身だ。今さら何の意味もない。「つ、伝言がうまく伝わってなかったみたいです……。本当に申し訳ありません」珠葉は、ひたすら謝り続ける基燦を見つめる。全部が全部、この人のせいじゃない。少し八つ当たりをしている気分になった。もちろん、任された仕事をちゃんとしていなかった基燦にも責任はある。彼が門で迎えてくれていれば。こんな長い塀沿いを、最悪な気分で歩き直すこともなかった。珠葉は冷え切った表情のまま電話へ出る。その声は、基燦の背筋が凍るほど冷たかった。「もしもし」『ご主人様……! 来られたんですね? 俺、昨日寝るのが遅くて……。いえ、それより伝えること全部伝えられてなくて、本当に――』慌て
基燦は、そろそろ道赫に言われていた仕事をしようと門へ向かっていた。だが、まだ着く前に。炳浩と万植が、誰かを悪しざまに罵っている声が耳に入る。「世の中、とんでもねぇイカレ女っているもんだな」「誰の話です?」「いや、見た目は普通のお嬢ちゃんだったんだが、ボスの名前を平気で呼び捨てにしてよ。"最後のチャンス"がどうとか――」まだ約束の時間までは一時間ある。少し世間話でもしてから門へ行こう。そう思っていた基燦だったが、その話を聞いた瞬間、慌てて腕時計へ目を落とした。「……え? いつですか!?」「五分くらい前か?」「やべぇ……。どうしました? 中へお通ししましたか?」「はぁ!? 何でお通しするんだよ? 追い返したに決まってんだろ!」炳浩は呆れたように聞き返す。あんな小柄なお嬢ちゃんを、わざわざ"お通し"する理由がどこにある。どう見ても様子のおかしい人間だったのだから。だが、その返事を聞いた途端。基燦の顔から血の気が引いていく。ごくり、と唾を飲み込んだ。……何でこんなに早く来たんだ。まだ時間あるのに。まずは状況を把握しなければ。炳浩も万植も、珠葉のことなど知るはずがない。よりにもよって、この二人だった。きっと、ろくな口を利いていない。今日に限って道赫が仕事を理由に大勢外へ出してしまい、門番が足りなかったのが運の尽きだった。炳浩と万植は、大田の仕事を片づけたばかりで待機中だったのだ。「……くそっ。ボス、今どちらです?」「寝てるんじゃねぇか?」だから連絡がつかなかったのか。基燦は震える手を落ち着かせるように、大きく息を吸う。「タクシーで来られました?」「ああ。タク
「人んちのボ……いや、代表のお名前を、そんな気軽に呼ぶもんじゃねぇよ」――やっぱり。あのバカ。人が来るって言ってなかったのか。珠葉の機嫌は一気に急降下した。この男は今、危うく「ボス」と言いかけた。そのうえ初対面の自分にいきなりタメ口。けれど珠葉はぐっと気持ちを抑える。怒られるべき相手は、こいつらじゃない。そう思った。「どうやって知ったのかは知りませんが、お引き取りください」「じゃあ、ここで合ってるってことね?」「だから、お帰りくださいって」こんな場所までタクシーで来る押し売りがどこにいるっていうんだ。珠葉は冷静に考えながらスマホを取り出した。あのとき会った"職場の人"たちの名前でも知っていればよかった。それもない以上、証明できそうなものは一つしか思いつかない。「これしか証明できるものないんだけど」「おじさん? それがどうし――」「……代表の番号じゃねぇか、それ」『おじさん』と登録された道赫の番号。そして何度も残っている通話履歴。二人は顔を見合わせ、小声で何か話したあと、結局また首を横に振った。「いや……どっかで名刺でも見て番号登録したのかもしれねぇし」「ちゃんと見て。こんなに何回も電話してるでしょ」「……いや、それでもな。うちの代表は、だからって家まで来れば会えるような人じゃねぇんだ」口調はさっきより少し柔らかくなった。それでも態度は頑なだった。珠葉は小さくため息をつく。道赫とのメッセージ履歴。あれを見せれば、自分たちの関係くらいすぐ証明できる。でも。あんな私的なやり取りを他人へ見せるなんて嫌だった。名刺には載っていない個人用の番号
「ディルド代わりに使ってあげる」『……』受話器の向こうから返事はなかった。思わず笑いそうになる。いや、もう少し漏れてしまったかもしれない。その小さな笑い声を、道赫は聞いていたのかもしれなかった。それでも彼は、しばらく何も言わない。やがて、一段低くなった声が返ってきた。『土曜日……ですか? 十二時に?』いつの間にか。「ここは郊外だから、タクシーは家の前まで来ません」そう伝えるつもりだったことすら忘れていた。今、自分が何を考えているのか。それすらよく分からない。ただ、頭の中は真っ白だった。彼女の言葉を、本当に正しく理解できているのかさえ怪しい。それでも。――とても、とても大事なことを言われた。その事実だけが、頭に残っていた。「うん」『……分かりました。お待ちしています』土曜日まで、あと二日。その二日がどれほど長く感じられるのか。このときの道赫は、まだ知らなかった。ただ、きっと長い時間になる。そんな予感だけがあった。珠葉は電話を切ると、長く息を吐いた。本当にこれでよかったのか。そう自分へ問いかけても、すぐには答えが出ない。こんな勢いで決めるために、今まで引き延ばしてきたわけじゃない。それでも。さっきの道赫の反応を思い返せば、きっと後悔はしない。たかがセックス。珠葉はそうやって自分へ言い聞かせる。けれど、「たかが」の一言だけで納得できるほど簡単でもなかった。だからもう一度、道赫のことを思い浮かべる。どんな意味であれ。自分へ本気で向き合ってくれる、あの整った顔の男を。そして彼へ言った通り、自
「大したことじゃない。ただの噂だし。事実でもないんだから、腹を立てる必要ないと思って言わなかった」やっぱり。珠葉なら、そう言うと思った。こんなことを聞かされても黙っていた理由なんて、一つしかない。彼女は、自分自身の名誉なんて少しも気にしていない。あれだけ聞こえよがしに騒がれていたんだ。今日初めて耳にした話なわけがない。何日もそんな声を聞きながら、何事もなかったように大学へ通っていた。そのことを、自分は何も知らなかった。それが、たまらなく腹立たしかった。けれど。怒る相手は、決して珠葉じゃない。それくらい、道赫にも分かっていた。「何であれ、ご主人様の許可がなければ、俺は何もできません」「じゃあ、しなきゃいい」「他のことは考えなくていいです。せめて、俺の名誉だけは守ってください」もちろん、それは口実だった。自分の名誉なんて気にしない珠葉だからこそ、わざわざ持ち出した口実。彼は、ご主人様の許可がなければ動けない自分を知っている。だからこそ、理由が必要だった。珠葉はそっと下唇を噛む。大学にも通っていない彼に、守るべき名誉なんてあるのか。そんな考えが一瞬よぎる。けれど同時に。自分と同じように、彼まで「金で人を買った男」にされてしまったこと。そのことには、まったく思い至っていなかった。彼だって、何も悪くない。しかも、こうしてちゃんと許可まで求めている。たった一言。それだけでいいと言っている。難しいことじゃない。それでも。彼が何をするつもりなのか分からない以上、簡単には頷けなかった。「……暴力はダメ」「はい」返事は驚くほど早かった。まるで、その言葉を待っていたかのように。
「どう? 家族の借金は少しあるけど、学校の先生だ。 悪くないだろ?」 何が「どう」なのか。 ドヒョクはソンミンの手から酒瓶を取り上げ、自分でグラスへ酒を注いだ。 そして、一気に飲み干す。 少し酒が入れば、昨夜と同じ状態になるかもしれない。 そんな考えが頭をよぎる。「今までとはちょっと違うタイプを集めてみたんだけど?」 だが、ドヒョクの隣へ座った相手は、目を合わせることすらできず小さく震えていた。 別にここで誰かと関係を持つつもりで
ドヒョクは、その十一桁の電話番号をじっと見つめていた。 名前を登録しようにも、何と保存すればいいのか分からない。 昨夜は、酔い潰れるほど飲んだわけではない。 それでも朝になると、ようやく頭が冷えてきた気がした。 そもそも、なぜ番号を聞いたのか。 自分でもはっきり覚えていない。 あの女と、この先どうするつもりだったのか。 昨夜のことは、ちょっとしたハプニングとして終わらせればいい。 そう自分に言い聞かせながら、ベッドを降りた。 もしかすると、昨日
「もう、今にもイきそうですけど」「そんなわけない」 軽い挑発のつもりだった。 平然と言い返したつもりなのだろうが、その声は少しも格好よくなかった。 思った以上に震えていたからだ。 緊張しているようには見えなかった。 それでも、その声を聞いた途端、ジュハは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。「そうですか?」 その一言が、ひどく挑発的に聞こえた。 どこまで耐えられるか試してみる、とでも言いたげに。 ドヒョクは少し意地になった。 だが、酒の入った身体は意思とは裏腹に勝手な反応を始める。 ここ数年、まともな性行為から遠ざかっていたせいかもしれない。 ――いや。 そんなものは
「まあ、この辺ならホテルなんていくらでもありますし」 この辺りはラブホテルだらけだった。 ドヒョクはジュハの言葉に、小さく周囲を見回す。 生まれながらの坊ちゃん育ちで、こんな場所に来たことは一度もない。 もっとも、今さら二人でタクシーに乗ってホテルを探すというのも、それはそれで妙な話だった。「ふーん」「手でしかしませんけど。 それでもいいなら」「……何?」 ずいぶんと肝が据わっていた。 自分より倍は大きな男に向かって言う言葉とは思えない。 世間知らずなのか。 それとも、何か根拠のない自信でもあるのか。 酒に酔っているはずなのに、その瞳だけは不思議なほど生き生きとして







