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リリアナ・ヴェールは亡き母ローズが残してくれたレシピで作った特別な香水をつけ、自身の婚約発表会に出席するために会場入りをした。
会場は招待客でごった返していて、具合が悪そうな男性がスタッフに支えられるように壇上に上がっていくのが見える。 あれが婚約相手の アルフレッド・エバンズだろうか。 その後ろから父と、何故か義妹のアイリーンが壇上に上がっていく。 「皆様! 本日は愛娘アイリーンとエバンズ家の跡取り、アルフレッド様の婚約発表会にお集まりいただき誠にありがとうございます!」 「……どういう……事?」 今日はリリアナの婚約発表だったはずだ。父にもそう聞かされていた。 ところが実際に今壇上に居るのは紛れもなくアイリーンである。 一体何が起こっているのか分からないまま、リリアナは固唾を飲んで見守るしか無かった。ここで声を上げても仕方がない事をよく知っていたからだ。 何よりもリリアナにはヴェール・ノワールというヴェール家のアトリエがある。もしこの婚約が無かった事になったとしても、今まで通りノワールの代表調香師として支えればいい。 そう思っていたのに、父の次の言葉にリリアナは愕然とした。 「皆様の中にはどうして長女ではないのかとお思いの方もいるでしょうが、実はこのアイリーンこそがヴェール・ノワールの代表調香師なのです! 才能のある二人が結婚するのは当然の事。アイリーン。この場で新作も発表してしまいなさい」 父はまだはにかんでいるアイリーンの背を押した。その時にアイリーンはちらりとこちらを見て何かをたくらむような笑みを見せる。 「それでは私から最新作の発表をさせていただきます。新作の名前は『霧の果て』。この香りは——」 父に促されてアイリーンは小鳥が囀るような可愛らしい声で、数日前に出来上がったばかりのリリアナの新作の名を口にしたではないか。 「なんて事……」 リリアナはよろけるように後ろに二歩下がると、壁に背中を預けた。 怒りと悲しみのあまり口元に当てた手が微かに震える。 アイリーンの得意げな説明が続く中、壇上から一足先に下りてきた父が真っ直ぐこちらに向かって歩いてきた。 「リリアナ、喜べ。お前には結婚発表を用意してある。相手は大陸一の投資家フォン・ハインリヒだ。年は二十離れているが構うまい。これも家の為だ。さぁ、これに今すぐ署名しなさい」 そう言って父が差し出してきたのは婚約書ではなく、結婚証明書だ。 震える手でそれを受け取ると、リリアナの耳にさらに追い打ちをかけるようなアイリーンの残酷な言葉が飛び込んでくる。 「最後に淋しいお知らせです。姉が一身上の都合でヴェール・ノワールを本日を持って引退する事になりました。皆様、どうか姉に惜しみない拍手を」 会場中が労いの拍手で溢れる中、リリアナは睨むように父を見上げた。 「父様、私止めるなんて一言も——!」 「リリアナ、ハインリヒは調香に興味が無い。いいか? これは命令だ」 「!」 リリアナは受け取った証明書をバッグに仕舞うと、力なく父に言う。 「……静かな所でサインしてきます」 父の決定は絶対だ。断れる訳がない。 そんなリリアナの態度に父は満足したように頷くと、壇上に戻り皆と一緒になってアイリーンに賛辞を投げかけているのを見て、リリアナの中の何かが壊れていく。 家族によって仕事も尊厳も居場所すら奪われたリリアナが、ここに居る意味はもうない。 「ここにはもう私の居場所はないのね。ううん、違う。最初からそんなもの無かったんだわ」 献身的に家のために沢山の事を我慢してきたリリアナだったが、壇上での光景はリリアナには全く届かない、遠い世界で起こっている事のようだ。 正面から父に意見をしても、きっと無理やりハインリヒとの結婚を進められるだろう。それならばリリアナに残された道は一つしかない。 リリアナは控室に戻る振りをして母のレシピノートだけを手に会場を抜け出し、廊下で心配してついてきてくれていた親友のセレスティアと落ち合う。 「リリー……」 「私、馬鹿だった。もう家には戻らない。これからは自分のために生きるわ」 悲しげに視線を伏せていたセレスティアに意を決して言うと、セレスティアはそれを聞いて顔を上げ、ニヤリと笑う。 「それが聞けて安心した。こっちよ!」 「え? ちょ——」 連れて来られたのは従業員用のエレベーターの中だ。 「いい? すぐに出ちゃ駄目。一旦どこかへ隠れて時間を稼ぐのよ」 「ど、どこかってどこに?」 「最上階にはスイートがある。そこへは呼ばれない限り誰も来ない。明日の早朝に従業員入口に迎えに来るから!」 「ええ⁉」 まごまごしているうちにセレスティアにボタンを押され、リリアナは為すすべ無く最上階に辿り着いてしまった。 「ど、どこに隠れたらいいの?」 辺りを見渡す限り隠れられそうな場所など無い。 隠れる場所を探して豪華な廊下を歩いていると、ある部屋の前で男がうつ伏せの状態で倒れているのが見えた。 「大変! 誰か——」 リリアナは自分の状況も忘れて男に駆け寄り人を呼ぼうとしたが、男がリリアナの腕を掴んで唸るように言う。 「呼ぶ、な……誰も、近づけないで、くれ」 アルフレッドは朦朧とする意識の中で声を絞り出し、それだけを告げた。 どうにかここまで戻ってくる事は出来たが、誰かに盛られた薬のせいで身体の制御が全くきかない。それでもこんな状態を誰かに知られる訳にはいかなかった。 「誰も呼ぶなって言われても……」 目の前で意識を失ってしまった男を見てリリアナは呆然としていたが、やがて男の身体が異様に熱い事に気づき、仕方無く男が握りしめていた部屋の鍵を使って部屋の中へ引きずり込み急いで男の介抱を始めた。 本当はこんな事をしている場合ではないのだが、流石に放ってはおけない。 男は高熱のせいで呼吸する事すらままならないようで、シャツまで汗でしっとりと濡れている。 「ただの風邪の熱では無いみたい」 このままではいけない。 急いで男のシャツを脱がせようと最後のボタンに手をかけたその時、男がリリアナの腰を強引に引いた。 その拍子にリリアナは男の露わになった胸の上に倒れ込んでしまう。 「君は、誰だ。この香りは、知らない」 嗅いだ事の無い香りにアルフレッドはほとんど無意識で女の首筋に顔を埋めた。 女は身体を強張らせ息を詰めている。 「私は——このホテルのメイドです。フロアの巡回に来たら、あなたが倒れていたので」 低くて苦しげな声で問われ条件反射で名乗りそうになったが、自分の立場を思い出したリリアナは慌てて嘘をついた。 男は納得したように頷くと、リリアナの腰から腕を外す。 「……もう行け。この事は誰にも漏らすな。財布はそこだ。好きなだけ持って行くといい」 時間が経てばこの媚薬に浮かされたような熱も収まるだろう。 そう思って女を突き放そうとしたが、女は強い口調で言い返してくる。 「お金はいりません。それに、こんな状態で放っておく訳にもいきません」 どうやら男は一刻も早くリリアナにここから立ち去って欲しいようだが、こんな状態の人を放っていけるほど人でなしではないし、何よりも今晩はどこかに身を潜めていなければならない。そういう意味では、絶好のチャンスでもある。 覚悟を決めて言い切ると男は嘲笑し、上半身を起こしてリリアナをソファに引き倒し馬乗りになって呻くように言う。 「そうか。なら相手をしてくれ。もう……限界なんだ」 疼くような熱に浮かされ自分でもどうしようもない程の衝動に、アルフレッドは珍しく後先考えずに見知らぬ女を押し倒した。 そんなアルフレッドを女は怯えたような顔をして見上げていたかと思うと、次の瞬間には覚悟を決めたように口を開く。 「分かりました……お相手します。せめて今くらいは、何も考えないでください」 この状況が分からないほどリリアナは子どもではない。それに男の方にもどうやら何か事情があるようで、言葉の端々から不本意さが滲んでいる。きっと本当はこんな事をするような人ではないのだろう。 何よりもここで断れば部屋から追い出されあっさり捕まるだろう。そうしたら母のような調香師になるという夢は一生絶たれてしまう。 それに比べればここで一晩相手をして純血を散らしてでも自由を手に入れる方がはるかにマシだ。 申し入れを受け入れると、男は噛みつくように唇を重ねてきた。 キスすら初めてだったリリアナにとって、こんな形で何もかもを失うのかと思うと思わず涙が零れる。 男はリリアナの頬を伝う涙に気付いたのか一瞬動きを止めたが、自分でも言っていたようにもう止められないのだろう。 ドレスを脱がされ、感じた事の無い感覚がリリアナの全身を駆け抜けていく。 それはまるで電流のような痺れに似ていた。 「っう、ん」 思わず漏れた声は自分でも聞いた事が無い声が恥ずかしくてつい両手で顔を覆うと、リリアナの耳に男の甘い欲を孕んだ笑い声が聞こえてくる。 「あまり煽るなよ」 あまりにも初々しい反応に笑みを浮かべ、見知らぬ女を抱き続けるアルフレッド。 翌朝、目を覚ますと女の姿はもう無かった。 その代わりベッドにはあの特徴的な白檀の香りと、銀色の百合の紋章が入ったロケットが残されていた。「ただのサンダルウッドの香水です。私の名前と似ているので気に入ってるんです」 アルフレッドに低い声で問われ、リリアナは自分の素性がバレるのを恐れて咄嗟に嘘をついた。 「……確かに似ているな」 アルフレッドはサンドラのセリフに納得したように見せたが、彼女は嘘をつくことに慣れていないのだろう。目がさっきから忙しなく泳いでいる。 やはり叔父の手の者だったのだろうか。アルフレッドは掴んでいた手を放すと、興味を失くしたように仕事に戻った。 リリアナはようやく離れて行ったアルフレッドに安堵していたが、それと同時に唇を引き締める。 ここで全てがバレてしまえば、リリアナの人生は丸ごと誰かに搾取されるだけになってしまう。そんなのは嫌だ。 けれど、その日からアルフレッドの態度は急によそよそしくなった。 「どうしよう……やっぱり疑われてるのかもしれない」 夜、リリアナが枕に顔を押し付けて呟くと、窓から入ってきた夜風が髪を撫でた。そのあまりにも優しい風に、不意に亡き母の手を思い出してしまう。 「母様と同じ、皆を幸せにする調香師になりたいだけなのにな」 どうして運命はこうもリリアナに厳しいのだろう。 そんな事を考えながら、リリアナは今日も無理やり眠りについた。 その頃、アルフレッドは既にぐっすりと眠りに落ちていた。 あのフレグランスに手を加えられて数日が過ぎたが、アルフレッドの頭痛は如実に改善している。 「今日も眠れた……」 小鳥の声で目を覚ましたアルフレッドは、夢すら見ずに眠る事が出来た事に感動する。 以前は頭痛でよく眠れず微かな物音で目を覚ましていたが、あれから徐々に眠れるようになり、とうとう一昨日から夢すら見ない。 最初はどうして突然眠れるようになったのか理由が分からなかったが、試しに部屋にあのフレグランスを持ち帰るようになった途端、朝までぐっすりだ。 どんな睡眠導入剤を飲んでも眠れなかったアルフレッドなので心の底からサンドラに感謝したい気持ちはあるのだが、どうにも叔父との関係が拭いきれない。 「いっそ素直に聞いてみるか?」 自問自答しながら事務所に向かうと、今日も始業前にサンドラは来ている。 彼女は真面目だ。誰よりも早くここへ来て掃除をし、足りない物をチェックしてそれを備品係に報告する事を怠らない。
あれから半月。リリアナは無事にアルフレッドの元に潜り込み、秘書として毎日忙しく働いていた。 アルフレッドはまさかサンドラ・ウッドが世間を騒がせている失踪したヴェール家の長女リリアナだとは夢にも思ってもいないだろう。 「おい、この書類の整理を頼む」 「はい」 リリアナは短く返事をして書類の束を受け取ると、自席に戻って仕分けを始めた。 今日も書類の多さが尋常ではないが、それでもリリアナは黙々と作業を進める。そこへアルフレッドは遠慮なく次から次へと仕事を持ってきた。 やはり彼は世間の噂通り、とても厳しく冷徹なのかもしれない。 「それが終わったらこの予定表を清書しておいてくれ」 一方、アルフレッドは突如としてやってきたサンドラ・ウッドと名乗った女を疑っていた。 そもそも今回の募集もアルフレッドがしたのではなく、叔父が勝手にした事だ。せめて面接だけは自分ですると言ってこの女を雇ったが、今のところ叔父の息がかかっている素振りは一切無い。それどころかむしろとても優秀だ。 けれどまだ油断する事は出来ない。そう自分に言い聞かせて、常に一定の距離を取るようにしていた。 「それが済んだらラボに行って在庫の確認を」 「はい」 どんどん仕事を頼まれるが、リリアナはそれを辛いとは思わなかった。調香の仕事は何よりも根気と忍耐が必要だったから、こんな事ではへこたれない。 書類の整理が終わって予定表の清書に取り掛かると、そんなリリアナの様子を見てアルフレッドが静かに言う。 「それが終わったら、そのまま休憩に行っていい」 「はい、ありがとうございます」 リリアナはそれを聞いて手を速めた。少しこの部屋の香りについて思う所があったからだ。 言われた通りラボに行き在庫の確認を済ませると、充てがわれた寮の部屋に戻って事務所から持ってきたフレグランスにミントとゼラニウムを数滴ずつ足し始めた。 調香と言われるほどの事ではないが、これで少しはアルフレッドを悩ませ続けている頭痛もマシになるのではないだろうか。 この半月ほどアルフレッドを見ていて気付いたのは、彼は仕事にとても誠実で真摯だが、何でも一人で請け負ってしまうタイプのようだと言う事だ。 そのストレスからか、それともこのフレグランスが合わないのか、たまに痛みを堪えるかのように顔を顰めている
ロケットを開くと中から出てきたのは絵姿ではなく、小さく畳まれたコットンだ。 「なんだ? これは」 不思議に思いながらもそのコットンを手に取ると、コットンから百合ベースの甘い香りが漂う。 「……面白い配合だ。こんな短期間で二種類も新しい調合を知るとはな」 着替えを済ませて寝室を出ると、既に朝食の準備が整っていた。この部屋への入室を許しているのは側近のルーク・フォンだけだ。 「ルーク」 アルフレッドがその場には居ないルークを呼ぶと、洗面所からルークが顔だけ覗かせる。 「おはようございます」 いかにも側近らしい態度のルークにアルフレッドは眉根を寄せると、席について拾ったロケットをテーブルの上に置いた。 「ここには俺とお前しか居ない。いつも通りでいい」 その言葉にルークは軽く頷いて机の上のロケットに視線を落とす。 「で、これは?」 「ここのメイドの物だ。持ち主を探して返しておいてくれ。それから示談金を言い値で払う、とも」 「示談金? 君は一体何をしたんだ」 「……言いたくない。俺も後悔している」 そう、後悔している。たとえおかしな薬のせいだったとしても自分の立場を考えればあんな事をすべきではなかったし、薬が抜けた時点で解放すべきだったのに、あのメイドの反応と香りについ誘惑され、朝方まで抱いてしまった。 黙り込んだアルフレッドを見てルークは深いため息を落とすと、ロケットを持って嫌味を言う。 「君の理性が利かないのは珍しい。そんなに良かったのかい?」 「うるさい」 追い払うように言うと、ルークは肩を竦めて部屋を出ていく。 ルークが部屋へ戻ってきたのは食後のコーヒーを飲んでいた時だ。 「早かったな。で、いくらだ?」 そちらを見もせずに尋ねると、ルークは近寄ってきてアルフレッドの目の前にあのロケットを置いた。 「なんだ?」 「居なかった。昨夜はこのフロアに誰も来ていないそうだ。そもそも仕事中にこんな物を付けるメイドは居ないそうだよ。君は一体誰と寝たんだ?」 「……」 どういう事だ。あれはメイドではなかった? 混乱するアルフレッドに畳み掛けるようにルークは尋ねてくる。 「その子の顔は?」 「俺は失顔症だ。顔など覚えているはずが無いだろう」 幼い頃の事故で後天的に患った障害のせいで人の顔を覚える
リリアナ・ヴェールは亡き母ローズが残してくれたレシピで作った特別な香水をつけ、自身の婚約発表会に出席するために会場入りをした。 会場は招待客でごった返していて、具合が悪そうな男性がスタッフに支えられるように壇上に上がっていくのが見える。 あれが婚約相手の アルフレッド・エバンズだろうか。 その後ろから父と、何故か義妹のアイリーンが壇上に上がっていく。 「皆様! 本日は愛娘アイリーンとエバンズ家の跡取り、アルフレッド様の婚約発表会にお集まりいただき誠にありがとうございます!」 「……どういう……事?」 今日はリリアナの婚約発表だったはずだ。父にもそう聞かされていた。 ところが実際に今壇上に居るのは紛れもなくアイリーンである。 一体何が起こっているのか分からないまま、リリアナは固唾を飲んで見守るしか無かった。ここで声を上げても仕方がない事をよく知っていたからだ。 何よりもリリアナにはヴェール・ノワールというヴェール家のアトリエがある。もしこの婚約が無かった事になったとしても、今まで通りノワールの代表調香師として支えればいい。 そう思っていたのに、父の次の言葉にリリアナは愕然とした。 「皆様の中にはどうして長女ではないのかとお思いの方もいるでしょうが、実はこのアイリーンこそがヴェール・ノワールの代表調香師なのです! 才能のある二人が結婚するのは当然の事。アイリーン。この場で新作も発表してしまいなさい」 父はまだはにかんでいるアイリーンの背を押した。その時にアイリーンはちらりとこちらを見て何かをたくらむような笑みを見せる。 「それでは私から最新作の発表をさせていただきます。新作の名前は『霧の果て』。この香りは——」 父に促されてアイリーンは小鳥が囀るような可愛らしい声で、数日前に出来上がったばかりのリリアナの新作の名を口にしたではないか。 「なんて事……」 リリアナはよろけるように後ろに二歩下がると、壁に背中を預けた。 怒りと悲しみのあまり口元に当てた手が微かに震える。 アイリーンの得意げな説明が続く中、壇上から一足先に下りてきた父が真っ直ぐこちらに向かって歩いてきた。 「リリアナ、喜べ。お前には結婚発表を用意してある。相手は大陸一の投資家フォン・ハインリヒだ。年は二十離れているが構うまい。これも家の為だ。







