LOGINロケットを開くと中から出てきたのは絵姿ではなく、小さく畳まれたコットンだ。
「なんだ? これは」 不思議に思いながらもそのコットンを手に取ると、コットンから百合ベースの甘い香りが漂う。 「……面白い配合だ。こんな短期間で二種類も新しい調合を知るとはな」 着替えを済ませて寝室を出ると、既に朝食の準備が整っていた。この部屋への入室を許しているのは側近のルーク・フォンだけだ。 「ルーク」 アルフレッドがその場には居ないルークを呼ぶと、洗面所からルークが顔だけ覗かせる。 「おはようございます」 いかにも側近らしい態度のルークにアルフレッドは眉根を寄せると、席について拾ったロケットをテーブルの上に置いた。 「ここには俺とお前しか居ない。いつも通りでいい」 その言葉にルークは軽く頷いて机の上のロケットに視線を落とす。 「で、これは?」 「ここのメイドの物だ。持ち主を探して返しておいてくれ。それから示談金を言い値で払う、とも」 「示談金? 君は一体何をしたんだ」 「……言いたくない。俺も後悔している」 そう、後悔している。たとえおかしな薬のせいだったとしても自分の立場を考えればあんな事をすべきではなかったし、薬が抜けた時点で解放すべきだったのに、あのメイドの反応と香りについ誘惑され、朝方まで抱いてしまった。 黙り込んだアルフレッドを見てルークは深いため息を落とすと、ロケットを持って嫌味を言う。 「君の理性が利かないのは珍しい。そんなに良かったのかい?」 「うるさい」 追い払うように言うと、ルークは肩を竦めて部屋を出ていく。 ルークが部屋へ戻ってきたのは食後のコーヒーを飲んでいた時だ。 「早かったな。で、いくらだ?」 そちらを見もせずに尋ねると、ルークは近寄ってきてアルフレッドの目の前にあのロケットを置いた。 「なんだ?」 「居なかった。昨夜はこのフロアに誰も来ていないそうだ。そもそも仕事中にこんな物を付けるメイドは居ないそうだよ。君は一体誰と寝たんだ?」 「……」 どういう事だ。あれはメイドではなかった? 混乱するアルフレッドに畳み掛けるようにルークは尋ねてくる。 「その子の顔は?」 「俺は失顔症だ。顔など覚えているはずが無いだろう」 幼い頃の事故で後天的に患った障害のせいで人の顔を覚える事が出来ないアルフレッド。 その代わり嗅覚が発達していて、他人を覚える時は匂いや仕草で覚えるしか無いのだが、調香の仕事においてはこの優れた嗅覚はかなり役立っている。 「……そうだった。他に何か覚えてる事は無いの?」 「サンダルウッドの香りだな」 むしろあの香りに酔ったと言っても良いほど、あの匂いは鮮烈に記憶にこびついていた。 「それで、その匂いに覚えは?」 「無い。あれは恐らくオリジナルだ」 「オリジナル? この世界のほとんどの香りを覚えているんじゃないかって思う程の君にも、まだ嗅いだ事の無い調香があるのか!」 「ああ。だから止められなかった」 香水はつける人物によって香りが変わる。昨夜の人物はそれを知り尽くした上であの香水をつけていたのだろう。もしあれを自分で調合したのだとすれば相当な努力家か、天才だ。 「ルーク、このロケットの持ち主を探してくれ。だが決して誰にも知られるな。特に叔父上にはな。俺は昨夜、恐らく彼に一服盛られている」 もし昨夜の事が知られたら叔父のガストンは間違いなくそれをネタにアルフレッドに退陣を申し入れてくるに違いないし、そんな事が公表されたら偽物が名乗り出てこないとも言い切れない。 「それで壇上での様子がおかしかったのか」 「ああ。ところで俺は結局ヴェール家のどちらと婚約したんだ?」 意識が朦朧としていたので自分が誰と婚約したのかも知らなかったが、続くルークの言葉に興味の無い返事を返す。 「妹の方だね。どうやらあそこの代表調香師は妹みたいだよ」 「そうか。まぁどちらでも良いさ、うちの役に立ってくれるならな。だが懸念もある。あの家はいまいち信用出来ない。あそこはここ数年で急成長しすぎている」 「それは才能ある妹が調香師になったからなんじゃないの」 「そうかもしれないが、それならば話題性の為にその時点で発表すべきだし、それをわざわざ婚約の場で発表する理由はなんだ? そいつはうちに嫁ぐんだろう?」 「……確かに」 「普通は稼ぎ頭をわざわざ自分のアトリエから抜くような事はしない。経営が上手くいってなくて合併したいというのなら、話は別だが」 だとしてもそれは婚約前に言うべき事だ。それを黙っていたという時点でどうしても不信感は拭えない。 「でも婚約の話は流せない所まで来てるよ」 「分かっている。あちこちからせっつかれるからな。だが、それはヴェール家が信頼するに値するかどうかを見極めてからだ」 淹れたてだったはずのコーヒーは、アルフレッドの心と同じぐらい冷めてしまっていた。その頃、リリアナは逃げ込んだセレスティアの家で落ち込んでいた。
逃げる途中の馬車の中で母の形見のロケットをどこかで失くした事に気付いたからだ。 おまけに銀行では自分の口座が全て凍結されている事を知り、更にその日のうちに新聞の一面に『ヴェール家の長女がアトリエの機密資料を持ち出して逃亡した』と報じられた。 恐らくそれは母が残したレシピノートの事なのだろうが、あのノートはリリアナが母から直々に引き継いだものであり、父もそれを知っているはずだ。 これでもかと言うほど不幸な事ばかりが続きすぎて、リリアナの心は今にも砕けてしまいそうだった。 「やっぱりどう考えてもおかしいわよ。だってローズノートが目的ならもっと早くに取り上げておけば良かったじゃない!」 セレスティアはあの新聞記事の一件以来、ずっとこの調子だ。 リリアナを陥れただけでなく資産まで凍結し、執拗なまでに追い詰めようとするヴェール家にはっきりと嫌悪感を示している。 けれどセレスティアの言い分はもっともで、今まで父はこのノートに見向きもしなかった。 「多分ね、狙いはこのノートではなくて結婚の方なんじゃないかしら」 「結婚? 誰の」 「私の。あれから少し調べてみたんだけど、ハインリヒ様は大陸の方でかなり有名な方みたいなの。父様はどうしても彼と繋がりが欲しいんだと思うわ」 「冗談じゃないわよ! 娘の人生を何だと思ってるの⁉」 怒りが冷めやらないセレスティアを宥めて部屋に戻り何気なくノートを捲っていると、ふとある事に気づいて指先を止めた。そこに見覚えのある名前があったからだ。 『荘厳のシャルロッテ』 これはエバンズ家で今でも一番力があると言われている前当主の名前だ。 作ったのは母が亡くなる三年前のようで、それからそのレシピはまるで封印でもされたかのように制作履歴が無い。これはレシピごと譲ったという証拠である。 「どうして今まで気付かなったんだろう……!」 こんな事をするなんて、きっとこの人物と何か深い関係があったに違いない。そう考えたリリアナは、さらにノートをめくり続ける。 すると、次から次へとエバンズ家の人たちの名前が出てくるではないか。 「……もしかして母様はエバンズ家と何か関わりがあったの? まさか、それが原因で母様は……これは調べてみるべきかもしれない」 志半ばで亡くなった母の死因は、未だにはっきりしていない。事件性は無いとだけ言われ、そのまま放置されてしまったからだ。 母のような調香師になるには、どうやら乗り越えなければならない高い壁があるらしい。 リリアナが新たな決意を胸にその事をセレスティアに相談した三日後——。 「どう?」 「す、凄いわ……自分でも誰だか分からない……」 自信有りげに言うセレスティアに、リリアナは鏡を見て愕然として答えた。 「誰かさんはラボに籠りっきりでシミ一つないからね!」 「ありがとうティア! これならきっと誰にも私だってバレないわ!」 眉と髪を整えて染め粉で色を明るくしただけなのに随分と印象が違う。おまけにセレスティアが見立てたドレスも普段なら決して選ばないような物ばかりだったが、実際に着てみると驚くほどしっくりくる。 この改造計画が始まる前日、セレスティアがある記事を持ち帰った。 そこにはアルフレッド付きの住み込み秘書の仕事を募集しているとあり、リリアナが迷うことなくその募集に飛びついたのは言うまでもない。 けれど今の状態では決して雇ってはもらえないだろうという事で、リリアナ別人計画が持ち上がったという訳だ。 「で、名前は決まったの?」 「ええ。伯母様の姓をお借りしてサンドラ・ウッドにしようと思うの」 「いいじゃない。あの香水みたいな名前ね」 「でしょう? あの香水は最後に母様が作ってくれたレシピなの。森の乙女って言うのよ」 「素敵ね。いっつもハーブの匂いがするあんたにピッタリ」 「ありがとう。無事に全てが終わったらティアにも何か作るわ」 リリアナはそう言ってセレスティアに抱きついた。そんなリリアナをセレスティアはしっかりと抱きし返してくれる。 「天才調香師の香水がもらえるの? もちろん喜んで受け取るわ。ねぇリリー、気をつけてね」 「うん、分かってる。大好きよ、ティア」 「ええ、私も大好き」 部屋に戻ってもう一度記事を見ると、端正で精悍な顔つきの男性の絵姿が載っている。どこかで会った事があるような気もするが、きっとあの会場で見たのだろう。 「 アルフレッド・エバンズ……私、この人と婚約する事になっていたかもしれないのね……」父からセレスティア経由で手紙が届いたのは、シャルロッテがやって来てから一週間と少しした頃だ。「……今さら話がしたいだなんて、一体どういうつもりなんだろう……」 リリアナは何度もその手紙を読み返し、ため息をつく。 ずっと音沙汰の無かった父からの突然の手紙にこの数日はずっと気持ちがソワソワしている。「リリアナ様! 今日はもうその工程は終わってますよ!」「え? しまった!」 気がそぞろになりすぎて危うく実験を失敗しそうになり慌てて火を止めると、それを見ていたローズのラボで働いていた年配の調香師イライザが怖い顔で詰め寄ってくる。「お嬢、昔からずっと言われていますね? 何か考え事がある時は、絶対に調香してはいけない、と」「……はい」 誰かにこんな風に叱られるのはいつぶりだろう。 何だかそれが懐かしくてジンとしていると、そんなリリアナを見透かしたようにイライザは腰に手を当てて入口を指さす。「今日はもうお嬢は退場だよ。お嬢に何かあったら、私たちはローズ様に顔向け出来ないんだから」「はい……ごめんなさい」 イライザには昔からよくこうやって叱られ退場を言い渡されていたのでついその時の癖で頭を下げると、当時を知らない新しいメンバーがどよめく。「あ、あのリリアナ様が叱られている!」「まるで子どもみたいに怒られてる!」「皆、酷くない?」 あんまりな仲間たちの反応に思わずリリアナが半眼になると、仲間たちはそんなリリアナを見て笑った。 このラボにはどこのアトリエにもありがちなギスギスした感じが一切無い。それはアルフレッドが、リリアナを慕っている人たちだけをここへ連れてきてくれたからだ。「でもイライザさんの言う通り、色々考え事しながらするのは危ないですって。だってあのエバンズ家ですら昔、大事故起こしてるんですから」「そうなの?」 いつも色んな情報をいち早く掴んでくる若い調香師マークの言葉にリリアナが首を傾げると、マークは頷く。
リリアナの言葉にアルフレッドは考え込んだ。 以前、祖母がローズの話を持ち出した時こう言ったはずだ。『あなたにも話さなければ不公平だ』と。 それはつまりもう一人の後継者候補である叔父もそれを知っているという事である。「リリアナ、よく聞いてくれ。君の母親は昔レ・パルファンに居た過去がある。代表調香師だった訳ではないようだが、その時に一度だけエバンズ家とヴェール家は手を組んだ事があるそうなんだ」「母がレ・パルファンに居た事は先程聞きましたが、手を組んだ事があるというのは初めて聞きました。でも母はそんな事一度も……」 そこまで言ってリリアナは口を噤んだ。 そう言えば母は父との出会いをただの一度も教えてくれた事が無かったからだ。いつ聞いてもうまい具合にはぐらかされてしまい、結局何も聞けないまま母は亡くなってしまった。「今まで俺は君が狙われているのだと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない」「どういう事ですか?」「君が狙われているのではなく、何かを隠そうとすると必然的に君を狙わなければならないのかもな」「何かを隠そうとしている?」「ああ。ただ一つ分からないのは、ヴェール家だけで事を起こしたにしては、あまりにも今回の一連の出来事は巧妙に仕組まれているなという事だ」 失礼を承知で言うと、それほどヴェール家に計算高い人間がいるとは思えない。誰か、もっと狡猾な人間が裏で全ての手を引いているのではないか。 アルフレッドの考えにリリアナも深く頷いた。「確かにそうですよね……」 アルフレッドの言うとおりだ。何かがもう少しで解けそうで眉根を寄せていると、ふとアルフレッドが何か思いついたようにポツリと言った。「ああ、そうか……狙われていたのはうちもか」「え⁉」「よく考えてみてくれ。俺はあの婚約発表の時、酩酊していた。それは直前に誰かに薬を盛られたからだ。そして婚約の相手は君ではなくアイリーン。まずこの時点でおかしいと思わないか? どうして調香を生業にしているエバンズ家の嫁にと、わざわざ調
アルフレッドの言葉にリリアナは思わず両手で口元を押さえた。まさかアルフレッドがシャルロッテにそこまで言うとは思ってもいなかったからだ。 けれどシャルロッテはそれを聞いても動じる事などなかった。まるでアルフレッドが最初からこう言う事など最初からお見通しだったかのように。 「話になりませんね。今日はもう帰ります。最後にどうしても彼女に伝えたい事があるので、あなたは下がりなさい」 「いいえ。あなたが彼女を傷つけないとは言い切れない——ん? どうした? リリアナ」 頑としてサロンに残ろうとしたアルフレッドに、ふわりとあの白檀の香りが近寄ってきた。 「アルフレッド様、駆けつけてきてくれてありがとうございます。私なら大丈夫なので少しの間だけリビングでお待ちください」 「だが——」 「アル、往生際が悪いですよ」 ぴしゃりと言うシャルロッテを睨みつけ、アルフレッドは渋々部屋を出ていく。 そんなアルフレッドの態度にリリアナがビクビクしていると、不意にシャルロッテから微かな笑い声が聞こえてきた。 「ありがとう、リリアナ」 「いえ……その、大丈夫なのでしょうか? 彼の態度のせいで彼が後継者候補から外れるなんて事は——」 「そんな事はしませんよ。ただ孫の孫らしい姿を見る事が出来てとても嬉しかったのです。あの子は幼い頃から両親にエバンズ家の後継者になるべく厳しく育てられてきました。だからあんな風に自我を通そうとするのは彼にしてはとても珍しい事なのです。あの子がクラバットも結ばす髪も整えずに私の前に現れたのは、これが初めてですよ」 「そうなのですか……」 不意にアルフレッドの子供時代の話を聞いてしまい、リリアナが何気なく腹部を撫でると、シャルロッテが身を乗り出してきた。 「私にも撫でさせてもらえる?」 「もちろんです」 そんな事を言われるだなんて思ってもいなかったのですぐさま了承すると、シャルロッテはまるで少女のような笑顔を浮かべて腹部を撫でながら腹部に話しかけてくる。 「あなたは余計なしがらみになど巻き込まれず、自由に生きるのですよ。その為に必要な力は私が全て貸しましょう。——それからリリアナ、
突然やって来たと思ったら突然そんな事を言い出したシャルロッテに、リリアナはゴクリと息を飲んだ。シャルロッテに命令される謂れなど無いのに、この威圧感は何なのだろう。 サロンでシャルロッテと対峙すると、それだけで震え上がりそうになってしまう。「もう一度言います。リリアナ、今すぐにアルフレッドの元に戻り、婚約をし直しなさい」「……何故ですか?」「そのお腹の子はアルフレッドの子だそうですね。であれば、その子は今後エバンズ家の正当な跡取りになる可能性があるからです」 毅然とした態度でそんな事を言うシャルロッテに、リリアナはゴクリと息を飲んで見つめた。 この人は一体何を言っているのだろう? この子は確かにアルフレッドの子だが、リリアナの子でもあるのだ。「いいえ、戻りません」 アルフレッドならきっと分かってくれる。ここまでアルフレッドという人を見続けてきたが、彼はこの子を決して自分のような目には遭わせないだろう。もしかするとそれも考えてリリアナとの婚約を破棄してくれたのかもしれない。 けれどシャルロッテは譲らない。「あなたに拒否権はありませんよ、リリアナ。あなたも知っての通り、エバンズ家と繋がりを持つとはそういう事です」「それはそちらの勝手です。それに彼と婚約していたのはサンドラです。リリアナではありません。婚約証明書にもそう書かれていたでしょう? 彼の子を妊娠していたのはサンドラで、私ではありません」 屁理屈だと言われてもいい。怖くて堪らなくても、リリアナはこの子を守りきらなければならない。 そんな思いを込めてシャルロッテを見つめると、ふっとシャルロッテの目が優しくなった。「……なかなか知恵もあるようですね。喜ばしい事です。やはりあなたはローズの娘なのですね」「母様?」「ええ。あなたの母親がエバンズ家を出ていく時に、今のあなたと同じような目をしていました。あの子は私が直々に調香を教えた子です。我が子のように可愛がっていいましたが、私よりも先に逝くなんて……親不孝な子です」 シャルロッテの
「……え?」 あまりにも突然のアルフレッドからの申し出にリリアナが固まっていると、アルフレッドが苦笑いを浮かべた。「もちろんそうなればメロウ・ブルーの代表調香師は辞めてもらう事になるが、その代わり君は夢を叶える事が出来る。どうする?」 苦渋の決断だった。本当はこのままリリアナとの関係を続けていきたいが、それをするとリリアナはエバンズ家の者としていつまで経っても自分のブランドを立ち上げる事が出来ない。 アルフレッドの存在こそが、リリアナの夢の邪魔になってしまうのだ。 そんなアルフレッドの心を汲み取ったのか、リリアナは泣き出しそうな顔をして静かに言った。「はい。婚約破棄……してください」「……分かった」「今まで、お世話になりました」 アルフレッドはリリアナの願いを受け入れてくれた。 二人の婚約破棄はすぐに世間に知れ渡り、それによってサンドラ・ウッドという女性の名は過去のものになっていく。 その代わり、リリアナ・ヴェールの名がまた復活した。アルフレッドが会場でリリアナの名を取り戻してくれたのだ。そのかげで世間の目はリリアナに同情的になり、今はエバンズ家で大切に保護されているという事になっている。 そんな中、リリアナは小さなトランクを持って従兄弟が住む街へと向かっていた。 アルフレッドがリリアナと婚約破棄した直後にありとあらゆる手続きをして、あっという間にリリアナのブランドの立ち上げの書類を仕上げてくれたからだ。 それだけじゃない。従兄弟のアドルフと話をつけ、リリアナはまた引っ越す事になった。理由は叔母が使っていたラボが今もそのままになっているからだ。「婚約破棄してもこうして助けてくれるなんて……思ってもみなかったな」 婚約破棄をした時点でリリアナは完全にアルフレッドの庇護から外れるつもりで居たのだが、アルフレッドは子どもの為だと言ってリリアナへの援助は打ち切らなかった。「私が出来る恩返しは素晴らしい作品を残す事と、ブランドを成功させる事だけ」
突然のアルフレッドの言葉に会場が凍りついたが、調香委員会はそれが妥当だと判断したようで頷いている。 一方アイリーンの方は突然の事に目を泳がせていたが、そんなアイリーンを庇うように横からフィオナが何かを差し出す。「そうですね……レシピは白檀とベルガモット、それから——」 たどたどしくアイリーンは紙を読み上げているが、アルフレッドはまた手を上げた。「白檀とベルガモット? 君が提出した香りのサンプルはそのレシピでは出来上がらないぞ。ベルガモットはここには入っていないからな」 アルフレッドの言葉に委員会がすぐさま立ち上がり、アイリーンが持っていたレシピを熟読し、商品の香りを確かめて顔を顰めた。「彼の言う通りです。これはこの作品のレシピではない」 委員会の言葉に会場がざわついた。そして皆がアルフレッドに注目する。「そうだろうな。その作品は彼女の姉、リリアナ・ヴェールが数年に渡り母の研究を引き継いで仕上げた物だ。どうやらアイリーン嬢は母親が残したレシピしか入手出来なかったようだが、俺は姉本人から本物のレシピを預かってきた。それがこれだ」 アルフレッドはリリアナから預かった大量の書類を委員会の人間に渡した。 彼らはすぐさまそれを読み込み、時々感嘆の声を漏らす。香りについての勉学をした者ほどそのレシピの優秀さが、計算され尽くした緻密さが分かるはずだ。「これはどういう事でしょうか? アイリーン様」「えっと、それはその、」「もう良いんじゃないか。それ以上取り繕おうとすればするほど、泥沼になると思うが?」 アイリーンの言葉を遮ってアルフレッドが言うと、そんなアルフレッドをフィオナが睨みつけきて口を挟む。「どうしてあなたがそのレシピを持っているのですか? リリアナから直接受け取ったとは、どういう事なのでしょう? 彼女は今も行方不明のはずですが?」「表向きにはそうだな。だがこの小さな小国で君たちの手を尽くしても見つからなかったという事は、もっと上位の誰かが匿っていると考えた方が良いんじゃないか?」 暗にエバンズ家で保護している事を伝







