LOGIN私は相沢彩花(あいざわ あやか)。 夫は相沢慶介(あいざわ けいすけ)。 そして、彼と一緒にいたのは真壁瑠香(まかべ るか)という女だ。 まさか、その二人が密会している最中に、慶介があそこを折るような大けがを負うことになるなんて、思いもしなかった。 知らせを受けて病院へ駆けつけると、そこには当事者である瑠香が、何事もなかったかのような顔で立っていた。 慶介は緊急手術が必要で、同意書には家族である私の署名がいるという。 私は瑠香を睨みつけた。けれど彼女は涼しい顔で、私が何もできないとでも思っているかのようだった。 「患者さんのご家族の方は?」 医師の問いかけに、私は即座に答えた。 「私です!」 「では、こちらにご署名を」 震えそうになる手を抑えながら、私は書類にサインをした。 医師は私と瑠香を見比べ、一瞬だけ事情を察したような目をした。 「……最近の若い人は、ほんとに無茶をする」 その言葉が妙に耳に残った。 署名を終え、私は医師の部屋を出る。 病室では、慶介が股間を押さえたままストレッチャーに横たわっていた。私を見るなり、顔色を変える。 「彩花、違うんだ。話を聞いてくれ……」 私は答えなかった。 視線は、彼の手首と首筋に残るはっきりとした縄の跡に吸い寄せられる。 「ずいぶん手の込んだことしてるじゃない。吊るしてたの?」 そこへ、瑠香が近づいてくる。品定めでもするみたいに、面白そうに私を見た。 「こんな慶介、見たことないでしょ?次は、あなたも一緒にどう?」
View More退屈で同じことの繰り返しみたいな一日が、あっという間に終わった。私は急いで店に駆け込み、約束していた席へ向かった。向かいに座っていたのは、見合いの相手ではなく、慶介だった。「慶介?なんであなたがいるの。相手の人は?」慶介は得意げに笑い、ゆったり足を組んだ。「俺が元夫だって名乗ってさ。お前はギャンブル癖があって、負けると人に手を上げるって言ってやった。ついでに昔の写真も見せた。びびって帰ったよ」私は言葉を失い、ため息をついた。「……あなた、何がしたいの?」慶介は手を差し出し、芝居がかった調子で言う。「初めまして。相沢慶介です。今日は――」私は途中で遮った。「いいから。あなたが何を考えてるかくらい、分かってる。慶介、もうこういうの付き合う気ないの。ふざけるのやめて」慶介は笑みを消し、表情を引き締めた。「ふざけてない。彩花、俺たちやり直せると思う。……この見合いから、始めよう」頭の中で、ぶん、と音がした。一瞬、思考が真っ白になる。次の瞬間、店内の照明が落ち、視界が暗くなった。店の中央にある大きなスクリーンが点き、文字が浮かび上がる。「『冬空のラブソング』」慶介はくすっと笑って言った。「今日は店、貸し切りにしてある。誰にも邪魔されない。もう一回、一緒に観よう。……いいだろ?」その瞬間、記憶が一気に押し寄せた。小さな部屋で、私たちは肩を寄せ合い、小さな画面を眺めていた。映画を見ながら笑い合って、くだらないことで盛り上がって。慶介が私を見つめる優しい目。耳元で囁かれた甘い言葉。手を伸ばせば届いたはずの幸せ。そんな記憶が、次々と胸をかき乱す。慶介がさらに身を寄せてきた。すぐ隣で、彼の体温を感じる。「覚えてるか。五年前、結婚したばかりの頃。毎日会えるのが楽しみでさ。……あの頃が、恋しい」彼の手の温もりを感じても、私の心は驚くほど静かだった。突然、慶介が姿勢を正し、両手で私の頬を包み込むようにして、まっすぐ見つめた。「彩花、俺はまだお前が好きだ。でも俺、病気なんだ。もう少しだけ……そばにいてくれないか」……その言葉を聞いた瞬間、私はその場に立ち尽くした。彼の顔をじっと見つめる。「……本当なの?」「本当だよ」そう言って慶介は
「さよなら。もう二度と会わない」そう言い捨てて、私は踵を返した。あの瞬間、胸が驚くほど軽かった。まるで重たい荷物を放り捨てたみたいに。それから慶介は、本当に私の生活から姿を消した。五年という時間なんて、最初から存在しなかったみたいに――今も。それでも、ふとした拍子に思い出すことはある。もう二度と交わることはないんだろう、と。それからさらに一か月が過ぎた、ある日のことだった。雨の夜、家のドアを開けた私の前に、慶介が立っていた。整った顔が、すぐ目の前にあった。雨に打たれて髪はずぶ濡れで、彼はしゃくり上げている。頬を伝う雫が涙なのか雨なのか、私には見分けがつかなかった。私が呆然と見つめていると、慶介は突然私の胸に飛び込んできた。吐息から酒の匂いがした。「何しに来たの?」私は冷たい声で訊いた。「ごめん、彩花。俺、お前なしじゃ無理だ。瑠香とはきっぱり別れた。頭の中、ずっとお前のことばっかりなんだ。お前が俺を憎んでるのは分かってる。でも、それでもお前のことが頭から離れないんだ。お前が何年も俺にしてくれたこと、向けてくれた愛が、今さら胸に刺さってくる。あのときは分かってなかった。でも今は分かる。この世で俺をいちばん大事にしてくれたのはお前だ。お前以外に、そんなふうに愛してくれる奴はいない」言い訳も、謝罪も、情けない本音も、彼は息継ぎもせずに吐き出した。けれど、私の心は少しも揺れなかった。私はただの保険だった。彼の空白を埋めるための、間に合わせの存在にすぎない。「もういい。今さらそんなことを言われても、何も変わらない。私だってチャンスはあげた。でもあなたは、一度だって私を選ばなかった。私はあなたを愛してた。でも、その愛を盾にして、好き放題に傷つけていい理由にはならない」胸が痛んだ。自分の愚かさにも、彼の気づきがあまりにも遅すぎたことにも。私はそっと彼を押し返した。もう遅い。あんなふうに彼を愛していた女は、もうここにはいない。目の前の慶介は、まるで時間だけが彼を置いていったみたいに、相変わらず端正な顔立ちだった。でも私はもう違う。あのとき彼が戻ってきたせいで、また彼の気まぐれに振り回されかけた。もう二度と、そんな役目は引き受けない。私は彼の頬を伝う雫を指で拭った。「先輩
私は彼を冷ややかに見た。「仕事に戻るわ。もう私に関わらないで」そう言い残して立ち上がり、背を向けてオフィスを出た。昼休みになると、慶介がまた私のところへやって来た。「この前の集まり、空気悪いまま終わっただろ。週末にもう一回集まろう。あいつらにも埋め合わせってことで。忘れるなよ」私は何も答えなかった。相変わらず、自分一人の生活を淡々と続けていた。ふと気づく。自分のために生きるだけで、日々が急に意味を持ち始める。花を育てて、釣りに出かけて、自転車で走り、山を登る。たぶん、これが人生の本当の楽しさなのだろう。以前の私は、彼のことしか考えていなかった。一週間はあっという間に過ぎた。その間も、彼は時々私の前に現れた。デスクにコーヒーを置いたり、花束をそっと置いたり。けれど私は一度も相手にしなかった。彼はゴミ箱の中で何度も花を見つけ、ようやく無駄だと気づいたらしい。それでも週末、彼から電話がかかってきた。「彩花、約束しただろ。今日はちゃんと来いよ。いつもの店。五時な」まだ署名されないままの離婚届――終わらせるべきことは、結局終わらせるしかない。私は車を出し、指定された店へ向かった。個室の前まで来たとき、中から楽しげな声が漏れてきた。「慶介さ、彩花って気が強いし細かいじゃん。顔だって瑠香のほうが上だし、稼ぎだって大したことない。どこがよかったの?マジで分かんない。瑠香もさ、言っちゃ悪いけど、あのとき慶介と別れなきゃ、あいつの入り込む余地なんてなかったよな」瑠香はにこやかに笑った。「しょうがないでしょ。父がどうしても留学しろってうるさくて。私だって慶介と離れたくなかったよ。でも、彼の時間を縛るのも嫌だったし。あの頃は、また戻って来られるかも分からなかったから……」そこで慶介が口を挟んだ。「瑠香、もう昔の話だろ。今さら蒸し返しても意味ない」「じゃあ……今度は、もう一度やり直してくれる?」瑠香の目は期待でいっぱいだった。慶介は何も言わなかった。けれど、口元に浮かんだ緩い笑みが、答えのようなものだった。――なるほど。だから二人、あんなに距離が近かったのか。「もういいって。あの女の話なんてやめようぜ。ほら、ゲーム続けよう」そう言いながら、大輝が瑠香と慶介のグラ
瑠香は口をつぐんだ。その場にいた連中は、面白がるように私を見ている。三人のいざこざを、野次馬根性で待ち構えているのだ。その吐き気のするような顔ぶれを見て、私はそれ以上言葉を続けなかった。「用事があるから、先に帰る」冷たく言い捨てて、私は背を向けた。そのとき、瑠香が立ち上がった。「彩花、たぶんあなたが思っているようなことじゃないの。あの日、私たちが一緒にいたのは本当。でもホテルに行ったのは、私が急に低血糖を起こして……慶介が面倒を見てくれただけ。誤解させてしまって、ごめんね」私が最初からここにいたことを、瑠香は分かっている。それでもあんなふうに言うのは、周りに誤解だったと思わせたいだけだ。私が何を言っても、結局は私のほうがみっともないだけだ。だから私は何も言わず、振り返りもせずにその場を出ようとした。慶介が苛立ちを隠さない声で言った。「もういいだろ、彩花。誤解だって言ってるし、瑠香も謝った。まだ何がしたいんだ?座れよ。今日ここを出たら、もう二度と俺が許してもらえる機会はないからな」たいした言いぶりだ。私がまだ、彼の思いどおりに動く人形だとでも思っているのだろう。逆らえるはずがないと。――昔は、それを愛だと思っていた。でも今は、もう違う。この個室では、まるで私だけが悪者みたいだった。場を壊したのは私――責められて当然、という空気。私は周囲のひそひそ話など気にも留めず、踵を返して大股で店を出た。背後で大輝が慶介に声をかける。「追いかけなくていいのか?」「放っとけ。どうせそのうち勝手に戻ってくる」相変わらずの上から目線だ。私が一時の感情で怒っているだけで、結局は戻ってくるとでも思っているのだろう。でも――今回は違う。これまでは、私が卑屈すぎただけ。これからは、もう違う。気づけば川辺まで歩いていた。砂浜を夜風が渡り、夕焼けの名残が水面に溶けている。沈みゆく夕日を背に、若いカップルがウェディングフォトを撮っていた。花嫁のドレスはよく似合っていて、顔いっぱいに幸せが広がっている。花婿は彼女を強く抱き寄せ、いとおしそうに彼女を見つめていた。胸の奥がざわついた。――いつだったか、私たちもカメラの前で誓った。互いを守ること。寄り添い続けること。最後まで手を