LOGIN私は、宍戸心未(ししど ここみ)。画家として生きてきた。けれど、ある交通事故で視力を失った。 絶望の底にいたあの頃、ずっとそばで支えてくれたのは、幼なじみの宍戸耕平(ししど こうへい)だった。 彼は、私の人生に残されたたったひとつの光だった。 やがて私たちは結婚した。 けれど二年後、私は偶然、パソコンに残されていた録音を聞いてしまう。そこには、夫の耕平と、彼がずっと想い続けていた女――江坂香奈美(えさか かなみ)の声が残されていた。 「耕平、助けてくれてありがとう。でも……心未に黙って、彼女の角膜を私に移植したことが知られたらどうするの?目を覚ましたら、どう説明するつもり?もし警察に行かれたら?」 「気づかせるつもりはない。あいつはもう目が見えない。俺が妻にして、ずっとそばに置いておけばいい。 香奈美、お前のためなら、俺は何だってできる」 息が止まりそうになった。 私が救いだと信じていたものは、最初から最後まで、ただの嘘だったのだ。 録音をスマホに保存すると、私は病院へ連絡し、中絶手術の予約を入れた。 ――もう終わりにしよう。 そうして私は、彼との別れを決めた。
View Moreドイツで過ごしていたあいだに、私はいくつもの絵を描いた。そのうちの何点かは、すでにコンクールに出していた。帰国したその日は、ちょうど受賞式の日でもあった。私は壇上に立ち、自分の作品に込めた思いを、静かに語り始めた。「私はかつて、視力を失いました。あの頃を振り返ると、今でも簡単には言葉にできません。愛していた人に裏切られ、欺かれ、救いのように見せかけた嘘の中で生きていました。それでも私は、暗闇の中で何度も自分を励ましながら、前を向こうとしてきました。そのすべてが、この作品につながっています。これは私の過去であり、そして私の新しい人生の始まりでもあります」話し終えると、会場は拍手に包まれた。その拍手の向こうで、会場の隅に立ったまま、ひとり静かに涙を流している男が見えた。耕平だった。そして最後に、その作品はその夜の最高額で、宍戸グループに落札された。それが耕平なりの償いなのだと、私はすぐにわかった。けれど私は香奈美じゃない。そんなことで心は動かない。会場を出ようとしたところで、耕平が私を呼び止めた。私がそのまま立ち去ろうとすると、彼は慌てたように口を開いた。「心未。今日ここに来たのは、許してほしいからじゃない。戻ってきてほしいって言うためでもない。香奈美がお前の絵を盗むなんて、俺は本当に思ってなかった。あいつを信じすぎてて、何も気づけなかったんだ。それから……子どものことも、本当に悪かった。お前を傷つけたことは、何度謝ったって償えるもんじゃない。それくらい、ちゃんとわかってる。心未。お前の絵、本当にすごかった。これから先、もっともっといい絵を描いていけるって、俺は思ってる」私は小さくうなずいた。「ありがとう。じゃあ、もう行くわ」その瞬間、耕平はふいに私を抱きしめた。私がはっとして彼を突き放そうとしたときには、もうその腕は離れていた。「心未、さよなら」それが、彼なりの別れだった。少し引っかかるものはあった。けれど、私はそれを深く考える気にはなれなかった。翌日、宍戸グループ売却のニュースが一気にトレンドを駆け上がった。耕平は、宍戸グループを手放したのだ。数日後、私は耕平から送られてきた書類を受け取った。多額の金が入った口座のカードと、彼が署名を済ませた離婚協議書
同じ頃、耕平は香奈美のもとへ向かった。「香奈美、俺がお前を好きだったのは、もう昔の話だ。今はもう、友達としか思ってない。だから、今すぐネットでちゃんと説明してくれ。心未が叩かれてる」その瞬間、香奈美の顔つきがさっと変わった。声にも、はっきり苛立ちが滲む。「今はみんな感情的になってるのよ。そんなときに私が出ていったら、次に叩かれるのは私じゃない。そんなことになっても、あなたは平気なの?昔の話って何よ。この二年、あなたが一緒にいた時間は、心未より私のほうがずっと長かったでしょう。それなのに、どうして今さらあの子なの?忘れたの?あなたは私のために、あの子の目を奪ったのよ。真実を知ったあとで、あの子があなたを許すわけないでしょう?耕平、あなたと心未の結婚なんて、最初からただの形だけだったじゃない。それなのに、どうして今になって本気になってるの?」耕平は目の前の香奈美を見つめながら、急に別人を見るような気持ちになっていた。どうして自分がこの女を好きだったのか、それすらもう思い出せなかった。この瞬間、香奈美のために心未をあれほど傷つけてきたことを、彼は心の底から後悔した。耕平の目つきが、すっと冷えていく。声にも隠しきれない苛立ちが滲んだ。「俺と心未のことに、お前が口を出すな。あいつは俺の妻だ。俺が守るのは当たり前だろ。お前がネットであんなことを書かなければ、心未が叩かれることもなかった。誰に何を言われようが、今回はお前がちゃんと説明するしかない」耕平の態度が本気だとわかると、香奈美はまた涙を浮かべて、いかにも傷ついたような顔をした。「私はあなたのために離婚までしたのよ。それなのに今さら好きじゃないなんて……耕平、そんなのあんまりだわ。私があんな投稿をしたのだって、あなたの気持ちに応えたかっただけよ。悪気なんてなかったの……」けれど今度の耕平は、彼女の涙に心を動かされなかった。それどころか、香奈美の言葉を途中で遮った。「香奈美、もうそういう芝居はやめろ。あの男が破産したから離婚を決めたんだろ。俺が気づいてないとでも思ったのか。お前は俺のことなんか好きじゃない。ただ、今の俺に金があるから一緒にいたいだけだ。それに、昔お前に心未の絵を貸したのは、勉強したいって言ったからだ。なのに、お前は平気で心未の絵
私は別に、あの二人のニュースを追っていたわけじゃない。それなのに、この数日、流れてくるニュースには耕平と香奈美の名前ばかりが並んでいた。香奈美が離婚したからだ。ここ数年、耕平が香奈美の絵に大金を注ぎ込んできたことまで、次々と掘り返されていた。ネットでは、それを「若き社長と才女の恋」だともてはやしていた。中には、香奈美が離婚したのは、耕平と一緒になるためじゃないかと騒ぐ者までいた。やがて耕平が既婚者だったことまで暴かれ、私の写真までネットに晒された。あの頃の私は、ちょうど目が見えなくなったばかりで、ひどくやつれていた。コメント欄には、目の見えない女じゃ耕平には釣り合わないだの、耕平と香奈美こそお似合いだの、好き勝手な言葉が並んでいた。こんな記事も、コメントの流れも、香奈美が金を使って作らせたものだとしか思えなかった。私と耕平が結婚した頃、宍戸家はまだそれほどの名門じゃなかった。一方で香奈美は、裕福な家の御曹司に嫁いだ。けれど今では、その夫は遊び歩いてばかりで、家業も少しずつ傾いている。その反対に、宍戸グループはこの二年で一気に業績を伸ばし、耕平も今や莫大な資産を持つ立場になっていた。きっと香奈美は、私と耕平の間で何があったのか、もう知っているのだろう。だから世論を利用して、耕平の隣に立とうとしている。けれど耕平は、このところずっとドイツにいて、私の行方を追い続けていた。そして今日、ようやく私を見つけたのだ。耕平は何度も首を振った。「違う。あいつの離婚は、俺とは関係ない。俺はあいつと一緒になるつもりなんてない。前は好きだと思ってたのかもしれない。でも、お前がいなくなってから気づいたんだ。俺が本当に大事だったのは、お前だった。あいつにしてきたことだって、今思えばただの惰性だった。香奈美とはちゃんと話をつける。もう二度とあいつとは関わらない。心未、今回だけでいい。許してくれないか」私は彼を見つめた。自分でもわかるほど、視線が冷えていく。「耕平。あなたが奪ったのは、私の目だけだと思ってるの?私が目を失ったあと、思い出してつらくなるといけないからって、昔の絵も画材も全部片づけたって言ったわよね。でも、本当はあれを全部香奈美に渡してた。この二年で彼女が賞を取った作品、全部、私の
その頃の私は、病室のベッドに横たわり、目にはガーゼが当てられていた。医師からは、手術は成功したと聞かされた。あとはきちんと回復すれば、いずれ人並みに見えるようになるらしい。眠りから覚めて初めて、私は目の不快感をはっきり意識した。ひりつくように痛み、光がつらくて、まぶたもまともに開けられない。全身がぐったりするほど苦しかった。それでも、悲しくはなかった。暗闇の中で二年も生きてきたのだ。この程度の痛みが何だというのだろう。一週間後には、私はもうはっきりと物が見えるようになっていた。私はドイツで部屋を借り、ここで新しい暮らしを始めることにした。もう一度、筆を手に取って、絵を描き始めた。二年間筆を握っていなかったせいで少し鈍ってはいたけれど、絵を愛する気持ちだけは少しも変わっていなかった。昼は、アトリエで子どもたちに絵を教えた。夜になると、川辺や広場、野原で、目に映るものを片っ端から描いていった。こんなふうに自由で、明るい毎日は、もともと私のものだった。それを奪ったのは、耕平と香奈美の身勝手だ。ドイツにあるその病院だけが、私のためにすぐ手術をしてくれる唯一の場所だった。国内の眼科には、どこも耕平が手を回している。検査だけなら、身元を隠して受けることもできる。けれど、手術となれば本人確認を避けられない。そうなれば、必ず耕平に知られる。香奈美のために、耕平がどこまでやるのか、私にはわからなかった。もし耕平に知られたら、私は二度と目を治せなくなるかもしれない。それが怖かった。そんな賭けに出る勇気なんて、私にはない。だから私は、耕平に隠れて海外で手術を受けるしかなかった。そんなある日、広場で絵を描いていると、不意に聞き覚えのある声がした。一瞬、気のせいだと思って、たいして気にも留めなかった。けれど、その人はまっすぐ私の前まで来て、静かに私の名前を呼んだ。「……心未?心未、やっと見つけた。どれだけ捜したと思ってるんだ。俺は、お前を失いたくない。離婚なんてしたくない。心未。少しでいいから、ちゃんと話をさせてくれ」彼は目を真っ赤にし、服も何日着替えていないのかわからないほど、ひどくしわだらけだった。髪も伸びきって、目にかかっている。かつての几帳面で隙のない姿は、もう