Share

第3話

Author: キララ
結局、私は慶介を許してしまった。

――そして慶介は、やはり私を裏切った。

もう一度、私を傷つける機会を与えたのは、ほかでもない私自身だ。

慶介が退院し、家に戻ってきたその日。

私はあらかじめ用意しておいた離婚届を、無言で彼の前に置いた。

「サインして。これであなたは自由になれる」

今度の彼は、以前のように取り乱しはせず、真剣な目で私を見つめた。

「もし俺が……お前も瑠香も、どっちも愛してるって言ったら、信じるか?

……いっそ、三人で一緒に暮らすってのは、無理か?」

……

私はゆっくりと顔を上げ、彼を見た。

「私をあんたたちと一緒にしないで。夫を誰かとシェアする趣味なんてないから」

慶介の目に浮かんでいたかすかな期待が、音もなく消えた。

やがて彼は小さく息を吐く。

「……ちょっと時間くれ。頭冷やしたい。もし一か月経ってもお前の気持ちが変わらなかったら、そのときは離婚でいい」

私はうなずいた。

たった一か月。

もう二度と許さないと、心に決めていたから。

私は心を整理するために、一か月の休みを取った。

荷物をまとめながら、もうここには戻らないのだと静かに思う。

手に取るたび、置いていくものが増えていく。お揃いの服、色違いのアクセサリー、並んでいたマグカップ――

けれど、ふと気づいた。

そういう、いわば二人の思い出みたいなものは、全部、私が買ったものだった。

慶介が、自分から私たちの愛を形にしようとしたことは、一度もない。

どれだけ私が歩み寄っても、彼は決してこちらへ踏み出してはくれなかった。

愛は本来、お互いに歩み寄っていくものだと思っていた。でも私が近づくたびに、彼はわずかに距離を取った。

一人きりの恋なんて、結局は自分を慰めるためのものだ。

たぶん私たちの関係は、埃をかぶったウェディングフォトのようなものだった。とうの昔に、処分すべきだったのだ。

私は両親が遺してくれたマンションへ移った。

その夜は、不思議なくらい穏やかに眠れた。

翌朝、慶介からの着信が何件も残っていた。

電話に出た途端、待ちかまえていたかのように声が飛んでくる。

「五年も一緒にいたんだぞ。離婚なんて、そんな簡単に口にするなよ。少し落ち着け。

今夜、記念日やり直そう。友だちももう呼んであるし、プレゼントも用意してる。来ないとか言うなよ」

押しつけがましい物言いに、私はため息をついた。そのまま通話を切り、スマホを脇に放る。

――もう、慣れている。

私が重い病気で入院したときも。誕生日の夜も。本当にそばにいてほしかった日には、いつも慶介はいなかった。

理由は決まっている。瑠香だ。

そして翌日になると、何事もなかったかのように戻ってくる。

手にはプレゼント。

口には、軽い謝罪。

それだけで、すべてをなかったことにできるとでも思っているみたいに。

結局、受け取るしかない。

断ったところで、またあの調子だ。正しいことを言っているみたいに責めて、最後は私が折れるまで引かない。

ずっとそうだった。

呼ばれればすぐに駆けつけて、少し冷たくされれば何も言えなくなる。自尊心なんて後回しにして、彼の機嫌ばかりうかがっていた。

でも――今回は、本当に疲れた。

夜、家の前に戻ると、慶介が立っていた。

ずっと待っていたのだろう。

通りすがりの近所の人たちが、何度も振り返る。

以前の私なら、慌てて家の中へ引き入れていただろう。

けれど今の私にとって、彼はもうただの他人と変わらなかった。

たぶん私は、ようやく慶介への依存から抜け出せたのだ。

私は何も言わず鍵を差し込もうとした。その瞬間、慶介が腕をつかむ。

「店は予約してある。みんな、待ってる。

これからどうなるにせよ、今夜だけは……気持ちよく過ごせないか?」

そこまで言われると、断る私のほうが冷たい人間みたいだ。

慶介に手を引かれ、私は抵抗しなかった。

車はゆっくりと、店へ向かって走り出す。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 一途な愛の代償   第8話

    退屈で同じことの繰り返しみたいな一日が、あっという間に終わった。私は急いで店に駆け込み、約束していた席へ向かった。向かいに座っていたのは、見合いの相手ではなく、慶介だった。「慶介?なんであなたがいるの。相手の人は?」慶介は得意げに笑い、ゆったり足を組んだ。「俺が元夫だって名乗ってさ。お前はギャンブル癖があって、負けると人に手を上げるって言ってやった。ついでに昔の写真も見せた。びびって帰ったよ」私は言葉を失い、ため息をついた。「……あなた、何がしたいの?」慶介は手を差し出し、芝居がかった調子で言う。「初めまして。相沢慶介です。今日は――」私は途中で遮った。「いいから。あなたが何を考えてるかくらい、分かってる。慶介、もうこういうの付き合う気ないの。ふざけるのやめて」慶介は笑みを消し、表情を引き締めた。「ふざけてない。彩花、俺たちやり直せると思う。……この見合いから、始めよう」頭の中で、ぶん、と音がした。一瞬、思考が真っ白になる。次の瞬間、店内の照明が落ち、視界が暗くなった。店の中央にある大きなスクリーンが点き、文字が浮かび上がる。「『冬空のラブソング』」慶介はくすっと笑って言った。「今日は店、貸し切りにしてある。誰にも邪魔されない。もう一回、一緒に観よう。……いいだろ?」その瞬間、記憶が一気に押し寄せた。小さな部屋で、私たちは肩を寄せ合い、小さな画面を眺めていた。映画を見ながら笑い合って、くだらないことで盛り上がって。慶介が私を見つめる優しい目。耳元で囁かれた甘い言葉。手を伸ばせば届いたはずの幸せ。そんな記憶が、次々と胸をかき乱す。慶介がさらに身を寄せてきた。すぐ隣で、彼の体温を感じる。「覚えてるか。五年前、結婚したばかりの頃。毎日会えるのが楽しみでさ。……あの頃が、恋しい」彼の手の温もりを感じても、私の心は驚くほど静かだった。突然、慶介が姿勢を正し、両手で私の頬を包み込むようにして、まっすぐ見つめた。「彩花、俺はまだお前が好きだ。でも俺、病気なんだ。もう少しだけ……そばにいてくれないか」……その言葉を聞いた瞬間、私はその場に立ち尽くした。彼の顔をじっと見つめる。「……本当なの?」「本当だよ」そう言って慶介は

  • 一途な愛の代償   第7話

    「さよなら。もう二度と会わない」そう言い捨てて、私は踵を返した。あの瞬間、胸が驚くほど軽かった。まるで重たい荷物を放り捨てたみたいに。それから慶介は、本当に私の生活から姿を消した。五年という時間なんて、最初から存在しなかったみたいに――今も。それでも、ふとした拍子に思い出すことはある。もう二度と交わることはないんだろう、と。それからさらに一か月が過ぎた、ある日のことだった。雨の夜、家のドアを開けた私の前に、慶介が立っていた。整った顔が、すぐ目の前にあった。雨に打たれて髪はずぶ濡れで、彼はしゃくり上げている。頬を伝う雫が涙なのか雨なのか、私には見分けがつかなかった。私が呆然と見つめていると、慶介は突然私の胸に飛び込んできた。吐息から酒の匂いがした。「何しに来たの?」私は冷たい声で訊いた。「ごめん、彩花。俺、お前なしじゃ無理だ。瑠香とはきっぱり別れた。頭の中、ずっとお前のことばっかりなんだ。お前が俺を憎んでるのは分かってる。でも、それでもお前のことが頭から離れないんだ。お前が何年も俺にしてくれたこと、向けてくれた愛が、今さら胸に刺さってくる。あのときは分かってなかった。でも今は分かる。この世で俺をいちばん大事にしてくれたのはお前だ。お前以外に、そんなふうに愛してくれる奴はいない」言い訳も、謝罪も、情けない本音も、彼は息継ぎもせずに吐き出した。けれど、私の心は少しも揺れなかった。私はただの保険だった。彼の空白を埋めるための、間に合わせの存在にすぎない。「もういい。今さらそんなことを言われても、何も変わらない。私だってチャンスはあげた。でもあなたは、一度だって私を選ばなかった。私はあなたを愛してた。でも、その愛を盾にして、好き放題に傷つけていい理由にはならない」胸が痛んだ。自分の愚かさにも、彼の気づきがあまりにも遅すぎたことにも。私はそっと彼を押し返した。もう遅い。あんなふうに彼を愛していた女は、もうここにはいない。目の前の慶介は、まるで時間だけが彼を置いていったみたいに、相変わらず端正な顔立ちだった。でも私はもう違う。あのとき彼が戻ってきたせいで、また彼の気まぐれに振り回されかけた。もう二度と、そんな役目は引き受けない。私は彼の頬を伝う雫を指で拭った。「先輩

  • 一途な愛の代償   第6話

    私は彼を冷ややかに見た。「仕事に戻るわ。もう私に関わらないで」そう言い残して立ち上がり、背を向けてオフィスを出た。昼休みになると、慶介がまた私のところへやって来た。「この前の集まり、空気悪いまま終わっただろ。週末にもう一回集まろう。あいつらにも埋め合わせってことで。忘れるなよ」私は何も答えなかった。相変わらず、自分一人の生活を淡々と続けていた。ふと気づく。自分のために生きるだけで、日々が急に意味を持ち始める。花を育てて、釣りに出かけて、自転車で走り、山を登る。たぶん、これが人生の本当の楽しさなのだろう。以前の私は、彼のことしか考えていなかった。一週間はあっという間に過ぎた。その間も、彼は時々私の前に現れた。デスクにコーヒーを置いたり、花束をそっと置いたり。けれど私は一度も相手にしなかった。彼はゴミ箱の中で何度も花を見つけ、ようやく無駄だと気づいたらしい。それでも週末、彼から電話がかかってきた。「彩花、約束しただろ。今日はちゃんと来いよ。いつもの店。五時な」まだ署名されないままの離婚届――終わらせるべきことは、結局終わらせるしかない。私は車を出し、指定された店へ向かった。個室の前まで来たとき、中から楽しげな声が漏れてきた。「慶介さ、彩花って気が強いし細かいじゃん。顔だって瑠香のほうが上だし、稼ぎだって大したことない。どこがよかったの?マジで分かんない。瑠香もさ、言っちゃ悪いけど、あのとき慶介と別れなきゃ、あいつの入り込む余地なんてなかったよな」瑠香はにこやかに笑った。「しょうがないでしょ。父がどうしても留学しろってうるさくて。私だって慶介と離れたくなかったよ。でも、彼の時間を縛るのも嫌だったし。あの頃は、また戻って来られるかも分からなかったから……」そこで慶介が口を挟んだ。「瑠香、もう昔の話だろ。今さら蒸し返しても意味ない」「じゃあ……今度は、もう一度やり直してくれる?」瑠香の目は期待でいっぱいだった。慶介は何も言わなかった。けれど、口元に浮かんだ緩い笑みが、答えのようなものだった。――なるほど。だから二人、あんなに距離が近かったのか。「もういいって。あの女の話なんてやめようぜ。ほら、ゲーム続けよう」そう言いながら、大輝が瑠香と慶介のグラ

  • 一途な愛の代償   第5話

    瑠香は口をつぐんだ。その場にいた連中は、面白がるように私を見ている。三人のいざこざを、野次馬根性で待ち構えているのだ。その吐き気のするような顔ぶれを見て、私はそれ以上言葉を続けなかった。「用事があるから、先に帰る」冷たく言い捨てて、私は背を向けた。そのとき、瑠香が立ち上がった。「彩花、たぶんあなたが思っているようなことじゃないの。あの日、私たちが一緒にいたのは本当。でもホテルに行ったのは、私が急に低血糖を起こして……慶介が面倒を見てくれただけ。誤解させてしまって、ごめんね」私が最初からここにいたことを、瑠香は分かっている。それでもあんなふうに言うのは、周りに誤解だったと思わせたいだけだ。私が何を言っても、結局は私のほうがみっともないだけだ。だから私は何も言わず、振り返りもせずにその場を出ようとした。慶介が苛立ちを隠さない声で言った。「もういいだろ、彩花。誤解だって言ってるし、瑠香も謝った。まだ何がしたいんだ?座れよ。今日ここを出たら、もう二度と俺が許してもらえる機会はないからな」たいした言いぶりだ。私がまだ、彼の思いどおりに動く人形だとでも思っているのだろう。逆らえるはずがないと。――昔は、それを愛だと思っていた。でも今は、もう違う。この個室では、まるで私だけが悪者みたいだった。場を壊したのは私――責められて当然、という空気。私は周囲のひそひそ話など気にも留めず、踵を返して大股で店を出た。背後で大輝が慶介に声をかける。「追いかけなくていいのか?」「放っとけ。どうせそのうち勝手に戻ってくる」相変わらずの上から目線だ。私が一時の感情で怒っているだけで、結局は戻ってくるとでも思っているのだろう。でも――今回は違う。これまでは、私が卑屈すぎただけ。これからは、もう違う。気づけば川辺まで歩いていた。砂浜を夜風が渡り、夕焼けの名残が水面に溶けている。沈みゆく夕日を背に、若いカップルがウェディングフォトを撮っていた。花嫁のドレスはよく似合っていて、顔いっぱいに幸せが広がっている。花婿は彼女を強く抱き寄せ、いとおしそうに彼女を見つめていた。胸の奥がざわついた。――いつだったか、私たちもカメラの前で誓った。互いを守ること。寄り添い続けること。最後まで手を

  • 一途な愛の代償   第4話

    車の中で、何度も同じ香りが鼻をかすめた。ウッディ系の香水の匂いだ。――瑠香がいちばん好きな香りだ。「ねえ、どうして今さらウッディなんてつけてるの?」思わず口をついて出た。「香水なんてつけてないけど」慶介は間髪入れずに答える。それ以上は、何も言わなかった。もし本当に彼がつけていないのなら――この匂いは、瑠香が残していったものだ。車内は、そのまま沈黙に包まれた。やがて店に着く。慶介の幼なじみ、中村大輝(なかむら たいき)が彼を見つけるなり、ぱっと顔を輝かせて歩み寄ってきた。「慶介、やっと来たな」だが、彼の隣にいる私に気づいた瞬間、その笑みが消える。「なんだ、彩花も来たのかよ」私は視線を逸らしたまま、相手にしない。大輝はつまらなそうに鼻を鳴らし、慶介を連れて予約済みの個室へと向かった。扉が開くと、室内にいた慶介の友人たちの視線が一斉に私へ向く。表情はそれぞれ違うのに、視線の奥にあるものだけは同じだった。――歓迎していない、という空気。大輝と慶介は長い付き合いだ。私と慶介が交際を始めた頃から、大輝は私を快く思っていなかった。私が慶介に釣り合わない、とでも言いたげに。以前の私は、彼らともうまくやろうと必死だった。会えば笑顔をつくり、食事代を多めに出し、贈り物まで用意した。それでも――彼らの視線が柔らぐことは、一度もなかった。私は周囲を気にすることなく、空いている席に腰を下ろした。その一方で慶介は、大輝に肩を押されるようにして瑠香の隣へと座らされる。彼らの中では、瑠香と慶介こそが一番しっくりくるのだろう。並んでいても違和感がない、最初からそういう関係だったみたいに。私はただ、そこに居合わせただけの存在だった。慶介は座るなり瑠香と話し始めた。笑い合い、視線を交わし、言葉にしなくても通じ合っているみたいに。今日の主役が誰なのかも、私をここへ連れてきたのが自分だということも、忘れてしまったかのように。胸の奥に、ひとつの疑いが浮かぶ。――最初から、こういう場を見せつけたかったのではないか。私は黙って、二人を見ていた。慶介が瑠香のためにエビの殻をむき、魚の小骨を丁寧に抜いてやる。そんなこと、私は一度もされたことがない。私の前での慶介は、いつもどこか他人事

  • 一途な愛の代償   第3話

    結局、私は慶介を許してしまった。――そして慶介は、やはり私を裏切った。もう一度、私を傷つける機会を与えたのは、ほかでもない私自身だ。慶介が退院し、家に戻ってきたその日。私はあらかじめ用意しておいた離婚届を、無言で彼の前に置いた。「サインして。これであなたは自由になれる」今度の彼は、以前のように取り乱しはせず、真剣な目で私を見つめた。「もし俺が……お前も瑠香も、どっちも愛してるって言ったら、信じるか?……いっそ、三人で一緒に暮らすってのは、無理か?」……私はゆっくりと顔を上げ、彼を見た。「私をあんたたちと一緒にしないで。夫を誰かとシェアする趣味なんてないから」慶介の目に浮かんでいたかすかな期待が、音もなく消えた。やがて彼は小さく息を吐く。「……ちょっと時間くれ。頭冷やしたい。もし一か月経ってもお前の気持ちが変わらなかったら、そのときは離婚でいい」私はうなずいた。たった一か月。もう二度と許さないと、心に決めていたから。私は心を整理するために、一か月の休みを取った。荷物をまとめながら、もうここには戻らないのだと静かに思う。手に取るたび、置いていくものが増えていく。お揃いの服、色違いのアクセサリー、並んでいたマグカップ――けれど、ふと気づいた。そういう、いわば二人の思い出みたいなものは、全部、私が買ったものだった。慶介が、自分から私たちの愛を形にしようとしたことは、一度もない。どれだけ私が歩み寄っても、彼は決してこちらへ踏み出してはくれなかった。愛は本来、お互いに歩み寄っていくものだと思っていた。でも私が近づくたびに、彼はわずかに距離を取った。一人きりの恋なんて、結局は自分を慰めるためのものだ。たぶん私たちの関係は、埃をかぶったウェディングフォトのようなものだった。とうの昔に、処分すべきだったのだ。私は両親が遺してくれたマンションへ移った。その夜は、不思議なくらい穏やかに眠れた。翌朝、慶介からの着信が何件も残っていた。電話に出た途端、待ちかまえていたかのように声が飛んでくる。「五年も一緒にいたんだぞ。離婚なんて、そんな簡単に口にするなよ。少し落ち着け。今夜、記念日やり直そう。友だちももう呼んであるし、プレゼントも用意してる。来ないとか言うなよ」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status