ANMELDEN彩音はふふっと笑ってグラスをテーブルに置くと、両手を開いて見せた。――リターン十倍。「じゅ、十倍!?」璃々子の目が、こぼれ落ちそうなほど見開かれた。「ええ。それも確実に、ですわ」彩音は自信に満ちた顔で頷いた。「忘れないでくださいな。私には『絶対に確実なインサイダー情報』があるんですのよ。しかも今回のファンドは、あの仙道健様も太鼓判を押していらっしゃいますの。十倍どころか、下手すれば二十倍のリターンだって夢じゃありませんわ」そして彩音は、ゆっくりと食前酒を口に含み、言葉を続けた。「ご存知の通り、私は所詮、愛人の子。実家では冷遇されていましたし、仙道家の次男様と政略結婚する資格なんて、本来なら天地がひっくり返ってもありませんでした。でも、健様が私のためにインサイダー情報を流して、莫大な個人資産を作らせてくださったからこそ、こうして仙道家と釣り合う『価値』を手に入れられたんですのよ」璃々子も、仙道家の次男のことは知っていた。白彦の友人である仙道健の弟だ。そして仙道家といえば、政財界に太いパイプを持ち、絶対に表には出ない極秘情報を握っている一族である。あの仙道家のインサイダー情報なら、絶対に間違いない……!璃々子の心は完全に強欲に支配されていた。頭の中はすでに、十倍に膨れ上がった大金のことでいっぱいだった。……フロアのテーブル席では、ワインが入り、会話が弾んでいた。彩音はタイミングを見計らい、わざとミキの話題を振った。「そういえば、璃々子様とあの近藤ミキって、どんなご関係なんですの?」近藤ミキ、という名前が出た途端、璃々子の態度はあからさまにふんぞり返り、見下したような声を出した。「あの子?ただの居候よ。昔、うちの家が情けで置いてやってた、惨めな捨て犬みたいなもの。小さい頃から、私の専属のメイド代わりにこき使ってやってたの」「まあ、本当ですか?」同席していた令嬢たちが面白がって食いつくと、璃々子はますます得意げに鼻を鳴らした。「当然よ!あいつ、昔から私の顔色を窺って、いつもオドオドしてたわ。私が右って言えば左なんて絶対に言えなかったし。ちょっとでも私の機嫌を損ねたら、真っ暗な物置に閉じ込めて、三日間水もご飯も抜きにしてやったのよ。泣き叫んで土下座するまで、絶対に出
ミキがレストランを出て、ホテルへ戻るためにタクシーを呼ぼうとした、その時だった。キキッ!一台の真新しい漆黒の高級車が、ミキの目の前で急ブレーキをかけて止まった。あまりに勢いよく停まったため、ミキは思わず半歩後ずさった。ガチャリとドアが開き、中から慌てた様子で降りてきたのは、見知った顔の女性だった。彼女はミキの姿を捉えるなり、ホッと胸を撫で下ろし、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。「まあ、近藤さんじゃない!こんなところでまた会うなんてね!」「貴崎さん……!偶然ですね」ミキは目を丸くした。貴崎麗子。以前、ジュエリーのレセプションパーティーで、ミキが売上トップになるよう大金をはたいて助けてくれた恩人だ。あの後、お礼も兼ねて食事に誘いたいとずっと思っていたのだが、互いに多忙でなかなか機会を作れずにいた。まさかこんな所でバッタリ会うとは。麗子は少し息を弾ませながら、ミキの両手をぎゅっと握りしめた。「ええ、本当に奇遇! 偶然ってあるものなのね!」……本当は偶然なんかじゃなくて、ものすごい勢いでかっ飛ばして来たように見えたけど。ミキが内心でツッコミを入れていると、麗子はパッと顔を輝かせた。「せっかくこうして会えたんだし、一緒にご飯でもどう?」もともとこちらからご馳走したいと思っていたミキは、二つ返事で頷いた。「もちろんです!ぜひ私にご馳走させてください。ただ……ここのレストランはもう満席みたいなので、どこか別の場所へ——」「ああ、そんなの全然気にしなくていいわよ!」麗子は豪快に手を振ると、自分のスマホを取り出した。「ここのオーナー、私の知り合いなの。ちょっと連絡してみるわね!」言うなり、麗子は手早く電話をかけ、二、三言やり取りをして通話を切った。それから数分もしないうちに、レストランの支配人が血相を変えて飛んできた。彼は二人の前に立つと、最上級の笑みを浮かべて深々と頭を下げた。「貴崎様、そして近藤様。お出迎えが遅れまして大変申し訳ございません。ささ、どうぞ中へ。特別室をご用意しております」支配人の恭しい案内に従い、ミキと麗子が通されたのは——つい先ほど、璃々子がドヤ顔でミキから奪い取った、あのVIPルームだった。……その頃、VIPルームの入り口では、滑
勝ち誇ったようにミキを見下ろし、璃々子は意地の悪い笑みを浮かべた。「もしあなたが私に『どうかお願いします』って頭を下げるなら、部屋の隅っこくらいは座らせてあげてもよくてよ?」……底抜けのアホね。ミキは心底吐き気がした。こんな低俗な女に反論する言葉すらもったいない。これ以上同じ空気を吸うのも不愉快になり、冷たい顔のまま踵を返して店を出ようとした。その時、エントランスの重厚なガラス扉が開いた。夜の冷たい空気と共に、長身の男が入ってくる。仕立ての良い黒のシャツ姿で、ネクタイは少しだけ緩められている。目の下には、どこか退廃的な疲労の影が落ちていた。澪士だった。そして、彼のすぐ隣には、小動物のように庇われる形で寄り添う若い女の姿があった。ふんわりとした柔らかい雰囲気のその女の腕には、澪士が着ているはずのジャケットが大切そうに抱えられている。……八日ぶり。まさか、こんな場所で再会するとは思わなかった。ミキの足は、床に縫い付けられたようにピタリと止まってしまった。暖色の間接照明が照らすエントランスで、澪士がゆっくりと顔を上げた。視線が、空中で激しく衝突する。ほんの一瞬だった。澪士の漆黒の瞳の奥に、まるで別の男と密会していた裏切り者の妻を見るような、どす黒く重い愛憎と絶望が渦巻いたかと思うと――次の瞬間、彼は見知らぬ他人を見るように、ひどく冷淡に視線を逸らしたのだ。何よ……その目。ヤッた途端に連絡一つ寄こさず、あまつさえ別の若い女を連れて歩いているくせに。まるで自分が傷ついた被害者のような顔をして無視するなんて。澪士の理不尽な態度に、ミキの胸がギリッと痛んだ。一方、ミキが立ち止まったのを見た璃々子は、完全に勘違いをしていた。ミキが自分の権力に屈して絶望しているのだと思い込み、真っ赤な唇を歪めて勝ち誇ったように笑う。「ふん、あれだけツンケンしてたのに、結局は無様に逃げ出すのね?でも、今さら泣きついてももう遅いわ。私、気が変わったから」璃々子はわざとミキの耳元に顔を寄せ、二人だけに聞こえる声で低く囁いた。「いいこと?あなたは絶対に私には勝てないのよ。昔も、そしてこれからもね」彼女が言っているのは個室のことではない。元夫である白彦のことだ。『彼も、彼の隣の席も、あん
とっくに帰ってきてるじゃない……それなのに、私には連絡の一つも寄こさない。ふっ、と自嘲気味な笑みがこぼれた。そうだ、男なんてみんなこんなものじゃないか。手に入れた途端に用済み。釣った魚に餌はやらない。一体、私は何を期待していたのだろう。最近の私は、どうかしていた。あの男の熱を帯びた視線や、耳元で囁かれる甘い言葉に絆されかけて、男の身勝手な本性をすっかり忘れていた。そもそも、二階堂澪士といえば投資界きっての捕食者であり、女には不自由しない生粋の遊び人だ。私のような大人の火遊びの相手なんて、彼の周りには星の数ほどいて、順番待ちすらできないくらいなのだろう。バカみたい。変な勘違いするところだった。ミキは自分の心に芽生えかけていた淡い期待を、冷たい理性の水で完全に消火した。どうせただのセフレだ。割り切ろう。そう自分に言い聞かせると、不思議と肩の力が抜け、ミキは泥のように深い眠りに落ちていった。目が覚めたのは夕暮れ時。ぐうぅ、とお腹が鳴って、ようやく自分がひどく空腹であることに気がついた。昨夜から苛立ちのせいで食欲がなく、ろくに何も口にしていなかったのだ。たっぷり眠ったおかげで、ようやく胃腸が食べ物を求め始めていた。出前でもいいけど……せっかくだから外で食べようかな。ミキはベッドから起き上がり、顔を洗うために洗面所へ向かった。そういえば、北里市の新市街に新しくできた本格的なイタリアンレストランに、ずっと行きたいと思っていたのだ。多忙で行けずにいたが、今日の夜なら時間がある。洗面台の前に立ち、歯を磨こうと手を伸ばしたミキの視線が、ふと一点で止まった。そこにあったのは、見慣れない高級なチタン製の歯ブラシと、漆黒のグラス。時折この部屋に泊まっていく澪士が、勝手に置いていったものだ。途端に、ミキの顔からスーッと表情が消え去った。ガシッ!ミキは無表情のまま、その歯ブラシとコップを鷲掴みにすると、足元のゴミ箱へ勢いよく叩き込んだ。「あー、スッキリした。クソ男の私物なんて、目障りなだけよ」視界から男の痕跡を完全に消し去ると、ミキは鼻歌交じりにメイクの準備を始めた。身支度を終えたミキは、お気に入りのワンピースに袖を通し、丁寧にナチュラルメイクを施した。美味しいものを食べ
「……うん」「だから、今は嵐が過ぎ去るのをじっと待ちなさい。あの男とミキの溝が決定的に深まって、もう絶対に修復不可能なところまで関係が壊れきった後で、あなたがひょっこり戻ってくればいいのよ。孤独に打ちひしがれて空っぽになった男の心なんて、あなたが少し優しくすり寄って甘えれば、いとも簡単に落ちるんだから」璃々子は、母の蓉子が言った言葉を頭の中でぐるぐると反芻した。確かに……今の白彦兄さんは私にすごく冷たい。このまましつこく泣きついても、ウザがられるだけかもしれないわね。ここはあえて彼の指示に従い、一時的に距離を置いて引くのが賢い女のやり方だ。そうと決まれば、こんな場所に用はない。璃々子は即座に点滴の針を引き抜き、ベッドから飛び降りた。そもそも大した怪我などしていない。白彦の同情を引くために、わざと大げさに入院し、傷口すらも特殊メイクで偽装していただけなのだから。「ちょっと、どこへ行くの?」驚く蓉子に、璃々子は鼻を鳴らした。「海外に飛ばされる前に、ちょっと軍資金を稼ぎに行ってくるわ」白彦は金銭的な支援も、留学先の学校や住居も手配してくれている。しかし、それはあくまで一般的な学生生活を送れる程度の額でしかない。これまで彼に甘え、湯水のように金を使って贅沢三昧してきた璃々子にとって、そんなどん底の貧乏留学生のような暮らしなど、絶対に耐えられなかった。だから、海外でみじめな思いをしないために、自分でたんまりと金を稼いでおく必要がある。実は以前、ある富裕層の食事会に参加した際、彼らが密かに話題にしていた「非公開の投資ファンド」の話を耳にしていたのだ。絶対に儲かるインサイダー情報があるらしく、リターンが桁違いだという。ずっと気になってはいたものの、なんとなく手を出せずにいた。しかし、一緒に食事会にいた知り合いは全員それに投資し、既に莫大な利益を手に入れているらしい。欲望に火がついた璃々子は、もうじっとしていられなかった。彼女はすぐさま身支度を整え、今夜の投資家たちのパーティーに乗り込むことにした。海外に追放される前に、絶対に一攫千金を狙ってやるのだ。......翌日のお昼。アシスタントの萌が、不満げに唇を尖らせながら弁当を運んできた。「えー、今日のロケ弁、ただの幕の
だが、急遽「本港市で開催される三日連続のオークションに、ミキの亡き母のジュエリーがそれぞれ出品される」という情報が入り、予定を変更せざるを得なくなった。彼はすべてのオークションに参加し、三つの作品を見事競り落としてから、ようやく帰還のフライトを手配した。その道中、彼はミキのために本場のエッグタルトを買おうと、わざわざ車を飛ばして隣町まで足を運んだ。さらに、空港に着陸するやいなや『スイート・トゥデイ』へ寄り道し、彼女が好きそうな新作のケーキも買い込んだ。美味しい食べ物、温かい飲み物、そして、彼女がずっと探していた母の形見。すべてを完璧に揃え、ミキを喜ばせることだけを楽しみに、胸を高鳴らせて迎えに行ったのだ。――その結果が、これである。彼女は、元夫の白彦の車に乗り込んだ。その瞬間を目撃した時、嘉人はいつもは鬼畜な上司に対して、人生で初めて「気の毒だ」と同情してしまった。彼らは気配を消し、白彦の車を尾行した。澪士は、自分が愛してやまない女が元夫の車に乗り込み、高級レストランで二人きりのディナーを楽しみ、そして店の前で名残惜しそうに言葉を交わす姿を……その目で一部始終見せつけられた。嘉人はその間、一度も後部座席を振り返ることができなかった。見なくともわかる。今の澪士が、どれほど凄惨で、どす黒い怒りと嫉妬に塗れた顔をしているか。不幸中の幸いだったのは、ミキが元夫の車でホテルまで帰らず、途中でタクシーを拾って一人で戻ってきたことだ。もし彼女が元夫と一緒にホテルに入っていくようなことになっていれば……今夜、この街で血の雨が降っていただろう。時計の針が、深夜零時を回った。その時、ずっと閉ざされていたマイバッハの後部座席の窓が、音もなくスゥッと下りた。「……全部、捨ててこい」夜の闇に溶けるような、ひどく冷酷で、氷のように冷たい声だった。澪士の視線の先にあるのは、彼が往復数時間かけて買ってきた本場仕様のエッグタルトと、空港から直行して買ったばかりの新作ケーキ。もちろん、長時間放置されたせいで、もう食べられる状態ではない。零時五分。漆黒の車体は、静かにホテルの前を離れ、底知れぬ夜の闇の中へと消えていった。同じ夜。いつもなら一度寝たら朝まで起きないはずのミキは、なぜかひどく寝付きが悪かった。







