Masuk陽咲はハッと息を呑み、思わず視線を泳がせた。智琉の件を明美に打ち明けるべきか、彼女の心は激しく揺れ動いていた。明美の焦燥しきった顔を見て、陽咲は深呼吸をすると、今はまだ真実を伏せておく決意を固めた。しばらくの沈黙のあと、陽咲は静かに口を開いた。「お義母さん……確かに、私には隠していることがあります。でも、それは紬希を見つけ出してからすべてお話しします」その一言に明美の全身が強張り、すがるように問いただした。「紬希ちゃんに関わることなのね?」瞬きひとつせず陽咲を見つめるその瞳には、色濃い焦燥が渦巻いていた。「……はい」陽咲は頷いた。今何よりも優先すべきは、一刻も早く紬希を見つけ出し、その安全を確認することだ。明美も今はその時ではないと悟り、それ以上追求することはしなかった。胸の前で固く両手を合わせると、目を閉じ、祈るように呟いた。「安部家のご先祖様、どうかお守りください……私の紬希ちゃんが無事でありますように」その姿に、陽咲は胸が締め付けられる思いだった。明美への罪悪感に苛まれながらもかけるべき言葉が見つからず、ただ沈黙を守るしかなかった。明美は絵画教室への道を熟知していた。エンジンをかけるなり、アクセルを一番下まで踏み込む。普段なら30分はかかる道のりを、半分の15分で駆け抜けた。車を停めるやいなや、2人は転がるように車を降り、絵画教室へと駆け込んだ。だが、そこに紬希の姿はなかった。明美は今にも泣き崩れそうになるのを必死に堪え、紬希の担当講師を見つけ出した。彼女はすがるように尋ねた。「先生、紬希ちゃんは今日、こちらへ来ていませんか?」講師は驚いたように目を丸くした。「今朝早く、紬希ちゃんの送迎担当のシッターさんがいらして、『お母様が今日は休ませるとおっしゃっている』と。ですからてっきり……何かあったんですか?」それを聞いた瞬間、明美はあまりのショックに眩暈を起こし、倒れそうになった。「陽咲、どうしましょう……」陽咲はとっさに彼女の体を支えると、その口を塞ぎ、講師に向かって愛想笑いを作ってみせた。「なんでもありません。きっと、お友達の家に遊びに行ったんだと思います。ありがとうございました」陽咲は半ば抱きかかえるようにして明美を教室から連れ出し、車へと戻った。車内にあったミネラルウォーターの
怜央は、申し訳なさそうに悠里を見つめ、ひどく沈んだ表情を浮かべていた。へえ、今日はまた珍しいこと。あの怜央が悠里に嘘をつくなんてね。陽咲は内心で面白がりながらも口は挟まず、黙って高みの見物を決め込んだ。それを聞いた悠里は、陽咲をチラリと睨みつけると、いかにも物分かりのいい、優しい声を出した。「気にしないで、怜央さん。もしかして紬希ちゃんに何かあったの?私も一緒に様子を見に行こうか?」怜央はかぶりを振った。「いや、紬希は元気だよ。ただ、お母さんが陽咲を連れて飯を食いに来いってうるさくて……さすがに断り切れなかったんだ」悠里はあからさまに寂しそうな顔を作ると、健気な笑みを浮かべた。「そう……わかった。じゃあ、私は友達でも誘って出かけるわね」怜央は頷き、彼女に1枚のブラックカードを差し出した。「遠慮せずに、好きなだけ使ってくれ」悠里はそれを嬉々として受け取ると、目を細めて満面の笑みを浮かべた。「ありがとう、怜央さん」怜央はわずかに口角を上げ、甘やかすような視線を送った。「気にするな」朝っぱらからこんな反吐が出るような茶番劇を見せつけられ、陽咲は心底うんざりした。彼女は勢いよく立ち上がると、さっさと外へ歩き出した。それを見た怜央は、後を追うしかなかった。安部家の本邸へ向かう道中、ハンドルを握ったのは怜央だった。陽咲はといえば、後部座席で寝不足を補っていた。怜央は運転しながら、ルームミラー越しに陽咲を何度も睨みつけ、腹の底でふつふつと苛立ちを募らせていた。――どう考えても、俺をタダのお抱え運転手扱いしていないか?本邸に到着し、怜央が声をかけて起こそうとした矢先、陽咲はパチリと自ら目を覚ました。そして彼を一瞥もすることなく、さっさと一人で車を降りて行ってしまった。怜央はますます腹の虫を治まらせながら、その後ろを歩いた。2人がリビングに入ると、明美は庭で丹精込めた花々の剪定をしているところだった。陽咲はそのまま庭園へと足を向ける。怜央はついて行かず、リビングのソファに腰を下ろして一息ついた。「あら陽咲、よく来たわね」明美は微笑み、剪定バサミを傍らの使用人に渡すと、陽咲のほうへ歩み寄ってきた。陽咲は軽く会釈をして尋ねた。「お義母さん、紬希はどこですか?姿が見当たらないようですが。今日は土曜日
陽咲の言葉に、怜央はうんざりしたように目をこすり、投げやりな口調で返した。「行かない。明日は土曜日だ。ゆっくり休ませてくれ。陽咲、君は毎日働かずに家にいるんだ、少しは俺の身にもなってくれないか?」すげなく突っぱねる怜央の顔には、疲労の色が濃く滲んでいた。彼が陽咲の前でこれほど疲れ果てた表情を見せるのは、実に珍しいことだった。陽咲にも、彼が疲労のピークに達していることは分かっていた。だが、引けない理由があった。今は何より紬希の安全がかかっている。決して油断するわけにはいかなかった。「ダメよ」陽咲は眉をひそめた。「絶対に一緒に帰ってもらうわ」何しろ怜央は幼い頃から本邸で育ち、使用人たちの顔ぶれを誰よりも熟知している。本邸に潜む監視の目をあぶり出すには、彼を利用するのが一番手っ取り早かった。そう考えた陽咲は、声を潜めて彼を脅しにかかった。「怜央、もし行かないって言うなら、この3日間、あなたがずっと病院で悠里に付きっきりだったこと、お義母さんにバラすわよ」陽咲は鼻でふんと笑い、彼を見上げた。怜央が悠里の看病をしていたと明美と直樹に知られるのを恐れていることなど、彼女にはお見通しだった。以前、紬希が怪我をしかけた一件以来、直樹夫婦は悠里をひどく毛嫌いしている。もし怜央が妻である自分を冷遇し、いそいそと悠里の世話を焼いていたと知られれば、二度と頭が上がらなくなるほど激しく叱責されるのは目に見えていた。怜央はギリッと歯ぎしりしたが、彼女の言う通りにするしかなかった。「……陽咲、よくもまあ!何時に帰るんだ?」「10時半ね。朝は9時半に起きてくれればいいわ」目の前で狡猾そうに瞳を輝かせ、微かに口角を吊り上げる陽咲を見て、怜央の胸の奥を奇妙な感覚がかすめた。得意げに自分の前に立つ陽咲は、これまで見たことのないほど生き生きとした表情をしていた。結婚して2年余り、彼の心の中で陽咲はずっと「分をわきまえた大人しい妻」だった。その言葉以外に、彼女を形容する言葉を思いつかないほどに。それが、あの冬の夜を過ぎてからすべてが一変した。なぜか怜央の心の奥底で、そんな陽咲に対する強い興味が湧き上がっていた。そこまで考えて、彼は慌てて頭を振り、その恐ろしい思考を断ち切った。冗談じゃない、俺がこの女に興味を持
悠里はどこまでも低姿勢で、陽咲に謝罪してみせた。傍らにいた怜央の顔が途端に曇り、不満げに陽咲を睨みつける。陽咲は鼻で笑った。悠里がまだあの件を根に持っていたとは驚きだ。彼女は悠里の謝罪など受け入れる気は毛頭なく、その言葉には答えずにわざとらしく小首を傾げてみせた。「体が良くなったのなら、いつ海外へ行くの?」それを聞いた悠里は、奥歯を噛み砕かんばかりに腹を立てた。だが怜央の手前、感情を爆発させるわけにもいかず、ぐっと怒りを飲み込むしかない。「ごめんなさい……私、ここに居ちゃいけないのね。今すぐ航空券を予約して、明日には出て行くわ」そう言うと、悠里はギュッと唇を噛み締め、いかにも可哀想な様子で怜央を見つめた。案の定、怜央は絆されたように心を痛め、冷ややかな視線を陽咲に向けた。「陽咲、いい加減にしろ!悠里は退院したばかりで体調も万全じゃないんだ。それに、君の妹だろう。そんなに急いで追い出したいのか?」陽咲は彼と口論するのも面倒になり、適当にあしらった。「はいはい、あなたの言う通りよ。それでいいんでしょ?」怜央は言葉に詰まり、反論の糸口すら見つけられなかった。いっそ陽咲を相手にするのをやめ、幸子に悠里の部屋を片付けるよう命じる。この2日間、彼は会社と病院の往復でまともに睡眠をとっておらず、疲労困憊だったのだ。疲れたように眉間を揉むと、「先上がって片付ける」とだけ言い残して2階へ上がっていった。彼が去った後。リビングは静寂に包まれた。怜央がいないと分かった途端、悠里は単刀直入に切り出した。「どうして私の病室に盗聴器なんか仕掛けたの?」そう問う悠里の目は鋭く陽咲を見つめ、表情のわずかな綻びすら見逃すまいと探りを入れようとしている。陽咲は顔色ひとつ変えずに彼女を見返し、ひどく皮肉めいた口調で言い放った。「あなたたちみたいな最低のクズ男と泥棒猫が、病室で欲望のままに燃え上がって、そのままやっちゃうんじゃないかって心配したのよ」あまりにも露骨で下品な言葉に、悠里はカッと顔を赤らめ、後ろめたさからスッと視線を逸らした。陽咲は畳み掛ける。「元々は怜央の浮気の証拠を掴もうと思ったのに。残念なことに、中身を聞く前に盗聴器が壊れちゃったみたいだけどね……悠里、運が良かったわね!」陽咲は悔しそうな表情を作り、2人
目の前に立っていたのは、並んで歩く絃葉と雅也だった。思いがけない場所で陽咲と鉢合わせし、2人も同じように呆然と彼女を見つめている。3人は誰ひとりとして言葉を発さず、その場にはどこか気まずい沈黙が流れた。「奇遇だな、陽咲。お前もここで食事か?」雅也が先に口を開いた。陽咲はこくりと頷き、2人の姿を意味ありげに交互に見つめた。「あなたたち……もしかしてデート中?」少しからかうような、悪戯っぽい口調で尋ねる。絃葉はコホンと軽く咳払いをした。その耳の先はほんのりと赤く染まっている。そんな彼女の様子に、雅也の目元が優しく和らいだ。彼は小さく笑みをこぼし、絃葉を庇うように言った。「たまたま白瀬先生にお会いしただけだよ」絃葉と知り合って10年の陽咲には、彼女の性格など手に取るようにわかる。今、彼女が照れ隠しをしているのだと察し、あえてそれ以上は追求しなかった。「陽咲、一緒に食べていくか?」雅也が尋ねる。しかし、陽咲は二人の邪魔をするつもりなど毛頭なかった。「2人はゆっくりしていって。私は用事があるから、これで」早く帰って、どうすれば紬希を守れるのか、しっかりと考えたかったのだ。絃葉は彼女の焦りに気づき、その腕を掴んで眉をひそめた。「どうしてそんなに急ぐの?何かあったの?」絃葉に心配をかけたくないし、2人の時間を邪魔したくもない。陽咲は顔色ひとつ変えずに嘘をついた。「少し眠いから、帰って休みたいだけよ」陽咲がいつも通り落ち着いているのを見て、絃葉はようやく安堵し、掴んでいた手を離した。「気をつけて帰るのよ、陽咲」と念を押す。陽咲はふふっと笑い、絃葉の背中を雅也の方へそっと押し出しながら茶化した。「大丈夫、私のことは気にしないで。2人とも、デート楽しんでね」元々恥ずかしがり屋の絃葉は、その言葉を聞くや否やパッと顔を真っ赤に染め上げた。照れ隠しに「もう!」と言いたげな視線を向けると、雅也とともに奥の個室へと向かっていった。2人の後ろ姿を見送ると、陽咲の顔からすっと笑みが消えた。彼女はタクシーを拾い、白檀荘へと帰路につく。帰り着いたのは、すでに夜の9時を回った頃だった。陽咲は幸子に食事の用意はしなくていいと伝え、どっと押し寄せる疲労感の中、そのまま2階へ上がって休もうとした。その矢先、怜央が悠里を連れて
楓斗は陽咲の向かいに腰を下ろすと、少し申し訳なさそうに口を開いた。「途中で道路が混雑していまして。遅くなってすみません」陽咲は冷ややかな眼差しのまま、そっけなく「ええ」とだけ相槌を打った。そして手元のメニューを彼の方へ押しやり、注文をするよう促す。注文を終え、料理が運ばれてくるまでの間。楓斗は遠回しな探り合いをやめ、単刀直入に切り出した。「陽咲さん、例の件、どうするか決まりましたか?」陽咲は氷のように冷たい声で答えた。「怜央との離婚はお断りします」楓斗は予想外の答えに呆然とし、その瞳に一瞬落胆の色を滲ませたかと思うと、直後に激しい怒りを露わにした。てっきり彼女は自分の要求を呑むつもりで、だからこそ食事に誘ってきたのだとばかり思っていたからだ。楓斗は湧き上がる怒りを必死に抑え込みながら尋ねた。「じゃあ……陽咲さんが僕を食事に誘ったのは、一体何のためなんですか?」陽咲は突き放すような口調で言った。「あなたが私の名前を騙って陶芸作品を作っている件について、少し話し合おうと思ったからです」楓斗は冷たく鼻で笑った。「そうでもしないと、君は僕のことなんて気にも留めてくれないでしょう?陽咲さん、あの怜央のどこがそんなに良いんですか!?」陽咲があまりにも平然としているため、彼は苛立ちを爆発させ、声を荒らげた。「君は知らないでしょうけど、以前、彼は僕に愚痴をこぼしていたんですよ。本当に好きなのは悠里なんだって!陽咲さん、どうして現実を見ようとしないんですか!」彼は信じられなかった。自分の夫が他の女を好きだと知らされて、それでも離婚を言い出さずに耐えられるはずがないと。だが、楓斗の思惑は完全に外れていた。陽咲はさして驚く様子もなく、ただ「そうですか」と短く応じただけだった。そのあまりの反応の薄さに、楓斗は怒りを通り越して呆れ笑いを漏らしそうになった。「陽咲さん、家柄も、学歴も、容姿も……僕のどこが怜央に劣っているというんですか?どうして一度だって僕をちゃんと見てくれないんですか?それに、彼はもう精神的浮気をしてるんですよ。でも僕は違います。僕は最初からずっと、君だけを愛してきたんです。どうして目を覚ましてくれないんですか……!」楓斗の瞳には、痛々しいほどの絶望と悲痛な色が混ざり合っていた。しかし、陽咲はただ淡々と言
写真に写っているのが蒼空だと分かると、怜央は安堵の息を吐き、悠里に事情を説明した。悠里の瞳の奥に、一瞬だけ落胆の色がよぎった。だが彼女はすぐに白々しいほど安堵した表情を作り、陽咲を気遣うふりをした。「よかった、ただの誤解だったのね。でも、もしお姉さんが本当に質の悪い男に絡まれてたらと思うと、ぞっとするわ」その言葉に含まれた「不幸になればよかったのに」という本音を敏感に察知し、陽咲は冷ややかに鼻で笑った。「余計なお世話……それより、自分の心配でもしたら?こんな夜更けに姉の夫の家へ上がり込むなんて。世間に知られたら、『お里が知れる』って後ろ指を指されるだけよ」悠里の顔から血
陽咲は足を止め、背後の車に乗る男を、露骨な警戒心を持って凝視した。男の顔立ちは、息を呑むほどに整っていた。その眉の下に落ちる深い影が、彼の瞳をいっそうミステリアスに、そして官能的に縁取っていた。底知れぬ泉に沈む黒曜石のような瞳は、冷たく澄み渡り、一切の揺らぎを見せない。だが、その静謐な眼差しに見据えられると、心の深淵までをも無遠慮に暴かれてしまうような、不思議な圧迫感があった。男はシートにゆったりと身を預け、口元をわずかに綻ばせて彼女と視線を合わせた。「……どなたですか?」陽咲は悟られないよう、静かに半歩後ろへ下がった。淡々とした問いかけの中には、明確な拒絶と疎遠な響きが含
陽咲は静かに怜央を一瞥しただけで、何も答えなかった。代わりに口を開いたのは、聡子だった。その声には、隠しきれない嘲笑が混じっている。「ええ、あの子の祖父は確かに清水正雄という名前だったわ。でも、ただの田舎者よ。土いじり以外に何の取り柄もない男で、二年も前に死んだわ」二年前――それはちょうど、陽咲が望月家に引き取られた年だった。そこまで言うと、聡子は忌々しげに陽咲を睨み、ため息をついた。望月家に引き取られて以来、陽咲は頑なに「清水」の名字を変えようとしなかった。「血の繋がりは、名字ひとつで証明するような薄っぺらいものではないでしょう」というのが彼女の言い分だった。聡子も頭
陽咲は怜央を見上げ、何気ない風を装って尋ねた。「おじい……正雄先生を、どうして探しているの?」怜央は電話を切ると、疲れ切った様子で眉間を揉んだ。「大口の取引先が厄介でね。今回の納品分が基準に満たないと難癖をつけてきたんだ。正雄先生の作風に合わせて作り直せ、とだが正雄先生は三十年も前に表舞台を去り、今や消息不明だ。製作工程には誰も知らない『秘伝の工程』があるらしく、今の職人ではどうやっても再現できないんだよ」彼は重いため息をついた。その表情には、拭い去れないほど深い疲労が滲み出していた。陽咲は胸の奥がわずかに騒ぐのを感じ、探るように問いかけた。「その工程って、そんなに難しいの?