「なるほど、つまりモナンジュのドレスを着ると破局すると言う噂が広まり、それが原因でドレスが売れなくなったのね。」
「はい、アレシア様。」
私とエイダは王都にあるレオニーというエイダの友人のドレス工房に来ていた。
モナンジュというのはそのドレス工房の名前である。
そこはレオニーが数人のお針子を抱える小さな店ながら、思い通りのドレスが仕立てれると評判で、一時期はとても賑わっていた。
しかし、現在はお客様が激減し、破綻の危機に瀕している。
レオニーは私達に事情を説明した後、悔しそうに顔を伏せる。
ドレスは社交の場で必ず着るものだから、その中で破局する人が出てしまうのも仕方ないことで、それはドレスのせいではないのだ。
しかし残念ながら、自分の不幸を何かのせいにしようとする人が一定数いる。
今回はその「何か」がたまたまドレスだったというだけだろう。
それでも、そんな噂が立てば、不吉だからと買うのを躊躇う人がいるのは無理もないことだ。
「でも、元々自分でシックなドレスをオーダーするからなんです。
私には似合わないとか、もう年だからとか言い訳して、くすんだ色のドレスを作った挙句、男性と破局した理由をドレスのせいにするなんて許せません。」
レオニーは怒りのために、拳をプルプルと震わせる。
「そうね。
あくまでそれは自分のせいね。」「でも、アレシア様、私もう店を畳もうと思うんです。
元々私は、ドレスを作りたかっただけで、店を開きたかったわけじゃなかったことに気がついたんです。 店の経営を考えるのはもうウンザリで。ドレス作りだけを考えていたいんです。
でも、子供がいても雇ってくれる店がなくて、自分で始めました。」「ここを辞めたら、代わりの仕事はあるの?」
「ドレス作りの夢を諦めれば、子守として働くことができます。
好きではないけれど、お金のためなら仕方がないです。」レオニーは肩を落として、つぶやく。
「子供がいるからって好きな仕事を諦めるなんておかしいわ。
アレシア様、なんとかならないでしょうか?」エイダも心配そうに、俯くレオニーの背に手を置く。
「わかったわ。
同じ女性として、子育てしているレオニーに協力したいの。 だから、私がモナンジュの経営を引き受けるわ。 そしたら、レオニーはこの店を続けられるでしょ?でも、一つだけ条件があって、表向きはあなたが経営者だということにしてほしいの。」
「えっ、アレシア様がこの店の経営をするんですか?」
「ええ、私には時間があるし、多くはないけれど資金もあるの。
だから、経営と広告塔としての役割を果たすわ。でも、実際に経営をしているのが私だということは内緒にしてほしいの。
私に何があっても、トラヴィス様が背負うオフリー家の名前に泥を塗ってしまうことを避けたいから。
経営の問題が解決して、レオニーが安心してドレス作りができるように、三人でこの工房の立て直しをしましょう。
エイダも一緒に。」「私もやっていいんですか?」
「もちろんよ。
ずっと夢だったんでしょ? とりあえず、邸の仕事と両立を目指してみたら? まだ、このお店がうまくいく保証はないから。」「そう言っていただけると、助かります。
邸の仕事を辞める決心もまだつかなくて。」「ゆっくり決めればいいわ。
それにレオニー、あなたが守って来た大切なお店なんでしょう?潰すことならいつでもできるのだから、私達と一緒にもう一度挑戦してみない?
それでもうまくいかなければ、その時は諦めましょう。」「でも、アレシア様、オフリー公爵様からお許しがいただけるでしょうか?」
「トラヴィス様は私に関心なんてないわ。
だから心配いらないと思うの。」「ありがとうございます。
アレシア様、私本当はドレスをまだ作り続けたかったのです。 でも、一人だと不安で。」「一緒に頑張りましょう。
うまくいくかどうかは、私達次第よ。」それから、私達三人は、モナンジュの噂に対する解決策と今後の方針について夜遅くまで話し合った。
まずは、「モナンジュのドレスを着ると破局する。」という噂についてどうにかしなければならない。
やるとは思い立ったものの、現時点で打開策は思いつかない。
この噂が払拭されるくらいの何かが、この小さな工房で起こるはずもなく、難題が私達の前に立ちはだかり続ける。けれど、邸の中でトラヴィス様を思い、辛い日々を送るよりも仲間たちと工房を立て直す方がずっといい。
私はここに自分の居場所と価値が欲しかったのかもしれない。
まだ具体的なアイデアは何も浮かばないけれど、新しい挑戦に心は踊り出すのだった。
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「アレシアがいないとはどう言うことだ。」
夜遅くに邸に帰って来たトラヴィスは、眉をひそめでヨルダンを呼び出した。
慌てて彼の居室にやって来たヨルダンは、顔を強張らせて答える。
「それは、トラヴィス様が昨日、あれほど念押ししていたのに、結婚三周年のお祝いをすっぽかしたからです。」
「お祝いと言ったって、二人で夕食をとるだけだろう?」
「その夕食をとるだけを最後に二人がしたのがいつだったのか、覚えていらっしゃいますか?」
「…、しばらくないか。」
「はい、その間、アレシア様は一人でお食事をとられていたのですよ。」
「使用人達と食べているのは知っている。」
「ですが、使用人と一緒に食事をして満足する妻などいません。
トラヴィス様がいないから、仕方なくそうしているにすぎません。」「だが、僕は忙しいんだ。」
「それは、アレシア様も承知しております。
だから、三周年の祝いだけでも特別に来ていただきたいとトラヴィス様にお伝えしていたのです。でも、トラヴィス様は来なかった。
だから、アレシア様は出て行かれたのです。」「何だと?
ここを守るのが、アレシアの務めだろうが。」「それは、信頼し合っている二人だからこそ成り立つことです。
アレシア様は、もうそれを望めなくなったのでしょうね。
気の毒に。」「何故、私ではなく、アレシアが気の毒なんだ。」
「トラヴィス様がアレシア様を大切にされないからです。」
「している。
充分な暮らしに、雑務に追われず優雅に過ごす日々、それに何の不満があると言うんだ?」「トラヴィス様、あなた様はそれを幸せだと思われているのは、存じております。
けれども、アレシア様にとっての幸せとは異なるのでしょう。」「どういう意味だ?」
「多くの女性は、孤独で怠惰な日々よりも、愛に包まれた忙しい日常を求めるものです。
そのことについてアレシア様に尋ねたことがありますか?」「…、もういい。」
トラヴィスは、ヨルダンに返す言葉が浮かばなかった。
確かにアレシアにそのことについて尋ねたことはなかった。だとしても、妻とは邸で夫を待つべきではないのか?
せめて話し合ってから、出ていくべきじゃないのか? だが自問してみると、彼女が話そうと思っても邸にいないのは、僕か。仕方なくトラヴィスは、普段二人で寝ているベッドに一人横たわった。
冷たい。
ひんやりとしたベッドの中のどこを探しても、いつもの温もりがない。 いつもは、外で冷えた身体も寝ているアレシアに寄り添えばすぐに温まり、あっという間に眠りにつくことができるのに。彼女は眠りが深く、夜中に身体を抱き寄せても起こしてしまう心配がない。
結婚したばかりの頃は、夜中だというのにアレシアを起こしたくて、手を伸ばしたものだ。
だが、予想に反して彼女は全く目を覚まさなかった。そのため、起こすことを諦め、抱き枕のように彼女を抱きしめて眠ったら、驚くほどぐっすり眠れて驚いたものだ。
それからというもの、彼女を毎晩、抱きしめて眠るのが習慣になっていた。
彼女が起きる前に、僕の方がいつも目を覚まし出仕するから、きっと彼女はそのことに気づいていないのだろう。
彼女がいない今、なかなか身体が温まらない僕は安眠できる気がしない。
気づけば、いつの間にか僕は、彼女に依存していた。今日もアレシアは静かに湖を眺めていた。 水面に降り注ぐ陽の光が反射して、とても綺麗ね。 空も澄み渡って、どこまでも青い。 すべてを失っても、陽の光と青い空、この湖の美しさ、澄んだ空気は変わらないわ。 お兄様が選んだこの場所が、閉ざされた地下ような狭く息苦しい所でないだけ救いかもしれない。 その時、ふと湖に目をやると、湖に浮かぶ小さな船が何隻も見えた。 ここに来てから、船なんて一度も見たことが無かったわ。 その船達はどんどん島に近づいて来るように見える。 もしかしたら、私を助けてくれる船かもしれない。 けれど、同じぐらいの確率で悪意のある人達が襲おうとしているのかも。 怖いわ。 でも、どこにも逃げ場なんて、この島にはないのだ。 考えただけで、体が震えるほどの恐怖に襲われる。 とりあえず、…お兄様。 必死に別邸の中を走り回って探しても、どこにも姿が見えない。 こんな時にお兄様は、一体どこに行ってしまったの? 自分から彼を探すことがないから、どこをどう探せばいいのかすらわからない。 焦りだけが募る中、湖岸に船が着き、剣を手にした男達が、まっすぐ邸へ向かって駆けてくるのが見えた。 不安と焦燥が胸をかき乱す。 玄関の方から、誰かが扉を叩くような音が響いた。 続けざまに、強く、激しく。 ドンドン、ドンドンドン。 私は思わず息を呑み、急いで寝室に入り、ベッドの横に身を潜める。 息を殺して、なるべく小さくなるようにしゃがんだ。 でも、寝室に人が入って来たら、すぐに見つかってしまうだろう。 これではとても隠れたうちに入らない。 バキ、バキバキッ。 ドアが破られる音が聞こえる。 もし、見つかってしまったら、今日が人生最後の日になるかもしれない。 そう思って、寝室で小さくなり震えていると、走る足音がいくつも響き、その一つが近づき、後ろから優しい声が聞こえる。「アレシア、ここにいたんだね。 もう大丈夫だよ。 一緒に帰ろう。」「トラヴィス様なの?」 久しぶりに聞くトラヴィス様の声に、咄嗟に上を向くと、彼が微笑んで、私を見つめている。「そうだよ。 君の夫のトラヴィスだ。 無事で良かった…本当に。 一緒に帰ろう。」「私、お邸に戻ってもいいの?」「もちろん、そのために迎えに来たんだから。」 私は躊躇いがちにトラヴ
アレシアは今日も変わらず、湖のほとりをどうすることもできずに歩いていた。 泳いで渡るには大き過ぎるし、いかだを作ったこともなければ、そのための技術もない。 それなら、小さな空き瓶にお手紙を入れて流してみるのはどうかしら? いつか誰かがそれに気づいて、手紙を読んで、この湖を渡って助けに来てくれるかもしれない…。 わかっている。 その可能性はほぼないに等しい。 けれど、このまま何もしないよりは、できる事を試してみよう。 そうして、お手紙をしたためる。 「私がこの島に閉じ込められていること。」 「オフリー公爵へこのお手紙を渡してほしいこと。 私は彼を心から想っていて、きっと彼はこの手紙を読んだら、届けてくれたあなたを邪険にすることはないこと。」 トラヴィス様は、私のことを過去だと思っても、私の救出のために動いてくれる。 そんな優しさは、短い結婚生活で感じていた。 だから、嫌われているとわかっていても最後に頼りたいのは、やはりトラヴィス様だったし、想い浮かべるのもやはり彼だった。 離縁したいと一方的に姿を消すことで、彼の人生に傷をつけ、失望させたのもわかっている。 それでも、変わらず彼のことが好きだった。 「もし、彼が無理ならばせめて、モナンジュにお願いしたいこと。」 「願いが叶ったならば、報酬もお渡ししたいこと。」 それらを丁寧にしたため、署名した。 そのお手紙の入った瓶を十ほど流してみたけれど、時間をかけてそのほとんどが波に押し戻され、再び湖畔に戻って来てしまった。 私は落胆しながら、再びその瓶を湖に流し、穏やかな湖を見つめる。 お兄様の計画は完璧で、どんなに私が足掻こうとしても、湖を渡る方法は見つかりそうにない。 そんな私とは対照的に、彼はいつもと変わりなく、湖へ行くという私を優しく送り出し、成果がなく、夕方になりしょんぼりと帰る私に、食事を作ってくれている。 一見すれば、穏やかな兄妹の生活だけど、私はお兄様の内に潜む狂気が怖い。 今だトラヴィス様から、離縁状のサインがもらえず、私達はかろうじて兄妹のままだ。 でも、もしトラヴィス様がサインをしてしまったら、きっとお兄様は私と無理矢理結婚するだろう。 その時、ここに囚われたままの私に逃げ場などないし、助けを求めれる相手すら誰もいない。 けれど私は、どんな理由があ
「夜遅くにすまない。 入れてもらえないだろうか?」 トラヴィス達がモナンジュを訪れると、困惑した顔のレオニーと言う店の女性と、あまり会いたくないと思っていたカーライルが、僕らを迎え入れた。「オフリー公爵様、お久しぶりです。 どうかなさいましたか?」「こちらにアレシアが来ているかい?」「いえ、オフリー公爵様と離縁することになったと言って、一度顔を出したきりです。」「やはり、こちらにもいないか。」「公爵様、アレシア様は落ち着いたら、また来ると言っていました。 でも、こんなに長く来ないなんて、何かあったのではないかと心配しているところでした。 ところで、そちらの方は?」 「こちらは私の友人のリベロと言う男です。 彼はアレシアの兄が気にかかると、一緒に来てくれたのです。」 リベルト王子は軽く会釈するが、カツラを被っているため、レオニー達は彼が王子だと気づかない。 彼は時々、こうして王都の街を自由に歩き回っている。 その時、ずっと黙っていたカーライルが重い口を開ける。「オフリー公爵様、僕のことを快く思っておられないのは承知しておりますが、お話してもよろしいでしょうか?」「ああ。」「では奥にいらしてください。」 アレシアがカーライルのところにいないのなら、彼よりホリック卿が中心となっている可能性が高い。 だが、それは彼とじっくり話をしてみないとわからない。 本来であれば、彼に助けを求めるなど絶対にしたくなかったが、今はそうも言っていられない。 彼女を取り戻すためには、どんな手段も惜しまない。 その中には嫌いなこの男と協力することも含まれている。 屈辱ではあるが、その覚悟はすでにできていた。 僕達四人は店を閉めて、奥の部屋で腰を据えて話をすることにした。「アレシア様が最後にここに来た時、とても沈んだ様子でした。 オフリー公爵様に、肌を美しくする薬を飲んでいたことを咎められたと。 そして、嫌われたまま邸にいるのはつらいから、もう離縁するつもりだと。 けれど、その時ふと思ったのです。 肌が綺麗になる程度の薬を飲むだけで、両家やその親族、さらには貴族社会全体の力関係にすら影響を与えるような結婚を、それだけで蔑ろにする男などいない。 きっと根本的な何か、別の重要な理由があるはずに違いないと思いました。 だから僕は、このまま
「まだいたのか? 浮かない顔をしているな。 夫人と何かあったのか?」 トラヴィスが王宮で急ぎもしない執務を片付けていると、リベルト王子が現れて、早速触れてほしくない話題を口にする。「リベルト様、お耳汚しになりますので気になさらず。」「そんなことを言っても、私にも関わることだから、ちゃんと話してもらうぞ。」 観念した僕は、リベルト王子に従い、彼の私室で、強めの酒を酌み交わしながら口を開く。「ここに僕を連れて来た時は、どんな尋問よりも隠しごとを許さないですよね?」 ここは完全な私室で、近衛兵が入り口を警備し、限られた者しか近づくことさえできない。 だから、ごく個人的な話でも人に聞かれることなく話せるのだ。「で、何があったんだ?」「妻が再び出て行きました。 僕はアレシアには好きに生きていいなんて言いながら、実は隠しごとをせず、僕に本当の気持ちを話して欲しかったんです。 そして、彼女は今でも心を開くつもりがないと知った時、気持ちを抑えきれず、ついに彼女を突き放してしまいました。 それからは、彼女と向き合うことができず、顔を見るのを避けていたんです。 それでも朝方になると彼女のいるベッドに入り、彼女を抱きしめてわずかに眠りつく、そんな日々を送っていました。 けれども、彼女は僕を許せなかったのでしょう。 ついに使用人達の静止を振り切って、邸を出て行ったそうです。」「でも、いつものモナンジュというドレス工房にいるんじゃないのか?」「おそらく、そちらにはいないでしょう。 今回はアレシアの兄のホリック卿と出て行ったと、邸の者が話していたので。 それに、アレシアからの代理で、そのホリック卿から離縁状が送られてきております。 つまり、アレシアは本気で僕と別れたいと思ったのでしょう。 今はもう後悔しかありません。 どうして僕はあの時、子供は諦めるから、そばにいてほしいと言わなかったのかと。」「その話は、初めて聞いたよ。 夫人は子供が欲しくなかったのかい?」「はい、アレシアは僕が気づいていないと思って、最初から避妊薬を飲んでいました。 結婚したばかりの頃はまだ、彼女の妊娠したくないと言う気持ちを尊重して、深く詮索するつもりはありませんでした。 けれども、一年が経っても全くやめようとしないその姿に絶望したのです。 アレシアは、一生僕
目が覚めるとアレシアは、湖を見渡せる別邸のベッドに横たわっていた。 白く可愛らしい寝室には、自分が寝ている大きなベッドがあり、目の前には陽の光に照らされてキラキラ輝く湖が広がっている。「やあ、目覚めたかい? 僕の眠り姫。 何をしても起きないから、驚いたよ。 眠りが深いのは、相変わらずなんだね。」 お兄様がベッドサイドの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。「最近、トラヴィス様を想って眠れなかったから、余計に寝てしまったのね。 でも、眠りが深いのは変わらずなの。 それに良く寝たから、元気が出て来たわ。 ここがお兄様の言っていた湖の見える別邸なのね。 とても綺麗だわ。」「そうだよ。 この別邸を初めて見た時から、アレシアをずっとここに連れて来たかったんだ。」「嬉しいわ。 ありがとう。」「ここで二人で暮らそう。」「よろしくお願いします。 あれ? このベッドの頭の所に掛かっている大きな絵は私?」 ベッドの頭側の壁に、両手を広げるほどの絵画が飾られていて、そこには椅子に座り微笑んでいる私が、描かれている。 おそらく、私の結婚前の頃の絵ね。 どうしてここにあるのかしら。「そうだよ。 綺麗だろ?」「こんな絵をいつ書いてもらったのかしら? 全然覚えていないわ。」「邸にいた者で絵の才能があるやつがいたんだ。 その者に書かせたよ。 それよりお腹が空いただろう? 食事にしよう。」「はい。」 二人は湖の見える庭で、朝食を食べる。 テーブルには、パン、スープ、果実水が並ぶが、どこか違和感がある。 何だろう?「美味しいかい?」「ええ、自然の中だと食欲が湧くわ。 最近、食事が喉を通らなかったから。」「だったら、もう少し運んで来ようか?」「いいえ、これだけで十分よ。 近くで湖を見てもいいかしら?」「もちろんだよ。 一緒に行こう。」 二人は並んで静かな湖の景色を眺めている。「とっても綺麗、水が透き通っているのね。」「そうだ。 湖はとても深いことを知っているかい?」「そうなの? 知らなかったわ。」「湖はね、深いし、広いから泳いで渡ることは不可能なんだ。」「ふふ、向こうの岸さえ微かに見える程度なのよ。 ここを泳ごうとする人なんていないわ。」「そうだね。」 邸に戻ると、寝室のベッドは乱れたままだった。「あ
もうどれくらいの間、トラヴィス様のお顔を見ていないかしら。 アレシアは、昼間はモナンジュで仕事に集中し気を紛らわせていたが、夜一人になると静まりかえる寝室で、ただトラヴィス様の帰りを待つ日々が続いている。 もしかしたら、今日こそ彼が寝室を訪れ、もう一度やり直す機会を与えてくれるかもしれないと淡い期待を捨てきれずにいた。 私が元々美人で、肌の美しさにこだわったりしなければ、トラヴィス様は私を嫌わずにいてくれたのかしら? それとも、二人の間に秘密を持たずに、お薬のことを打ち明けていれば、許してくれたのかもしれない。 反対に、もっと早くトラヴィス様が、「薬を飲む私が嫌だ。」と言ってくれたなら、どれほど肌が荒れようとやめたのに。 いいえ、違うわ。 私は嫌だと言われるのがわかっていたから、内緒で続けていたんだわ。 だから、どこまでも私が悪い。 結果的に私は、彼の思いを裏切ってしまい、今となってはもう手遅れね。 きっと彼は二度と私に微笑んでくれることはないだろう。 昨日、お兄様にお手紙を書いた。 もう、トラヴィス様を諦める潮時なのだろうと思ったから。 彼には、私を避けるのではなく、もっと身体を休めるために寝室を使ってほしい。 私達がこうなる前のトラヴィス様は、以前より元気そうで溌剌としていた。 きっと彼は、私を避けないで生活すれば、いくら忙しいとはいえ、もう少し健やかに暮らせるのだろう。 私がここに居座ると、トラヴィス様の穏やかな生活の妨げになってしまう。 それも、避けたかった。 でも、一番は私に再び心を向けてくれたトラヴィス様が、また背を向けてしまったことに、もう耐えられなくなったからだと思う。 結婚三年目のお祝いの時も苦しかったけれど、今の苦しみは重くて、深い。 彼の口から、私を拒絶する言葉を聞いてしまったのだから。 あれから何度も思い返し、そのたびに悲しみに沈む。 まるで身体から全ての血が失われたように、抜け殻で、考えることも、感じることも息を奪う。 なんとか浅く息を繰り返すだけで、精一杯だった。-------------------------------------------------------------------------------------「やあ、アレシア、随分と塞いでいるじゃないか?」「お兄