「お目覚めですか、アレシア様。」
目を開けたアレシアは、窓から差し込む明るい日差しに目を細める。
昨夜、モナンジュの立て直し計画が進展せず、店の二階にある小さなお部屋にエイダと二人で寝ることにしたのだ。
元々この部屋は、下の針子の仕事が終えた後に、休むための仮眠室という名のベッドと机があるだけの小さなスペースだ。
人生でこんな小さなベッドになど寝たことがなかったけれど、寝れれば問題ないものである。
私はトラヴィス様と離縁になってしまうのも仕方ないと考えているので、こうして小さな部屋で生きていくのも悪くないかもしれないと思った。
「よく眠れたわ。」
「それは良かったです。」
向かいに寝ていたエイダは、もうすっかり身支度を整えて、私が目を覚ますのを待っていたようである。
「エイダは寝れたの?」
「もちろんですよ。
私はこんなの慣れっ子です。」「そうなの?
だったら良かったわ。」「朝食にしませんか?
お邸より朝食が届いております。」「えっ?
わざわざここに?」「はい、ヨルダン様が気を利かせてくれたのでしょう。
先ほど使いの者が届けに来ました。」「何だか申し訳ないわ。
私達の都合で勝手にこっちに泊まったのに。」「アレシア様はどうか心配なさらずに。
皆、アレシア様のことを大変慕っており、心から気にかけているんですよ。」「そんな、私は勝手に邸を出てしまった身なのに。
でも、そんなふうに思っていただけるのはありがたいわ。」「さあ、起きて朝食をいただきましょう。」
二人がバスケットに入っていたパンやハム、果実水を飲んでいると、出勤して来たレオニーも加わり、今日の予定を立てる。
「アレシア様、今日は完成したドレスを王宮に持って行くので、話し合いはその後でもいいですか?」
レオニーは申し訳なさそうに目を伏せながら話す。
「私には時間がたっぷりあるのだから、そんなに気を使わなくてもいいのよ。
でも、せっかくだから私も行っていいかしら?」「えっ、アレシア様もですか?
もちろん構いませんが、長い距離を歩くことになりますが、大丈夫ですか?」「ええ、頑張るわ。」
私はここにいてもできることは限られているし、気分転換に王宮について行くことにした。
少しでも動くことで、何かモナンジュの立て直し案が浮かぶかもしれない。
「ふふ、楽しみだわ。」
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王宮に到着すると、公爵夫人である私は、普段なら正面のエントランスに馬車をつけるのが常だが、今回は業者なので裏門の勝手口から入ると言われた。モナンジュからワンピースを借りた私は、お針子の助手を装い、目立たないように顔を伏せる。
これなら誰も私が、オフリー公爵夫人だとは気づかないはず。
私は皆のように静々と歩き、平静を装っているが、内心では初めての経験にワクワクしている。
案内役の女官の後をレオニーが歩き、私はレオニーの後ろに隠れるようにして、王宮の回廊をすすんで行く。
着ている服は、借り物の地味なワンピースで、ドレス以外を着たのは、人生初めてのことで、その軽さや締め付けの無さに驚いている。
皆、このような物を着て働いているのね。
納得だわ。 これなら、ドレスより何倍も早く動ける。もし、トラヴィス様と離縁することになったら、実家からも追い出されてしまうだろう。
私のお父様はとても厳格な人で、彼に捨てられてしまえば、出戻る私など価値なしと言わんばかりに、邸から出されてしまうに違いない。
でも、その後は、心優しいお兄様が私を支えると言ってくれている。
その時は、このような服を着て、なるべくお兄様の負担にならないように、自分のことは自分でできるようにしなくちゃ。
お兄様は血は繋がっていないが、幼い頃から共に過ごし、心を許せるたった一人の家族なのだ。
王宮の使用人が通る廊下は曲がりくねり、顔を伏せている私は、もうどこを歩いているのかさえわからなかった。
息を切らしながら階段を登り、上がった先の回廊の窓からは、王宮自慢の美しい庭園が見渡せ、その中にリベルト第一王子と共に歩くトラヴィス様の姿が目に入った。
トラヴィス様を見たのは、幾日ぶりだろうか。
皮肉なものね。 彼に会いたいと思い、夜遅くまで待っていた寝室では、寝た形跡があるものの直接顔を合わせることがなかったのに。トラヴィス様は、いつものようにキリッとした表情でリベルト王子と話しながら、王宮内に入ろうとしていた。
彼の深い青色の瞳をどれだけ見たいと思い続けていたかしら。
彼の瞳は、遠くで見ると色は深く、近くで見ると綺麗な青色なのだ。
みんなが知る彼の瞳は夜の闇のようだけど、親密さを増せば輝く海のようになる。
それを知ってしまった私は、彼を見つめることをやめられない。
美しいと評判のリベルト王子よりも、自分の夫であるトラヴィス様が断然素敵に見える私は重症ね。
きっと彼は、いつもあのようにリベルト王子を支えれることに誇りを持って、勤めているのだろう。
だから、最近は特に忙しくて、私が起きている時間に帰って、話す時間さえとれないのかしら。
もし、離縁しても王宮で今のように遠くから彼を見守ることができるなら、会えない夫婦のままでいるよりも、寂しさを感じることなく過ごせるのかもしれない。
また、こうして王宮に助手として来れるように、モナンジュの経営を頑張ろう。
彼の瞳を時々は見たいからと、離縁してモナンジュを立て直そうとする私は、どうかしている。
そもそも、私達夫婦には会話する時間なんてほとんどないのだから、彼がこうして忙しくしていると知りながら、出て行こうとする私は悪い妻ね。
でも、そうしなければ今までの三年と同じように、ただ寝室で待つだけでは何も変わらないことは、分かりきっている。
私は彼にとって、いてもいなくても大した違いのない存在だから、私が何をしても彼の生活に影響はない。
この先も、私が彼を時々見たいと動くだけ。
それはわかっているけれど、いざ彼を見て物思いに耽ると、今もなお一方的にトラヴィス様を想い、胸が締め付けられるような切なさが込み上げてしまう。
お父様に促されて、初めて彼に会った時、その上品な顔立ちと爽やかな笑顔に恋をした。
若い男性でこんなにも美しく、落ち着いた振る舞いができる人がいるのだと、驚きと羨望の眼差しで彼を見つめたものだ。
あの頃、私は結婚に夢を抱き、彼と結婚できる幸運に酔いしれた。
こんな素敵な人と夫婦になり、共に一生を過ごせるのだと。
夢が叶い結婚すると、トラヴィス様は私の肌がとても綺麗だと褒めてくれた。
「抱きしめるととても癒される。」
顔の造りには自信がないけれど、肌はお薬を飲み、手入れも欠かさない。
その努力を認めてもらえたようで、嬉しかった。
けれど、わずか三年で私に全く興味を持たない彼が仕事に没頭する姿に絶望し、彼から離れる決心をして今に至る。
好きであればあるほど、心を向けられない日々は耐えがたく、邸の中では呼吸するのさえ、苦しくてたまらなくなった。
もし、私がトラヴィス様のことをなんとも思わずにいられたら、平穏な気持ちのまま一人ぼっちの邸で過ごせたのだろう。
でも、私は彼に憧れを抱いてしまったから、私に関心を持ち続けて欲しかった。
けれど、結婚してからわずか一年も経たないうちに、彼の私への興味はなくなってしまったようだ。
時が経つにつれてますます、どんなに努力してもダメだったから、私は彼以外に目を向けようと頑張っている。
時々こうやって彼を遠くから見つつも、自分の人生を生きる。
ただ待つだけの空虚な自分には、戻りたくない。
それだけが、私の今の思いである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「明日から、早く帰りたいとはどういうことだ?」
リベルト第一王子は、いつもそばにいて補佐してくれるトラヴィスが、自分から離れようとしていることに苛立ち、鋭い目で彼を見つめる。
「最近、王からの執務の分担は少し落ち着いてきました。
だから、少しぐらい僕がいない時間ができても、何とかなるはずです。 恥ずかしながら、僕は今夫婦の危機に直面しています。」「ほう、それは穏やかじゃないな。」
リベルト王子はニヤリと笑って、トラヴィスを見る。
「笑いごとではありません。
妻を失っては夜もよく眠れませんし、リベルト様をお支えする元気も湧いて来ません。」「トラヴィスからそんな言葉を聞くとはな。」
リベルト王子は、トラヴィスとは長い付き合いだから、二人きりの時は名前で呼んでいる。
そして、彼から吐き出されたその言葉に驚きを隠せなかった。
周りの者を信用できないリベルト王子にとって、彼はただ一人の信頼できる相手で、幼い頃からの付き合いである従兄弟だった。
だからこそ、彼をそばに置きたがり、彼は邸に戻るのが極端に遅くなる。
彼は常に冷静で、誰よりも的確に仕事を割り振り、部下達に指示を出している。
だから、邸に帰る時間が少なくても、妻の扱いもうまくやっていると思っていた。これほど仕事のできる男でも、こと夫婦関係については、うまく収めれないものなのか?
夫婦がうまくいくためには、頭の良さだけでは足りないようだ。政略結婚が当たり前で、常に女性に傅かれているリベルト王子には、わからないことだった。
「私はどうやら失敗してしまったようです。
妻が出て行ってしまったので。」「だったら丁度いい、放っておけばいいじゃないか。
お互いに好きにすればいいだろ?」「僕は妻に帰って来てほしいんです。
リベルト王子もそばにいてほしいと思える相手に会えば、わかりますよ。」「女なんて暇つぶし程度で十分だ。
お前のことを裏切っているのに、その女に固執する意味がわからない。」「でも、愛する女性のぬくもりを一度知ってしまうと、どんなに恋しく思うのは自分だけだとわかっていても、不思議と元の生活に戻りたくなくなるんですよ。
だから、僕は何としても早く帰りますから。」「しょうがないな。」
その時、回廊の向こうから妻が見ているとは思いもしないトラヴィスは、アレシアとの関係をどうにか立て直すために真剣に話をしていた。
今日もアレシアは静かに湖を眺めていた。 水面に降り注ぐ陽の光が反射して、とても綺麗ね。 空も澄み渡って、どこまでも青い。 すべてを失っても、陽の光と青い空、この湖の美しさ、澄んだ空気は変わらないわ。 お兄様が選んだこの場所が、閉ざされた地下ような狭く息苦しい所でないだけ救いかもしれない。 その時、ふと湖に目をやると、湖に浮かぶ小さな船が何隻も見えた。 ここに来てから、船なんて一度も見たことが無かったわ。 その船達はどんどん島に近づいて来るように見える。 もしかしたら、私を助けてくれる船かもしれない。 けれど、同じぐらいの確率で悪意のある人達が襲おうとしているのかも。 怖いわ。 でも、どこにも逃げ場なんて、この島にはないのだ。 考えただけで、体が震えるほどの恐怖に襲われる。 とりあえず、…お兄様。 必死に別邸の中を走り回って探しても、どこにも姿が見えない。 こんな時にお兄様は、一体どこに行ってしまったの? 自分から彼を探すことがないから、どこをどう探せばいいのかすらわからない。 焦りだけが募る中、湖岸に船が着き、剣を手にした男達が、まっすぐ邸へ向かって駆けてくるのが見えた。 不安と焦燥が胸をかき乱す。 玄関の方から、誰かが扉を叩くような音が響いた。 続けざまに、強く、激しく。 ドンドン、ドンドンドン。 私は思わず息を呑み、急いで寝室に入り、ベッドの横に身を潜める。 息を殺して、なるべく小さくなるようにしゃがんだ。 でも、寝室に人が入って来たら、すぐに見つかってしまうだろう。 これではとても隠れたうちに入らない。 バキ、バキバキッ。 ドアが破られる音が聞こえる。 もし、見つかってしまったら、今日が人生最後の日になるかもしれない。 そう思って、寝室で小さくなり震えていると、走る足音がいくつも響き、その一つが近づき、後ろから優しい声が聞こえる。「アレシア、ここにいたんだね。 もう大丈夫だよ。 一緒に帰ろう。」「トラヴィス様なの?」 久しぶりに聞くトラヴィス様の声に、咄嗟に上を向くと、彼が微笑んで、私を見つめている。「そうだよ。 君の夫のトラヴィスだ。 無事で良かった…本当に。 一緒に帰ろう。」「私、お邸に戻ってもいいの?」「もちろん、そのために迎えに来たんだから。」 私は躊躇いがちにトラヴ
アレシアは今日も変わらず、湖のほとりをどうすることもできずに歩いていた。 泳いで渡るには大き過ぎるし、いかだを作ったこともなければ、そのための技術もない。 それなら、小さな空き瓶にお手紙を入れて流してみるのはどうかしら? いつか誰かがそれに気づいて、手紙を読んで、この湖を渡って助けに来てくれるかもしれない…。 わかっている。 その可能性はほぼないに等しい。 けれど、このまま何もしないよりは、できる事を試してみよう。 そうして、お手紙をしたためる。 「私がこの島に閉じ込められていること。」 「オフリー公爵へこのお手紙を渡してほしいこと。 私は彼を心から想っていて、きっと彼はこの手紙を読んだら、届けてくれたあなたを邪険にすることはないこと。」 トラヴィス様は、私のことを過去だと思っても、私の救出のために動いてくれる。 そんな優しさは、短い結婚生活で感じていた。 だから、嫌われているとわかっていても最後に頼りたいのは、やはりトラヴィス様だったし、想い浮かべるのもやはり彼だった。 離縁したいと一方的に姿を消すことで、彼の人生に傷をつけ、失望させたのもわかっている。 それでも、変わらず彼のことが好きだった。 「もし、彼が無理ならばせめて、モナンジュにお願いしたいこと。」 「願いが叶ったならば、報酬もお渡ししたいこと。」 それらを丁寧にしたため、署名した。 そのお手紙の入った瓶を十ほど流してみたけれど、時間をかけてそのほとんどが波に押し戻され、再び湖畔に戻って来てしまった。 私は落胆しながら、再びその瓶を湖に流し、穏やかな湖を見つめる。 お兄様の計画は完璧で、どんなに私が足掻こうとしても、湖を渡る方法は見つかりそうにない。 そんな私とは対照的に、彼はいつもと変わりなく、湖へ行くという私を優しく送り出し、成果がなく、夕方になりしょんぼりと帰る私に、食事を作ってくれている。 一見すれば、穏やかな兄妹の生活だけど、私はお兄様の内に潜む狂気が怖い。 今だトラヴィス様から、離縁状のサインがもらえず、私達はかろうじて兄妹のままだ。 でも、もしトラヴィス様がサインをしてしまったら、きっとお兄様は私と無理矢理結婚するだろう。 その時、ここに囚われたままの私に逃げ場などないし、助けを求めれる相手すら誰もいない。 けれど私は、どんな理由があ
「夜遅くにすまない。 入れてもらえないだろうか?」 トラヴィス達がモナンジュを訪れると、困惑した顔のレオニーと言う店の女性と、あまり会いたくないと思っていたカーライルが、僕らを迎え入れた。「オフリー公爵様、お久しぶりです。 どうかなさいましたか?」「こちらにアレシアが来ているかい?」「いえ、オフリー公爵様と離縁することになったと言って、一度顔を出したきりです。」「やはり、こちらにもいないか。」「公爵様、アレシア様は落ち着いたら、また来ると言っていました。 でも、こんなに長く来ないなんて、何かあったのではないかと心配しているところでした。 ところで、そちらの方は?」 「こちらは私の友人のリベロと言う男です。 彼はアレシアの兄が気にかかると、一緒に来てくれたのです。」 リベルト王子は軽く会釈するが、カツラを被っているため、レオニー達は彼が王子だと気づかない。 彼は時々、こうして王都の街を自由に歩き回っている。 その時、ずっと黙っていたカーライルが重い口を開ける。「オフリー公爵様、僕のことを快く思っておられないのは承知しておりますが、お話してもよろしいでしょうか?」「ああ。」「では奥にいらしてください。」 アレシアがカーライルのところにいないのなら、彼よりホリック卿が中心となっている可能性が高い。 だが、それは彼とじっくり話をしてみないとわからない。 本来であれば、彼に助けを求めるなど絶対にしたくなかったが、今はそうも言っていられない。 彼女を取り戻すためには、どんな手段も惜しまない。 その中には嫌いなこの男と協力することも含まれている。 屈辱ではあるが、その覚悟はすでにできていた。 僕達四人は店を閉めて、奥の部屋で腰を据えて話をすることにした。「アレシア様が最後にここに来た時、とても沈んだ様子でした。 オフリー公爵様に、肌を美しくする薬を飲んでいたことを咎められたと。 そして、嫌われたまま邸にいるのはつらいから、もう離縁するつもりだと。 けれど、その時ふと思ったのです。 肌が綺麗になる程度の薬を飲むだけで、両家やその親族、さらには貴族社会全体の力関係にすら影響を与えるような結婚を、それだけで蔑ろにする男などいない。 きっと根本的な何か、別の重要な理由があるはずに違いないと思いました。 だから僕は、このまま
「まだいたのか? 浮かない顔をしているな。 夫人と何かあったのか?」 トラヴィスが王宮で急ぎもしない執務を片付けていると、リベルト王子が現れて、早速触れてほしくない話題を口にする。「リベルト様、お耳汚しになりますので気になさらず。」「そんなことを言っても、私にも関わることだから、ちゃんと話してもらうぞ。」 観念した僕は、リベルト王子に従い、彼の私室で、強めの酒を酌み交わしながら口を開く。「ここに僕を連れて来た時は、どんな尋問よりも隠しごとを許さないですよね?」 ここは完全な私室で、近衛兵が入り口を警備し、限られた者しか近づくことさえできない。 だから、ごく個人的な話でも人に聞かれることなく話せるのだ。「で、何があったんだ?」「妻が再び出て行きました。 僕はアレシアには好きに生きていいなんて言いながら、実は隠しごとをせず、僕に本当の気持ちを話して欲しかったんです。 そして、彼女は今でも心を開くつもりがないと知った時、気持ちを抑えきれず、ついに彼女を突き放してしまいました。 それからは、彼女と向き合うことができず、顔を見るのを避けていたんです。 それでも朝方になると彼女のいるベッドに入り、彼女を抱きしめてわずかに眠りつく、そんな日々を送っていました。 けれども、彼女は僕を許せなかったのでしょう。 ついに使用人達の静止を振り切って、邸を出て行ったそうです。」「でも、いつものモナンジュというドレス工房にいるんじゃないのか?」「おそらく、そちらにはいないでしょう。 今回はアレシアの兄のホリック卿と出て行ったと、邸の者が話していたので。 それに、アレシアからの代理で、そのホリック卿から離縁状が送られてきております。 つまり、アレシアは本気で僕と別れたいと思ったのでしょう。 今はもう後悔しかありません。 どうして僕はあの時、子供は諦めるから、そばにいてほしいと言わなかったのかと。」「その話は、初めて聞いたよ。 夫人は子供が欲しくなかったのかい?」「はい、アレシアは僕が気づいていないと思って、最初から避妊薬を飲んでいました。 結婚したばかりの頃はまだ、彼女の妊娠したくないと言う気持ちを尊重して、深く詮索するつもりはありませんでした。 けれども、一年が経っても全くやめようとしないその姿に絶望したのです。 アレシアは、一生僕
目が覚めるとアレシアは、湖を見渡せる別邸のベッドに横たわっていた。 白く可愛らしい寝室には、自分が寝ている大きなベッドがあり、目の前には陽の光に照らされてキラキラ輝く湖が広がっている。「やあ、目覚めたかい? 僕の眠り姫。 何をしても起きないから、驚いたよ。 眠りが深いのは、相変わらずなんだね。」 お兄様がベッドサイドの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。「最近、トラヴィス様を想って眠れなかったから、余計に寝てしまったのね。 でも、眠りが深いのは変わらずなの。 それに良く寝たから、元気が出て来たわ。 ここがお兄様の言っていた湖の見える別邸なのね。 とても綺麗だわ。」「そうだよ。 この別邸を初めて見た時から、アレシアをずっとここに連れて来たかったんだ。」「嬉しいわ。 ありがとう。」「ここで二人で暮らそう。」「よろしくお願いします。 あれ? このベッドの頭の所に掛かっている大きな絵は私?」 ベッドの頭側の壁に、両手を広げるほどの絵画が飾られていて、そこには椅子に座り微笑んでいる私が、描かれている。 おそらく、私の結婚前の頃の絵ね。 どうしてここにあるのかしら。「そうだよ。 綺麗だろ?」「こんな絵をいつ書いてもらったのかしら? 全然覚えていないわ。」「邸にいた者で絵の才能があるやつがいたんだ。 その者に書かせたよ。 それよりお腹が空いただろう? 食事にしよう。」「はい。」 二人は湖の見える庭で、朝食を食べる。 テーブルには、パン、スープ、果実水が並ぶが、どこか違和感がある。 何だろう?「美味しいかい?」「ええ、自然の中だと食欲が湧くわ。 最近、食事が喉を通らなかったから。」「だったら、もう少し運んで来ようか?」「いいえ、これだけで十分よ。 近くで湖を見てもいいかしら?」「もちろんだよ。 一緒に行こう。」 二人は並んで静かな湖の景色を眺めている。「とっても綺麗、水が透き通っているのね。」「そうだ。 湖はとても深いことを知っているかい?」「そうなの? 知らなかったわ。」「湖はね、深いし、広いから泳いで渡ることは不可能なんだ。」「ふふ、向こうの岸さえ微かに見える程度なのよ。 ここを泳ごうとする人なんていないわ。」「そうだね。」 邸に戻ると、寝室のベッドは乱れたままだった。「あ
もうどれくらいの間、トラヴィス様のお顔を見ていないかしら。 アレシアは、昼間はモナンジュで仕事に集中し気を紛らわせていたが、夜一人になると静まりかえる寝室で、ただトラヴィス様の帰りを待つ日々が続いている。 もしかしたら、今日こそ彼が寝室を訪れ、もう一度やり直す機会を与えてくれるかもしれないと淡い期待を捨てきれずにいた。 私が元々美人で、肌の美しさにこだわったりしなければ、トラヴィス様は私を嫌わずにいてくれたのかしら? それとも、二人の間に秘密を持たずに、お薬のことを打ち明けていれば、許してくれたのかもしれない。 反対に、もっと早くトラヴィス様が、「薬を飲む私が嫌だ。」と言ってくれたなら、どれほど肌が荒れようとやめたのに。 いいえ、違うわ。 私は嫌だと言われるのがわかっていたから、内緒で続けていたんだわ。 だから、どこまでも私が悪い。 結果的に私は、彼の思いを裏切ってしまい、今となってはもう手遅れね。 きっと彼は二度と私に微笑んでくれることはないだろう。 昨日、お兄様にお手紙を書いた。 もう、トラヴィス様を諦める潮時なのだろうと思ったから。 彼には、私を避けるのではなく、もっと身体を休めるために寝室を使ってほしい。 私達がこうなる前のトラヴィス様は、以前より元気そうで溌剌としていた。 きっと彼は、私を避けないで生活すれば、いくら忙しいとはいえ、もう少し健やかに暮らせるのだろう。 私がここに居座ると、トラヴィス様の穏やかな生活の妨げになってしまう。 それも、避けたかった。 でも、一番は私に再び心を向けてくれたトラヴィス様が、また背を向けてしまったことに、もう耐えられなくなったからだと思う。 結婚三年目のお祝いの時も苦しかったけれど、今の苦しみは重くて、深い。 彼の口から、私を拒絶する言葉を聞いてしまったのだから。 あれから何度も思い返し、そのたびに悲しみに沈む。 まるで身体から全ての血が失われたように、抜け殻で、考えることも、感じることも息を奪う。 なんとか浅く息を繰り返すだけで、精一杯だった。-------------------------------------------------------------------------------------「やあ、アレシア、随分と塞いでいるじゃないか?」「お兄