LOGIN「お兄様、いらしてくれたんですね、ありがとうございます。」
「やあ、その言い方は相変わらず堅いな、ホリックって呼んでくれよ。」
昨夜、お兄様から先触れが届き、今日来られるとのことで、モナンジュに行かずに、アレシアは邸で待っていた。
応接室に入ると、ソファに座っていたお兄様はすぐに立ち上がり、私をしっかりと抱きしめてくれた。
黒い瞳のお兄様は、背が高く、神秘的な男性である。
そして、端正な顔立ちで、女性の目を引く。けれど、自ら進んで話しかけることもしないため、一人で過ごすことが多い。
私は、お父様が義母と再婚する際に連れ子として出会った時から、無視されても粘り強く話しかけ、少しずつ心を開いてくれ、仲の良い兄妹になっている。
子供の頃と変わらず、私を大切に思ってくれているお兄様が大好きだ。
「ふふ、挨拶ぐらいはちゃんとさせて。」
私は彼に抱かれた腕の中から顔を上げ、彼の黒い瞳を見つめて笑う。
「可愛いね、僕のお姫様。」
「もう、お兄様ったら、私はもう公爵夫人なのよ。」
「いいじゃないか、僕にとってはいつだってたった一人の宝物なんだから。」
「ありがとう、お兄様。」
幼い頃に母を亡くし、父は義母と再婚してからというもの、私に対してほとんど関心を持たなくなっしまった。
だからこそ、幼い頃からお兄様だけには変わらずに、私への興味を持ち続けて欲しいと思っている。
そんな私の気持ちに気づいているお兄様はいつも甘やかし、何かあれば誰よりも私を心配して、守ってくれる。
成人して、結婚もして、公爵夫人という立場になっても、その優しさは変わらない。
そして今でも、実家で私を気にかけてくれているのは、お兄様だけなのである。
二人は肩を並べ、ソファに腰を下ろす。
「そうだ、今日も美しい肌を保つ薬を持って来たよ。」
侍女達がお茶の支度を終え、部屋に二人きりになると、お兄様は小さな箱をそっと差し出す。
その中には、私が結婚してから、ずっとお兄様が用意してくれている美肌を保つお薬が入っている。
「いつもありがとう、でも、この前、邸を出た時には泊まりになるとは思ってなくて、お薬を持って行かなかったの。
だから、しばらく飲めない時期があって、前の分がまだ少し残っているわ。」
「何だって?
あれほど毎日欠かさず飲むように言ったじゃないか。 その後、体調は? 何か変わったことはなかった?」お兄様は珍しく眉をひそめ、少し責めるような眼差しで私を見つめる。
「ごめんなさい。
何もないわ。 それに、その間は邸を出ていたから、それほど美しい肌でなくてもいいかなと思ってしまって。だってその間、トラヴィス様に会わないから。
あっ、でもね、その後夜会があって、薬を飲まない状態で彼に会ってしまったわ。 だから少し後悔してるの。お兄様の言う通り、何が起こるかわからないから、毎日続けないとダメね。
その頃は、トラヴィス様ともう離縁すると思っていたから、お薬のことまで気が回らなかったの。それに、思い出したとしても、使いの者に邸から持って来てもらうわけにいかないでしょ?
男の人に話せないお薬だから。」「そうだよ。
そんな薬を飲んでいると知ったら、男は幻滅するからね。」「わかっているわ。
トラヴィス様に嫌われたくないもの。」「でも、離縁の覚悟ができたら、連絡をくれる約束だっただろう?
どうして黙って邸を出て行ったんだ?」「離縁の決意をした時に、たまたま侍女の友人の店に行く話になって、その時もうトラヴィス様のことを終わりにしようと思って、一緒に出かけたの。
そしたら話が長引いて夜遅くなったから、そのまま泊まったのよ。
その後に夜会があって、トラヴィス様に再会したの。
そしたら、彼に別れないって言われたわ。 だから、離縁はしないことになったの。 お兄様、心配しないで大丈夫よ。」「僕が知らない間に、そんなことになっていたんだな。
何をするにしても、僕に先に言わないとダメじゃないか。」「ごめんなさい。
トラヴィス様と話し合って、離縁が決まったら、連絡しようと思っていたの。」私はお兄様の表情が和らぐように、なんとか分かってもらおうと、少しずつ説明を重ねた。
「わかったよ。
でも、今度からは必ず離縁が決まる前に話してほしい。 そしたら、僕がオフリー公爵と話をつけることもできるから。 それで、今はちゃんと薬を飲んでいるんだね?」「ええ、もちろんよ。
トラヴィス様が、話し合った後から毎日早く帰ってくれるようになって、今では夕食を一緒に食べる日が増えているの。だから、綺麗な肌でいたいと思って、欠かさず飲んでいるわ。」
「そうか。
それなら安心だ。」「お兄様、いつも私を気にかけてくれてありがとう。
でも、離縁しそうにないから、お兄様のいう美しい湖が見える別邸に行くことは無さそうなの。今は割と自由に動けているし、少しだけでも遊びに行けたらと思うんだけど、ダメかしら?」
「前にも言ったけれど、あそこはアレシアがすべてを終わらせて、新しい一歩を踏み出すと決めた時に、連れて行く場所なんだ。
だから、今のままじゃ連れて行けないよ。」「もう、お兄様ったら、だったら私、一生その美しい湖を見に行けないわ。」
「そんなことはないさ。
子供が授からないままでいれば、いずれオフリー公爵のほうから離縁の話を切り出してくるだろう。それより前に、僕のところに来てもいいんだよ。
わざわざ決定的な傷を受けなくても。 後のことは、全部僕が引き受けるよ。」お兄様は、私の髪を撫でながら、穏やかに微笑む。
最近になって、トラヴィス様が少しだけ私を気にかけてくれるようになった気がするけれど、私達夫婦の間に子供がいない現実は変わらない。
だからきっと、最後にはトラヴィス様のほうから離縁を申し出られるか、公に妾を迎えることになるのだろう。
でも、それまでの間だけでも、トラヴィス様のそばにいたい気持ちと、はっきりと別れを突きつけられて、心に大きな傷を負う日を待つのもどちらも耐えがたい。
それでも私は、トラヴィス様が好きで、彼が求めてくれる限り、私は彼から離れられないでいる。
「お兄様、何度も話しているとおり、私はトラヴィス様が好きなの。
だから、彼から離縁を突きつけられない限り、彼のそばにいたいわ。」「全く、どうしようもない子だね。
僕がこんなにアレシアを大切にしてあげるって言っているのに。」お兄様は私の頭を撫でながら、優しい瞳で私を見つめる。
「お兄様、ありがとう。
私きっと、トラヴィス様に捨てられても、最後にはお兄様のところに行けると思えるから、心のままに生きていられるのだと思うの。」お兄様は昔から、まるで私がずっと小さな少女であるかのように優しく、私を見守ってくれる。
それは、大人になった今でも変わらない。
こんな兄妹は珍しいと思うけれど、私にとっては心を曝け出せるたった一人の家族である。義姉のキャメロン様は、気さくな口調で親しく接してくれるけれど、トラヴィス様がいてこそのキャメロン様だから、義妹として嫌われることなく良い関係を続けていきたい。
だからこそ、どれほど親しくしてくれていても、お兄様に見せるような甘え方はできない。
それに、トラヴィス様と別れた後は、疎遠になってしまうことが分かりきっている。
そう思えば、どんな私でも変わらずに受け入れてくれるお兄様への信頼は、私にとって唯一だと思うのだ。
今日もアレシアは静かに湖を眺めていた。 水面に降り注ぐ陽の光が反射して、とても綺麗ね。 空も澄み渡って、どこまでも青い。 すべてを失っても、陽の光と青い空、この湖の美しさ、澄んだ空気は変わらないわ。 お兄様が選んだこの場所が、閉ざされた地下ような狭く息苦しい所でないだけ救いかもしれない。 その時、ふと湖に目をやると、湖に浮かぶ小さな船が何隻も見えた。 ここに来てから、船なんて一度も見たことが無かったわ。 その船達はどんどん島に近づいて来るように見える。 もしかしたら、私を助けてくれる船かもしれない。 けれど、同じぐらいの確率で悪意のある人達が襲おうとしているのかも。 怖いわ。 でも、どこにも逃げ場なんて、この島にはないのだ。 考えただけで、体が震えるほどの恐怖に襲われる。 とりあえず、…お兄様。 必死に別邸の中を走り回って探しても、どこにも姿が見えない。 こんな時にお兄様は、一体どこに行ってしまったの? 自分から彼を探すことがないから、どこをどう探せばいいのかすらわからない。 焦りだけが募る中、湖岸に船が着き、剣を手にした男達が、まっすぐ邸へ向かって駆けてくるのが見えた。 不安と焦燥が胸をかき乱す。 玄関の方から、誰かが扉を叩くような音が響いた。 続けざまに、強く、激しく。 ドンドン、ドンドンドン。 私は思わず息を呑み、急いで寝室に入り、ベッドの横に身を潜める。 息を殺して、なるべく小さくなるようにしゃがんだ。 でも、寝室に人が入って来たら、すぐに見つかってしまうだろう。 これではとても隠れたうちに入らない。 バキ、バキバキッ。 ドアが破られる音が聞こえる。 もし、見つかってしまったら、今日が人生最後の日になるかもしれない。 そう思って、寝室で小さくなり震えていると、走る足音がいくつも響き、その一つが近づき、後ろから優しい声が聞こえる。「アレシア、ここにいたんだね。 もう大丈夫だよ。 一緒に帰ろう。」「トラヴィス様なの?」 久しぶりに聞くトラヴィス様の声に、咄嗟に上を向くと、彼が微笑んで、私を見つめている。「そうだよ。 君の夫のトラヴィスだ。 無事で良かった…本当に。 一緒に帰ろう。」「私、お邸に戻ってもいいの?」「もちろん、そのために迎えに来たんだから。」 私は躊躇いがちにトラヴ
アレシアは今日も変わらず、湖のほとりをどうすることもできずに歩いていた。 泳いで渡るには大き過ぎるし、いかだを作ったこともなければ、そのための技術もない。 それなら、小さな空き瓶にお手紙を入れて流してみるのはどうかしら? いつか誰かがそれに気づいて、手紙を読んで、この湖を渡って助けに来てくれるかもしれない…。 わかっている。 その可能性はほぼないに等しい。 けれど、このまま何もしないよりは、できる事を試してみよう。 そうして、お手紙をしたためる。 「私がこの島に閉じ込められていること。」 「オフリー公爵へこのお手紙を渡してほしいこと。 私は彼を心から想っていて、きっと彼はこの手紙を読んだら、届けてくれたあなたを邪険にすることはないこと。」 トラヴィス様は、私のことを過去だと思っても、私の救出のために動いてくれる。 そんな優しさは、短い結婚生活で感じていた。 だから、嫌われているとわかっていても最後に頼りたいのは、やはりトラヴィス様だったし、想い浮かべるのもやはり彼だった。 離縁したいと一方的に姿を消すことで、彼の人生に傷をつけ、失望させたのもわかっている。 それでも、変わらず彼のことが好きだった。 「もし、彼が無理ならばせめて、モナンジュにお願いしたいこと。」 「願いが叶ったならば、報酬もお渡ししたいこと。」 それらを丁寧にしたため、署名した。 そのお手紙の入った瓶を十ほど流してみたけれど、時間をかけてそのほとんどが波に押し戻され、再び湖畔に戻って来てしまった。 私は落胆しながら、再びその瓶を湖に流し、穏やかな湖を見つめる。 お兄様の計画は完璧で、どんなに私が足掻こうとしても、湖を渡る方法は見つかりそうにない。 そんな私とは対照的に、彼はいつもと変わりなく、湖へ行くという私を優しく送り出し、成果がなく、夕方になりしょんぼりと帰る私に、食事を作ってくれている。 一見すれば、穏やかな兄妹の生活だけど、私はお兄様の内に潜む狂気が怖い。 今だトラヴィス様から、離縁状のサインがもらえず、私達はかろうじて兄妹のままだ。 でも、もしトラヴィス様がサインをしてしまったら、きっとお兄様は私と無理矢理結婚するだろう。 その時、ここに囚われたままの私に逃げ場などないし、助けを求めれる相手すら誰もいない。 けれど私は、どんな理由があ
「夜遅くにすまない。 入れてもらえないだろうか?」 トラヴィス達がモナンジュを訪れると、困惑した顔のレオニーと言う店の女性と、あまり会いたくないと思っていたカーライルが、僕らを迎え入れた。「オフリー公爵様、お久しぶりです。 どうかなさいましたか?」「こちらにアレシアが来ているかい?」「いえ、オフリー公爵様と離縁することになったと言って、一度顔を出したきりです。」「やはり、こちらにもいないか。」「公爵様、アレシア様は落ち着いたら、また来ると言っていました。 でも、こんなに長く来ないなんて、何かあったのではないかと心配しているところでした。 ところで、そちらの方は?」 「こちらは私の友人のリベロと言う男です。 彼はアレシアの兄が気にかかると、一緒に来てくれたのです。」 リベルト王子は軽く会釈するが、カツラを被っているため、レオニー達は彼が王子だと気づかない。 彼は時々、こうして王都の街を自由に歩き回っている。 その時、ずっと黙っていたカーライルが重い口を開ける。「オフリー公爵様、僕のことを快く思っておられないのは承知しておりますが、お話してもよろしいでしょうか?」「ああ。」「では奥にいらしてください。」 アレシアがカーライルのところにいないのなら、彼よりホリック卿が中心となっている可能性が高い。 だが、それは彼とじっくり話をしてみないとわからない。 本来であれば、彼に助けを求めるなど絶対にしたくなかったが、今はそうも言っていられない。 彼女を取り戻すためには、どんな手段も惜しまない。 その中には嫌いなこの男と協力することも含まれている。 屈辱ではあるが、その覚悟はすでにできていた。 僕達四人は店を閉めて、奥の部屋で腰を据えて話をすることにした。「アレシア様が最後にここに来た時、とても沈んだ様子でした。 オフリー公爵様に、肌を美しくする薬を飲んでいたことを咎められたと。 そして、嫌われたまま邸にいるのはつらいから、もう離縁するつもりだと。 けれど、その時ふと思ったのです。 肌が綺麗になる程度の薬を飲むだけで、両家やその親族、さらには貴族社会全体の力関係にすら影響を与えるような結婚を、それだけで蔑ろにする男などいない。 きっと根本的な何か、別の重要な理由があるはずに違いないと思いました。 だから僕は、このまま
「まだいたのか? 浮かない顔をしているな。 夫人と何かあったのか?」 トラヴィスが王宮で急ぎもしない執務を片付けていると、リベルト王子が現れて、早速触れてほしくない話題を口にする。「リベルト様、お耳汚しになりますので気になさらず。」「そんなことを言っても、私にも関わることだから、ちゃんと話してもらうぞ。」 観念した僕は、リベルト王子に従い、彼の私室で、強めの酒を酌み交わしながら口を開く。「ここに僕を連れて来た時は、どんな尋問よりも隠しごとを許さないですよね?」 ここは完全な私室で、近衛兵が入り口を警備し、限られた者しか近づくことさえできない。 だから、ごく個人的な話でも人に聞かれることなく話せるのだ。「で、何があったんだ?」「妻が再び出て行きました。 僕はアレシアには好きに生きていいなんて言いながら、実は隠しごとをせず、僕に本当の気持ちを話して欲しかったんです。 そして、彼女は今でも心を開くつもりがないと知った時、気持ちを抑えきれず、ついに彼女を突き放してしまいました。 それからは、彼女と向き合うことができず、顔を見るのを避けていたんです。 それでも朝方になると彼女のいるベッドに入り、彼女を抱きしめてわずかに眠りつく、そんな日々を送っていました。 けれども、彼女は僕を許せなかったのでしょう。 ついに使用人達の静止を振り切って、邸を出て行ったそうです。」「でも、いつものモナンジュというドレス工房にいるんじゃないのか?」「おそらく、そちらにはいないでしょう。 今回はアレシアの兄のホリック卿と出て行ったと、邸の者が話していたので。 それに、アレシアからの代理で、そのホリック卿から離縁状が送られてきております。 つまり、アレシアは本気で僕と別れたいと思ったのでしょう。 今はもう後悔しかありません。 どうして僕はあの時、子供は諦めるから、そばにいてほしいと言わなかったのかと。」「その話は、初めて聞いたよ。 夫人は子供が欲しくなかったのかい?」「はい、アレシアは僕が気づいていないと思って、最初から避妊薬を飲んでいました。 結婚したばかりの頃はまだ、彼女の妊娠したくないと言う気持ちを尊重して、深く詮索するつもりはありませんでした。 けれども、一年が経っても全くやめようとしないその姿に絶望したのです。 アレシアは、一生僕
目が覚めるとアレシアは、湖を見渡せる別邸のベッドに横たわっていた。 白く可愛らしい寝室には、自分が寝ている大きなベッドがあり、目の前には陽の光に照らされてキラキラ輝く湖が広がっている。「やあ、目覚めたかい? 僕の眠り姫。 何をしても起きないから、驚いたよ。 眠りが深いのは、相変わらずなんだね。」 お兄様がベッドサイドの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。「最近、トラヴィス様を想って眠れなかったから、余計に寝てしまったのね。 でも、眠りが深いのは変わらずなの。 それに良く寝たから、元気が出て来たわ。 ここがお兄様の言っていた湖の見える別邸なのね。 とても綺麗だわ。」「そうだよ。 この別邸を初めて見た時から、アレシアをずっとここに連れて来たかったんだ。」「嬉しいわ。 ありがとう。」「ここで二人で暮らそう。」「よろしくお願いします。 あれ? このベッドの頭の所に掛かっている大きな絵は私?」 ベッドの頭側の壁に、両手を広げるほどの絵画が飾られていて、そこには椅子に座り微笑んでいる私が、描かれている。 おそらく、私の結婚前の頃の絵ね。 どうしてここにあるのかしら。「そうだよ。 綺麗だろ?」「こんな絵をいつ書いてもらったのかしら? 全然覚えていないわ。」「邸にいた者で絵の才能があるやつがいたんだ。 その者に書かせたよ。 それよりお腹が空いただろう? 食事にしよう。」「はい。」 二人は湖の見える庭で、朝食を食べる。 テーブルには、パン、スープ、果実水が並ぶが、どこか違和感がある。 何だろう?「美味しいかい?」「ええ、自然の中だと食欲が湧くわ。 最近、食事が喉を通らなかったから。」「だったら、もう少し運んで来ようか?」「いいえ、これだけで十分よ。 近くで湖を見てもいいかしら?」「もちろんだよ。 一緒に行こう。」 二人は並んで静かな湖の景色を眺めている。「とっても綺麗、水が透き通っているのね。」「そうだ。 湖はとても深いことを知っているかい?」「そうなの? 知らなかったわ。」「湖はね、深いし、広いから泳いで渡ることは不可能なんだ。」「ふふ、向こうの岸さえ微かに見える程度なのよ。 ここを泳ごうとする人なんていないわ。」「そうだね。」 邸に戻ると、寝室のベッドは乱れたままだった。「あ
もうどれくらいの間、トラヴィス様のお顔を見ていないかしら。 アレシアは、昼間はモナンジュで仕事に集中し気を紛らわせていたが、夜一人になると静まりかえる寝室で、ただトラヴィス様の帰りを待つ日々が続いている。 もしかしたら、今日こそ彼が寝室を訪れ、もう一度やり直す機会を与えてくれるかもしれないと淡い期待を捨てきれずにいた。 私が元々美人で、肌の美しさにこだわったりしなければ、トラヴィス様は私を嫌わずにいてくれたのかしら? それとも、二人の間に秘密を持たずに、お薬のことを打ち明けていれば、許してくれたのかもしれない。 反対に、もっと早くトラヴィス様が、「薬を飲む私が嫌だ。」と言ってくれたなら、どれほど肌が荒れようとやめたのに。 いいえ、違うわ。 私は嫌だと言われるのがわかっていたから、内緒で続けていたんだわ。 だから、どこまでも私が悪い。 結果的に私は、彼の思いを裏切ってしまい、今となってはもう手遅れね。 きっと彼は二度と私に微笑んでくれることはないだろう。 昨日、お兄様にお手紙を書いた。 もう、トラヴィス様を諦める潮時なのだろうと思ったから。 彼には、私を避けるのではなく、もっと身体を休めるために寝室を使ってほしい。 私達がこうなる前のトラヴィス様は、以前より元気そうで溌剌としていた。 きっと彼は、私を避けないで生活すれば、いくら忙しいとはいえ、もう少し健やかに暮らせるのだろう。 私がここに居座ると、トラヴィス様の穏やかな生活の妨げになってしまう。 それも、避けたかった。 でも、一番は私に再び心を向けてくれたトラヴィス様が、また背を向けてしまったことに、もう耐えられなくなったからだと思う。 結婚三年目のお祝いの時も苦しかったけれど、今の苦しみは重くて、深い。 彼の口から、私を拒絶する言葉を聞いてしまったのだから。 あれから何度も思い返し、そのたびに悲しみに沈む。 まるで身体から全ての血が失われたように、抜け殻で、考えることも、感じることも息を奪う。 なんとか浅く息を繰り返すだけで、精一杯だった。-------------------------------------------------------------------------------------「やあ、アレシア、随分と塞いでいるじゃないか?」「お兄