翌日、モナンジュに戻った私は、エイダと共に、そおっと二回の休憩室に向かい、レオニーに会った。
それと言うのも、店には多くのドレスを求める女性達がいて、賑わっていたからである。
「アレシア様、朝からひっきりなしに、ドレスの注文をいただいております。
次々と貴族の方達がいらして、大忙しです。
それもこれもアレシア様のおかげです。」「そう?
それなら良かったわ。」レースを多くあしらうことで露出を控えたい方は割とたくさんいる。
そう思って、新しいドレスを作った。露出を抑える分、女らしい曲線を丁寧に引き立てることに重点を置いている。
想像以上に、そうした控えめなスタイルを求める女性が多いということだ。
そして、あえて地味な色味のドレスを選ぶお客様には、はっきりとそちらは縁を切りたい、距離を置きたい時に選ぶドレスだと伝えることで、このドレスを選んだらどうなるかを本人達に認識してもらうことが狙いだ。
自らくすんだドレスを選び、それを着て男性に好かれず、関係がうまくいかなかったのは、あくまで自分の責任だと。
それを意識してもらうために、あえて名前をつけて、明確に方向性を分けることにしたのだ。
もちろん、そういった控えめな女性を好む男性もいるだろうし、くすんだドレスを着た雰囲気に惹かれて選ばれる場合もあるだろう。
けれどそれは、あくまで少数派であるというだけで、そのドレスを着たい人や気分を否定するつもりはない。
ただ、出会いの場において、好まれにくい現実を伝えることも、大切だと思うのだ。
「ところで昨日は、邸の方に泊まられたんですね?」
「ええ、トラヴィス様にこちらに泊まることを反対されたわ。
どうしても、私がここに住みたいのなら、自分も一緒に住むと言い出したの。」「えっ、それはさすがに勘弁してください。
そんなことになったら、緊張して私達の身がもちません。」「大丈夫よ。
夜は邸に戻るということで、話はまとまったから。 さすがにこの大きさのお部屋でトラヴィス様と暮らすのは、無理があるわ。」「それならいいのですが、アレシア様が思っている以上に、オフリー公爵に愛されているのですね。」
「これは愛されていると思っていいのかしら?」
「もちろんです。
だって、アレシア様はご自分の意志で邸を飛び出して来たんですよ。普通なら怒って、離縁になってもおかしくありませんし、酷い男性だと、手を上げたり、出て行かないように邸に閉じ込める方もいます。
アレシア様は、今日もこうして何事もなく、ここに来れています。
しかも、久しぶりに戻ったのに邸の雑事に追われるでもなく。」「そう言わてみれば、確かにそうね。
トラヴィス様に会った時、最初は硬い表情をしていたけれど、怒鳴ったり、声を荒げることは一切なかったわ。元々、邸の雑事は彼やヨルダンがすべて取り仕切っていて、私には何もさせてくれなかったのよ。
一度、手伝いたいと申し出た時もあったけれど、君はしなくていいと言われたわ。
それに、リベルト王子にも私が家を出たことを話していて、これからは早く邸に戻るようにするって言ってくれたの。」
「えっ、リベルト王子に?
おおごとじゃないですか?」「私もそれには驚いたわ。
トラヴィス様が早く帰ることは、リベルト王子にも関わることで、私のために彼が仕事を減らすとは思わなかったわ。私が何をしてもトラヴィス様は気にしないと思っていたのに。
どうやら違ったみたいね。」「何を呑気なことを言っているんですか。
リベルト王子に不敬だとみなされるかもしれないのに、早く帰ると宣言しただなんて、いくら王子と従兄弟同士だとしても、許されるとは限りません。
場合によっては家の存続に関わる問題になるかもしれなかったんですよ?」
エイダが珍しく、私に強い口調で意見する。
彼女は侍女として、オフリー邸の者達との繋がりも深い。トラヴィス様が王家に刃向かっていると見なされたら、オフリー公爵家の立場が危うくなり、そこで働く使用人達も安泰ではいられない。
「そうね。
みんなに迷惑をかけるつもりは全くなかったの。 ごめんなさい。」たとえお飾りの妻でも、私の行動が周囲に影響を及ぼしてしまう。
私自身はただ、現状がつらくて、少し逃げ出しただけなのに。もちろん、その先に離縁があることも覚悟していた。
「まぁ、いいじゃないですか?
アレシア様が離縁されるより、公爵夫人でいてくれた方が、貴族達にドレスをアピールできますし、売り上げも伸びる。
結果的にいいことづくめなんですから。」「まあ、そうね。」
レオニーは商売から離れたいと言っていたけれど、考え方はやっぱり根っからの商人だ。
私がただの民でいるより、公爵夫人として存在する方が、モナンジュのためになるし、資金が枯渇することもない。
「とにかく、今は新しいドレスの注文で手がいっぱいなんです。
話している暇があったら、動きましょう。」「ええ、そうね。」
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「トラヴィス、順調そうだな?」王宮の執務棟で僕を見つけたリベルト王子がすぐに近づいてくる。
「おはようございます、リベルト様。」
僕は少しでも早く邸に戻るために、手当たり次第書類を処理しているところだった。
「これを一人でやったのか?
そんなに仕事が早いと、ますます周りの者が追いつけなくなるぞ。」「リベルト様がいらっしゃる前にできるだけ片付けておこうと思いまして。」
「夫人とのことがうまくいっているなら、早く帰る必要ないだろ?」
「いいえ、僕が邸にいないと、妻は邸に戻る必要がないと考えているようで。」
「えっ?
自分の家に帰るのは、当たり前じゃないか。 それに公爵夫人としての務めだってあるはずだ。」「その役目は、以前から僕と執事で分担しておりまして、今もそのままです。」
「では、少しは夫人に任せたらどうなんだ?」
「彼女にオフリー邸の雑務を押し付けるのは、気がひけて。
できれば、彼女にはゆったりと暮らしてほしいと思っていたのです。」「そうだったな。
トラヴィスは早くに両親を亡くして、若い頃から君一人で公爵家を背負って来たんだよな。」「はい、姉には子供らしく自由に暮らしてもらいたかったので、僕と執事ですべてこなしてきました。
今は妻にも、雑事に追われる日々を送らせたくないと思ったもので。
僕なら一日で済む仕事でも、他の者がやると三日はかかるのがわかっていますし、それに僕には、引き継ぐために教える時間すらなかったですから。」
「そのことを、夫人に話したのか?」
「いえ、僕がやった方が効率的だと伝えるのも気が引けて。
この王宮でも、僕が早く仕事を片付けることを面白く思わなかった大臣達に、よく思われていないのは承知しておりました。
彼女も僕と比べて速さの違いに気づいたら、気を落とすでしょうから。
彼女にはそんな思いをさせたくなくて。」「だとしても、急ぎのものでなければ、夫人のペースでやらせればいいんだよ。
彼女なりに公爵夫人としての責任感が生まれるだろうし、少なくとも自分が不要だなんて思わなくなるさ。」
「そうかもしれませんね。」
「だから、夫人にオフリー家のことは任せて、トラヴィスは王宮にいてくれよ。」
「リベルト様、それはできません。
僕は以前のように王宮に詰めすぎるつもりはないんです。昨日ようやく、妻が僕を受け入れてくれたと感じました。
結婚してから、初めてですよ。だから、もっと彼女と過ごしたい。
リベルト様もそれに慣れてほしいと思っています。」「トラヴィスがいた方が何かと事が円滑に進むんだけどね。
いっそのこと夫人と離縁したらどうだ?どうせ自分から出て行くような人だろ。
いなくなったって構わないだろ?」「このまま無理を続けていけば、いずれ僕が先に倒れて、リベルト様をお助けできなくなると思いますが?」
「それは一番困る。
トラヴィスは、私にならあっさりと説得するよな。だから、本当は夫人を邸に縛りつけるぐらい本当は容易いんだろ?
何故しないんだ?」「彼女には自分の意志で僕を受け入れて欲しかったから、無理強いをしたくなかったんです。
たとえ、僕を受け入れてくれなくても、そばにいて彼女らしく生きてくれたらそれでいいと思っていました。
僕から離れない限り、何でも許してしまう。
それに、元々は僕と正反対で、いつも楽しそうにしている彼女を好きになったものですから。」「へぇ、トラヴィスも惚気るんだな。」
「彼女が邸に戻ったので、浮かれているんです。」
リベルト王子はこれだけ話しているのにも関わらず、一向に書類を片付けるスピードが衰えないトラヴィスが、浮かれているとは誰も思わないと内心思ったが、あえて言わなかった。
今日もアレシアは静かに湖を眺めていた。 水面に降り注ぐ陽の光が反射して、とても綺麗ね。 空も澄み渡って、どこまでも青い。 すべてを失っても、陽の光と青い空、この湖の美しさ、澄んだ空気は変わらないわ。 お兄様が選んだこの場所が、閉ざされた地下ような狭く息苦しい所でないだけ救いかもしれない。 その時、ふと湖に目をやると、湖に浮かぶ小さな船が何隻も見えた。 ここに来てから、船なんて一度も見たことが無かったわ。 その船達はどんどん島に近づいて来るように見える。 もしかしたら、私を助けてくれる船かもしれない。 けれど、同じぐらいの確率で悪意のある人達が襲おうとしているのかも。 怖いわ。 でも、どこにも逃げ場なんて、この島にはないのだ。 考えただけで、体が震えるほどの恐怖に襲われる。 とりあえず、…お兄様。 必死に別邸の中を走り回って探しても、どこにも姿が見えない。 こんな時にお兄様は、一体どこに行ってしまったの? 自分から彼を探すことがないから、どこをどう探せばいいのかすらわからない。 焦りだけが募る中、湖岸に船が着き、剣を手にした男達が、まっすぐ邸へ向かって駆けてくるのが見えた。 不安と焦燥が胸をかき乱す。 玄関の方から、誰かが扉を叩くような音が響いた。 続けざまに、強く、激しく。 ドンドン、ドンドンドン。 私は思わず息を呑み、急いで寝室に入り、ベッドの横に身を潜める。 息を殺して、なるべく小さくなるようにしゃがんだ。 でも、寝室に人が入って来たら、すぐに見つかってしまうだろう。 これではとても隠れたうちに入らない。 バキ、バキバキッ。 ドアが破られる音が聞こえる。 もし、見つかってしまったら、今日が人生最後の日になるかもしれない。 そう思って、寝室で小さくなり震えていると、走る足音がいくつも響き、その一つが近づき、後ろから優しい声が聞こえる。「アレシア、ここにいたんだね。 もう大丈夫だよ。 一緒に帰ろう。」「トラヴィス様なの?」 久しぶりに聞くトラヴィス様の声に、咄嗟に上を向くと、彼が微笑んで、私を見つめている。「そうだよ。 君の夫のトラヴィスだ。 無事で良かった…本当に。 一緒に帰ろう。」「私、お邸に戻ってもいいの?」「もちろん、そのために迎えに来たんだから。」 私は躊躇いがちにトラヴ
アレシアは今日も変わらず、湖のほとりをどうすることもできずに歩いていた。 泳いで渡るには大き過ぎるし、いかだを作ったこともなければ、そのための技術もない。 それなら、小さな空き瓶にお手紙を入れて流してみるのはどうかしら? いつか誰かがそれに気づいて、手紙を読んで、この湖を渡って助けに来てくれるかもしれない…。 わかっている。 その可能性はほぼないに等しい。 けれど、このまま何もしないよりは、できる事を試してみよう。 そうして、お手紙をしたためる。 「私がこの島に閉じ込められていること。」 「オフリー公爵へこのお手紙を渡してほしいこと。 私は彼を心から想っていて、きっと彼はこの手紙を読んだら、届けてくれたあなたを邪険にすることはないこと。」 トラヴィス様は、私のことを過去だと思っても、私の救出のために動いてくれる。 そんな優しさは、短い結婚生活で感じていた。 だから、嫌われているとわかっていても最後に頼りたいのは、やはりトラヴィス様だったし、想い浮かべるのもやはり彼だった。 離縁したいと一方的に姿を消すことで、彼の人生に傷をつけ、失望させたのもわかっている。 それでも、変わらず彼のことが好きだった。 「もし、彼が無理ならばせめて、モナンジュにお願いしたいこと。」 「願いが叶ったならば、報酬もお渡ししたいこと。」 それらを丁寧にしたため、署名した。 そのお手紙の入った瓶を十ほど流してみたけれど、時間をかけてそのほとんどが波に押し戻され、再び湖畔に戻って来てしまった。 私は落胆しながら、再びその瓶を湖に流し、穏やかな湖を見つめる。 お兄様の計画は完璧で、どんなに私が足掻こうとしても、湖を渡る方法は見つかりそうにない。 そんな私とは対照的に、彼はいつもと変わりなく、湖へ行くという私を優しく送り出し、成果がなく、夕方になりしょんぼりと帰る私に、食事を作ってくれている。 一見すれば、穏やかな兄妹の生活だけど、私はお兄様の内に潜む狂気が怖い。 今だトラヴィス様から、離縁状のサインがもらえず、私達はかろうじて兄妹のままだ。 でも、もしトラヴィス様がサインをしてしまったら、きっとお兄様は私と無理矢理結婚するだろう。 その時、ここに囚われたままの私に逃げ場などないし、助けを求めれる相手すら誰もいない。 けれど私は、どんな理由があ
「夜遅くにすまない。 入れてもらえないだろうか?」 トラヴィス達がモナンジュを訪れると、困惑した顔のレオニーと言う店の女性と、あまり会いたくないと思っていたカーライルが、僕らを迎え入れた。「オフリー公爵様、お久しぶりです。 どうかなさいましたか?」「こちらにアレシアが来ているかい?」「いえ、オフリー公爵様と離縁することになったと言って、一度顔を出したきりです。」「やはり、こちらにもいないか。」「公爵様、アレシア様は落ち着いたら、また来ると言っていました。 でも、こんなに長く来ないなんて、何かあったのではないかと心配しているところでした。 ところで、そちらの方は?」 「こちらは私の友人のリベロと言う男です。 彼はアレシアの兄が気にかかると、一緒に来てくれたのです。」 リベルト王子は軽く会釈するが、カツラを被っているため、レオニー達は彼が王子だと気づかない。 彼は時々、こうして王都の街を自由に歩き回っている。 その時、ずっと黙っていたカーライルが重い口を開ける。「オフリー公爵様、僕のことを快く思っておられないのは承知しておりますが、お話してもよろしいでしょうか?」「ああ。」「では奥にいらしてください。」 アレシアがカーライルのところにいないのなら、彼よりホリック卿が中心となっている可能性が高い。 だが、それは彼とじっくり話をしてみないとわからない。 本来であれば、彼に助けを求めるなど絶対にしたくなかったが、今はそうも言っていられない。 彼女を取り戻すためには、どんな手段も惜しまない。 その中には嫌いなこの男と協力することも含まれている。 屈辱ではあるが、その覚悟はすでにできていた。 僕達四人は店を閉めて、奥の部屋で腰を据えて話をすることにした。「アレシア様が最後にここに来た時、とても沈んだ様子でした。 オフリー公爵様に、肌を美しくする薬を飲んでいたことを咎められたと。 そして、嫌われたまま邸にいるのはつらいから、もう離縁するつもりだと。 けれど、その時ふと思ったのです。 肌が綺麗になる程度の薬を飲むだけで、両家やその親族、さらには貴族社会全体の力関係にすら影響を与えるような結婚を、それだけで蔑ろにする男などいない。 きっと根本的な何か、別の重要な理由があるはずに違いないと思いました。 だから僕は、このまま
「まだいたのか? 浮かない顔をしているな。 夫人と何かあったのか?」 トラヴィスが王宮で急ぎもしない執務を片付けていると、リベルト王子が現れて、早速触れてほしくない話題を口にする。「リベルト様、お耳汚しになりますので気になさらず。」「そんなことを言っても、私にも関わることだから、ちゃんと話してもらうぞ。」 観念した僕は、リベルト王子に従い、彼の私室で、強めの酒を酌み交わしながら口を開く。「ここに僕を連れて来た時は、どんな尋問よりも隠しごとを許さないですよね?」 ここは完全な私室で、近衛兵が入り口を警備し、限られた者しか近づくことさえできない。 だから、ごく個人的な話でも人に聞かれることなく話せるのだ。「で、何があったんだ?」「妻が再び出て行きました。 僕はアレシアには好きに生きていいなんて言いながら、実は隠しごとをせず、僕に本当の気持ちを話して欲しかったんです。 そして、彼女は今でも心を開くつもりがないと知った時、気持ちを抑えきれず、ついに彼女を突き放してしまいました。 それからは、彼女と向き合うことができず、顔を見るのを避けていたんです。 それでも朝方になると彼女のいるベッドに入り、彼女を抱きしめてわずかに眠りつく、そんな日々を送っていました。 けれども、彼女は僕を許せなかったのでしょう。 ついに使用人達の静止を振り切って、邸を出て行ったそうです。」「でも、いつものモナンジュというドレス工房にいるんじゃないのか?」「おそらく、そちらにはいないでしょう。 今回はアレシアの兄のホリック卿と出て行ったと、邸の者が話していたので。 それに、アレシアからの代理で、そのホリック卿から離縁状が送られてきております。 つまり、アレシアは本気で僕と別れたいと思ったのでしょう。 今はもう後悔しかありません。 どうして僕はあの時、子供は諦めるから、そばにいてほしいと言わなかったのかと。」「その話は、初めて聞いたよ。 夫人は子供が欲しくなかったのかい?」「はい、アレシアは僕が気づいていないと思って、最初から避妊薬を飲んでいました。 結婚したばかりの頃はまだ、彼女の妊娠したくないと言う気持ちを尊重して、深く詮索するつもりはありませんでした。 けれども、一年が経っても全くやめようとしないその姿に絶望したのです。 アレシアは、一生僕
目が覚めるとアレシアは、湖を見渡せる別邸のベッドに横たわっていた。 白く可愛らしい寝室には、自分が寝ている大きなベッドがあり、目の前には陽の光に照らされてキラキラ輝く湖が広がっている。「やあ、目覚めたかい? 僕の眠り姫。 何をしても起きないから、驚いたよ。 眠りが深いのは、相変わらずなんだね。」 お兄様がベッドサイドの椅子に腰掛けて、微笑んでいる。「最近、トラヴィス様を想って眠れなかったから、余計に寝てしまったのね。 でも、眠りが深いのは変わらずなの。 それに良く寝たから、元気が出て来たわ。 ここがお兄様の言っていた湖の見える別邸なのね。 とても綺麗だわ。」「そうだよ。 この別邸を初めて見た時から、アレシアをずっとここに連れて来たかったんだ。」「嬉しいわ。 ありがとう。」「ここで二人で暮らそう。」「よろしくお願いします。 あれ? このベッドの頭の所に掛かっている大きな絵は私?」 ベッドの頭側の壁に、両手を広げるほどの絵画が飾られていて、そこには椅子に座り微笑んでいる私が、描かれている。 おそらく、私の結婚前の頃の絵ね。 どうしてここにあるのかしら。「そうだよ。 綺麗だろ?」「こんな絵をいつ書いてもらったのかしら? 全然覚えていないわ。」「邸にいた者で絵の才能があるやつがいたんだ。 その者に書かせたよ。 それよりお腹が空いただろう? 食事にしよう。」「はい。」 二人は湖の見える庭で、朝食を食べる。 テーブルには、パン、スープ、果実水が並ぶが、どこか違和感がある。 何だろう?「美味しいかい?」「ええ、自然の中だと食欲が湧くわ。 最近、食事が喉を通らなかったから。」「だったら、もう少し運んで来ようか?」「いいえ、これだけで十分よ。 近くで湖を見てもいいかしら?」「もちろんだよ。 一緒に行こう。」 二人は並んで静かな湖の景色を眺めている。「とっても綺麗、水が透き通っているのね。」「そうだ。 湖はとても深いことを知っているかい?」「そうなの? 知らなかったわ。」「湖はね、深いし、広いから泳いで渡ることは不可能なんだ。」「ふふ、向こうの岸さえ微かに見える程度なのよ。 ここを泳ごうとする人なんていないわ。」「そうだね。」 邸に戻ると、寝室のベッドは乱れたままだった。「あ
もうどれくらいの間、トラヴィス様のお顔を見ていないかしら。 アレシアは、昼間はモナンジュで仕事に集中し気を紛らわせていたが、夜一人になると静まりかえる寝室で、ただトラヴィス様の帰りを待つ日々が続いている。 もしかしたら、今日こそ彼が寝室を訪れ、もう一度やり直す機会を与えてくれるかもしれないと淡い期待を捨てきれずにいた。 私が元々美人で、肌の美しさにこだわったりしなければ、トラヴィス様は私を嫌わずにいてくれたのかしら? それとも、二人の間に秘密を持たずに、お薬のことを打ち明けていれば、許してくれたのかもしれない。 反対に、もっと早くトラヴィス様が、「薬を飲む私が嫌だ。」と言ってくれたなら、どれほど肌が荒れようとやめたのに。 いいえ、違うわ。 私は嫌だと言われるのがわかっていたから、内緒で続けていたんだわ。 だから、どこまでも私が悪い。 結果的に私は、彼の思いを裏切ってしまい、今となってはもう手遅れね。 きっと彼は二度と私に微笑んでくれることはないだろう。 昨日、お兄様にお手紙を書いた。 もう、トラヴィス様を諦める潮時なのだろうと思ったから。 彼には、私を避けるのではなく、もっと身体を休めるために寝室を使ってほしい。 私達がこうなる前のトラヴィス様は、以前より元気そうで溌剌としていた。 きっと彼は、私を避けないで生活すれば、いくら忙しいとはいえ、もう少し健やかに暮らせるのだろう。 私がここに居座ると、トラヴィス様の穏やかな生活の妨げになってしまう。 それも、避けたかった。 でも、一番は私に再び心を向けてくれたトラヴィス様が、また背を向けてしまったことに、もう耐えられなくなったからだと思う。 結婚三年目のお祝いの時も苦しかったけれど、今の苦しみは重くて、深い。 彼の口から、私を拒絶する言葉を聞いてしまったのだから。 あれから何度も思い返し、そのたびに悲しみに沈む。 まるで身体から全ての血が失われたように、抜け殻で、考えることも、感じることも息を奪う。 なんとか浅く息を繰り返すだけで、精一杯だった。-------------------------------------------------------------------------------------「やあ、アレシア、随分と塞いでいるじゃないか?」「お兄