Masuk飛鳥の忍耐は、すでに完全に限界を迎えていた。フォグレ・グループからの猛攻で会社が存亡の危機に瀕しているというのに、家に帰れば女たちの甲高いヒステリーを聞かされる。もう鬱陶しくてたまらないのだ。金で解決できるなら、いくらでもくれてやるからさっさと黙れと言わんばかりだった。都子は目を見張り、信じられない思いで息子を見つめた。「あんたが補填するですって!?あんたの金だって元を正せば冴島家の資産でしょうが!それをあんな女のために無駄金を使って穴埋めする気!?」そんな怒号が飛び交う修羅場の中で、星歌は優雅にフルーツ皿を引き寄せた。フォークで小さくカットされたリンゴを刺し、口へと運ぶ。――シャクッ。静寂の中に響いたみずみずしい咀嚼音に、その場の空気がぴくりと揺れた。特に反応したのは夏蓮だった。彼女は今日、朝から水一口すらまともに喉を通していない。ダイニングテーブルの上には、星歌が食べ残した料理や、小鍋の中で琥珀色に澄んだスープが残されていた。普段の夏蓮なら見向きもしないような家庭料理だ。けれど、飢餓の極限に達した今の夏蓮の目には、それがどんな高級フルコースよりも輝くご馳走に見えていた。喉が鳴り、胃袋が引き裂かれるように激しく痛む。今すぐにでも、テーブルに這い寄ってあの残飯を貪り食いたい衝動に駆られていた。この期に及んでまだ優雅にフルーツをつまんでいる星歌の姿に、都子は五臓六腑が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。「飛鳥、あんたこれが家の問題だけで済むと思ってるの!?」「……」「あの女よ!あいつが今日ここに戻ってきてからというもの、私たちは朝から晩まで水一杯すらまともに口にできてないのよ!」星歌はフォークを置き、不思議そうに首を傾げてみせた。「お腹が空いていないから召し上がらないのでしょう?ご自分の都合を私のせいにしないでくださる?」――はあぁっ!?都子も、亜季も、夏蓮も、あまりの図々しさに目を見開いた。この女、どこまで人を小馬鹿にすれば気が済むのか。お腹が空いてないですって?こっちは朝から飢え死にしそうな思いをしているというのに!「とにかく、今すぐあの女をここから叩き出しなさい!」もう言い争う気力すら失せ、都子はただただ星歌を視界から消し去りたかった。ちょうど食事を終
「冴島家の格式高い家訓の中に、目下の人間を口汚く罵るなんて下品な項目はなかったはずでしょう?」星歌は冷ややかな目で都子を見据え、氷のように滑らかな声で告げた。「それなりの歳を召しながら、言葉遣いひとつ弁えられないのであれば、少し手荒な方法で身の程を弁えていただくのが一番の薬だと思いましたの」――身の程を弁えていただく。その屈辱的な言葉に、都子の怒りは頂点に達した。顔を真っ赤にして、ダイニングテーブルの飛鳥へ向かって叫び散らす。「飛鳥!あんた、自分の母親がこんな女に殴られるのを黙って見てる気なの!?」このクソ女……!夫である息子の目の前で、平気な顔をして実の姑を引っ叩かせるなんて、一体どこまで図に乗っているのか。やはり、あの高峰啓介がバックにいるから調子に乗っているのだ。一刻も早く亜季を啓介に嫁がせ、この女の後ろ盾を奪い取ってやらなければ。そうしなければ、この性悪女はいつまでも啓介の権力を笠に着て、冴島家で我が物顔に暴れ続けるに決まっている!だが、飛鳥は依然として腕を組んだまま、口を開こうとしない。業を煮やした都子は、さらにヒステリックに声を張り上げた。「飛鳥、聞いてるの!?」「……俺が殴ったわけじゃないだろう」「なっ……!」都子は息を呑み、血走った目を星歌へと向けた。その視線には、星歌を今すぐ八つ裂きにしてやりたいほどの殺意が渦巻いている。星歌は涼しい顔で片眉を吊り上げた。「ええ、私は手を下しておりませんもの」「あんたが直接殴っていなくても、あんたの手下が殴ったんでしょうが!姑に手を上げるなんて、親不孝にも程があるわ!」今度は亜季がキャンキャンと吠え立てた。この図々しい女は、冴島家の正妻だと主張して居座りながら、目上の人間に対して敬意のかけらも見せようとしない。一体何様のつもりなのか。「あら、この子たちは都子さんが定めた厳しいしつけに従って、礼儀を教え直して差し上げただけよ。何か間違っているかしら?」「あんた……っ!」「上に立つ者が自ら定めたルールを破り、他人にだけ押し付けるなんておかしいでしょう?ご自分で言ったことすら守れないのなら、冴島家の作法とやらは何のために存在するのかしらね」淡々とした星歌の言葉は、まるで鋭利な刃物のように都子たちの胸へと突き刺さ
星歌の容赦ない問い詰めに、飛鳥の視線までもが都子と亜季へと向けられた。都子は息を呑み、言葉に詰まった。「人が何かを行動に移す時、そこには必ず理由――動機があるはずよね。私に、あなたたちの家をすべて焼き払うほどの、どんな理由があるというの?」都子も、亜季も、ぐうの音も出ない。どうしてそんな動機があるのかなど、この場にいる誰よりも彼女たち自身が痛いほどよく分かっていた。これまで星歌に対して、散々陰湿ないびりや嫌がらせを繰り返してきたからだ。けれど、そんなこと飛鳥の前で言えるはずがない。それに――たかが嫁いびり程度のことで、ここまで狂ったように報復してくるなんて誰が思うだろうか?冴島家の財産をすべて灰にするほど、激しい憎悪を燃やす理由になどなるはずがないと、彼女たちは本気で思っていたのだ。室内の空気が、急速に凍りついていく。飛鳥は片眉をわずかに上げ、低く冷たい声を響かせた。「そうだ。あいつが母さんたちの家をわざわざ燃やす理由が、どこにあるっていうんだ?」淡々とした問いかけだったが、その奥には刃のような威圧感が潜んでいた。都子は悔しさに肩を震わせ、亜季も押し黙って視線を泳がせる。星歌がその沈黙を破り、痛烈な一撃を叩き込もうとしたその時――それまで俯いていた夏蓮が、か細い声で割って入った。「……私のせいよ」都子と亜季が、揃って夏蓮を見開いた目で見つめる。飛鳥の冷徹な視線もまた、夏蓮へと向けられた。夏蓮は涙をいっぱいにためた瞳で、星歌を痛ましげに見つめた。「飛鳥さんが私の面倒を見ているのが、許せないんでしょう?ここ最近、あなたはずっとそのことで荒れていたものね。……全部、私が悪いの。翼さんが亡くなってからずっと心が不安定で、飛鳥さんのことを翼さんだと錯覚して頼ってしまって……全部、私の弱さが招いたことよ」まるで悲劇のヒロインのように、すべての過ちを一身に背負い込んでみせる。その健気で痛々しい姿に、星歌は心底おかしくてたまらなかった。これよ、これ。これこそがこの女の真骨頂。肝心な場面になると、こうやって自分を犠牲にしたか弱い被害者を演じて男の庇護欲を煽るのだ。正面から立ち向かってくる強敵よりも、よほどタチが悪くて反吐が出る。「いいえ、どうしてあなたのせいだなんて言えるか
星歌は都子を相手にせず、目の前の飛鳥へと視線を滑らせた。「……聞こえたかしら?」唐突に話を振られ、都子の心臓がドキンと跳ねた。一体どういうつもりなの?飛鳥は怒りを押し殺しながら、都子と亜季を冷ややかに見据えた。その視線の端には、青ざめた夏蓮の姿も映っていたが、その眼差しには以前のような温もりなど微塵もなかった。「飛鳥、あんた騙されちゃダメよ!こんな出鱈目を真に受けないで!あんたがいない時、この女がどんな態度だったか知ってるの!?」被害者ぶるのもいい加減にしなさい!いつからこんな健気なヒロインを気取れるようになったのか。昔は媚びるどころか、弁解すら冷淡に切り捨てるような女だったくせに。今こうしてしおらしく見せられると、まるで自分たちばかりが悪者で、星歌をいじめているように見えるではないか!「今日、冴島家が失った莫大な不動産は、全部この女の仕業よ!言っておくけど、こんなの絶対に許さないんだから!」どれほど贅を尽くした極上の物件ばかりだったか。誰もが羨む一等地に建つ一軒家やタワーマンション。どれも一軒あたり数億円から数十億円の価値がある超優良資産だったのだ。それが、すべて灰燼に帰してしまった。都子の名義も、亜季の名義も、夏蓮の名義の家すらも。たった一日で、冴島家の誇る不動産資産は跡形もなく消え去り、今や残されているのはこの本邸だけなのだ。こんな危険な女をここに置いておいたら、今夜寝静まった隙に、本邸ごと焼き殺されるかもしれない。「本当に、何でもかんでも私のせいにしたがるのね」星歌は呆れたように小さくため息をつくと、まっすぐに飛鳥の瞳を見つめた。「都子さんたちは私が放火したって決めつけているけれど、あなたはどう思う?」視線と視線が、火花を散らすように絡み合う。星歌はあえて、その究極の問いを飛鳥の胸元へ突き刺したのだ。この男はかつて、あまりにもおめでたいほど他人の言葉を鵜呑みにしてきた。特に、夏蓮の言葉ならなおさらだ。夏蓮が何かを口にすれば、何の疑いもなくそれを真実だと信じ込み、星歌を責め立ててきたではないか。なら、今はどうなのかしら?今この瞬間も、あの時と同じように彼女たちの言葉を信じるのかしら?星歌は何も言わず、ただ静かに飛鳥を見つめていた。飛鳥は苦虫を噛み
もっとはっきり言えば、お前の今日のやり方はあまりにも目に余る、と暗に釘を刺しているのだ。何年もの間、夫婦として過ごしてきたのだ。飛鳥の言葉の裏にある嫌味など、星歌には痛いほど筒抜けだった。星歌は小馬鹿にしたようにふっと鼻を鳴らした。「別に、私の連れてきた料理人に作らせてもよくてよ?もっとも、あの人たちに口にする度胸があればの話だけれど」「……っ」飛鳥の胸が、重く沈み込んだ。二人の視線が交錯する。星歌の瞳には嘲笑の色が浮かび、対する飛鳥の瞳は凍りつくような冷徹さに染まっていた。飛鳥は暗く鬱屈した息を吐き出す。「いい加減にしろ。一体何が目的でここへ戻ってきたんだ!」今日一日だけで、冴島本邸は修羅場と化した。飛鳥の忍耐もとうに限界を突破している。会社ではフォグレ・グループからの猛攻に追われ、後ろ盾であるはずの実家まで足元から崩壊させられているのだ。星歌に対してこれまで抱いてきた執着や我慢は、一瞬にしてどす黒い怒りへと反転していた。星歌の瞳から、ふっと笑みが消え失せる。その冷たい表情を見て、飛鳥の苛立ちはさらに燃え上がった。「離婚する気がないんだろう?なら、今すぐ俺と一緒に御影山の屋敷へ戻るぞ!」「あら、御影山の家は冴島家ではないわ」「……何を言っている?」「言葉通りの意味よ。私はあなたの妻であり、冴島家の人間だわ。ならば、本邸で暮らす権利くらいあるはずでしょう?」「……」「昔はあんなに、私をこの本邸に呼び戻したがっていたじゃない。特別な日でもないのに、あなたが仕事へ行くたびに電話をかけてきては、顔を出せと急かして。どうしてかしら?望み通り戻ってきてあげたのに、ちっとも嬉しそうじゃないわね。そんなに都子さんたちの身の回りの世話をさせたかったのなら、いっそのこと住み込みで尽くしてあげようと思って戻ってきたのよ?」身の回りの世話、という言葉に、飛鳥は苛立ちを込めてタバコを深く吸い込んだ。「お前がいつ、そんな殊勝に人の言うことを聞いたっていうんだ?」昔……ふん、と飛鳥は内心で吐き捨てた。かつて都子は星歌に何十回、何百回と無理難題を突きつけたが、星歌がまともに聞き入れたことなど一度たりともなかった。世間は、孤児の身分で冴島家に嫁いだ星歌など、義母の言いなりになって虐げ
「だって、人間性に問題ありなんだもの!」「ちょっと待てって!俺と飛鳥は別人格だろ?あいつを疑うのは勝手だけど、なんで俺まで一緒に疑われなきゃならないんだよ!」「ママが言ってたわ、類は友を呼ぶってね!」「……」どれだけママの言いつけに忠実なんだよ!いい大人なんだから、男を見る目くらい自分で養えっての!だが、翔太が言い返す間もなく、無情にも通話は一方的に切られてしまった。スマホから響くツーツーという無機質な電子音を聞きながら、翔太はロビーの真ん中で完全に立ち尽くした。なんだこれ、飛鳥のせいで俺まで同類扱いされて振られかけてるのか?俺は何ひとつ悪いことなんてしてないのに!とんだとばっちりだ……!本当に、飛鳥のやつめ!たかが家庭内の問題だろうに、どうしてこうも周りを巻き込んで泥沼化させるんだ!......一方、冴島本邸。屋敷中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているというのに、星歌だけは食べては休み、休んでは食べるという優雅な時間を満喫していた。この混乱の渦中で、唯一心穏やかに過ごしている人間だろう。都子や亜季、そして夏蓮がどれだけ鬼のような形相で吠え猛ろうと、今の星歌には指一本触れることすらできないのだから。そこへ、啓介から電話がかかってきた。通話ボタンを押すと、穏やかで余裕のある男の声が響く。「今日はどうだった?」「まずは初戦突破、といったところかしら」星歌が微笑みながら答えると、啓介は低く相槌を打った。「みたいだな。俺のところにもしっかり話は届いてるぞ」「え、どうして知ってるの……?」まさか、この本邸の中に啓介のスパイでも紛れ込んでいるのだろうか。星歌は思わず背後に控える使用人たちの顔を振り返った。「今日一日であれだけ派手に何軒も燃やせば、嫌でも耳に入るさ」なんだ、そういうことか。星歌は思わずくすりと笑みを漏らした。そんな彼女に、啓介は優しく問いかける。「少しは気が晴れたか?」母の死の真相を知ったあの日から、星歌の胸の奥には、冴島家の人間を一人残らず地獄へ叩き落としてやりたいという激しい憎悪が渦巻いていた。そして本邸に乗り込んだ初日の今日、さっそく連中全員の足元を根底から引っ掻き回してやったのだ。「いいえ、全然足りないわ」今日だけで
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来
忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに
ところが、その一歩を踏み出した直後、足元に重い衝撃が走った。視線を落とすと、そこには先ほどまで泣きじゃくっていた夏蓮が、車椅子から崩れ落ちるように床に倒れ伏していた。彼女は意識を失っている。「夏蓮様!……ああ、血が、血がこんなに……!」周囲の者たちが悲鳴を上げた。星歌へと向かおうとした飛鳥の足が、まるで見えない鉛を流し込まれたかのように、その場に縫い付けられる。駆けつけた医師たちによってストレッチャーに乗せられたとき、星歌の意識は、僅かに、澱のように浮き上がった。霞む視界の端に映ったのは、必死な形相で夏蓮を抱き上げる飛鳥の姿だった。――ああ、やっぱり。その光景を
心血を注ぎ、数ヶ月の夜を捧げた『龍稲峡』のデザイン。それが無惨に奪われていたことを思い出し、星歌の眼差しには、より深い嘲弄が混じり始めた。沈黙が二人の間を支配する。およそ三十秒ほど経っただろうか。飛鳥が、絞り出すような声で再び口を開いた。「……どういう意味だ?」「彼女を、何の罪で訴えるつもりだ」『裁判所』という言葉を聞いた瞬間、飛鳥の心臓が大きく跳ねた。星歌を見つめる彼の瞳からも、一切の温度が消え失せていた。「分からない?」星歌は蔑むように彼を見上げた。「飛鳥。龍稲峡のプロジェクトで私のデザインが落選したって知らせ……それを真っ先に私に伝えてくれたのは、あんただったわよ







