LOGIN「ほら」
いろはが、にこりと笑った。 その笑顔は相変わらず柔らかい。 優しくて、穏やかで―― けれど。 その奥に、底の見えないものが潜んでいる気がした。 まるで深い湖の底を覗き込んだような、不気味さ。 俺は思わず視線を逸らした。 「きた」 ぽつりと、いろはが呟いた。 「……え?」 聞き返そうとした、その瞬間だった。 「きゃあぁぁぁ!!!!」 リビングから澪の絶叫が響いた。 「どうした!?……澪!!」 俺は廊下を駆け抜け、リビングへ飛び込んだ。 「水が!?……水が流れ込んできます!!」 澪はソファの上に立ち、震えながら叫んでいた。 視線を落とす。 俺の足元。 床の上を―― 水が広がっていた。 「な、なんだこれ……」 凄い勢いで水位が上がっていく。 足首が一瞬で浸かった。 冷たい。 いや―― 冷たすぎる。 真冬の湖に足を突っ込んだような冷たさだった。 水位は、見る間に上がっていく。 くるぶし。 ふくらはぎ。 「どこから水が……!」 俺は慌てて部屋を見回した。 天井。 漏水の跡はない。 窓。 割れていない。 玄関。 閉まっている。 それなのに。 水だけが増えていく。 ありえない。 「そんな……どうして……!」 澪の声は震えていた。 ソファの背もたれを掴み、必死に耐えている。 「落ち着け!何か原因が――」 自分でも信じていない言葉だった。 水位はもう膝まできている。 たった数十秒で。 ありえるはずがない。 その時だった。 ジジジ…… バチッ!! 部屋の電気が瞬いた。 次の瞬間。 暗闇が落ちた。 停電。 視界が一気に闇に沈む。 「もういやぁぁ!!なんなのこれ!!」 澪が泣き叫ぶ。 俺は手探りで壁を探した。 その時。 チャプン…… チャプン…… 背後で、水音がした。 ゆっくり振り返る。 キッチンの入り口。 そこに―― 影が立っていた。 膝まで水に浸かりながら。 じっと。 動かずに。 まるで最初からそこにいたかのように。 「……いろは?」 暗闇の中、俺は目を凝らす。 「いろは!?危ない!こっち来い!」 叫ぶ。 だが。 影は動かない。 「おい!聞こえてるのか!?」 俺は水をかき分けて近づいた。 そして。 その腕を掴んだ。 その瞬間。 ぞわりとした。 違う。 いろはじゃない。 肌の感触が―― 腐っている。 「……え?」 暗闇の中で顔を見る。 そこにいたのは。 女性の形をした、ただれた化け物だった。 皮膚は溶け落ち。 目は濁り。 口だけが裂けるように開いている。 「うわぁぁ!!!」 俺は手を振り払おうとした。 だが。 化け物は、俺の腕を離さない。 くすっ 化け物が笑った。 その笑い声は。 どこか、いろはに似ていた。 背筋が凍る。 「いろはをどこにやった!!」 叫ぶ。 だが化け物は答えない。 代わりに。 ただれた指で。 足元の水面を指した。 水が揺れる。 最初はただの波紋だと思った。 だが違う。 水の中に。 何かがいる。 白いものが見えた。 細い。 長い。 ゆらゆら揺れている。 そして。 澪が絶叫した。 「いやあああああ!!!!」 水の中から。 手が出てきた。 白い。 ふやけた。 女の手。 溺死体のように膨れた指。 それが。 床の下から。 ゆっくりと伸びてくる。 一本。 また一本。 そして。 次々と。 水面の下で。 何十本もの手が蠢いていた。 もがくように。 掴むように。 這い上がろうとしている。 「だ……す……け……て……」 声が聞こえた。 水の中から。 女の声。 澪が泣き叫ぶ。 「いや!!いや!!いや!!」 ソファにしがみつく。 水位はもう太ももまで来ていた。 その時。 水の中の手が。 俺の足首を掴んだ。 「うわっ!?」 とてつもない力だった。 水の中へ引きずり込まれる。 「離せ!!」 振り払う。 だが。 二本。 三本。 四本。 さらに手が絡みつく。 その時だった。 化け物が言った。 静かに。 「ねえ」 俺は顔を上げる。 「覚えてない?」 「……何を」 化け物は水面を見下ろす。 「この人たち」 水の中の手が伸びる。 「みんな」 そして。 化け物は微笑んだ。 「あなたのお嫁さんだよ」 頭が真っ白になった。 「……は?」 意味が分からない。 「三百年」 化け物が囁く。 「ずっと待ってた」 水の中から。 顔が浮かび上がる。 白い顔。 腐った顔。 女。 女。 女。 何十人もの女が。 俺を見ている。 口を開き。 囁く。 「やっと……」 「会えた……」 「花婿様……」 化け物が言った。 優しく。 「おかえり」 その瞬間。 手が一斉に俺を掴んだ。 「うわああああ!!」 水の中へ引きずり込まれる。 息ができない。 肺が焼ける。 その時。 声が響いた。 「やめて」 水が止まる。 女たちの手が止まる。 振り返る。 いろはが立っていた。 水の中に。 なのに。 濡れていない。 「この人はまだ」 いろはが言う。 優しく。 「思い出してないの」 水の中の女たちがざわめく。 「約束……」 「花嫁……」 「待ってた……」 その声が頭に響く。 頭が割れそうになる。 その時。 一人の女の顔が浮かび上がった。 長い黒髪。 青白い肌。 その顔を見た瞬間。 胸が締め付けられた。 「……誰だ」 女が言う。 「約束したでしょう」 その瞬間。 映像が走った。 満月。 湖。 白い花嫁。 そして。 俺。 「嘘だ……」 息が荒くなる。 いろはが笑った。 「少し」 「思い出してきた?」 俺は首を振る。 思い出したくない。 その時。 いろはが囁いた。 「まだ」 「その時じゃない」 その瞬間。 ドォン!! 水が一気に消えた。 リビングは乾いている。 何もない。 女も。 水も。 澪が震えながら言う。 「今の……」 「夢……?」 その時。 いろはが言った。 いつもの声で。 「ご飯できたよ」 テーブルには料理。 味噌汁。 焼き魚。 白いご飯。 そして。 いろはが笑う。 優しく。 いつものように。 「早く食べよ?」 その光景が。 さっきの怪異より。 何倍も恐ろしかった。「神主さん、忠告ありがとうございます。でも……私は、孝一さんを迎えに行きます」「いろはさんとの約束だから……」自分でも驚くほど、その決意は揺らがなかった。神主は、わずかに目を伏せる。「……桐野さんの気持ちは、わかる」低く、静かな声。「だが――あちらへもう一度行くなど、それは……叶わぬ話である」「どうして……!?」思わず声が強くなる。その瞬間、私は――気づいてしまった。常夜流し。村長も、孝之助も……そして、ヒルコも――すべては、“常夜”へ――“黄泉”へと繋がるための儀式。「……お気づきになられましたかな」神主の声色が、わずかに変わる。「そう。常夜へ行くには――再び“常夜流し”を行う他、術はない」その言葉が、胸の奥に、重く沈む。「桐野さん……」神主は、静かに私を見据えた。「――再び、惨劇を起こすおつもりか?」「そっ……それは……」神主の視線に射抜かれ、胸の奥で固めていた覚悟が――揺らぐ。「そう、それでよい」静かな声が、逆に残酷だった。「せっかく与えられた命を、無碍にする必要はない」私は、うつむく。言葉が、出ない。「……ごめん……」ぽつりと、零れた。――孝一さんの、あの時の表情が浮かぶ。伸ばしかけた手。何かを伝えようとしていた、あの目。「でもっ……」顔を上げる。「でもっ……!」喉が焼けるように痛い。「私は……孝一さんに、もう一度……会いたいんです」震える拳を握りしめる。唇を、強く噛む。それでも――私は、神主に縋るように叫んだ。「どうにか……手段はないんですか……!?」神主は――すぐには答えなかった。沈黙。重く、張り詰めた空気が、部屋を満たしていく。やがて、ゆっくりと口を開いた。「……ないわけでは、ない」「……え?」思わず顔を上げる。神主の目は、先ほどまでとは違う色を帯びていた。「ただし――」低く、釘を打つような声。「それは、“人が踏み入れてはならぬ領域”だ」胸が、大きく脈打つ。「それを行えば、あちらへ辿り着くことはできよう」「ただし……」神主は一歩、私に近づく。「今度は――戻れる保証はない」言葉が、理解に追いつかない。「それって……」喉が、ひどく乾く。神主は、はっきりと言い切った。「“迎えに行く”のではない」「――桐野
神主は、わずかに目を伏せた。 「……ここから先は」 静かに、言葉を選ぶ。 「確たる記録ではなく――あくまで、私の推測となりますが」 蝋燭の火が、小さく揺れる。 「その男――澪様のお父上は」 「ヒルコ様に“触れられた”のでしょう」 「いえ……あるいは」 わずかに、間を置く。 「“選ばれた”のかもしれませぬ」 喉の奥が、乾く。 「その結果として起きたのが――」 「先ほどの日誌に記されていた、あの惨劇」 神主の声は、あくまで静かだった。 だからこそ、逃げ場がない。 「意思を侵されたのか」 「それとも、自ら受け入れたのか」 「そこまでは、分かりませぬ」 「ですが――」 神主は、ゆっくりと顔を上げた。 「ヒルコ様は、“媒介”を得た」 「人の世界へ干渉するための――足掛かりを」 空気が、重く沈む。 「そして……」 その視線が、まっすぐに向けられる。 「澪様」 名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。 「あなたは――その先におられる方だ」 蝋燭の火が、大きく揺れた。 「血の繋がりか」 「あるいは、より強い“適性”か」 「理由は定かではありませぬが……」 ほんのわずかに、声が低くなる。 「ヒルコ様は」 「あなたを、“器”にしようとしたのでしょう」 沈黙。 息が、うまく吸えない。 「――いえ」 神主は、小さく首を振る。 「“しようとしている”のかもしれませぬな」 火が、じり、と鳴った。 神主は、ふと口を閉ざした。 そして―― 何かに引っかかったように、わずかに眉を寄せる。 「……ですが」 ゆっくりと、視線を落とした。 「先ほどの桐野さんのお話……」 「少々、気がかりでしてな」 蝋燭の火が、小さく揺れる。 「その……孝一という御方と」 「いろは殿に“化けた”ヒルコ様が」 「共に日常を過ごしていた、と仰いましたな」 わずかな沈黙。 「……だとすれば」 神主の声が、わずかに低くなる。 「ヒルコ様は――すでに」 「“愛”に触れていたはずだ」 空気が、ぴたりと止まる。 「求め続けていたものを」 「手にしていた、はず……」 その言葉は、自分に言い聞かせるようで
神主は、静かに目を細めた。 「では――」 ゆっくりと、口を開く。 「この社に伝わる話を、いたしましょうか」 その声音は、どこまでも穏やかで―― 「桐野さんがお知りになりたいことも、 その中に含まれておるでしょう」 そして、神主は語り始めた。 社の奥は、ひどく静まり返っていた。 揺れる蝋燭の火だけが、かすかに空間を照らしている。 「――昔の昔、この地には“最初の神”が居られたと伝えられております」 神主は、ゆっくりと語り始めた。 「しかし、その御子は……不完全であられた」 「形は崩れ、感情も持たず……ただ、空腹だけを宿しておられた」 外で風が鳴る。 「そのため、海へと流されたのです」 「流れ着いた先で、その御子は――人に拾われました」 「食を与えられ、体を拭われ、声をかけられる」 「理由など、分からなかったでしょう」 「なぜ、自分のようなものに」 「なぜ、見知らぬ存在に」 「なぜ、施しを与えるのか――と」 蝋燭の火が、揺れる。 「けれど、その施しは……温かかった」 「やがて、その疑問は形を持ちます」 「そして――知るのです」 「それが、“愛”であると」 わずかな沈黙。 「……ですが」 「その神には、“愛”を感じることができなかった」 「持っていなかったのです」 火が、じり、と鳴る。 「だからこそ――その神は、“愛”を欲した」 「理解ではなく」 「模倣でもなく」 「――本物を」 空気が、重く沈む。 「その歪みは、やがて“出来事”として現れました」 「人が一人、また一人と消える」 「そして、共通していたのです」 神主の目が、こちらを射抜く。 「深く愛されていた者ばかりが、消えていった」 喉が詰まる。 「ヒルコ様は、“知ってしまった”のです」 「愛というものの温度を」 「けれど、自らは生み出せない」 「だから――求めた」 「“自分で感じる”ために」 神主は、はっきりと告げる。 「器を」 背筋が冷える。 「感情を持つための器」 「――人の、体を」 「強く愛されている者ほど、その器として相応しい」 「だから、選ばれたのです」 「愛されすぎた者たちが」 長い沈黙。 「……しかし」 神主の声が、わずかに変わった。 「その所業を、見過ごさぬ存在がおりました」 蝋
第34話。私は、その社へと足を運んだ。これまで何度も調査に訪れていたはずなのに――どうして、今まで気づかなかったのだろう。「……すいません」静まり返った境内に、声を落とす。「どなたか、いらっしゃいませんか」しばらくの沈黙――「……はい、今参りますよ」戸の奥から、年配の男性の声が返ってきた。ゆっくりと、扉が開く。現れたのは、神主と思しき人物だった。その目が、私を捉えた瞬間――わずかに、空気が張り詰める。「あの、突然お伺いして申し訳ありません。私、桐野澪と申します。旧久遠村の調査をしていて……」名乗った、その時だった。神主の表情が、はっきりと変わる。驚きとも、困惑ともつかない顔で、じっと私を見つめていた。「……まさか……このようなことが……」小さく呟いたあと、静かに言う。「お嬢さん。どうぞ、中へ」促されるまま、私は社の中へと足を踏み入れた。通されたのは、奥の座敷だった。「ここで、少しお待ちくだされ」そう言い残し、神主は奥へと引っ込む。取り残された静寂の中、私は無意識に息を潜めていた。やがて――「すまん、すまん……書物を探しておってな」神主が戻ってくる。その手には、古びた冊子が握られていた。「桐野さんは……こちら側の人、ですかな?」「……え?」思わず聞き返す。こちら側――?神主は、私をじっと見据えたまま続けた。「いや……常夜の気配を纏っておる。屍人が訪ねてきたのかと思ったが……」その言葉に、背筋が冷える。「……常夜を、ご存じなんですか?」思わず身を乗り出すと、神主はゆっくりと頷いた。「無論。だがまずは……あなたの話を聞かせてくだされ」神主は、私の正面に腰を下ろす。私はノートを開き、これまでの出来事を語り始めた。孝一さんのこと。いろはさんのこと。常夜のこと。ヒルコのこと。そして――孝一さんの存在が、少しずつ消えていること。神主は穏やかな笑みを浮かべながら、何度も頷き、相槌を打っていた。だが――ヒルコの名を口にした瞬間だけ、その表情が、わずかに歪んだ。すべてを話し終えたあと。神主は、静かに一冊の書物を差し出した。「これは……?」受け取ると、それはかなり古い日誌のようだった。紙は黄ばみ、端は擦り切れている。「旧久遠村の村長の娘が記したものだ。……奇妙な
「.......取り返しに、行く.....」そう決意を固めた私は、それから今まで調べた旧久遠村の歴史と孝一さん宅であった怪奇現象...そして、常夜流しについて...情報を照らし合わせることにした。いろはさんが話してくれた常夜についても...ノートにひとつ、ひとつ書き出していく。旧久遠村では、ヒルコのせいで...記録に残っていた壊滅的水害。これがヒルコが起こした事?常夜流しの記録違い...孝一さん宅でヒルコが話していた「罪隠し」それは村長が起こしたって。その罪が常夜流しだった?だとしたら理由はなんだったんだろう。いろはさんとの会話が頭に浮かぶ...「あの人と私は愛し合っていたの。その私をここに迎えに行くと聞かずに...」そうだ。いろはさんは私と出会った常夜にいた...「常夜流しを続けたの...」孝之助は常夜に迎えにいくために...常夜流しが必要だった。黄泉帰りのための供物...そのために...孝之助は人を生贄にしていた!?点と点が繋がっていく。村長は一度、黄泉帰りをしていてそのタイミングが水害と合っている。と言うことは代償的なことだとして...その代償でいろはさんは、常夜にそしていろはさんを迎えに行こうとした孝之助は、村長と同じ事をしようと常夜流しを続けていた。「そして、仕舞いにはヒルコとの約束の縛りを設けてヒルコの力を手に入れたとたんに、騙されて...」約束の縛り...ヒルコの力っていうのは...そして、いろはさんがいたあの常夜...うぅーん......やっぱり、色々と繋がらない部分がある...「もっと調べなきゃ...」私は、久遠市の資料館に向かおうとタクシーを呼ぶため携帯を取り出し、画面をスクロールする。ん?...あれ?...携帯の中、どの履歴を見ても「白瀬 孝一」の名前がない!?アドレス帳を開くも...トーク履歴を見ても...えっ?...えっ?...なんで?......何が起きたのわからずに、焦る私は、白瀬孝一宅に向かうことにした。「確か、孝一さん宅は常夜湖の近くで...」近づくにつれて...私は目の前の現実に戸惑いを隠せなかった。「孝一さん宅が...」「ない...」タクシーを迂回してもらい孝一さんの職場に向かう...。「すいませ
――光。次の瞬間。「……っ……はっ……!」澪は、畳の上に倒れ込んでいた。見慣れた天井。見慣れた空気。――現世。「……帰って……きた……?」震える手で、自分の胸を押さえる。ちゃんと、鼓動がある。生きている。助かった。……助けられた。 「…っ……」涙が、溢れる。止まらない。「なんで……」ぽつりと、零れる。「なんで……私なの……」救われたのに。生きているのに。苦しい。どうしようもなく。苦しい。「……孝一さん.....」名前を呼ぶ。もう、届かないと分かっているのに。「…ばか……」笑おうとして、崩れる。「……ばかぁ……っ……」声にならない嗚咽が、静かな部屋に響く。私は、いろはさんとの約束を守れなかった。約束だったのかなんて、分からない。それでも――けど、私を守るために身を挺してくれた恩人の願いを...「――あなたが、救える」私はそれを叶える事が出来なかった。孝一さんがヒルコの手を取った瞬間...孝一さんの最後の言葉...「……ごめん」その一言が、何度も、何度も、何度も。頭の奥で反響する。やめて。やめてよ。 「……っ……違う……」 違う。 謝るのは―― 「……私、でしょ……」 指先が、畳を掻く。 爪が、擦れる。 じり、と嫌な音がする。 「……助けられたのは……私で……」 喉が、震える。 「置いていかれたのも……私で……」 ぽたり、と涙が落ちる。 「……選ばれなかったのも……私……」 その言葉を口にした瞬間。 ――胸の奥が、きしんだ。 「……違う」 小さく、呟く。 「……違う……違う違う違う……」 首を振る。 何度も、何度も。 「……あの人は……選ばされたんだ」 そうだ。 そうに決まってる。 だって―― あんな顔、していた。 「……ヒルコが……」 その名前を口にした瞬間、 部屋の空気が、わずかに、冷えた気がした。 「……あいつが……」 ぎし。 畳が、鳴る。 「……全部……奪った……」 呼吸が、浅くなる。 視界が、滲む。 けれど。 今までとは違う。 これは、 涙じゃない。 「……返して……」 ぽつり。
孝一が踏み出した。 「……どう、して……」 声が、震えていた。 澪は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。 孝一の言葉が―― まだ、理解できない。 「……俺は……ヒルコを選ぶ」 その一言は、 あまりにも静かで、 あまりにも、残酷だった。 「……っ……なに、それ……」 笑おうとした。 冗談だと思いたかった。 でも―― 孝一の目は、真剣だった。 逃げていない。 迷っていない。 「……常夜にいくと言うの?…..」 やっと、言葉が出た。 「孝一さん......」 やっと、やっと―― 辿り着いたのに。 「……もう、わかったんだよ、澪」 優しい声だった
「孝一さーん――!!」 声が、響いた。 その瞬間。 すべてが、止まる。 「……っ……!?」 振り向く。 水の向こう。 闇の奥。 そこに―― 立っていた。 「……澪……?」 信じられないものを見るように、呟く。 澪が。 そこにいた。 息を切らしながら。 必死な顔で。 手を、伸ばしていた。 「行っちゃ……ダメ……!」 その声が。 まっすぐに、届く。 「その答えは……違う……!」 涙が、水に溶ける。 「それじゃ……終わらない……!」 胸が、軋む。 「……っ……」 足が、止まる。 あと、一歩で。 “終わる”はずだったのに。 「孝一さん!!」
運命の時はあまりにも突然だった。 孝之助は、集落の長に呼び出される... 普段、人を呼びつけるような人物ではない。 それだけで、胸の奥にざわつくものがあった。 「……失礼いたします」 戸を開けると、長はすでに座して待っていた。 「来たか、孝之助」 低く、重たい声。 その空気だけで、ただ事ではないと悟る。 「本日は、どのようなご用件で……」 孝之助がそう問うと、長はゆっくりと口を開いた。 「昨晩――久遠村で儀が行われた。 私も参加してきたのだが...」 その言葉に、孝之助の眉がわずかに動く。 久遠村。 決して口にすることすら好まれぬ、 忌まわしき地 今や惨劇が
……………もう、それでよかった。この世に生を受けたこの身体は、もう穢れてしまったのだから。お腹の子には悪いと思う...けれど――私は母になる資格などない。母が願いを込めて名付けてくれた「澪」という名前も、今の私には重荷でしかなかった。生きることに、疲れてしまった。空を見上げると、満月が静かに輝いている...私は下腹部に手を当て、こぼれる涙を止めることができなかった。「ごめんね……私は、あなたを産めない……」震える声でそう呟く。「もし生まれ変わることがあるなら……今度こそ幸せになってね……」月が映る湖は、恐ろしいほど美しかった。まるで私を呼んでいるみ