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第四話 水の跡

Penulis: 琉球狸
last update Tanggal publikasi: 2026-03-07 20:12:43

「はやく食べよ?」

いろはが微笑む。

まるで何事もなかったかのように。

ついさっきまで

この部屋は――水で満ちていたはずだった。

床を覆う冷たい水。

そして。

無数の女の手。

青白い腕が

水の中から伸びてきて――

俺の体を掴んでいた。

確かに。

確かに、あった。

なのに。

床は乾いている。

畳も。

家具も。

濡れた形跡は、どこにもない。

澪が震えた声で言った。

「いまの……」

喉が張り付く。

俺は、ゆっくり頷いた。

「……見た。」

夢じゃない。

絶対に。

あの水の冷たさは

まだ足に残っている。

骨の奥に染み込んだような冷たさだ。

いろはは味噌汁をよそいながら

首を小さく傾げた。

「どうしたの?」

その声は

本当に不思議そうだった。

まるで。

俺たちが怯えている理由が

まったく分からないみたいに。

澪が恐る恐る聞く。

「いろはさん……」

「さっき……水……」

「水?」

いろはは、くすっと笑った。

「何言ってるの?」

あまりにも自然な笑顔だった。

演技には見えない。

むしろ――

本気で知らないような顔。

俺と澪は顔を見合わせた。

もしかして。

本当に。

夢だったのか。

だが。

その時だった。

俺の視線が

テーブルの上で止まる。

箸。

茶碗。

皿。

そして――

水滴。

ぽたり。

床に落ちた。

俺の手からだった。

「……」

指先が濡れている。

湖の水みたいに。

冷たい。

その瞬間。

頭の奥に

何かが走った。

満月。

夜の湖。

松明の火。

白い着物。

ゆらゆらと揺れる花嫁行列。

水面に映る女たちの顔。

そして。

――沈められる花嫁。

「……っ」

俺は頭を押さえた。

痛い。

脳が軋む。

澪が立ち上がる。

「大丈夫ですか!?」

視界が揺れる。

耳鳴りがする。

湖の音。

ちゃぷん。

ちゃぷん。

ちゃぷん。

水の音が

頭の中で響く。

そして。

女の声。

「.......助けて....」

「……!」

俺は息を飲む。

だが。

目の前の光景は変わらない。

食卓。

味噌汁の湯気。

いろは。

澪。

いつもの部屋。

いろはは

箸を持ったまま。

ただ――

じっと俺を見ていた。

笑っている。

でも。

その笑顔の奥が

どこか深い。

「あぁ……大丈夫だ」

俺は無理に笑った。

「ちょっと疲れてるのかもな……」

額に汗が滲む。

「急に眩暈がしただけだ」

気を紛らわせたい。

この空気から

一度離れたい。

「すまない……いろは」

俺は立ち上がった。

「先にご飯食べててくれないか?」

「部屋で薬飲んでくるよ」

それから。

澪を見る。

「澪の件も……警察に通報してくる」

澪が小さく頷く。

いろはは少しだけ

口を尖らせた。

「あら……」

「冷めちゃうわよ?」

その声は

優しい。

でも。

どこか――

底のない水のようだった。

「早く戻ってきてね」

俺は頷き

食卓を離れた。

廊下に出る。

足音がやけに大きく響く。

その時、澪がリビングからついてきて...

澪が小さく怯えてる声で

「……孝一さん」

俺は振り返る。

澪の顔は青ざめていた。

澪の指が震えている。

「……あれ……」

俺はゆっくりと視線を落とした。

テーブルの下。

畳の上に――

細い水の跡があった。

一本じゃない。

何本も。

まるで誰かが

濡れた体を引きずりながら

床を這ったような跡だった。

畳の目に沿って

じわりと染みている。

さっきまで

完全に乾いていたはずなのに。

「……」

喉が鳴る。

俺はしゃがみこんだ。

指で触れる。

――冷たい。

間違いない。

水だ。

しかも。

普通の水じゃない。

湖の水みたいな。

鉄の匂いと

泥の匂いが混じったような

嫌な臭い。

澪が後ろで震えている。

「やっぱり……」

「さっきの……」

「夢じゃ……」

その時だった。

ぽたり。

俺の手の甲に

何かが落ちた。

水滴。

俺はゆっくりと

顔を上げる。

天井。

――何もない。

だが。

ぽたり。

また落ちた。

ぽたり。

ぽたり。

ぽたり。

澪が

震える声で言う。

「……上……」

俺はゆっくりと

テーブルの下を覗き込んだ。

その瞬間。

心臓が止まりかけた。

畳の下。

テーブルの影。

そこに――

「……っ」

白いものが見えた。

髪。

長い。

濡れている。

そして。

ゆっくりと。

その髪の隙間から――

顔が覗いた。

青白い女の顔。

目が。

開いていた。

真っ黒な瞳。

水が滴り落ちている。

口が動いた。

「……み……つけ……た……」

「うわぁぁぁ!!」

澪が悲鳴を上げた。

その瞬間。

女の腕が

テーブルの下から

にゅるりと伸びてきた。

骨のように細い腕。

濡れた手。

その指が――

俺の足首を掴んだ。

氷のように冷たい。

「……っ!!」

俺は反射的に足を振り払った。

だが。

離れない。

掴む力が

異常に強い。

ぐい。

ぐい。

ぐい。

床の下に

引きずり込まれる。

「孝一さん!!」

澪が叫ぶ。

俺はテーブルを掴んだ。

その時。

リビングから

いろはの声がした。

「どうしたの?」

声は。

いつも通り。

穏やかだった。

だが。

次の瞬間。

俺の足を掴んでいた女の手が

ぴたりと止まった。

そして。

ゆっくりと。

手が離れる。

するり。

まるで

何かを恐れたように。

女の顔も。

すっと。

テーブルの影へ

沈んでいく。

水の跡だけを残して。

静寂。

澪は震えている。

俺も。

息が荒い。

そして。

リビングから

いろはが顔を出した。

「……どうしたの?」

いつもの笑顔。

でも。

俺は気づいた。

テーブルの下。

水の跡は――

消えていた。

ただ一つだけ。

畳の上に

小さな水滴が残っている。

それは

ゆっくりと

いろはの足元へ

転がっていった。

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