Masuk私は宮本奈穂(みやもと なほ)。十歳から十八歳までの八年間、両親に言われるまま、二百九十九枚もの借用書を書かされてきた。 両親からお金をもらうたび、それは必ず借り扱いにされ、成人したら返せと約束させられる。 交通事故に遭い、治療費を支払う段になったとき、六万円足りなかった。 追い詰められた私は、仕方なく両親に頭を下げる。 けれど返ってくるのは、冷ややかな笑みだけだ。 「奈穂、あなたもう十八歳なんだよ。親としての金銭的な責任はもう終わりだ。どうしてもなら、借用書をもう一枚書きなさい」 私は涙をこらえながら、三百枚目の借用書を書きつける。 手術が終わってスマホを開くと、両親の養女である妹の宮本美緒(みやもと みお)のインスタの投稿が目に飛び込んでくる。 海外のクルーズ船で十八歳の誕生日を祝う彼女。取り巻きに囲まれて、まるで小さなお姫さまのように輝いている。 両親からの贈り物は、都心の広いマンション一室と一台のマセラティだ。 そして、私の幼なじみ――藤原涼太(ふじわら りょうた)も、彼女に向ける眼差しは愛に満ちている。 投稿にはこう綴られている。 【最愛の人たちが、私にいちばんいいものをくれた。ありがとう】 私は手の中でくしゃくしゃに握りつぶした借用書を見下ろし、不意に笑う。 すべてを返し終えたら、こんな家族なんて、もういらない。
Lihat lebih banyak嘘が剥がれ落ちるのを見て、美緒はもう取り繕わない。母をぐいと突き放し、せせら笑う。「そうよ。私がだましたの。私は彼女から奪うの。彼女が大事にしているものを、全部。ほら、ちゃんと成功してるじゃない?」父は、甘やかしてきた美緒の頬を、初めて平手打ちした。かつて私にしたのと同じように。父は顔を真っ赤にし、体がわなわなと震える。「なぜだ!これほど尽くしてきて、それでも足りないというのか?」美緒は頬を押さえ、憎々しげに吐き捨てる。「ええ、よくしてくれたわよ。でも養女が実の娘にかなうわけないじゃない?どうして奈穂は生まれつき何でも持っていて、私はいつも居候みたいに肩身の狭い思いをしなきゃいけないの?それに、今さら善人ぶるのはやめて。この何年ものあいだ、一度でも奈穂を信じた?全部、私の嘘のせいだって言うつもり?私ひとりにいいように振り回されて、少しもおかしいと思わなかったなんて、信じられる?」父も母も言葉を失う。涼太でさえ、顔から色が消える。そう、こんなにも長いあいだ、彼らは本当に一度もおかしいと思わなかったのか?ただ、美緒を弱い立場だと決めつけ、私にだけ我慢を強いてきたのだ。いちばん卑劣だったのは、むしろ彼らのほうだ。私はそれきり宮本家の誰とも連絡を絶ち、出願先は家から千キロ以上離れた大学にした。両親と涼太が、学校の先生たちの冷たい視線を浴びながら、どうにか私の志望先を嗅ぎつけたころには、私はもう列車に乗って、この街を離れていた。それでも彼らは学校にまで押しかけてくる。だが、一連の騒動はネットで何日も炎上し、事情を知る人たちは、耳を貸さず目をつぶってきた両親と、どうしようもない幼なじみに好意的ではない。彼らが校内に姿を見せるたび、誰かが間に入って追い返してくれる。もちろん、昔の同級生が宮本家の近況を知らせてくることもある。私はただの噂話として、軽く聞き流す。両親はついに美緒の正体を見抜き、家から追い出したという。行くあてのない美緒は涼太にすがろうとしたが、かつて忠犬のように従っていた彼でさえ、もはや彼女を取り合わない。美緒はちやほやされるのが当たり前で、金遣いも荒いまま、苦労する気はない。そして最後には、父よりも年上の会社経営者のお金持ちに取り入り、人目をはばかる
私は冷ややかに身をかわす。「金の精算はこれで終わりだ。ここに全部置いてある。これから、私はあなたたちとはもう何の関係もない」両親は慌てふためき、言葉を投げかけてくる。「だめだ、奈穂。おまえは私たちの実の娘なんだ!」けれど、その言葉を口にした瞬間、二人の顔には深い羞恥の色が走る。そうだ。実の娘はこの私のはずなのに。けれど八年間、二人が私に費やした金は、美緒のドレスに縫いつけられた小さなダイヤモンドひとつにも遠く及ばないのだ。「奈穂、私たちが間違っていた。これからは償うから、な?そうだ、誕生日はいつだ?盛大に成人式をやろう。美緒のものよりずっと豪華にな!」必死すぎて、そんなことまで言い出す。美緒の顔はたちまち青ざめる。だが、今回は誰ひとりとしてすぐに彼女を慰めようとはしない。いつもなら真っ先に彼女の味方をする涼太でさえ、ただぽつりとつぶやくだけだ。「奈穂の誕生日は、美緒と同じ日だ……」そうだよ。誕生日はもう過ぎている。なのに、どうして彼らは忘れてしまったのだろう。最後の借用書に記された日付は、ちょうど私の誕生日だ。両親は打ちひしがれた顔になり、あの日の私がどれほど絶望していたか、想像することすらできない。そのころの美緒は海外で海風に吹かれ、都心の広いマンションと高級車を受け取っていた。一方で、実の娘は病室のベッドにひとり。わずか六万円の手術費を借りようとしただけで、渋られ続けていた。両親は、このときになってようやく、自分たちがどれほど私に償いきれない傷を与えてきたのかを悟った。父は深く息を吸い込み、これまで張りつめていた背筋をついに折るようにして、口を開く。「奈穂……私たちがどれほどひどい間違いをしてきたか、ようやく分かった。こうしよう。宮本グループの株式の三十パーセントをお前に譲る。償いとして受け取ってくれないか。許してほしい」周囲がどよめく。三十パーセント!破格の申し出だ。それを受ければ、私は一気に億万長者になれる。けれど、私はゆっくりと首を横に振る。「金がないのは事実。けれど、それより、もうあなたたちと関わる気はない。今日ここに来たのは、皆に見届けてもらうためだけだ。あなたたちにはもう、大事にする娘がいる。縁のない娘を無理に繋ぎ止める必要はな
先ほどまで私の言葉に凍りついていた会場の空気が、またしても美緒への羨望に塗り替わっていく。なんて恵まれた人生だろう。実の娘じゃなくても、惜しみない愛情を一身に受けている。けれど、同時に、皆の胸には疑問も湧く。実の娘がいったい何をしたというのか?どうしてここまで疎まれなければならないのか。人々の視線が集まる中、私は赤く腫れた頬をさらしながら、きちんと束ねた三百枚の借用書を取り出す。「あなたたちの財産なんて、私は興味ない。これは、この八年で私にかかったすべての費用。今週中に返さなければ塀の中に送るって言ったよね?だったら今日ここで、きっちり清算して返してあげる」両親は私が何をしようとしているのかを察し、いっそう怒りをあらわにする。「私たちはただ、お前のだらしない金の使い方を改めてほしいだけだ。それに、悪いのはお前のほうだ。なのに美緒に謝りもせず、開き直るなんて。いいだろう、見せてもらおう。お前がどれだけの金を出せるのか」美緒の目が一瞬きらりと光る。「パパ、ママ、お姉ちゃんは高校を出たばかりで、そんな大金を持ってるわけないじゃない?まさか……もう変な道に足を踏み入れたんじゃないの?」心配そうな顔をして、まるで本当に私のことを気遣っているかのように見える。そして両親は、またしても彼女のわずかな言葉に惑わされ、私への失望をさらに募らせていく。「こんな不孝者を育ててしまうなんて、我が家の恥だ!」誰ひとりも気づかなかったが、そのとき涼太だけは、美緒の言葉に思わず動きを止めた。彼は誰よりもよく知っている。私がどうやってその金を手にしたのかを。複雑な色を帯びたその眼差しは、疑念を含んでいる。いつも無邪気で素直なはずの美緒は、本当にそんな純粋な子なのか?――そんなはずがない。私は彼女に目を向ける。彼女のその瞳には、まだ得意げな光が宿っている。得意にもなるだろう。だって私の家族は、一度も私を信じなかったのだから。深く息を吸い込み、私は言う。「この金は、人と酒を飲んで稼いだの。十本飲めと言われ、八本目で倒れて病院に運ばれた」美緒が眉をひそめ、声を挟む。「お姉ちゃん、あなたは宮本家の娘よ。どうして自分を貶めてまで酒の席に付き合うなんてことができるの?どこの間の抜けたオヤ
おそらく、私と涼太の関わりに不安を覚えたのだろう。美緒は思い切った手を打ち、涼太を言いくるめて婚約を決意させた。両親はもちろん大喜びだ。涼太のことは幼いころからよく知っているし、家柄も申し分ない。釣り合いの取れた相手だ。可愛い娘を嫁がせても、肩身の狭い思いをさせることはないと思っている。宮本家と藤原家の両家は、あっという間に婚約披露宴の準備を整えた。会場はA市でもっとも豪華なホテル。惜しみなく金をかけ、まるで夢の世界のような空間がつくりあげられていた。聞けば、ほんの小さな装飾にまで、わざわざ海外から取り寄せたクリスタルが使われているらしい。すべては、美緒の好みに合わせるためだけだった。金箔をあしらった招待状が病室に届いたそのとき、スマホに美緒からのメッセージが入る。【お姉ちゃん、あなたの愛する人は、もう誰もあなたを愛していないよ。かわいそうね】こんな挑発的な言葉も、どうせ見知らぬ番号を使って送るしかなかったんだろう。私は返事をする気にもなれず、婚約披露宴に出席するつもりすらなかった。けれど、当日の披露宴がネットで配信され、インフルエンサーが全編を生中継するらしいと知って、私は考えを変えた。行く。絶対に行ってやる。三百枚の借用書をを手に、あの人たちにふさわしい祝いの品を突きつけに行く。当日、会場には華やかに着飾った人々が集まっている。女性たちは繊細なドレスをまとい、細いヒールを軽やかに鳴らして歩く。男性たちは端正にスーツを着こなし、手にしたグラスを傾けながら談笑している。私はTシャツに短パンという格好で隅の席に腰を下ろしていた。見た目は給仕よりもみすぼらしく映る。誰かが、当然のように私を給仕扱いして声をかけてくる。「おい、そこはおまえが座っていい場所か?さっさとシャンパンを持ってこいよ」スマホを掲げたインフルエンサーが、尊大な口ぶりで命じてくる。おそらく宣伝のために呼ばれた配信者なのだろう。宮本家と藤原家の縁談には、裏で商業的な思惑も絡んでいる。私は彼女の配信画面にちらりと目をやるだけで、動こうとはしない。コメント欄には、私を罵る言葉が次々と流れていく。【誰よこれ、まるで乞食みたいな格好。誰もドレスコード教えてあげなかったの?】【ここは宮本家のお嬢さまの婚約