Mag-log in孝也と綾香とは、まるで兄弟のように過ごした。夕飯を一緒に取ることも多かったし、離れに来て一緒に勉強をすることも日常的になっていたので、親密な関係になるのは当然だった。
高辻の離れで生活するようになって2年ほどたった夏休みに、伊豆の別邸に2週間ほど滞在した。
「廉くん、この道を下りていくとうちが持っているビーチがあるの。宮島さんと紫衣さんと私で、家の換気をするから、荷物をそこに置いたら孝也たちを連れて少し遊んで来て」
木が覆いかぶさるように重なり、日陰を作っている小径を3人で海の方へ下って行く。
「綾香、ここ滑るから気をつけて下りて」
ぬかるんだ下り坂で綾香の小さな手を取る。細くて白い小さな手だった。
着いた先は、両側を石の防波堤で区切られた砂浜だった。別荘地ごとに割り当てられているプライベートビーチだ。
「久しぶりに来たら、砂浜が海藻まみれだ」
孝也がそう言って、落ちている海藻や小枝、打ち上げられているゴミを拾って集めていく。
「孝くん、お掃除が好きだね。廉くんも一緒に拾お」
綾香がそう言って手を離して、孝也と同じように海藻を拾い始めた。小さな手が自分のもとを離れるのがふっと寂しく感じた。
「昼間は暑いから、夕方になったら泳ぎに来ようね」
しゃがんで海藻を拾っていた綾香がそう言って笑いかける。
「え、俺、昼ごはん食べたらすぐ泳ごうと思ってたけど。ま、いいや。綾香は家で涼んでれば?俺と廉くんは、海の男になるからさ」
「孝也、俺は、別に海の男にならなくてもいいんだけど」
からかうように返すと、孝也が、俺は今年裏表がわからないくらい日に焼けて、裏表のない男っていうギャグを夏休み明けに言う予定にしてるんだよ、とくだらないことを言って笑わせた。昼食の後、綾香は夫人や母と一緒に夕飯の買い出しに行くと言って、近くのスーパーに出かけて行った。日中は孝也と海で遊び、疲れたら家に戻って涼しい部屋でのんびりと過ごした。
水無瀬の家にいたときも、家を出てからもこんなに気の休まったことは無かった。
夫人がこの場所に母と自分を誘ったのは、離婚裁判が長引き、最近になってますます水無瀬の祖父母が自分の生活に干渉するようになったからだ。そしてこの2週間の内に恐らく決着がつきそうなのだ。
水無瀬家の跡取りとしてどうしても自分が欲しい祖父母は、母の実家の経済状況を持ち出して、他人の家に間借りをしている母に子育てができる経済環境は無い、と訴えている。また、自分たちを匿っている高辻家に対しても訴訟をする予定がある、と公言しているらしい。学校行事に現れる祖父母を見る度に、いったい父はこの状況をどう思っているのか、と感じた。
離婚裁判は、母と父の間で行われている。争点は自分の親権。親権獲得で不利にならないように婚費はすぐに支払われているらしい。しかし、話し合いの席に父が出てくることは必要最小限のようで、それも祖父母に連れられてという形らしい。
千綾子夫人や母は、自分に極力こうした状況を打ち明けないが、高辻社長は、『これは君の人生に関わることだから知っているべき』と要望すればすべて教えてくれる。
「千綾子がこの裁判に胸を痛め始めていてね。紫衣さんが辛そうだと。なので、廉くんには申し訳ないが君のお父さんにひと働きしてもらおうと思っているんだ。彼自身の口から裁判官の前で『自分は子どもを欲していない』と発言してもらおうかと。君には酷な話だが、まぁ、彼の本心ではなくてもそう誘導することは、難しくなさそうなんだ」
「彼がそう言うとしたら、それは本心だと思いますよ。僕も彼を父だと感じたことはほとんどないので」
口にしてみてもさして感慨も無かった。目の前で高辻社長が困ったような笑みを浮かべる。
「君みたいな息子を欲しがらないなんて、本当にどうしようもないね」
そして、自分は、千綾子の為には何でもするつもりだ。つまり君たちは絶対に勝つ。だから、心配しないでくれ、と約束してくれた。
潮風が薫る夕暮れのテラスで、その時の話を思い出していた。向こうに帰る頃には、きっと朗報が聞けるだろう。そうすれば母の顔に時折浮かぶ影も無くなるはずだ。
「廉くん、疲れてる?」
横から綾香が心配そうに見つめていた。
「孝くんに付き合って、泳ぎ過ぎたんでしょ。もう、海に行くのイヤ?」
大きめのTシャツの肩口から下につけている水着の肩ひもが見えている。
「いや、大丈夫。一緒に行こうか。孝也は?」
「疲れて寝ちゃってる。リビングで。日焼けのし過ぎで背中が痛くてソファにもたれてないと寝れないって。廉くんも無理しなくてもいいよ。一人でも全然大丈夫だし」
「海に一人で行っちゃダメだよ。一緒に行くから待って」
浮き輪を抱え、二人で手を繋いで小道を下りる。
「日が落ちるまでの間の海が一番好きなの。海にね、半分太陽が沈むと、オレンジ色の道ができるのよ」
綾香が嬉しそうに言う。高辻社長の言う『天使』の意味が分かる気がする。この無垢な笑顔は大切にされるべきものだ。
綾香の座っている大きな浮輪を押すようにして海の中で進む。静かな浜辺で夕日が投げるオレンジ色の空気を二人で纏う。
「さっきスーパーでスイカ買って来たの。だから、明日、絶対にここでスイカ割りしようね」
小さな手で水を掻くようにして、浮輪をくるくると回して綾香が笑う。日が沈み切って暗くなる頃まで、ずっと二人で心地よい波に揺られていた。
翌日、デートと言って連れて来られたのは、いつぞや来た海辺のホテルだった。あの時は、夜も遅い時間だったので周囲が見えていなかったが、木立に囲まれた一棟ずつのヴィラになっているようだ。「明るい時間に来ると、また雰囲気が違うのね。建物も少しずつ形が違う」「海岸に向かって傾斜地を利用して、全部で6棟あるんだ。家族連れで利用できるものもあるよ」以前に食事をしたのと同じ棟に入る。「プライベートビーチに続く道が、すべての棟の裏手に繋がってるんだ。今度は、夏に来よう」部屋に入ると、前と同じようにダイニングテーブルが花で飾られていた。しかし、食事の前に見せたいものがあるから、と螺旋階段を昇って上階に向かう。以前に来たときは、夜の海を窓越しに見た。今はちょうど夕暮れ時で、部屋に西日が差し込んでいる。ベッドルームの先に籐製の大きなカウチが置いてある広いテラスがあった。「うわ‥‥」建物から張り出した形のテラスのちょうど正面に、まさしく日が沈んでいこうとする海が広がっている。穏やかな波の先に周囲の仄暗さを際立たせるように、中心の宝石のような輝きがあり、そこからオレンジ色の輝く道筋がこちらに向かって伸びていた。「すごい。幻想的。オレンジの道がここまで届きそう‥‥」思わず、手すりに身を乗り出して、その景色に見入っていた。「さすがね。やっぱり、廉は、海の男‥‥」からかうように言いながら後ろを振り向くと、廉が片膝をついて、しゃがんでいる。そして手にはビロード張りの赤い箱がある。絵にかいたような王道の‥‥「高辻綾香さん、俺と結婚してくれませんか」絶対に断られない、という自信のある余裕の笑顔に、一瞬、その答えをどうしようか迷った。自分のプロポーズは、保留にされたままなのにこれはズルい、とも思うし、あまりに王道過ぎるこのスタイルに突っ込みも入れたかった。でも、目の前の自信満々の笑みが余りに可愛くて、愛しくて、到底、意地悪をする気にはなれない。じわじわと体の奥から滲み出る喜びで、口元から笑みが零れる。「はい。喜んでお受けします。一生、廉と一緒に幸せに
父の幼稚な逃避行動は、それから1年もしないうちにあっけなく終わった。孝也のところに女の子が生まれたのだ。当初、子どもはもう少し先、と言っていた2人だったが、よく検討すると、孝也が学生であるうちの方が時間に融通が利き、エリカがキャリアを重ねながら、子育てをするのに都合が良いのではないか? となったらしい。両親は、初孫に舞い上がり、離れを改装して、そこに子どものプレイルームを作る暴走ぶりだった。あれだけ廉から2人の関係を明言されるのを嫌がっていたくせに、初孫の綾奈を抱きながら、「綾香、孫は何人いてもお父さん面倒見るから! やっぱり体力のあるうちにリタイアするって大事だな。廉くんに感謝しないとな」とニヤニヤしていた。そして、組織のトップを廉に譲ることを取締役会で提案し、さっさと会社の経営から身を引いてしまった。今期から、廉は、セルリアングループの代表取締役となっている。この決定の少し前に、綾香は会社を辞めた。創業者の娘が次の代表の婚約者で、さらに秘書課で誰かの秘書として働くというのは無理がある、という自分の判断と、もう一つは、自分のやりたいことはなんだろう、を深く考えた結果だった。秘書の仕事はやりがいもあり、自分の性格にも合っていた。しかし、これが自分の一生やりたいことか、と問うと釈然としない何かが残る。そして、情熱を注げるものはなんだろう、と模索してみると、ずっとやり続けて苦にならないのは家事、そのうち特に料理だった。そこで、紫衣さんの料理教室に通うようになり、生きることの根源は食べることだと知り、もう少し深く取り組んでみようと考えたのだ。「家事が好きなら、専務と結婚して専業主婦でも良かったんじゃない?」綾香の部屋で朱莉がコーヒーを飲みながら、焼き立てのアップルパイを食べている。「まぁ、それも忙しい夫を支えるっていう意味では魅力的だと思うよ。でも、今はまだ結婚もしていないし、いろいろ選択肢があるなって思って」結局、綾香は、オンラインで栄養学を学びながら、紫衣さんの教室で料理を教わる傍らアシスタントをすることになった。紫衣さんのサポート的な役割をこなす内に、秘書時代の
ウェディングパーティーが終わり、ホテルの部屋へと引き上げる。廉は、この後も取引先の人たちと上階のバーでお付き合いがあるようだ。部屋に戻り、バスタブに湯を張って、イランイランのオイルを垂らして入る。ふぅ~甘い匂いが心を落ち着かせる。とてもいい結婚式だった。天気にも恵まれたし、何より御園さんと藤堂課長がとても幸せそうで羨ましくなった。目を瞑ってバスタブに沈み込むように浸かる。まだ、プロポーズも何もされていないけれど、廉が自分との将来を考えてくれていることぐらいは、わかっている。だからこそ、父と話をしようとしてくれているのだし。ぼんやりと長風呂をしていると、廉が部屋に戻って来た気配がする。「綾香、俺も入っていい?」バスルームを覗き込んで、もう、半分シャツを脱ぎかけている。少し、顔が赤い。いつもより飲んでいるようだ。湯船から手首を出して、おいでおいでと手招きした。背後から綾香を抱きかかえるようにして廉が入る。浴槽から湯が溢れてバスルームの床が洪水になる。廉と指を絡めて、その胸にもたれた。「いい結婚式だったわ。ここのロケーションは最高ね」「今後の開発で、このホテルとさっきのチャペルの周辺は、なるべく雰囲気を変えないように改装する予定だ。ここは古いけどいい建物だしね」廉が、絡めた指で自分の薬指をさすっている。廉は父の態度をどう思っているだろうか。もしかしたら、ああいう父親と家族になるのはごめんだと思っているのかもしれない。「廉‥‥」「ん?」「私‥‥廉と家族になりたいな‥‥」綾香の指をさすっていた節の大きい指が止まる。そしてぎゅっと指を絡ませて手を握った。「お父さんがどうしてあんな態度を取るのかわからないけど‥‥もし、廉がお父さんのことを嫌だって思うなら、別に高辻の家と付き合いをもたなくてもいい‥‥」廉が首筋に額を擦り付けて笑い始める。「社長が聞いたら、卒倒しそうだな。ふははは」軽く首筋に唇を押し付けて、撫でるように触れる。それだけで心地よさが背筋を伝う。
自分と廉との関係が当たり前のように社内で扱われるようになった頃、廉が、きちんと社長と話をしよう、と相談してくれた。父は、廉のことを高く買っているし、こうして会社を任せようとまでしているのだから、きっと喜ぶに違いない、と正直たかをくくっていた。廉と2人で話がある、と約束して自宅へ戻った日、父は、急な出張でアメリカへ行くことになった、とバタバタと目の前で出かけて行ってしまった。ここ1年ほどは、会社の顔としての海外とのやりとりはほとんど廉がしていたはずなのに。仮に、社長が出向くような案件があったとして、廉に知らされないということがあるだろうか?玄関先で、肩透かしをくらい、そっと隣に立つ廉の表情を見ると、目を細めて何かを思案しているようだった。母は、2人の関係について、もちろん、わかってましたよ!という感じで、大喜びだった。そして、その場で紫衣さんに電話をして、きゃぁきゃぁとはしゃいでいた。「廉、紫衣さんは‥‥お母さんは、私とのことを知っていたの?」「もちろんだよ。ここに来る前にちゃんと話をして来た。社長が認めてくれたら、改めて母も挨拶に来たいと言ってた‥‥んだけどな」日を改めて、自宅が難しいのであれば会社近くの料亭でも、と父との話し合いの場を持とうと幾度か約束を繰り返したが、毎回、直前になって都合が悪くなり、話をすることができない。廉だって忙しい合間をぬって時間を作っているのに、父は勝手なのではないかと綾香は腹を立てはじめていた。そして、それを宥める廉の様子を見て、さすがに何かあるのでは、とも感じた。「綾香、明日、時間があるかな」金曜の夜、韓国にいる廉から電話でそう聞かれた。彼の帰国は明日の夕方頃の予定だ。「どうしたの? 明日は午前中に紫衣さんの教室に行く予定だったけど」「それって横浜の教室だよね。終わった後、会える?」「大丈夫だけど。こっちに戻ってくるの夕方になっちゃうよ?」「俺が横浜の家の方まで行くから、そっちで待ち合わせよう」いつもなら教室終わりに実家に寄るので、実家近くで待ち合わせて、少々、だまし討ちのような形でようやく父
台湾南部の半島の先にあるビーチの側のチャペルの待合室で、綾香は小さな女の子を抱いていた。朝から結婚式の準備の為に周りがバタバタとしていて、落ち着かなかったせいか、さっきまでグズグズと泣き続けていたその子は、今は綾香の腕の中でぐっすり眠っている。「寝た?」廉が後ろから、綾香の腕の中を覗き込む。口に指をつけて、シーっというそぶりをしながら小声で返す。「このまま式の間も寝てくれるといいけど」小さな唇をムグムグと動かして、母親の乳首を探すようなその様子に、思わず笑みがこぼれる。「可愛いな‥‥」覗き込んだ廉がそう呟く。フッとこの状況に色々な妄想が湧いて、幸せな気持ちになった。「綾香、そろそろ席の方へ行けそう?」待合室のドアが開き、朱莉が顔を出す。廉を見つけて、ぺこりと礼をする。「もう、新郎新婦の入場が始まるみたいなの。大丈夫そうなら席に着いて欲しいって会場の人が」「わかったわ。すぐに行くね」そう言って立ち上がろうとすると、廉が体を支えて手伝ってくれた。感謝のつもりで頬に軽く唇をあてる。待合室から出ると、海に向かって作られたオープンコテージ風のチャペルに多くの参列客が着席している。案内された前列の席へと向かう。腕に抱いた子どもを起こさないように注意して席に着いた。静かにオルガンが讃美歌を奏で始めると、コテージの入り口の花で飾られたアーチをくぐって、白いレースのウェディングドレスを纏った御園さんが、父親に手を引かれ、祭壇の方へと静かに歩いてくる。その姿を見つめる藤堂課長(今は台湾支社の支社長だが)の表情には、妻への愛情とこの日の喜びが溢れていた。あれから1年。台湾南部のリゾート開発の責任者として、藤堂課長は支社長として台湾へ赴任した。御園さんの退職は、これを見据えたものだったのだが、日本での出産の後、先日ようやく台湾へ娘とともにやってきたのだ。そして、綾香は、今日、そんな2人の結婚式に参列している。背景に青い海の広がる祭壇で、愛を誓いあう2人の、その幸せそうな表情に胸が熱くなってしまう。
別れた場所から、そう遠くない場所にあるセルリアン系列のホテルのスィートにいると連絡があった。『着物を直してもらえる? 』というメッセージに、すべてが理解できた。もう、まったく‥‥一瞬、孝也に呆れそうになったが、さっきまで自分がどういう状況にあったかを思い出すと、そんなことを言える立場ではないと思い直した。手早く着物を着直して、廉の車でホテルに向かう。「悪い、綾香。その‥‥着物って脱いだら簡単に着れないのな‥‥」恥ずかし気に照れながら部屋から孝也が顔を覗かせる。孝也には廉と一緒にロビーで待っていてもらうように言って、部屋から出て貰った。部屋から放り出された孝也に、廉が『お前はいつまで盛ってんだよ。ホント、懲りないね‥‥』と説教をしていたが、どの口が言ってるんだか、と思って目を合わすと、片方の眉を上げて、黙ってエレベーターへと向かっていった。「ごめんね、綾香‥‥着物って難しいのね」エリカが襦袢の襟元を握って申し訳なさそうに言って項垂れる。 正直、兄の情事の痕跡のある部屋に入るのは、非常に複雑ではあったけれど、シュンとしているエリカに大丈夫だよと伝えてあげたくて、孝也には出て貰ったのだ。「大丈夫。エリカも良かったら今度、母に着付けを教えてもらうといいよ。たぶん、母はすごく喜んで教えてくれるから」襦袢を着つけていると、綺麗なうなじや肩甲骨の辺りに点々と痕が残っていて、さすがに少し恥ずかしくなってしまう。「‥‥綾香は、私が家族になるのは、嫌じゃないの?」エリカのうなじが薄赤く色づいている。「その‥‥私、女性の友達を作るのがあまり上手じゃなくて‥‥なんて言うか、たぶん、可愛げがないから」あぁ、そうか。完璧に見えるエリカは、その容姿でも才能でもきっと妬まれてきたに違いない。実際、綾香もエリカと自分を比べてどうしようもなく妬んでいた。エリカがここまで優秀な経歴を持つには、それ相応の努力を重ねたはずなのだ。そして、その努力と外見の美醜とは全く関係が無い。綾香は、改めて、問題は、自分自身の卑