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第101話

Author: marimo
last update publish date: 2026-04-01 20:15:40

南條颯斗が一条櫻羅の腕を引き、そのまま迷いなく会場を後にしていく。その一連の流れを、少し離れた位置から静かに見ていた神楽坂悠臣は、わずかに目を細めた。引き止めることも、声を掛けることもせず、ただその背中を見送る。

やがて、叶翔と瑛士と視線が交差する。言葉は交わさなかったが、互いに何を考えているのかは理解していた。だが悠臣だけは、二人とは別の行動を取るように、小さく肩をすくめると、そのまま一人で会場の中へと足を踏み入れた。

再び広がる豪奢な空間。先ほどと変わらぬ華やかさの中で、悠臣の視線はすぐに会場の中央へと向かう。そこには、相変わらず人だかりの中心にいるレオン・クロフォードの姿があった。彼は複数の来賓に囲まれ、淡々と会話を続けている。その表情に感情の起伏はほとんど見られないが、それでも周囲の人間は彼の一言一言に神経を尖らせているのが分かった。

悠臣は足を止め、その光景を観察するように眺めていた。すると、そのすぐ横を、一人の男が静かに通り過ぎていく。迷いのない足取りで、まっすぐに会場の中心へ向かっていくその背中に、悠臣は思わず目を向けた。

「一条竜星」

低く呟く。そこにいたのは、一条櫻
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