LOGINその夜――。九条邸の食堂には、いつになく賑やかな声が響いていた。大きなテーブルを囲んでいるのは、叶翔と櫻羅、和真と心春、そして会社から戻ってきた玲司。そこへ、綾乃と鷹宮正隆も加わった。いつもなら、それぞれが仕事や用事に追われ、全員が一つの食卓に揃うことなど、そう多くはない。だからこそ、今日の食事はどこか特別だった。正隆は席に着きながら、周囲を見回した。自分の娘。孫たち。そして、その伴侶たち。かつては小さかった子供たちが、今では立派な大人になり、それぞれの人生を歩んでいる。その光景を目の前にすると、正隆の胸には言葉にできないほどの温かさが込み上げてきた。「やぁ、今日はいったい何の集まりだ?」正隆は少し驚いたように言った。けれど、その声には嬉しさが滲んでいる。こんなに賑やかな夕食の席は久しぶりだった。綾乃もそんな父の表情を見て、自然と笑顔になる。――今日は、お父さんに少しでも楽しい時間を過ごしてもらいたい。昼間、久しぶりに訪れた鷹宮邸で、幼い頃の記憶を思い出した。父と母と自分。あの頃は当たり前だった家族の時間。今はもう母はいない。だからこそ、こうして父と家族みんなで食卓を囲めることが、綾乃にはとても大切なことに思えた。「お父さん、ここに座ってね」綾乃はそう言って、自分の隣の席へ正隆を座らせた。そして正隆の隣には、和真と心春が並ぶ。正隆は二人を見て、満足そうに微笑んだ。自分の家を継いだ和真。そして、その隣に寄り添う心春。――この二人も、いろいろあったが、今は幸せそうだ。正隆はそんなことを思いながら、二人の姿を眺めていた。すると玲司が綾乃に小さく頷く。「少し席を外すが、先に始めてくれ」そう言って、綾乃とともに食堂を出ていった。二人が向かったのは、玲司の書斎だった。残された皆は、一瞬顔を見合わせる。何の話なのだろう。そんな疑問がそれぞれの胸に浮かんだ。しかし、叶翔が明るい声を上げた。「爺ちゃん、腹へっただろう?先に始めよう」その一言で、食卓の空気が再び和らいだ。叶翔は正隆の前に置かれたグラスを手に取ると、酒を注いだ。「爺ちゃんはワインの方がいいのか?」そう聞かれ、正隆は嬉しそうに笑う。「叶翔に酌をしてもらえるなら、何でも飲むぞ」「ははっ」叶翔も笑った。だが、すぐに正隆の顔を覗き込む
綾乃は、ゆっくりと鷹宮邸の門をくぐっていた。門をくぐった瞬間、不思議な感覚に包まれる。懐かしい。胸の奥にしまい込んでいた遠い記憶が、屋敷の佇まいや庭の木々を目にしただけで、次々と蘇ってくるようだった。――帰ってきたんだ……。ここは、自分が子供の頃から育った生家。小さな頃は当たり前のように毎日を過ごしていた場所なのに、大人になり、九条家へ嫁いでからは、以前ほどここへ足を運ばなくなっていた。特に心春が鷹宮家に入ってからは、なおさらだった。心春のこともあり、父との時間を作ることはあっても、こうして一人で屋敷を訪れることは少なくなっていた。綾乃は歩みを止め、庭へ視線を向けた。昔と変わらない庭。季節によって表情を変える木々。幼い頃、母と一緒に眺めた花壇。そして――小さな頃に亡くなった母の思い出。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。母と過ごした時間は決して長くなかった。それでも、ここには母との思い出がたくさん残っている。庭を走り回ったこと。父に叱られたこと。母に抱きしめてもらったこと。どれも遠い昔の記憶なのに、こうしてこの場所へ戻ってくると、昨日のことのように感じられた。綾乃がそんな昔の思い出に浸っていると――「お嬢様! おかえりなさいませ」突然声を掛けられ、綾乃はハッと我に返った。振り返る。そこには、懐かしい顔があった。自分が子供の頃から仕えてくれている家政婦――鈴木芳子だった。綾乃は思わず笑顔になる。「芳子さん……ただいま。でも、お嬢様って……」そう言うと、芳子も嬉しそうに手を口元へ当てて笑った。「お嬢様はお嬢様ですよ、いつまでたっても、私にとってはそうです」その言葉を聞いた瞬間、綾乃の胸に温かなものが広がった。自分はもう、あの頃の少女ではない。九条家へ嫁ぎ、夫を支え、子供たちを育て、今では祖父母の立場に近づきつつある。それでも芳子にとって、自分はいつまでもこの家のお嬢様なのだ。――なんだか、嬉しい。綾乃はそんな気持ちを胸に、芳子に促されるまま屋敷の中へ入った。玄関を抜けると、さらに懐かしさが込み上げてくる。何度も歩いた廊下。何度も開け閉めした扉。幼い自分が父に手を引かれて歩いた場所。一歩進むたびに、昔の自分の姿がどこかに隠れているような気がした。「お父さんは、書斎かしら?」綾乃が尋ねると
翌日――。九条邸の玄関先に、一台のスポーツカーが静かに滑り込んできた。車から降りた心春と和真は、自然な動作で腕を組んでいた。昨日までの二人の間にあった、どこか重苦しい空気はもうない。心春は和真の腕に自分の腕を絡ませながら、嬉しそうに笑っている。その姿を玄関で待っていた綾乃が見つけた瞬間、胸の奥にあった緊張が一気にほどけた。――よかった。本当によかった。昨夜、二人が出て行ってからも、綾乃の胸にはずっと不安が残っていた。親としては、二人なら大丈夫だと思いたい。けれど、心春は自分にとってかけがえのない娘だ。和真との間に何かが起こって、心春が泣いて帰ってくることだけは、どうしても耐えられなかった。だからこそ、今こうして二人が寄り添って戻ってきたことが、何より嬉しかった。綾乃は思わず胸をなでおろした。「ママぁ、ただいま!!」弾んだ声とともに、心春が綾乃の胸に飛び込んでくる。「おかえりなさい、心春」綾乃は笑いながら、その小さな頃から変わらない娘の体をしっかりと受け止めた。そして心春の背中を優しく撫でる。娘が大人になった今でも、こうして抱きついてくる。そのことが可愛くて仕方がない。顔を上げると、少し離れたところで笑っている和真と目が合った。和真もまた、安心したような顔をしている。綾乃は心春の背中を撫でながら言った。「この子ったら、小さい頃と変わらないのよね」「もう、ママ!」心春は綾乃から離れると、頬を膨らませた。「これは儀式みたいなものなの!!それよりママ、昨日のホテルはサイコーだったわよ。すっごくロマンチックな部屋だったの」心春の顔が一気に明るくなる。どうやら昨日のホテルで過ごした時間が、よほど嬉しかったらしい。綾乃はそんな娘を見て、思わず笑ってしまった。つい昨日まで、あんなに不安そうな顔をしていたのに。――女の子って、本当に恋をすると変わるものね。心春は綾乃の後をついて歩きながら、昨夜のホテルがどうステキだったか、それを和真が内緒で予約してくれていたなどと、ずっと話して聞かせていた。「それでね、部屋から海が見えて――」「まあ、そんなに素敵だったの?」「そうなの! それにね――」心春の話は止まらない。綾乃は何度も相槌を打ちながら、心の中で小さく笑っていた。――本当に元気になったのね。それが何より嬉
「お前は何を知っているんだ?」玲司は美玲の目を見ながら聞いた。先ほどから感じていた違和感。美玲は、ただ壮真の浮気を愚痴るためにここへ来たわけではない。雪乃の名前を口にしたときの反応も、和真の子供だという話を聞いたときの表情も、何もかもが妙に具体的だった。――美玲は、何かを知っている。そう確信していた。美玲は持っていたフォークを皿に置くと、小さくため息をついた。そして少しだけ目を伏せる。「その子は、和真の子じゃないわ」その言葉を聞いた玲司の表情が変わった。美玲は何かを決意したように、ゆっくりと顔を上げた。玲司は相変わらず美玲の方を見ながら聞く。「では、なぜあの女はそう言ってきたと思う?」美玲は目を閉じて小さく息を吐いた。言葉にするのが辛いのだろう。それでも、もう隠しておくつもりはないようだった。やがて顔を上げ、玲司をまっすぐ見つめる。「その子は、壮真の子なの」「……何?」玲司は驚いて目を見開いた。その瞬間、頭の中でこれまでの出来事が一気につながっていく。雪乃。康太。壮真。そして和真。玲司は、和真が昔遊びで付き合った女が、黙って子供を産んだのかもしれないと考えていた。だからこそ、今になって声を上げてきたことの意味を考えていたのだ。しかし、それ以上に怖かったのは――心春のことだった。もし本当に和真の子供だったら。たとえ過去の出来事だったとしても、心春は深く傷つくだろう。自分の最愛の娘が、夫の隠された過去を突然目の前に突きつけられる。そして、この先もその「既成事実」を目の当たりにしたまま、心春が心から幸せになれなくなることの方が、玲司には恐ろしかった。父親として、何としてでも心春を守りたかった。だからこそ、玲司は雪乃の背後にある事情を探ろうとしていた。ところが――。まさか、その子が壮真の子だったとは。「なぜ知っている?」玲司の問いに、美玲は自嘲気味に笑った。「知ってるわよ。彼女があの子を産んですぐから。でも、壮真は逃げたのよ。あの『愛人の玲子』の一言で。和真の子供かもしれないわよって言われて、その言葉を鵜呑みにしたの。私たちにも子供はできなかった……そうよね、だって壮真は、お金のために私と結婚したんだから。だから、あの人と私には体の関係すらさして無いもの」淡々と話しているように見えた。だが、
食事と飲み物の注文を済ませると、個室には二人きりの静かな空間が戻ってきた。先ほどまで店員がいたことで途切れていた緊張感が、再び二人の間に漂い始める。玲司はテーブルの向こうに座る美玲を見つめていた。幼い頃から知っている女だ。それだけに、美玲がわざわざ自分を呼び出した理由が気になって仕方がない。美玲はそんな玲司の表情をしばらく眺めていたが、やがて口元に小さな笑みを浮かべた。「警戒してるでしょ」その言葉に、玲司は自分が眉間にしわを寄せていたことに気づいた。確かに、警戒している。美玲が会社まで来て、しかも一時間も待っていた。それだけでも普通ではない。玲司は少しだけ表情をやわらげると答えた。「いや……突然現れたからな。何か困っていることでもあるのか?」玲司は水のグラスを手に取った。冷たい水を一口飲みながら、美玲の顔をじっと見る。美玲はそんな玲司の様子を黙って見ていた。昔からそうだった。玲司が何かを考えているときの表情を、美玲はよく知っている。幼馴染だった頃なら、こんな沈黙も気にならなかっただろう。しかし今は違う。二人の間には、それぞれの家や夫婦関係、そして長い年月が積み重なっている。美玲はふと、窓の外へと目を向けた。そして、まるで世間話でもするような淡々とした口調で言った。「壮真が浮気してるの」玲司の動きが一瞬止まった。水のグラスをテーブルに置き、テーブルの上で指を組む。そして、いかにも玲司らしい冷静な声で答えた。「それは前からだろう?」美玲も玲司へ視線を戻し、ニコッと笑った。その笑顔には、どこか乾いたものがあった。「ええ、そうね。でも今回はちょっと違うの」その一言に、玲司の胸の中に小さな警戒心が走った。――やはり、それだけではない。美玲はテーブルに肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる。そして玲司の目を凝視した。「玲司のところに来たんでしょ? 神山雪乃とその子供が」玲司の目がわずかに細くなった。美玲は、もう知っている。やはり今日の訪問は、これが目的だったのか。玲司はお手拭きで手を拭いていたが、その手を止め、美玲の目を見た。二人の間に、張り詰めた空気が流れる。「失礼します」そのときだった。突然、個室の扉がノックされた。二人は同時にそちらへ目を向ける。店員が、二人が注文した料理とコーヒーを手
温泉旅館から自宅へ綾乃を送ったあと、玲司はそのまま会社へと向かっていた。車を走らせながら、玲司の脳裏には先ほどまで一緒にいた綾乃の顔が浮かんでいた。温泉旅館で過ごした時間は、久しぶりに何も考えず、綾乃とゆっくり過ごせた時間だった。――こういう時間も、悪くないな。そんなことを考えながら、玲司は九条ホールディングスへ向かった。地下駐車場に車を停め、一階のロビーへ上がったところで、受付付近にいた警備員から声を掛けられた。「会長、お客様がお待ちです」「客?」玲司は足を止めた。誰だ?今日、来客の予定などあっただろうか。少し考えながらロビーを見渡す。すると、待合いソファに一人の女性が座っているのが目に入った。長い脚を組み、スマートフォンを眺めながら、どこか退屈そうにしている。玲司は目を細めた。――まさか……。女性が玲司の視線に気づいた。顔を上げた瞬間、その表情がぱっと明るくなる。そして立ち上がった。「玲司!!久しぶりね」ヒールの音を響かせながら近づいてくる。鳳条美玲―――現在の神崎美玲だった。玲司は一瞬、言葉を失った。幼い頃から知っている女。家同士の付き合いもあり、子供の頃には何度も顔を合わせていた。まだ互いに何も背負っていなかった頃。家の事情も、財閥の跡継ぎという立場も、政略結婚も知らなかった時代だ。美玲にとって玲司は幼馴染。そして玲司にとっても、美玲は長い年月を知る、数少ない旧知の人間だった。だからこそ、玲司は完全に冷たく突き放すこともできなかった。「美玲―――いつから居たんだ?」幾分か表情をやわらげて聞く。「一時間くらい前からかしら。玲司、もうお昼は食べた?」美玲は昔と変わらないような笑顔を浮かべていた。しかし玲司は、その笑顔の奥に何か別のものがあるような気がしてならなかった。―― 一時間も?いったい何の用だ。わざわざ会社まで来て、一時間も自分を待っていた。ただ昔話をするためとは思えない。玲司は腕時計へ目を落とした。すでに昼を過ぎている。今朝は温泉旅館で朝食をとったためか、あまり空腹感はなかった。「いや、まだだが」「そう、じゃぁ少しだけ付き合って」美玲はそう言うと、玲司の腕を取った。昔なら、こんなことをされても玲司はさほど気にしなかったかもしれない。幼い頃から知っている相手だ。







