ログイン
朝靄(あさもや)がまだ晴れきらぬ掃司の裏庭、井戸端に、むしろが一枚かぶせられていた。
その端からはみ出た手は、青く硬ばったまま、爪のひとつひとつに黒ずんだ血を含んでいた。
「病死にござる。夜通し風邪を患うて、息を引き取ったのであろう」
欠伸を噛み殺しながら、亡骸の口から銀の簪を抜いて見せたのは、薬師寮の典薬 藤堂 英知であった。
明けの光のもと、簪は塵ひとつなく白く光っていた。
「ご覧あれ。清らかではないか。毒ならば、真っ黒に死んでおるはず」
取り囲む女医たちが揃って頷くなか、膝をつき、亡骸の指を一本ずつ開いて確かめている下っ端の検屍女医だけが、顔を上げなかった。
「医乃、そこで何をしておる。お典薬が病死と仰せなら、病死じゃ」
女医の長(かしら)が目尻を吊り上げても、その手は止まらない。
3月前、南の郷から上がってきたこの検屍女医を、女医所で歓迎する者は誰もいなかった。
火傷の痕のせいもあれば、亡骸を前にして度を越して冷静な性のせいもあった。
その女医がかつて、廃されて業火の中で死んだと記された、この国の中宮(きさき)であったことは、宮(みや)の誰ひとりとして知らぬ。
「毒殺にございます」
小さからぬ声ではなかったが、井戸端は一瞬にして凍りつき、藤堂の眉がぴくりと動いた。
「今、何と申した」
「この女房は、毒で死んだと申し上げました、お典薬」
「銀の簪がこうも清らかじゃというに、何の毒じゃというのか!」
ようやく上げた顔。
左の頬の下から、耳の後ろを過ぎ、首筋まで這った古い火傷の痕が、明けの光の中にさらされた。
「銀の簪は、砒霜(ひそう)しか知りませぬ。砒霜ならざる毒の前では、何も申しませぬ」
背後にざわめきが広がる。
「下っ端の分際で……」
「検屍女医がいつから典薬の判定に口を挟むようになったのやら」
「あのままでは、咎めを受けるぞ。ちっ」
聞こえぬふりで亡骸の唇を指先で押すと、妙に強ばった口の端の向こうから、白く爛れた舌先が覗いた。
爪の下の血は、苦しみに藻掻いて床を掻きむしった痕である。
風邪で死ぬ者は、こうは死なぬ。
口から痺れはじめ、腹のものを残らず吐き、終いには息が詰まって絶える、そういう毒がある。
『附子じゃ』
「この女房、最期に口にしたは何じゃ」
掃司の女房ひとりが肩をすくめた。
「ゆ、昨夜(ゆうべ)、煎じ薬を一椀呑みました。咳がひどいからと、誰かが届けて……」
「誰が届けた」
女房たちは互いに目配せするばかりで、口を開く者はない。
医乃は裾を持ち上げ、井戸端の捨て水の口の前にしゃがみ込んだ。
一夜(いちや)の汚れ水のなかに凝った黒い滓を素手で掬い上げると、指一節ほどの根の欠片がひとつ、引っかかって上がってきた。
それを親指と人差し指に挟み、じわりと力を込めた。
ポキリ——
半ば透けた白い肉のあらわれた断面を、医乃は迷いなく舌先に当てて、すぐに吐き出した。
「こ、この娘、気でも触れたか!」
藤堂がぎょっとして後ずさるあいだに、舌先はもう針で刺されたように痺れはじめていた。
「附子にございます。煎じ薬に混ざれば、銀の簪では捉えられませぬ」
「附子じゃと……」
「薬師寮の薬種を、誰が持ち出したと言うのじゃ」
「声を落とせ、誰ぞ聞いておるやも」
藤堂の顔が赤くなったり青くなったりした。
「ど、どこぞで拾うた根か知れたものではあるまい! そのようなもの、何の証となろうか!」
「ゆえに、検屍書に書き残します。この水口のどの位置で、誰が見ている前で掬い上げたか、ひとつ残さず」
根の欠片が、藤堂の手の平の上にそっと落ちた。
「病死とお書きになるなら、お典薬が自ら舐めて、お書きなされませ」
熱い炭でも受けたように手を震わせながらも、藤堂はそれを払い落とすことができない。
医乃は、先ほど口を開いた掃司の女房に顔を向けた。
「煎じ薬の椀は、どこにございますか」
「そ、それが……明け方、誰かが下げてゆきました。顔は見えず、裳(も)の裾だけ……」
「何色でしたか」
唇だけ動かしていた女房が、怯えた顔で首を振る。
「わ、わかりませぬ。まことにございます」
わからぬという顔ではなかった。
口にしてはならぬ、と知る顔であった。
濡れた手を裳で拭きながら見下ろす亡骸の上に、2年前の夜が重なる。
あのときもこの宮のどこかで、銀の簪ひとつが黒く変じ、小さな手から茶碗が落ちた。
その音は、まだ耳を離れぬ。
ガチャン——
「母上(ははうえ)……」
「この毒は、砒霜ではございませぬ!」
簪の色だけを見れば砒霜であった。
されど砒霜に中(あた)ったのならば、血を吐くはずの幼子は、唇が青ざめてゆくあいだ、ただ小さな指先を震わせるばかりだった。
喉が裂けんばかりに叫んだその言葉に、あの夜、耳を傾けた者は誰もいなかった。
その夜のことは、ひとつとして正しくは記されなかった。
毒の名も、茶碗を手渡した手も、記録にはなく、よりにもよってあの日でなければならなかった理由を問う者もなかった。
『死せる者は嘘をつかぬ。ただ、言えぬだけ』
『わたくしが、代わりに書く』
「中宮の君、お成りー!」
井戸端の者が一斉に平伏するあいだに、医乃も額を土に当てた。
新しい中宮(きさき)が誰であるかは、とうに知れていた。
左大臣 橘 定方の次女。
廃后が追われてちょうど一月(ひとつき)の後に婚儀を上げた、廃后の異母妹。
知りながら、2年のあいだ、その顔だけは思い浮かべまいと努めてきた。
絹の裾がさらりと引かれる音より先に、香(こう)が届いた。
幼い花が、姉の部屋から密かに持ち出して塗っていた、あの梅香であった。
姉さま、わらわにもそれを。
姉さまのものは、みな美しい。
白粉(おしろい)も掛け香も絹靴も、姉のものならば何でもねだった幼い声が、耳をかすめた。
「何の騒ぎじゃ」
土をつかんだ指先に、我知らず力がこもる。
「中宮の君、この卑しき女医が、お典薬の判定を覆そうといたしましたゆえ……」
藤堂がいそいそと膝で前へにじり出た。
「ほう?」
縫いの沓(くつ)が目の前に止まったかと思うと、折り畳まれた扇の先が、医乃の顎の下に差し込まれた。
「面を上げよ」
息を整えて上げた顔の上に、鳳凰の文(もん)の袿(うちぎ)をまとった花が影を落とした。
姉の掛け香を欲しがった妹は、ついに姉の座まで奪った。
火傷の痕でひととき止まった花の目が、目元に長く留まるかと思うと、紅の唇の端がくいと上がる。
「おや」
「亡くなったわらわの姉さまに、まあ、何と似ていること」
医乃は額より手を離さぬまま、もう一方の手で傘の柄を握った。彼の手のちょうど上であった。「何時(いつ)より、熱(ねつ)がおありなさいました」「知らぬ」「お知りにならぬのではなく、お申しにならぬのでございます」柄を彼の方へ押して立て直そうとすれど、柄は微動だにしなかった。「そなたの懐の鉢が濡れるよりましじゃ」「鉢は、油紙に包んでございます」「ならば、そなたが濡れるよりましじゃ」医乃は柄を離さなかった。彼もまた、離さなかった。終いに唐傘はふたりのちょうど中ほどにまっすぐ立ち、宮の塀に至るまで、ふたりは並んで片の肩ずつ濡れた。脇門の敷居を越えつつ振り返った彼の横顔の上、雨か汗か知れぬものが、こめかみを伝うて流れた。唇の色が、闇の内にても白かった。***夜明け前より女医所の部屋の戸を叩いた伏見は、烏帽子の紐も結んでおらぬ顔をしていた。「主上が火の塊にあられまする。典薬(てんやく)を呼ばんとしたれば退けなさり、薬師寮の者は敷居も越えさせるなと仰せられ……。女医のみ参れとの仰せにございます」寝所の褥(しとね)の上で、煌仁は衾(ふすま)を首まで引き上げたまま、臥していた。昨夜塀の下にて取った額は、その間に、さらに燃え上がっていた。それなのに、彼は衾の内にて肩を縮めて震えていた。乾いた咳が破(は)ぜて脇を揺らすたび、彼の眉間が、刃にふたたび斬られる者のごとく狭まった。子の刻、雨中に
医乃が口元に耳をさらに近づけてみても、小珠からは息がゆき交うのみで、次の言葉は出なかった。袖口を掴んでいた指がほどけ、瞼がふたたび下りた。再び取った首筋には、先刻よりも確かに指先を押し上げる脈があった。眠りに落ちたのであった。顔を上げれば、広縁の上の煌仁が彼女を見ていた。何も問わぬ顔で、ただ彼女の口が開くのを待つ眼であった。医乃はその眼に短く頭を垂れ、薦ごと小珠を担架に移せと言いつけた。日の落つる頃、女医所の検屍の間の板の上でふたたび眼を開いた小珠に、蓮が温めた重湯を匙で含ませた。戸の外は、堀川が残していった下人がふたり、守っていた。「夜ごとに灰を運んでおりました」小珠は夜着の襟を顎の下まで引き上げ、震えていた。「別堂(べつどう)の裏の焚き口より出る灰を、桶に入れて池の水口(みなくち)に流しておりました。灰より、鉄の生臭が立っておりました。半年ほど経ちましたら、歯茎より血が出て、歯が揺らぎ……」「水銀、煉丹という言葉は、どこで聞いた」「別堂の戸の隙より……。灰を運び出せと申された御方が、今宵は煉丹がまだ足らぬ、水銀が未だ澄まぬと、独り言を仰せでした。わたくしは、それが何のことやら知りもせなんだ」「その御方は、誰じゃ」小珠の唇が、白く閉ざされた。瞳が戸の方へひとたび彷徨い、そのまま夜着の内へ逃げ込んだ。それ以上は問わず、医乃は小珠の爪の下より掻き出した灰色の澱を、銭ひとつに擦りつけた。黄なる銅の光が、擦られた箇所だけ、銀のごとく白く照った。蓮が口を大きく開いた。&
庭に満ちて平伏した女房たちの間から、悲鳴が破れた。「め、眼を……!」「骸が眼を開いた!」「物の怪じゃ、物の怪!」女房ひとりが後ずさって尻餅を突く間も、医乃は小珠の顔より眼を離さなかった。開いた二つの瞳は、何も見ぬまま、虚空に懸かっていた。女房が鏡を捧げて駆け出てくると、医乃は鏡を受け、小珠の鼻の下に近く寄せた。庭が、息をひそめた。磨き上げた銅の鏡の真ん中に、爪ほどの霧が結び、そして消えた。また、結んだ。「息をしておりまする」医乃は鏡を持ち上げ、広縁の上へ示した。「息は未だ、この身を去ってございませぬ」皇太后が膝の上の手を袖の内に納めた。南原 道玄の口の端に懸かった笑みが、初めて片側だけに残った。「御厨子所(みずしどころ)へ人を遣わしてくださりませ。甘草と緑豆をひと掴みずつ、水二杯を一杯に濃く煎じまするよう。それと、生温い塩水をひと鉢」煌仁が首を巡らすこともせずに伏見へ合図をすると、老蔵人は腰を押さえたまま回廊の方へ駆け出した。濡らした無名で小珠の顔を拭ってやると、白粉(おしろい)の落ちた跡の下から、熱の差したごとき紅(あか)い頬が現れた。唇を拭うと、無名の端に青き色が移った。蓼藍(たであい)の染料であった。誰かが生きた顔の上に、死者の顔の色を塗り置いていたのである。開いた口の内の舌は、ひからびて裂け、鼻を近づけると、口の内より甘ったるく生臭い草の匂いが昇った。「曼陀羅華(まん
医乃は敷居の向こうで、歩みを止めなかった。止めれば振り向くこととなり、振り向けば、眼を見られることとなる。背後から、花の笑い声が響いた。「母上もさように見えまするか。わらわも初めて見し折、誰かに似ておると申しました。骸の脇にて首をまっすぐ立てる眼にございます」「誰に似ておった」「……亡き姉上にございます」「中宮は、未だ姉の思いを捨てぬのう」皇太后の笑いが、低く続いた。閉まる戸が、その笑いを半ばで断った。女院御所の塀を出るまで、医乃は後を振り返らなかった。池風が入って却って涼しい広縁であったはずが、小袖の内は、しっとりと湿っていた。未の刻の茶の席にて、医乃は膏を替える手を止めた。魚市場の路地で開(あ)いた箇所のひと端が、糸の結び目の間からなお新しい血を出していた。「糸を抜く日が、3日は遅うなりました」「路地に参った値じゃ」「どなたが、ついて参れと申し上げました」煌仁が茶碗を取り上げては下ろした。「ひとりで参るなと申したのじゃ。朕を伴わず参るな、とは申さなんだ。此度より、さよう改めて伝えよう」返事もせず、巻き直す無名の最後の結び目を、わざと固く締めると、頭上で呻き声が洩れた。それでも顔は上げなかった。「女院御所にて、何を下されたか」「薬菓を下されましたが、口に入れてはおりませぬ。池には鯉がまたひとつ浮き、石の縁ごとに灰色の澱が乾きついてございました」&
医乃は盆の上に突いた手を、引くことができなかった。女院御所。この御方の嫡母(ちゃくぼ)の住まう御殿。中宮御所に住まった頃、朝ごとに文安(もんあん)に参上すると、いつも笑いながら手を取ってくださる御方であった。「……皇太后さまが、何故に」「妃候補(ひこうほ)の間別当(かんべっとう)は、女院御所の主宰じゃ」煌仁が焦げた草案を指先で押しやった。「中宮の候補の単子(たんし)が、事の3日前に蔵人所に入ったという。その単子を受け取った処も、女院御所であった。その後、女院御所は中宮の後ろ盾とならった」女院御所の池の鯉が腹を返すという蓮の饒舌が、唐突に耳をかすめた。「この件は、朕が引き受ける」草案を折って入れた文机の抽斗は、検屍書と白い簪の納まる、あの抽斗であった。「そなたは当分の間、女院御所のほうには足を向けるな」「……は、主上」答え終わるより前に、戸口の外が騒がしくなった。伏見が戸を開けると、紫の袿(うちぎ)を着た老いた女房がひとり、敷居の外に平伏していた。「女院御所の至密(しみつ)にございます。皇太后さまが、明朝の文安の席に、御前の女医も同席を、と仰せにございます。中宮さまが、尊き女医がおりますと奏上なされたとのこと」清涼殿のうちが凍てつくなか、煌仁の顎の筋がひとたび浮かび、沈んだ。皇太后の召しは、帝でも遮ることができぬ。遮れば、遮った由を、皇太后が先に問う。女房が退がると、煌仁が低く口を開いた。
医乃が紙から目を離さぬまま呼ぶと、無名の端を結んでいた蓮が顔を上げた。「灯明をもうひとつ運んでおくれ。今宵は、そなたの部屋にて眠ってくるがよい」「また、おひとりになさるおつもりですか」「骸の脇に居るのと同じじゃ。この紙にも、言い残したことがある」蓮は口を尖らせながらも、灯明をひとつ余分に点してから退がった。二つの灯明を紙の両脇に置くと、交わり合う光が紙の上の影をきれいに拭い去った。骸の前に座する折のように、彼女はひと息を整え、手を膝に置いた。まず、色味を見た。廃庶人 朝井の氏、その冒頭の画の先は、乾きながら青みを帯びていた。松を焚いて受けた煤で拵えた松煙(しょうえん)の墨が、そうなる。ところが罪目の行まで降りてくると、画の先が温かな光に褪せていた。油を焚いて受けた煤で拵えた墨が乾けば、必ずかく、茶に赤みの差す色となる。紙を斜めに傾ければ、冒頭の行は光を吸い込むようにしっとりと沈んだが、罪目の行だけ、漆を塗ったごとく照っていた。油煙に膠(にかわ)をたっぷり溶かさねば出ぬ艶であった。次に、折り目であった。蔵人所に入った草案は、半折にされ束に綴じられる。その縦の筋が通る冒頭の行の「廃」の字の真ん中は、墨が筋を追って細く裂けていた。先に乾いた墨の上を紙が折れ、墨の皮がはじけた跡であった。同じ筋が、罪目の行の「害」の字をも通っていた。ところが「害」の字の墨は、裂けるどころか、折れた谷を伝ってもったりと溜まり、ぷっくりと脹(ふく)らんでいた。すでに谷の付いた紙の上に筆を下ろしてこそ、墨はかく溜まるのである。冒頭の







