ログイン「お庭、広いですよね。しかもいろんな植物が植えられています」
ふと感想をもらした間遠へ、古川大貴は言った。「亡くなった祖母が、ガーデニングを趣味にしていたんです。その後は祖父が世話をしていました」「お一人で、ですか?」「さすがにそれは無理なので、孫の僕たちが手伝ってましたよ。ただ、この家もどうなってしまうか……」 古川大貴が沈んだ表情をし、間遠は静かに問いかける。「この家、取り壊してしまうんですか?」「親戚たちの間では、そういう話になっています。もう誰も住む人はいないので、土地ごと手放そうって」 寂しい話だ。これだけ立派な日本家屋が、じきに取り壊されて更地になってしまうなんて。「それじゃあ、ソラちゃんは?」「僕が引き取るつもりです。祖父の次に懐いていたのが僕なので」「そうですか」 猫に居場所があるだけマシだと思った間遠だが、あらためて窓の外を見てひらめいた。「Sって、桜じゃないですか?」久我は朝比奈へ「分かりました。少々お待ちください」と言い、応接スペースを出て神崎の方へ来た。「神崎、朝比奈さんが君と話したいと言っている。今、大丈夫か?」「ええ、すぐに行きます」 神崎は席を立ち、やや緊張しつつ応接スペースへ入った。「失礼します」「ああ、よかった。君と話したいと思ったんだけど、今は仕事中だったな」「短い時間でしたらかまいませんよ」 と、神崎がソファへ座ろうとすると、朝比奈は言った。「仕事が終わるのは何時なんだい? もし予定がなければ、どこか喫茶店にでも入って話そう」「分かりました。では、十九時過ぎに下のカフェで待っていてください」「分かった、下のカフェだね」「Cafe in the Pocket.と言います。ランチも美味しいですが、ディナーメニューもおすすめですよ」「それじゃあ、夕食をしながらということにしよう。失礼したね、また後で」 にこりと爽やかに笑い、朝比奈は立ちあがった。 仕事終わりにカフェへ入ると、朝比奈が来て待っていた。すでに食事を始めている様子だ。「お待たせしてすみません」 と、神崎が声をかけると、朝比奈はこちらを見てきょとんとした。 神崎の隣には相楽がいた。自分も同席したいと申し出てきたのだ。「同棲中の彼氏です」「はじめまして、相楽浩介と申します」 はきはきと相楽が名乗り、朝比奈はにこりと笑った。「ああ、そうだったのか。二人きりになるより、ずっといい。来てくれてありがとう、僕は朝比奈優弦だ。よろしく」「こちらこそ、よろしくお願いします」「どうぞ、座って」 うながされて神崎は朝比奈の向かいへ、相楽はその隣に腰をおろした。 今日は名城璃久がまだ働いており、おしぼりを持ってきた。 神崎がこの時間、ここで食べるものはいつも決まっている。「ボロネーゼとアイスコーヒー」「自分は煮込みハンバーグプレート、ライスで。あとホットのカフェラテをお願いします」「かしこまりました」
相楽の疑問に神崎は答えられなかった。 部屋の中は静かで、電源の入っていないテレビだけが、二人の姿をぼんやりと写していた。 すると相楽がはっとして言う。「あっ、すみません! 答えたくなければ言わなくていいですっ」 理性を取り戻したようだが、相楽が気になってしまう気持ちも分からないではない。 神崎は「ちょっと待って、考えるから」と、伝えて過去の記憶を引っ張り出す。 しかし、朝比奈と付き合うことになったきっかけはもう覚えていなかった。「おれが高校生の頃、体を売ってたのは知ってるよね? あの頃、ほとんど家に帰らないで、深夜に街をうろうろしてたんだ」 過去の話をするのは苦しい。しかし、神崎はきちんと話すしかないと思った。「朝比奈さんと出会ったのも、深夜の繁華街だった。 何を話したか、どういう流れでそうなったかは覚えてないけど、最初は食べに連れて行ってくれたんだ」 相楽は口を閉じて神崎の話に耳を傾けていた。「それから次に会った時、セックスした。確かその時、彼の方から付き合おうって言ってきて、おれはなんとなくうなずいた」「好きじゃなかったんですか?」「言ったでしょ、疑似恋愛だったんだ。少なくとも、おれの方はね」 そう返した直後、朝比奈の方はどうだったのだろうと思った。本気で神崎を恋愛対象として見ていたのだろうか?「でも、そんなんだからダメだったんだ。距離が近づくほどに、なんだか怖くなっちゃって……えーと、なんて言えばいいのかな」 神崎が言葉に迷うと、相楽が立ちあがって食卓に置いていたスマートフォンを手に戻ってきた。 黙ってスマホを操作する彼を見ていると、ふいに画面が突き出された。「もしかして、回避性パーソナリティ障害じゃないですか?」「え?」 目を丸くする神崎へ、相楽は説明する。「寿直さんがかならずしも当てはまるとは思いませんが、近いものはあるんじゃないかって、前から思ってました」 電子書籍アプリだった。何の本かは分からないが、回避性パーソナリティ障害について解説している。
「しまっておいてくれ」 と、所長の久我健人から書類を受けとった。「分かりました」 いつものように神崎寿直は机の上へ置くが、依頼人の名前を見て目を丸くした。 署名捺印がされた契約書だった。 今回の依頼人は朝比奈優弦。年齢は35歳で、自分が代表を務める会社の風評被害を調査してほしいらしい。 しかし、まさか彼ではないだろうと思いながら、神崎は必要な情報だけを抜き出して、データベースに登録していく。 作業を終えると席を立ち、金庫へ向かった。 鍵を使って金庫を開け、契約書類をまとめたファイルを取り出す。そこへ朝比奈の書類もしまい、金庫を閉じた。 依頼人とやりとりをするのは主に所長であり、報告の際、実際に調査を担当した者が顔を出すこともある。 しかし応接スペースはパーテーションで仕切られており、奥で事務仕事をしている神崎が依頼人と顔を合わせることは稀だ。 また、客へ出すお茶は飲み切りサイズのペットボトルにしていた。 応接スペース内の冷蔵庫にしまってあり、久我が接客の始めにペットボトルを出すのが恒例だ。 そうした事情から、今回もどうせ顔を合わせることはないだろうと考えながら、神崎は席へ戻った。 調査はまず鯉川宗吾が担当した。 ネット上の口コミを徹底的に調べあげ、最初の風評被害が書きこまれた時期を正確に特定した。 その書きこみがいかにして広まっていったかの経路についても、大まかながら把握することができた。 さらに、口コミを書きこんだユーザーに関しても情報を集めた結果、どうやら半年ほど前に、朝比奈の会社との間で何らかのトラブルがあったらしいことが分かってきた。 次に間遠桜が現場での聞き込みを担当した。朝比奈の会社へ向かい、まずは社員たちに接触を試みたが、口は重かった。 そこで視点を変え、取引のある業者や、長年の付き合いのある客など、外部の関係者にも地道に話を聞いて回った。 粘り強い聞き込みの結果、ようやく風評被害を流したと思しき容疑者が
久我探偵事務所のホームページには「探偵の備忘録」と、名付けられたページが存在する。 所長の久我が不定期に更新するコラムで、法的な豆知識や探偵業のリアル、時には出先で見つけた景色などを紹介していた。 半年ぶりに久我はコラムを書き、投稿した。『先日、年上の友人が孤独死しました』という一文から始まる文章は、仲間たちの協力を得てじわじわと閲覧者を増やしていった。『妻に先立たれ、子どものいなかった彼は、法的効力のある遺言書を残し、私を相続人に指定しました。 おかげで彼の火葬に立ち会うことができ、骨壺の引き取りもできました。 数日前に彼の奥さんが眠る霊園を訪れ、無事に奥さんと同じ墓へ納骨できて、今はほっとしています。 あとは彼の住んでいた部屋の片付けをするだけです』 窓を全開にし、久我は指示を出した。「本は全部ダンボールに詰めてくれ。とりあえずレンタル倉庫で保管して、あとで僕が選別する」「家電は粗大ゴミですか?」 と、最年少の若手調査員・相楽浩介が聞き、久我は即答する。「いや、リサイクルショップに売る。午後に鯉川さんが来てくれるから、そっちの軽トラに積んでくれ」「事務所総出って感じっすね。ワンルームなのに」 けらけらと明るく笑ったのは、事務所を始めてからずっと共にいる相棒・間遠桜だ。「部屋が狭いからってバカにするな。僕たちは今、一人の人間の人生を解体しようとしているんだぞ」 そう言いながら押し入れを開き、久我は持ってきたダンボールへ本を詰め始めた。 間遠は相楽と顔を見合わせてから言った。「そうっすよね。すみませんでした」 ついこの前まで人の住んでいた部屋だ。解体する、という言葉には久我の感傷も含まれていた。「気にしなくていいから、早く始めてくれ。今日中に終わらせたいんだ」「そうでしたね! えっと、服はゴミでいいですよね?」 相楽が確認し、久我は手を止めずに返した。「綺麗なものは売るから捨てないでくれ」 間遠が台所周りを見ながら言う。「
役所へ寄ってから事務所へ戻り、久我は一人で留守番をしていた事務員へ声をかけた。「急で悪いんだが、明日から三日ほど休む」 神崎寿直は手を止めて顔を向ける。「何かあったんですか?」「今朝の手紙のことだ。知人が孤独死したそうでな。明日火葬されるから、立ち会いたいんだ」「それは、なんというか」 神崎が適切な言葉を選べないでいるのにかまわず、久我は続けた。「遺言書によると、相続人は僕になっていた。彼の部屋の片付けもしたいし、墓も見つけないとならない」「それ、三日で全部できますか?」「分からない。可能なら、一ヶ月ほど休みたいところだな」「そうですよね。そちらの件が片付くまで、おれたちで仕事を回します」「ありがとう、神崎。他のみんなにも伝えておいてくれ」「言われなくてもちゃんと知らせますよ」 と、神崎は少し生意気に言ってから、再びキーボードをたたき始めた。 今日中にできることを済ませて帰宅すると、どっと疲れが出てきたようだ。 重たい体でかろうじて食事をし、浴槽を掃除した。 湯がたまるまでの間に、久我はかばんからノートを出して開いてみた。 春野らしい几帳面な文字で、文章がつづられていた。「昭和40年(1965年)10月15日、群馬県安中市の◯✕病院にて生まれる」 どうやら彼の人生の記録らしい。 時々、古い写真が貼り付けられていて、久我はつい夢中になって読みふけってしまった。「小学2年、おさななじみのユキちゃんを泣かせて母にしかられる。今となってはかわいい思い出だ」「小学6年、従兄のたっちゃんが家で下宿を始める。 夏には花火大会へ連れて行ってもらった。あの日の花火はとても綺麗で、今でもたまに思い出す」 久我の涙腺がゆるみ、あわててティッシュペーパーでぬぐった。「中学3年、通学路にある柳の下で、クラスメイトの佳子ちゃんから告白される。 恥ずかしくて思わず断ってしまったけれど、本当は彼女が好きだった。もったいないことしたなあ」 浴室から異
営業開始の一時間前に出勤するのが、久我健人の日課だった。 その日も朝九時に来て郵便受けを開けると、萌黄色の封筒がひとつ入っていた。 怪訝に思いながら取り出してみて、久我は目を丸くした。「春野久志……」 知り合いだった。しかし、手紙を送ってくるとは何事だろう。 久我は階段を上がり、事務所の鍵を開けて中へ入った。 デスクへかばんを置き、カーテンを開けてから椅子に腰かける。 やわらかな春の陽光を受けながら、久我はペーパーナイフを使って、萌黄色の封筒を丁寧に開けた。 中に入っていたのは一枚の書類と、何かの鍵だった。 書類の文面を見るなり、胸騒ぎがした。「遺言書……?」 相続人に友人である久我を指定するという内容で、葬儀など死後の一切も久我に任せるとあった。 壁掛け時計をちらりと見てから、久我は遺言書と鍵を封筒へ戻し、かばんへ入れた。 出勤してきた仲間たちに事情を話し、春野が住んでいるアパートへ車を飛ばした。 昭和の香りを残す古い木造アパートだった。 さびの目立つ鉄階段をあがると、手前から二番目の扉に張り紙がされていた。 近づくと「立入禁止」と書かれているのが読めて、久我はますます嫌な感じがした。春野が住んでいる部屋だった。 どうしたものかと考えていると、隣の部屋の扉が開いた。出てきたのは二十代と思しき女性だ。 とっさに久我は笑顔を浮かべた。「おはようございます。こちらの部屋に住んでいた春野さんなんですが」 女性ははっとして短く返した。「あのおじいちゃんなら、亡くなりましたよ」「え? いつですか?」「一週間くらい前です。身寄りがなかったみたいで、大家さんが困ってました」「その大家さんは、どこにいるか分かりますか?」「ええ、近所に住んでます。教えましょうか、住所」「ぜひお願いします」 女性は一度室内へ戻ると、大家の住所が書かれた封書を持ってきた。「
食事を終えて一息ついたところで、ついにプレゼントを渡し合った。「わっ、ネックウォーマーだ」 間遠がもらったのは黒いネックウォーマーだった。内側がふかふかのボアになっており、いかにも暖かそうである。「最初はマフラーにしようと思ったんだが、どちらかというと、ネックウォーマーの方がいいかと気づいてな」「そうっすね、こっちのが断然いいです。ありがたく使わせてもらいますね」 間遠はにこりと笑いながら、用意したプレゼントを久我へ渡した。「はい、これ」「ありがとう」 受け取った久我がさっそく袋を開け、目を
「間遠、二十四日は空いてるか?」 突然、久我健人にたずねられて、間遠桜はびくっとした。 その日はクリスマスイヴだ。こんな誘いをもらったのは初めてだった。「二十四日、ですか? えーと、空いてます、けど……」 ドキドキしながら間遠が答えると、久我は安心した様子でにこりと笑った。「それじゃあ、僕の部屋に来ないか?」「えっ、それは、あの……っ」 頬が熱を持っているのが分かる。 相楽浩介はまだ戻
久我はかばんを軽く肩にかけ直し、如月零と名乗る男を見つめた。「いろいろと言いたいことはあるが、やはり君が邪魔していたのか」「調べさせてもらったよ。 正義感が強すぎて周囲からうとまれた末、居心地が悪くなって警察から半ば追放された元刑事、だってね」 イラッとした。久我の触ってほしくないところに、如月零は無遠慮に入りこんできた。「やめろと言っても、聞かないんだろうな。今回はどんなゲームだ? くわしく教えてくれ」 冷静に努める久我だが、如月零はおかしそうに笑った。「あはは、ゲームだと思ってバカにしてるでしょ?
到着した警察に事情を話し、ようやく神崎は解放された。「約束通り、おれが送っていきます」 と、伝えると、女性は「お願いします」と、頭をさげた。今は神崎しか信じられないからだろう。 コンビニを出て歩き始めたところで、彼女がぽつぽつと話し始めた。「あの、あたしが、お兄さんに声をかけた理由、なんですけど」「何ですか?」 彼女は神崎のかばんをちらりと見た。「かばんにウカポンがついてたから、なんです」 はっとして見おろすと、確かにウカポンのマスコットをさげていた。 ついこの前まで家の鍵につけ