تسجيل الدخول インターネットを通してやってきた依頼を見て、
「しまっておいてくれ」 と、所長の久我健人から書類を受けとった。「分かりました」 いつものように神崎寿直は机の上へ置くが、依頼人の名前を見て目を丸くした。 署名捺印がされた契約書だった。 今回の依頼人は朝比奈優弦。年齢は35歳で、自分が代表を務める会社の風評被害を調査してほしいらしい。 しかし、まさか彼ではないだろうと思いながら、神崎は必要な情報だけを抜き出して、データベースに登録していく。 作業を終えると席を立ち、金庫へ向かった。 鍵を使って金庫を開け、契約書類をまとめたファイルを取り出す。そこへ朝比奈の書類もしまい、金庫を閉じた。 依頼人とやりとりをするのは主に所長であり、報告の際、実際に調査を担当した者が顔を出すこともある。 しかし応接スペースはパーテーションで仕切られており、奥で事務仕事をしている神崎が依頼人と顔を合わせることは稀だ。 また、客へ出すお茶は飲み切りサイズのペットボトルにしていた。 応接スペース内の冷蔵庫にしまってあり、久我が接客の始めにペットボトルを出すのが恒例だ。 そうした事情から、今回もどうせ顔を合わせることはないだろうと考えながら、神崎は席へ戻った。 調査はまず鯉川宗吾が担当した。 ネット上の口コミを徹底的に調べあげ、最初の風評被害が書きこまれた時期を正確に特定した。 その書きこみがいかにして広まっていったかの経路についても、大まかながら把握することができた。 さらに、口コミを書きこんだユーザーに関しても情報を集めた結果、どうやら半年ほど前に、朝比奈の会社との間で何らかのトラブルがあったらしいことが分かってきた。 次に間遠桜が現場での聞き込みを担当した。朝比奈の会社へ向かい、まずは社員たちに接触を試みたが、口は重かった。 そこで視点を変え、取引のある業者や、長年の付き合いのある客など、外部の関係者にも地道に話を聞いて回った。 粘り強い聞き込みの結果、ようやく風評被害を流したと思しき容疑者が
久我探偵事務所のホームページには「探偵の備忘録」と、名付けられたページが存在する。 所長の久我が不定期に更新するコラムで、法的な豆知識や探偵業のリアル、時には出先で見つけた景色などを紹介していた。 半年ぶりに久我はコラムを書き、投稿した。『先日、年上の友人が孤独死しました』という一文から始まる文章は、仲間たちの協力を得てじわじわと閲覧者を増やしていった。『妻に先立たれ、子どものいなかった彼は、法的効力のある遺言書を残し、私を相続人に指定しました。 おかげで彼の火葬に立ち会うことができ、骨壺の引き取りもできました。 数日前に彼の奥さんが眠る霊園を訪れ、無事に奥さんと同じ墓へ納骨できて、今はほっとしています。 あとは彼の住んでいた部屋の片付けをするだけです』 窓を全開にし、久我は指示を出した。「本は全部ダンボールに詰めてくれ。とりあえずレンタル倉庫で保管して、あとで僕が選別する」「家電は粗大ゴミですか?」 と、最年少の若手調査員・相楽浩介が聞き、久我は即答する。「いや、リサイクルショップに売る。午後に鯉川さんが来てくれるから、そっちの軽トラに積んでくれ」「事務所総出って感じっすね。ワンルームなのに」 けらけらと明るく笑ったのは、事務所を始めてからずっと共にいる相棒・間遠桜だ。「部屋が狭いからってバカにするな。僕たちは今、一人の人間の人生を解体しようとしているんだぞ」 そう言いながら押し入れを開き、久我は持ってきたダンボールへ本を詰め始めた。 間遠は相楽と顔を見合わせてから言った。「そうっすよね。すみませんでした」 ついこの前まで人の住んでいた部屋だ。解体する、という言葉には久我の感傷も含まれていた。「気にしなくていいから、早く始めてくれ。今日中に終わらせたいんだ」「そうでしたね! えっと、服はゴミでいいですよね?」 相楽が確認し、久我は手を止めずに返した。「綺麗なものは売るから捨てないでくれ」 間遠が台所周りを見ながら言う。「
役所へ寄ってから事務所へ戻り、久我は一人で留守番をしていた事務員へ声をかけた。「急で悪いんだが、明日から三日ほど休む」 神崎寿直は手を止めて顔を向ける。「何かあったんですか?」「今朝の手紙のことだ。知人が孤独死したそうでな。明日火葬されるから、立ち会いたいんだ」「それは、なんというか」 神崎が適切な言葉を選べないでいるのにかまわず、久我は続けた。「遺言書によると、相続人は僕になっていた。彼の部屋の片付けもしたいし、墓も見つけないとならない」「それ、三日で全部できますか?」「分からない。可能なら、一ヶ月ほど休みたいところだな」「そうですよね。そちらの件が片付くまで、おれたちで仕事を回します」「ありがとう、神崎。他のみんなにも伝えておいてくれ」「言われなくてもちゃんと知らせますよ」 と、神崎は少し生意気に言ってから、再びキーボードをたたき始めた。 今日中にできることを済ませて帰宅すると、どっと疲れが出てきたようだ。 重たい体でかろうじて食事をし、浴槽を掃除した。 湯がたまるまでの間に、久我はかばんからノートを出して開いてみた。 春野らしい几帳面な文字で、文章がつづられていた。「昭和40年(1965年)10月15日、群馬県安中市の◯✕病院にて生まれる」 どうやら彼の人生の記録らしい。 時々、古い写真が貼り付けられていて、久我はつい夢中になって読みふけってしまった。「小学2年、おさななじみのユキちゃんを泣かせて母にしかられる。今となってはかわいい思い出だ」「小学6年、従兄のたっちゃんが家で下宿を始める。 夏には花火大会へ連れて行ってもらった。あの日の花火はとても綺麗で、今でもたまに思い出す」 久我の涙腺がゆるみ、あわててティッシュペーパーでぬぐった。「中学3年、通学路にある柳の下で、クラスメイトの佳子ちゃんから告白される。 恥ずかしくて思わず断ってしまったけれど、本当は彼女が好きだった。もったいないことしたなあ」 浴室から異
営業開始の一時間前に出勤するのが、久我健人の日課だった。 その日も朝九時に来て郵便受けを開けると、萌黄色の封筒がひとつ入っていた。 怪訝に思いながら取り出してみて、久我は目を丸くした。「春野久志……」 知り合いだった。しかし、手紙を送ってくるとは何事だろう。 久我は階段を上がり、事務所の鍵を開けて中へ入った。 デスクへかばんを置き、カーテンを開けてから椅子に腰かける。 やわらかな春の陽光を受けながら、久我はペーパーナイフを使って、萌黄色の封筒を丁寧に開けた。 中に入っていたのは一枚の書類と、何かの鍵だった。 書類の文面を見るなり、胸騒ぎがした。「遺言書……?」 相続人に友人である久我を指定するという内容で、葬儀など死後の一切も久我に任せるとあった。 壁掛け時計をちらりと見てから、久我は遺言書と鍵を封筒へ戻し、かばんへ入れた。 出勤してきた仲間たちに事情を話し、春野が住んでいるアパートへ車を飛ばした。 昭和の香りを残す古い木造アパートだった。 さびの目立つ鉄階段をあがると、手前から二番目の扉に張り紙がされていた。 近づくと「立入禁止」と書かれているのが読めて、久我はますます嫌な感じがした。春野が住んでいる部屋だった。 どうしたものかと考えていると、隣の部屋の扉が開いた。出てきたのは二十代と思しき女性だ。 とっさに久我は笑顔を浮かべた。「おはようございます。こちらの部屋に住んでいた春野さんなんですが」 女性ははっとして短く返した。「あのおじいちゃんなら、亡くなりましたよ」「え? いつですか?」「一週間くらい前です。身寄りがなかったみたいで、大家さんが困ってました」「その大家さんは、どこにいるか分かりますか?」「ええ、近所に住んでます。教えましょうか、住所」「ぜひお願いします」 女性は一度室内へ戻ると、大家の住所が書かれた封書を持ってきた。「
雲ひとつない晴れた土曜日の午後。 噴水広場は、家族連れや犬の散歩を楽しむ人々でにぎわっていた。 穏やかな陽光が降りそそぐ中、異様な緊張に包まれている一角があった。「よくも、よくもメロちゃんを……! この泥棒! 誘拐犯!」 依頼人の奥田美晴は、菅原夫人に向かって、周囲が振り返るほどの大きな声をあげた。 嫌な予感が当たってしまい、間遠は内心でうんざりとため息をつく。 奥田美晴は感情が爆発した様子で、顔を真っ赤にしていた。 菅原夫人の足元では、白と茶色のポメラニアン――メロちゃんが、戸惑ったように首をかしげて二人を見上げていた。「あの……本当に、私は駅前の交差点で震えていたこの子を見つけて……」 菅原夫人が落ち着いて弁解を始めると、奥田美晴はさらに声を荒らげた。「嘘おっしゃい! この子のリードは、刃物で切らなきゃ切れるはずがないのよ! どうせ身代金目当てだったんでしょう!? 今すぐ警察に行きましょう!」 今にもつかみかかろうとする奥田美晴を、間遠はあわてて制止した。「落ち着いてください!」 奥田美晴がはっとし、間遠は二人の間に割って入る。「菅原さんは誘拐犯ではありません。彼女が持っているリードを見てください」 間遠は菅原夫人が透明な袋に入れて持ってきたリードを示し、冷静に説明する。「この断面、ぱっと見はスパッと切れたように見えますが、近くで見るとガタガタになっています。 これは革が長年の使用で乾燥し、劣化して自然にちぎれた証拠です」 奥田美晴の動きがぴたりと止まった。 間遠は淡々と続ける。「メロちゃんはただの迷子だったんです。誰かに誘拐されたわけではなく、リードが切れて逃げ出してしまっただけです」「そ、そんなはずありません! 私は警察に盗難届を出したんです! なのに、何もしてくれなかった……っ」 奥田美晴の声に、怒りとともに悔しさがにじむ。「ええ、そこが問題の核心でした。菅原さんはメ
「お疲れ様です」 と、間遠は康人を引き連れて事務所へ入った。「お疲れ……と、そこにいるのは何だ?」 所長の久我健人がとっさに冷めた目つきになり、間遠は返す。「よく知らないっすけど、下でうろうろしてたので捕まえてきました」「ご、ごめん、兄貴」 と、康人が肩を縮こまらせ、久我はため息をつく。「そこのソファで待ってろ。まずは間遠の報告を聞いてからだ」 康人は黙って応接スペースのソファに腰かけ、間遠は久我へ今日のことを報告した。 タイミングを見て、鯉川が口をはさむ。「間遠ちゃんが送ってくれた写真、分析したら、同一の個体である可能性が九十パーセントを超えてたよ」 結局、調べてくれたのは鯉川だったようだ。しかし、間遠はそのことに触れることなく話を進めた。「ありがとうございます。じゃあ、やっぱり依頼人の犬ってことですね」「おそらくはな」 ということは、あとはあの犬をどうしたら依頼人の元へ返せるか、考えればいいだけだ。 話が一段落したところで、久我がため息をつきながら席を立つ。 そして応接スペースへ向かい、一喝した。「バカ野郎! 言い訳なら聞かないぞ!」「ごめんって、兄貴。でも、ちゃんと話をさせてくれよ」 と、康人の情けない声が聞こえる。 間遠は自分の席へ着き、パソコンを起動させた。「話って何だ? お前はレイに振り回されるのを楽しんでたんだろう?」「それは否定しない。でも、ああ見えてレイにもいいところがあるんだ」「犬をなでていたことか?」「うん。犬が好きなやつに悪いやつはいない」「ふざけんな。そんなわけがあるか!」「俺はそう信じたいんだ。猫派の健人には分からないだろうけど、レイも昔、犬を飼ってたみたいなんだ」「だから何だ?」「えっと、だから……」 応接スペースの空気は険悪だ。 久我の怒りはもっともだが、さすがに康人が可哀想な気もしてくる。
一月も残すところあと六日となった平日、元気な声がまたやってきた。「お疲れさーん」 あいかわらず無精髭を生やした鯉川宗吾だ。 パソコンの画面とにらめっこしていた久我健人は、はっとして顔を向けた。「鯉川さん、お疲れ様です」「今日はおじさん、機嫌がいいから、みんなに差し入れしちゃう。インポケさんでパウンドケーキを買ってきたよ」 と、鯉川は笑顔で手にした袋から個包装されたパウンドケーキを取り出し、久我へ差し出す。「ああ、ありがとうございます」 久
「は?」 久我の目がまん丸になり、神崎と相楽も話すのをやめて間遠を見る。「オレはただ、久我さんが毎日何を食べてるのか知りたくて、昼食をチェックしてたんです。 その……実はオレ、久我さんに一目惚れしてまして」 間遠がすべて告白すると、めずらしく久我は頬を紅潮させた。「な、何だそれは。初めて聞いたぞ」「初めて言いましたもん。オレ、出会った時からずっと、久我さんが好きなんです!」 間遠にとって、一生に一度あるかないかの大胆な告白だった。 一方、久我は上ずった声で言う。
電話を終えた久我健人が戻ってきて、相楽浩介に声をかけた。「相楽、これから張り込みに行ってもらえるか?」「どこですか?」「新宿だ。僕の弟、康人のアパートに行ってもらいたい」 思いがけない言葉に相楽は目を丸くした。「何かあったんですか?」「先週から毎日、郵便受けにミニカーが入れられているらしい。康人の使っているのと同じ車種、同じ色のミニカーだ」 相楽はぎょっとしてしまった。悪質な嫌がらせではないか。 久我もそうしたことを理解した上で話を続ける。「つ
もなかの質問は極端だったが、璃久は不快になった様子もなく肯定した。「うん、そういうこと。でも、ボクはあんまり恋愛経験がないから、実際にどうなるかは分からないよ? でもね、だからこそ、わくわくするんだ」 そう言って、璃久は大きな目を輝かせた。「どんな人と恋に落ちて、二人でどんな風に過ごすのか。 ボクには可能性にあふれた未来が待ってるから、毎日が楽しいんだよ」 もなかは呆けたように息をつき、神崎は頬杖をついて璃久を見つめた。「やっぱり、璃久ちゃんはすごいね。その前向きさ、おれにも分けてほしいくらいだよ」







