LOGIN初日は何事もなく終わった。翌日は午前十時半に相楽が迎えに来てくれて、一緒に家を出た。
「朝はいないんだよね。いつも駅で待ってて、同じ電車に乗ってくる」 「じゃあ、電車に乗ったら警戒すればいいんですね」 と、相楽。 「うん、そうだね。相手はおれが一度、隣に座ったことがあるだけなんだけど、何を勘違いしたのか、つきまとうようになったんだ」 「厄介ですね。特に言葉をかわしたわけでもないんでしょう?」 「当然だよ。まさか、それだけでストーカーされるとは思わなかったし、最初はまったく知らない人だと思って怖かった」 神崎はため息をついた。またかと辟易したのと同時に、この手のトラブルに慣れてしまった自分が嫌だった。 「どうして、隣に座ってた人だって分かったんですか?」 「あっちからそう告白してきたんだよ」 「ああ……マジめんどくせーってやつですね」 と、相楽がため息をつき、神崎もうんざりして言った。 「女だと思われてストーカーされた時は、交番の近くで男だと知らせて、即逮捕してもらったんだけど」 「え?」 「わざと暴れさせて、事件にしてさ。あの頃は若かったから無謀なこともできたけど、今はやろうと思わないよ。あの後、警察官の一人にしつこくされたしね」 「……神崎さん、本当に苦労してるんですね」 相楽が苦笑いをし、神崎は言った。 「だから外に出たくなくて、事務員になったんだ」 所長の久我は神崎の事情を汲んでくれるため、今の職場はありがたかった。この場所を失うことになったら、神崎には大きな損失だ。 もしかしたら立ち直れないかもしれないと思うほどには、久我探偵事務所を気に入っていた。 出勤すると、すでに来ていた
事務所を出て階段を下りる。すでに日が落ちて辺りは暗かったが、神崎は相楽が隣に並んだところで言う。
「来てるっぽい。予定通り、このまま書店に行こう」 「分かりました」 相楽がうなずき、神崎は駅ではなくブロードウェイへ向かって歩き始めた。商業施設の中は明るく、人気もあってほっとする。
目当ての書店へまっすぐに進むと、神崎は店の前に貼られているポスターに気づいた。 「あ、もうブックサンタ始まってたんだ」 足を止めた神崎に相楽がたずねる。 「何ですか、ブックサンタって」 「あれ、知らない? 厳しい環境とか、大変な状況にいる子どもに、本を届ける取り組みだよ。おれ、毎年やってるんだ」 「え、毎年?」 「おれも本なんて、全然買ってもらえなかったからさ」 言いながら神崎は店内へ入り、相楽が後をついてくる。 「神崎さん、貧しい家の子だったんですか?」 「んー、どう説明したらいいかな。一言で言うと、ネグレクトってやつ」 反応が気になって振り返ると、相楽はショックを受けた顔をしていた。 「ああ、ごめん。そんな顔しないで」 「無理ですよ、神崎さん。ここがお店の中じゃなければ、今すぐ抱きしめてました」 「そんな大げさに受け取らないでよ。家族とはもう連絡取ってないし、おれは平気だからさ」 と、できるだけ明るく言って児童書の棚へ向かう。 「さて、今年はどれにしようかな」 人気の本にするのもいいが、個人的に気になった本でもいい。あの頃の自分が読みたいと思うものを、神崎は毎年、数冊選んでいた。 相楽が横に来て、らしくない静かな声で言う。 「知ってましたけど、神崎さんは心が綺麗ですよね」 「え?」 顔を上げて彼を見る。相楽は恥ずかしそうに頬を染めながら、もう一度はっきりと言った。 「神崎さんは心が綺麗なんです。気高くて、強くて、とてもかっこいいです」 初めて言われた言葉だった。 神崎の胸がドキッと高鳴り、妙に恥ずかしくなってしまう。 「あ、ありがとう……そんな風に言われるの、初めてだよ」 「それじゃあ、今まで神崎さんが出会ってきた人たちは、本当の神崎さんに気づかなかったんですね。もったいないです」 本当の神崎さん――本当の自分。 「……うん、そうかもしれないね」 外見でなく、心を見てくれる人は初めてだ。胸がくすぐったくなって、相楽という存在が大きさを増す。 同時に、彼をどう扱ったらいいか分からなくなり、神崎は本を選ぶ振りをして、相楽から少しだけ離れた。昨日と同じようにアパートまで送ってもらった。
郵便受けを見ると、またストーカーからの手紙が入っていた。しかし、今回は一つだけだ。 『知らなかったよ、君に彼氏がいたなんて』 相楽が横から覗き込んで言う。 「これは、確実にダメージ受けてますね」 「うん、計画通りだよ」 手紙を手にしたまま廊下を進み、扉の前で神崎は振り返る。 「相楽くん、ありがとう」 「いえ。明日の朝もまた、迎えに来ますので」 「うん、分かった。気をつけてね」 「神崎さんこそ、気をつけてください」 「それじゃあ、おやすみ」 「おやすみなさい」 笑顔で挨拶をかわし、神崎は鍵を開けて部屋へ入ろうとしたが……。 「あれ、開いてる」 「えっ!?」 状況を理解した途端、背筋に冷たいものが走った。 「ちゃんと鍵、閉めたはずなのに」 「ええ、閉めましたよ。自分も見てますもん」 「そうだよね? やばい、嫌な予感がする……」 恐怖で震えそうになる神崎へ、相楽が言った。 「自分が中に入ります。神崎さんはそこにいてください」わけが分からなかったが体が動いた。察した敬一が手を伸ばす前に、間遠は書類を奪い取るようにして死守する。「あっ! 返せ、それはっ」「無理っすー!」 素早く踵を返して久我の後ろへ隠れる。 その間に依頼人が敬一を指さして叫んだ。「黒幕はこいつです! 私はこいつに脅されてやったんです!!」 すかさず康人が駆け寄り、敬一の肩へ手を置いた。「詳しく聞かせてもらえますか?」「あっ、いや、これは……」 他の警察官たちも寄ってきて、敬一は依頼人をにらんだ。「くそっ、逃げ切れると思ったのに」 近藤敬一は内部告発者を装った黒幕だった。監査部の人間が指示していたとすれば、企業の評判は下がるだろう。 警察官に連れられて敬一が歩き出し、間遠は胸に抱えた書類を康人へ差し出した。「あの、これ」「ああ、ありがとう。見事な瞬発力だったよ、助かった」「いえ」 間遠ははにかみ、康人が依頼人へ声をかけた。「後ほど、詳しくお話を聞かせていただきます」「はい、よろしくお願いします」 依頼人が頭を下げ、康人も会釈をしてから仲間たちを追っていった。 間遠は久我が依頼人へ歩み寄るのを見て、後をついていく。「警察がいる前で、彼を告発したかったんですね。まったく気がつきませんでした」「当時、近藤の関連を主張したんです。でも、すべて私のせいにされてしまいました」 と、依頼人は伏し目がちになる。「しかし、初犯だったので刑期は短く済みました。まだ時効が残っていると知り、警察の目の前で告発すれば何とかなるのではないかと考えたんです」 依頼人は安堵したように息をついた。「この度はご迷惑をおかけしました」「いえ、気になさらないでください。一つ……いえ、二つほど質問があるのですが、いいでしょうか?」「何でしょう?」「あなたの本当のお名前と、どうしてうちに依頼をしたのか、教えてもらえませんか?」 久我の質問に彼は笑った。
戻ってきた久我は相楽の姿を見て目を丸くした。「相楽、来てたのか」「はい。明日から復帰しますので、よろしくお願いします」 と、相楽は立ち上がって律儀に頭を下げる。「そうだったな。ちょうどいいから、今後について話そう」 久我は自分のデスクに着き、まず確認をした。「僕たちが今進めている調査について、もう聞いたか?」「はい、怪しい依頼人のことですよね」「ああ、そうだ」 と、久我は三人へ顔を向ける。「弟から聞いた話では、ネットに書かれていた監査部のKというのは、依頼人が探すように言った近藤敬一だと分かった。犯人には四年の実刑がくだされ、予定通りであれば、もう刑期を終えて出てきていることもな」「業務上横領罪って、そんなに軽いんすね」 と、間遠が感想を述べると、久我は返した。「初犯だったからな。依頼人が犯人である可能性は俄然濃くなった」 外はすでに暗くなっており、事務所内の空気が一瞬だけ沈む。クーラーの稼働音がやけに耳についた。「だが、そう仮定すると妙なんだ。自ら居場所を教えておいて、尾行させた先で包丁と手袋を買っている。あまりにも怪しすぎて、逆に何か計画があるのではないかということになった」「じゃあ、怪しいのはわざとってことですか?」 相楽の問いに久我は言う。「おそらくはな。だが、何の目的があってうちに依頼してきたのかが分からない。言い換えれば、本当に殺人を計画している可能性も否定できないというわけだ」「厄介ですね」 神崎がつぶやくように言い、久我もため息をつく。「もし殺人を計画しているのであれば、それだけで逮捕できる。弟は警察として見過ごせないと判断し、協力してくれることになった」「具体的には何をするんすか?」「兄が見つかったと連絡を入れて、再会の場をセッティングするんだ。その場には私服警官を複数名つかせて、万が一に備える」 理解した間遠は「よっしゃ」と、気合を入れた。「あの男が何を企んでいるのか、見せてもらおうじゃねぇですか」 久我は「
二日後の午後一時過ぎ、事務所に電話がかかってきた。 事務員の神崎寿直が固定電話の受話器を取り、落ち着いた声で「久我探偵事務所です」と言う。 間遠は事務作業をぼちぼち進めながら、神崎の様子を見ていた。「所長、近藤博様からお電話です。依頼について、いくつか聞きたいことがあるとか」 久我はすぐに電話を受けた。「お電話変わりました、所長の久我です。今日はどうされましたか?」 事務所は静かだが電話の内容までは聞き取れない。間遠は気になってしまい、キーボードに置いた手を止めていた。 久我がちらりと間遠に目をやってから言う。「あっ、ちょうど今、調査員が戻ってまいりました。進捗の方を聞いてきますので、少々お待ちいただけますか?」 そして電話を保留にし、久我はささっとメモを書いてよこしてきた。「間遠、追ってくれ」「はい」 受け取った間遠はすぐに立ち上がった。近藤博が中野駅にいる、という情報だった。 近藤博は中央・総武線で新宿へ移動した。平日でも人が多いため、間遠は見失わないように注意する。 改札を抜けたところで近藤博が振り返った。一瞬、目が合った気がしたが、すぐに歩き始めた。 間遠はほっと息をつく。おそらくセーフだろうと判断し、距離に気をつけながら尾行を続けた。 駅を出て少し歩き、近藤博はホームセンターへ入っていった。 間遠も後を追い、エスカレーターで上の階へ向かう。どこへ向かっているのかと思っていると、キッチン用品の売り場で足を止めた。 商品を見る振りをして、離れたところから慎重に様子をうかがう。 近藤博が見ていたのは包丁だった。 どこか思いつめたような横顔に、間遠は胸の中で嫌な予感を急速にふくらませる。久我に向けて『包丁を購入』とだけ送った。 会計を終えた近藤博は他のホームセンターへ行き、今度はビニール手袋を買った。「おいおい、マジかよ……」 思わずつぶやかずにはいられなかった。 久我も間遠の報告を受けて同じように考えたのだろう。
久我探偵事務所は退屈だった。後輩調査員の相楽浩介は腕の怪我のため、有給休暇を取得している。 抜糸後に戻ってくるそうだが、調査員は自分だけになってしまった。 間遠桜はデスクに頬杖をつき、木目調のパーテーションをじっと見ていた。 向こう側は応接スペースになっており、今は所長の久我健人が客の対応をしていた。「私は近藤博といいます。数年前に音信不通になった兄を探してほしいんです」 声の感じからして三十代から四十代くらいだろうか。緊張しているのか、少々早口だ。 落ち着いた調子で久我が返す。「人探しですね。お兄さんのお名前や情報を聞かせてください」「はい。名前は近藤敬一。私が把握しているところでは、五年前まで株式会社新都アーキテクチャーの監査部にいました」「連絡が取れなくなったのはいつ頃ですか?」「その、元々あまり頻繁に連絡をしていたわけではないんです。なので、えーと……一昨年の十一月だったでしょうか。父が亡くなったので連絡をしたんですが、通じなかったんです」「携帯電話の番号が、ということですね」「ええ、そうです。しかたないので放置したんですが、母が最近亡くなったので、今度ばかりは行方を知りたいと思いまして」 何だか妙な話だ。調査員歴五年になる間遠の勘が働いた。「警察には知らせましたか?」「えっ、いや……」「お兄さんを知っている知人をあたったりは?」「だから、その……あまり、そういうことは知らなくて。お恥ずかしいことに、仲がよくないんです」 しどろもどろな返答は怪しいだけだ。こういう時、たいてい依頼人には他の思惑がある。 久我も間遠と同じように考えているはずだが、穏やかに言った。「分かりました。お受けいたしましょう」「あ、ありがとうございます。それで、料金はどれくらいになるでしょうか?」 最近は不景気のせいで、金額を聞いて依頼をキャンセルする人も少なくない。ここからが久我の腕
相楽がドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。 中に電気はついておらず、神崎は扉を開けたままにしておこうと手で押さえる。 慎重に相楽が部屋の電気をつけた。「どこに隠れてるんだ? さっさと出てきやがれ!」 挑発する相楽を、神崎ははらはらと見守っていた。今にも部屋のどこかからストーカーが飛び出してきて、彼に危害を加えるのではないかと怖くてならない。「どこだ!? おい!」 相楽が声を張り上げ、奥の部屋へ足を踏み入れた時だった。「っ!?」 突如、背後から腕が伸びてきて神崎は首を絞められた。「相楽く……っ!」 後ろへ引きずられ、無情にも扉が閉まる。鍵が開けられていたのは罠だったのだ、神崎と相楽を引き離すための。「抵抗するな。綺麗な顔に傷をつけたくない」 ねっとりとした声とともに、目の前にナイフを見せられたが、かまわずに神崎は思い切り肘鉄を食らわせた。 隙ができたのを見逃さず、前方へと駆け出す。頬に一瞬、鋭い痛みが走ったが、気にする余裕などなかった。 部屋から飛び出てきた相楽にたまらず抱きついて叫ぶ。「ナイフ持ってる!」「神崎さんは離れて、警察に連絡を」「うんっ」 震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、神崎は警察へ通報する。「助けて、ナイフを持った男が……!」 と、状況を説明する間にストーカー男は逃げ出していた。相楽が全力で追いかけていくのが見える。「待て!」 距離が縮んだかと思うと、ストーカー男が振り向きざまにナイフを振り下ろした。「うわっ」 相楽の叫び声にはっとして、神崎は慌てて後を追いかけた。「相楽くん!?」 何が起きたのか状況を把握する間もなく、相楽はストーカー男の手からナイフを叩き落としていた。ひるんだ隙に腕をつかみ、勢いよく背負い投げを決める。「ぎゃっ」 そしてうつぶせにさせると、素早く上に乗って腕をひねり上げた。「確保ォ!」 相楽の声が近
初日は何事もなく終わった。翌日は午前十時半に相楽が迎えに来てくれて、一緒に家を出た。「朝はいないんだよね。いつも駅で待ってて、同じ電車に乗ってくる」「じゃあ、電車に乗ったら警戒すればいいんですね」 と、相楽。「うん、そうだね。相手はおれが一度、隣に座ったことがあるだけなんだけど、何を勘違いしたのか、つきまとうようになったんだ」「厄介ですね。特に言葉をかわしたわけでもないんでしょう?」「当然だよ。まさか、それだけでストーカーされるとは思わなかったし、最初はまったく知らない人だと思って怖かった」 神崎はため息をついた。またかと辟易したのと同時に、この手のトラブルに慣れてしまった自分が嫌だった。「どうして、隣に座ってた人だって分かったんですか?」「あっちからそう告白してきたんだよ」「ああ……マジめんどくせーってやつですね」 と、相楽がため息をつき、神崎もうんざりして言った。「女だと思われてストーカーされた時は、交番の近くで男だと知らせて、即逮捕してもらったんだけど」「え?」「わざと暴れさせて、事件にしてさ。あの頃は若かったから無謀なこともできたけど、今はやろうと思わないよ。あの後、警察官の一人にしつこくされたしね」「……神崎さん、本当に苦労してるんですね」 相楽が苦笑いをし、神崎は言った。「だから外に出たくなくて、事務員になったんだ」 所長の久我は神崎の事情を汲んでくれるため、今の職場はありがたかった。この場所を失うことになったら、神崎には大きな損失だ。 もしかしたら立ち直れないかもしれないと思うほどには、久我探偵事務所を気に入っていた。 出勤すると、すでに来ていた間遠桜が声をかけてきた。「おはよう、神崎、相楽。ストーカーどうだった?」 神崎はいつものように「おはようございます。特に何もありませんよ」と、自分のデスクへ向かう。 相楽はそんな彼を気にしつつ、間遠へ歩み寄った。「おはようございます、間遠さん。