Masuk「まただ……」
郵便受けを見て、「所長、相談したいことがあります」
翌日の始業前、神崎は耐えかねて身長が188センチもある彼と歩くのは新鮮だった。ただでさえ神崎は170センチしかないため、顔を見ようとすると首が痛い。
「所長も大きいけど、相楽くんの方が背高いよね」 駅へ向かって歩きながら、神崎はそう言った。 相楽は照れたようにはにかむ。 「ええ、身長だけは……ですかね」 「でも、警察官にはならなかったんだよね。どうしてなのか、聞いてもいい?」 夜道を照らす明かりをいくつか通り過ぎてから、相楽は言った。 「ならなかったんじゃなくて、なれなかったんです」 「なれなかった?」 「警察学校には、自分なんかより上の人が何人もいて、自分はただ、体格に恵まれているだけの凡人だったって気づかされたんです」 神崎は申し訳なくなり、前を見た。 「警察官になりたい気持ちは本物でした。でも、耐えるだけの強さがなかったんです。教官からやめろって言われて、心が折れて……」 「そのままやめちゃったの?」 「はい。警察学校、卒業してないんですよ」 いつも明るい相楽の沈んだ顔は、神崎には見ていられなかった。 「ごめん、嫌なこと思い出させちゃったね」 「いえ、気にしないでください。今は久我さんのところに戻ってよかったって、本気で思ってますから」 そう言って笑ってみせた相楽へ、神崎も笑みを返した。 「そうだね。おれも相楽くんに送り迎えしてもらえて嬉しいよ」 「自分、頑張ります。期待に応えられるように、守り抜きますんで!」 「ありがとう」 神崎はくすりと笑みをこぼし、相楽も少しだけ声を出して笑った。自宅の最寄駅である阿佐ヶ谷駅へつき、改札を抜けたところで神崎は視線を感じた。いつものストーカーだ。
駅舎から出たところで、神崎は相楽へ言った。 「ねぇ、手つないでもいい?」 「えっ!?」 相楽が驚き、神崎はかまわずに彼の手を取った。 「おれたち、恋人同士でしょ」 「あっ、そうでした」 あわてて相楽が手を握り返してきて、神崎はまたくすくすと笑ってしまう。 「相楽くんって、可愛いよね」 「そ、そんな……むしろ、可愛いのは神崎さんの方です」 「よく言われる」 「そういう意味ではなくてっ」 あたふたとする相楽がおかしくて、神崎は声をあげて笑った。 「前から思ってたけど、正直すぎるよ。これまでに結構、損してきたんじゃない?」 「ああ、まあ……バカ正直だとは言われましたね。それで損してるかって言われたら、否定できないです」 苦笑いをする相楽の分厚く大きな手が、少し震えたような気がした。 繊細に感じ取った神崎は、遠くの夜空を見ながら言う。 「うまく生きるのって難しいよね」 「神崎さんも、そんな風に考えるんですね」 「おれもこの見た目のせいで、しなくていい苦労をしてきてるからさ。今だってそうだし」 「そうでしたね。ストーカー、ついてきてますか?」 と、相楽が声をひそめる。 「うん、いるよ。相楽くん、夕飯食べていく? おれ、作るよ」 「いいんですか?」 「しばらくお世話になるからね、それくらいはしなくちゃ」 「嬉しいです。ご馳走になります!」 相楽は子どものように無邪気に喜んだ。 「それじゃあ、ちょっとスーパー寄るね」 何気ない振りを装いながら、神崎は声量を絞って言った。 「おれを外で待つ振りをして、ストーカーの顔を確認して」 「分かりました」 相楽がうなずき、神崎は前方に見えてきた店を指さした。 「あそこのスーパーだよ。すぐに買ってきちゃうから、相楽くんは外で待ってて」 「ええ、そうします」 相楽とつないだ手を離し、神崎は足早に店内へ向かった。楽しく会食が続く中、久我がふとたずねた。「康人はレイのどこがよかったんだ?」「目」「即答かよ。というか、答える前に失礼だとか文句を言うのが普通だろ」「どうせ聞かれるって思ってたからな」 康人はけらけらと笑い、久我は息をつく。「それで、何で目なんだ?」 レイこと如月零は色が白く細身の男で、顔はどちらかというと童顔だ。 彼から敵対する態度が失われた今、どこか守ってやりたくなる雰囲気がある。「切れ長の一重っていうの? あの目ににらまれると、ぞくっとしてさぁ」 と、康人が熱っぽく語り、久我は冷たく言う。「もういい、分かった。お前がド級の変態だってこと、失念してた」「その言い方はひどいなぁ。まあ、否定はしないけど」「まさかとは思うが、自ら僕の代わりに狙われることを選んだのも、不純な動機からなのか?」「いや、あの頃はまだ半々だったよ」「半分あるじゃないか」「だって、見知らぬ他人から蔑まれるなんて、俺にとってはご褒美でしかなかったし? こんなチャンス逃せるかよって思って」 そんな二人の会話を聞いていた間遠は、レイへたずねた。「レイは康人さんのこと、好きなのか?」「いや、好きっていうか……断りきれなかったというか」「あんな変態だけど、大丈夫か?」 困惑した様子で、レイは伏し目がちになった。「分からない。誰かと付き合ったこと、ないから」「あー、そりゃそうだよな。質問したのが悪かったな、ごめん」「ううん、いいよ。それに、康人って犬みたいなんだよね。ちょっと茶々丸に似てるっていうか」 レイが康人へ視線を向ける。 顔の似ていない双子はいまだに言い合っており、仲睦まじい様子だ。 間遠も彼らを見ながら言った。「人懐っこいんだよな、康人さんって」「うん。あっち行けって言っても、追ってくる」「犬だな」 と、間遠は思わず苦笑した。 康人がそんな人だとは思わなかったが、分
やわらかな灯りの下でレイは続ける。「誰もぼくを必要としてくれなくて、いらない存在なんだって、悪夢が……」 彼を蝕んでいたのは、いじめられた時の記憶だ。 茶々丸という、社会とのつながりを保つ唯一の理由を失って、迷子になっていたのだ。「だから、変なことすれば、みんなかまってくれるって、思った」 それが帯裏ミステリーだった。「なのに、タケがずるをした。だからムカついた」「すまなかったな。だが、見過ごすわけにはいかなかったんだ」「追いつめてやろうと思った。ぼくをいじめたやつらと同じだと、思ってた」 その言葉には誰も反応できなかった。ただ、璃久が言う。「ボクもそうなんですけど、人って、自分の知っている範囲でしか、物事を捉えられないんですよね。 新しいことや未知のものを、無意識に、すでにある知識や経験にあてはめちゃうんです」 何人かがうなずき、感心してから、レイを見る。「狭かったな、お前の世界。でも、これからはそうはさせないぜ」 間遠はそう言ってレイの肩へ腕を回した。「いつでもここに遊びに来い。神崎はだいたいいるし、オレがいる時なら話し相手になってやる」 レイが小さく嗚咽を漏らした直後だった。「待て、間遠。僕はまだ許していないぞ」 温かくなりかけた空気が一気に冷めた。「ここは僕の事務所だ。最終的な判断は僕がくだす」 正論だった。「まあ、そうだよな。久我ちゃんの言う通りだ」 と、鯉川は缶ビールを開けた。「ボクは部外者なので黙ってます」 璃久はお寿司をいくつも皿に取り、神崎も言う。「その前に浩介の意見も聞いてやってください」「え、自分? あー、えっと」 注目された相楽は困惑しつつも、立ちあがってレイを見た。「正直、許せません。レイのやったことは悪質だし、事情があったからって同情もしません」 相楽の声は大きくてよく通るだけに、レイの心へまっすぐ届くように思われた。「けど、大事なのは過
レイは理解しがたいと言った顔をする。「でも、いなかったじゃないか」「うん、ここしばらくは忙しいみたいで、顔出してないな。けど、そもそもはゆるく体を動かすのが目的だ」 駅前のベンチから人が減り、夜の静けさが漂い始める。「たとえばサッカーをやりたい人がいたら、同じくやりたい人を集めてやる。 だいたいは休日の数時間で、長時間の拘束はしないのがルールだ」「何、それ……」「人数が多いと試合になることはあるけど、勝ち負けにはこだわらない。 スポーツを楽しみたい人だけが集まってるからな」「……意味分からない」「レイにとってはそうかもな。でも、居心地のいい場所ってのは、かならずどこかにあるものなんだよ」 間遠は経験から知っていた。「伊上がそれを作ってくれて、オレはまたスポーツを楽しめるようになった。 だから、あいつにはめちゃくちゃ感謝してるんだ」 辺りが薄暗くなり、駅前の明かりが存在感を増す。「それでさ、話は少し変わるんだけど、今度はオレが居場所を作ってやれないかって思ってる」「……」「レイ、オレがお前の居場所になるから、来いよ」「来いって、どこに?」 戸惑うレイに間遠はまぶしい笑みを向けた。「決まってんだろ、久我探偵事務所だよ」 意外にもレイは嫌がらなかった。 間遠は扉を開けて中へ入るようにうながし、レイがおずおずと室内へ足を踏み入れる。「お待ちしてました!」 と、開口一番に言ったのは名城璃久だった。 数歩進んだところでレイが立ち止まる。温かい視線ばかりではないことに気づいたのだろう。 実際、久我と相楽はまだ納得していない様子であり、鯉川も困惑顔だ。 にこにこと笑っているのは璃久だけだった。「や、やっぱり帰る」 視線に耐えかねたのか、怯えた様子を見せたレイへ、神崎が声をかけた。「あなたのために用意した料理、無駄にする
「これ、レイのいたずらっすよね?」 間遠桜はそう言ってスマートフォンの画面を久我健人へ見せた。 映っていたのはメッセージアプリのスクリーンショットだ。内容は間遠に対する悪口だった。「送られてきたのか?」 と、久我が眉間にしわを寄せるが、間遠は言った。「璃久ちゃんへの嫌がらせの後、しばらく何もなかったんで、忘れられてなくてよかったです」「……それで?」「今度はオレと遊びたいんだな、って返信しました」「傷つかなかったのか? あんな悪口を言われてたんだぞ」 間遠はスマホを操作しつつ、ちらりと久我を見やった。「別に。だってレイの捏造だってバレバレですし」「そうなのか? だが、どう見てもあれは……」 久我が困惑するのは当然だった。 大学の陸上部の仲間たちが、怪我をして走れなくなった間遠を嘲笑する内容だったからだ。 間遠は自信満々ににかっと笑う。「明らかなミスを犯してるんすよ、あいつ」 そして鯉川宗吾を振り返った。「鯉川さん、今送った画像の解析、お願いします」「明らかなミスしてるって言ってなかった? おじさんがやる意味ある?」「無視するのも可哀想でしょ。とにかく、お願いしますね」 と、間遠は自分の席へ戻った。 鯉川は久我と顔を見合わせて首をかしげるが、間遠はかまわずに今日のスケジュールを確認し始めた。 調査から戻る頃に、またレイからメールが届いていた。 今度は音声ファイルが添付されており、間遠は久我の前で再生した。 古い音声ということにしたいのだろう、ノイズが入っていて聞き取りにくいが、部員たちが間遠の悪口を話しているのが分かった。「すっげーな、レイって。こんなもんも作れるのか」 と、間遠が感心すると、久我は微妙な顔をした。「これも捏造か?」「当然っすよ。っつーか、何か勘違いしてるっぽいな」「どういうことだ?」
璃久は膝を立てて三角座りをした。ぎゅっと膝を抱き、顔を埋めるようにして考える。 昨日、間遠が言っていた。ネットで拡散された写真を消すのは、いたちごっこだと。 璃久は悲しい気持ちになりながら言った。「終わりがないことをやっている自覚、ありますか?」「ああ、あるよ」「それでも、やめられないんですか?」「やめられないね。どうしても、俺がやらなきゃって思っちまう」 鯉川は立ち上がり、台所へ行くと冷蔵庫を開けた。 缶ビールを取り出し、その場でごくごくと飲み始める。「俺の両親はある意味、賢かったんだ。そういう写真に高値をつけても、買う人間がいることを知ってた」「……」「でも、それがあいつの……違うな、俺の人生までもを壊しちまったんだ」「もうやめてください、鯉川さんっ」 璃久が声をあげると、鯉川が冷めた目を向けて自嘲する。「璃久ちゃんには分からねぇよな、俺の気持ちなんてよ」「分かりません。でも、鯉川さんのやってることが、リストカットと同じだってことくらいは分かります!」 鯉川が目をみはり、璃久は震えそうになる足で立ちあがった。「もう許してあげてください。自分のこと、許してあげて……っ」 ぼろぼろと涙がこぼれ、頬を伝い落ちていく。「鯉川さん、もういいでしょう? もうそんなに自分をいじめなくても、いいはずでしょう?」「……贖罪だとしても?」「そんなの、自己満足じゃないですかっ。 もういない人に向けて罪滅ぼしをしたって、満足するのは自分だけじゃないですか!」 言ってからはっとした。「違う、満足なんてしない。するわけがないんです」「……」「だって、鯉川さんは満足しようとしてないでしょう? 行為が目的になってて、結果を見ようとしてないんです」 鯉川が小さく笑った。「すごいな、璃久ちゃんは。そうだ、俺は満足なんてしな
鯉川がシャワーを浴び終えた頃、璃久も足の踏み場ができる程度には片付けができた。「ごめんね、璃久ちゃん。ありがとう」 と、濡れた髪のまま鯉川が戻ってきて、璃久はゴミ袋を部屋の隅へ積む。「別にいいんですよ。それより、みなさんから話は聞きました。大丈夫ですか、鯉川さん」 璃久がじっと鯉川を見つめると、彼は視線をそらした。「ごめん。でも、やらなきゃいけないんだ」「ハッキングして写真を消してるんでしょう?」 間髪をいれずに璃久が問うと、鯉川はパソコンの方を見て返す。「六年前に自殺した娘さんなんだ。 ネットのおもちゃにされてて、ひどいのだとディープフェイクまで作られてた。消したいって思うのは当然だよ」「だからって、鯉川さんが無理をしてまで、引き受ける必要はあるんですか?」 鯉川はため息をつき、奥の部屋からペットボトルのミネラルウォーターを取ってきた。「座って話そう。これ、飲んでいいよ」「ありがとうございます」 ペットボトルを受け取り、璃久は座卓のそばに腰を下ろした。 鯉川も座卓を囲んで左側に座り、キャップを開けて水をごくごくと飲む。しばらく水分補給すらしていなかったようだ。 半分ほど飲み干してから、鯉川は口を開いた。「昨日はドタキャンしちゃって、ごめん」「いえ、また今度にすればいいだけですから」「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、おじさんには話したくないことがたくさんあるんだ」「もしかして、ボクに帰れって言ってますか?」「……ごめん。せっかく来てくれて悪いけど、部屋も片付けてもらっちゃって悪いけど、できれば早く帰ってほしい」 いつもより伸びた無精髭が痛々しく見えた。普段の軽口は影すらなく、鯉川は弱々しい顔をしていた。「嫌です、って言ったら?」 鯉川がのぞきこむように璃久の目を見る。「璃久ちゃんって、可愛い顔して押しが強いんだよね」 からかうような口調ではなく、むしろ自信の情けなさを反映したような台詞だった。 璃久もミネラルウ
商品を検索してもまったく同じ物は見つからなかった。 検索方法を変えてみても効果はなく、久我はたまらずため息をついた。 気づくと日は暮れており、終業時刻まで一時間を切った頃だった。 「お疲れさまです!」 外に出ていた調査員、相楽浩介が戻ってきた。 最年少の彼は背が高く体格もいいが、さっぱりとした黒髪のせいか、間遠よりは風景に溶けこみやすい。 「お疲れさま。現場はおさえられたか?」 「ええ、ばっちりです」 相楽は自分の机にかばんを置くと、デジタルカメラを取り出した。 「見てくださいよ、これまでで一番うまく撮れました」 久我は立ちあがり、神崎と間
「父が、見ず知らずの若い女に貢いでいるんです」 中野駅からほど近い雑居ビルの二階。 白地に青文字で書かれた看板が目印の久我探偵事務所で、依頼人の女性は訴えた。 所長の久我健人は真剣なまなざしで聞き返す。 「どういうことか、くわしく聞かせていただけますか?」 「はい。去年母を亡くして、父は今、一人で住んでいるんです」 パーテーションで仕切られた応接スペースで、依頼人・宮崎春香は伏し目がちに言う。 「この前、父の口座の預金が減っていることに気づいて問いつめたら、若い女性に何度もお金を渡しているらしくて」 と、かばんから数枚の写真を取り出した。
初日は何事もなく終わった。翌日は午前九時半に相楽が迎えに来てくれて、一緒に家を出た。 「朝はいないんだよね。いつも駅で待ってて、同じ電車に乗ってくる」 「じゃあ、電車に乗ったら警戒すればいいんですね」 と、相楽。 「うん、そうだね。相手はおれが一度、隣に座ったことがあるだけなんだけど、何を勘違いしたのか、つきまとうようになったんだ」 「厄介ですね。特に言葉をかわしたわけでもないんでしょう?」 「当然だよ。まさか、それだけでストーカーされるとは思わなかったし、最初はまったく知らない人だと思って怖かった」 神崎はため息をついた。またかと辟易したのと同時に、この手の
「祈りですわ」 と、久我を招いてくれた女性が本のようなものを開いてみせた。 「この特別な曼荼羅に向けて、朝と夜に祈りを捧げれば、あなたのお兄様の心は穏やかになり、お兄様のいる場所は天国になります」 「なるほど」 久我は神妙な顔でうなずいた。 鮮やかな色彩で描かれた曼荼羅は、どことなく魔力を秘めているように見えた。 「でも、それだけじゃありませんよ。この世であたしたちが幸福でいることもまた、あの世にいる人の心を穏やかにさせます。 何故ならどんな人も、あの世で家族や大切な人を見守ってくれているからです」 ありがちな話だが、心を動かされる人もいるだろう。特に亡