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38話. 取り消された注文の請求書

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-04 08:01:35

「患者さんの請求書は、こっち。あんた宛てのは、そっち」

真帆が病院の相談室のテーブルに、書類を分けて置いた。誠一の家族から届いた入院費の明細の隣に、花の装飾、撮影機材、衣装の製作費が順に並んだ。

別々の紙に、どれも月城澪の名前があった。

澪は濡れた袖口をまくった。手首の刻印は薄くなっていたが、紙を押さえる指には、まだ力が入りにくかった。

「これは、誰から?」

「納入業者三社。婚約の件の連絡は私に、と窓口を開けたら来たの。全部、今日の深夜十二時までに振り込めって」

壁の時計は、午後四時を過ぎていた。病棟を出てから、初めて座った椅子だった。

澪は先に、誠一の書類を指した。

「あの方には?」

「退院扱いの期間まで請求されていると、異議を伝えてある。医事課が訂正の根拠を送ってくることになってるし、治療も続いてる」

真帆は病院の書類を、別の封筒へ入れた。澪宛ての三枚だけが残った。

衣装製作費の下には、キャンセルによる損失、という項目が赤く

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    工房の扉を開けると、白い服が道を塞いだ。三月九日の午前。澪は自分の名札の前を六回通り過ぎてから、ようやく作業台へ着いた。美津子は挨拶の代わりに、ビニールカバーを一枚外した。「全部、今日の午後に出すはずのものです」スカートの裾には、待ち針がびっしり刺さっていた。足元の台には、昨日ほどきかけた裏地が落ちている。「発表会は、四日前に終わっていますが」「そのあとの撮影は、やると言われましたから」美津子が胸に差したボールペンで、生産表を叩いた。三月五日の午後から、むしろ作業時間が増えていた。真帆がテーブルの端を空けようとすると、従業員が先に生地の束を抱き上げた。「それは、別のお客さんに納めるものです」「では、このまま拝見します」真帆は書類を膝に置いた。澪も立ったまま、生産表を受け取った。怜司は狭い通路から、一歩外へ下がった。ミシンの音の間に、小さな咳が聞こえた。窓際の従業員は澪を見ず、糸を切り取っていた。「キャンセルの連絡は、いつ来ましたか?」「昨日の昼です。ようやく」美津子がファクスの紙を出した。記事で婚約の取りやめを知った時刻と、正式なキャンセル書類が届いた日の間に、三日間の空白があった。澪はその三日の横に、印をつけた。「私が取りやめたあとも、作業は続いていたんですね」「そうですよ。土壇場で話が戻ることなんて、いくらでもあるのに、記事だけで手を止められますか?」美津子が、まっすぐ澪を見た。「戻るのか戻らないのか、そちらでは話もあったんでしょう。私たちは、そこにいなかった」「戻るとは、一度も言っていません」「私には、みんなそう言います」美津子が紙を引いた。澪はつかまなかった。壁には、四人の従業員の出勤表があった。消された退勤時刻の上に、さらに遅い数字が書かれていた。澪の過ごした三日間は、この部屋では、夜十一時や深夜十二時だった。千夏という名前の横には、終バスを逃したというメモまで貼られていた。

  • 九度目の人生では、あなたの花嫁にはなりません   38話. 取り消された注文の請求書

    「患者さんの請求書は、こっち。あんた宛てのは、そっち」真帆が病院の相談室のテーブルに、書類を分けて置いた。誠一の家族から届いた入院費の明細の隣に、花の装飾、撮影機材、衣装の製作費が順に並んだ。別々の紙に、どれも月城澪の名前があった。澪は濡れた袖口をまくった。手首の刻印は薄くなっていたが、紙を押さえる指には、まだ力が入りにくかった。「これは、誰から?」「納入業者三社。婚約の件の連絡は私に、と窓口を開けたら来たの。全部、今日の深夜十二時までに振り込めって」壁の時計は、午後四時を過ぎていた。病棟を出てから、初めて座った椅子だった。澪は先に、誠一の書類を指した。「あの方には?」「退院扱いの期間まで請求されていると、異議を伝えてある。医事課が訂正の根拠を送ってくることになってるし、治療も続いてる」真帆は病院の書類を、別の封筒へ入れた。澪宛ての三枚だけが残った。衣装製作費の下には、キャンセルによる損失、という項目が赤く印刷されていた。その横の、ボールペンで書かれた文章に目が留まった。従業員の給料日が過ぎています。澪は、その一文の上で視線を止めた。「工房へ、電話をかけて」真帆が番号を押し、スピーカーにした。しばらくしてミシンの音がやみ、荒れた女性の声がした。「振り込んでいただけるんですか?」「月城澪です。請求の明細を受け取りました」相手が息を吸った。「森田美津子です。工房の代表です。うちも、その日の記事で知ったんですよ。服はもう、全部裁ってあったのに」「完成した数と、注文書を見せていただけますか?」「弁護士の方に、送ったでしょう」「合計ではなく、誰が、何を依頼したかがわかる書類が必要です」電話の向こうで、紙をめくる音がした。「そんなことを言っている間にも、日は過ぎるんです。生地屋には着信を拒否されてるし、従業員の一人は、子どもの病院へ行くからと半日休んだんですよ。給料も渡せてないのに、行かせるしか

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    記録装置は、独立した解析機器につながれた。澪は先に、怜司へ聞いた。「あなたの記憶と、違っていたら?」「記録を優先してください」「記録が改変されていたら?」「その改変の有無まで、確認する必要があります」怜司の答えは変わらなかった。澪は画面へ視線を戻した。最初のファイルは、2022年十一月十八日に作成された、懲戒記録だった。【対象者・月城澪への安定化処置を妨害】【上官の命令に不服従】【承認のない封魂剣の使用を試みる】【一時職務停止、および現場隔離】署名欄には三人の名前があったが、二つは破損していた。一人だけ、読めた。当時の、白夜病院のセンター長。現在は退職している人物だった。真帆が言った。「この文書だけでは、足りない。内部の懲戒記録なんて、あとからでも作れる」「次のファイルを、お願いします」二つ目は、拘禁室の監視カメラ映像だった。時刻表示が残っていた。二十一時十四分。鉄扉の内側に、怜司がいた。今より短い髪。血のついた唇。両手には、霊力抑制の手錠。彼は扉を蹴っていた。【月城さんの状態だけでも、確認させてください】扉の外の男が言った。【君は、職務停止だ】【患者が、処置を拒んでいます】【医療上の判断は、医療者がする】【拒否の意思とは、別だと?】返ってきたのは、差し入れ口を閉める音だけだった。映像の怜司が、手錠をねじった。手首から黒い光が弾けた。封魂痕が、初めてはっきりと浮き出た。澪は無意識に、今の怜司の腕を見た。同じ場所だった。映像は、二十一時三十一分まで続いた。怜司は手錠を切れなかった。代わりに、壁に自分の名前と職員番号を刻み始めた。黒瀬怜司 S-117。21:14 拘禁。

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    209号室には、ベッドが一つしかなかった。窓もない。壁にも床にも、古い霊力抑制の紋様が何重にも刻まれていた。澪は敷居を越えなかった。怜司の手も、まだ握っていた。「私は、ここにいたんですか?」「はい」答えは、すぐに返った。「二度目の人生で?」「はい」澪の手に力が入った。「あなたも」怜司の声が低くなった。「はい」壁に刻まれた名前。黒瀬怜司。黒瀬怜司。黒瀬怜司。怒りを込めたように深い文字もあれば、手に力の残っていない人が、ようやく書いたような薄い文字もあった。澪は自分の爪を見た。「私が書いたんですか?」「一部は、そうです」「一部?」「私が書いたものもあります」澪は彼を見た。怜司はもう、目をそらさなかった。「どうして、自分の名前を?」「記録を残すためでした」「誰に?」「次に、ここへ入ってくる人に」「何の記録を?」怜司が病室の奥を示した。ベッドのフレームの下に、小さな金属箱が取り付けられていた。沙耶が封印の状態を撮影してから、開けた。中には、一枚の記録用紙が入っていた。インクはほとんど滲んでいたが、一行目は読めた。【月城澪を対象とする霊力安定化・第九次】澪の指先が、画面の上で止まった。「第九次?」真帆が用紙を受け取った。「日付がない」下の文章は、もっとひどく消えていた。澪は紙を奪い取ったりしなかった。「原本を保全して」真帆がうなずいた。怜司は病室の壁の、黒い痕を確かめていた。あまりにも落ち着いた顔だった。澪が尋ねた。「この部屋のことは、初めから知っていたんですね?」「閉鎖されたことまでは、知っていました

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