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「彼と結婚してからもう二十年が経つのね……」
暁(あかつき)家の令嬢であり、今は神宮司夫人である瀬奈(せな)は広い部屋でポツリと呟いた。
彼女は今日もある人物を待ち続けている。来るはずがないとわかっていながらも、瀬奈は二十年間ずっと彼の来訪を心待ちにしているのだ。
「一体どこから私は間違えてしまったのかしら……」
ベッドサイドに腰かけた瀬奈は、彼と初めて出会ったときのことを思い浮かべた。
「初めまして、神宮司湊斗です」
「……」
神宮司湊斗(じんぐうじみなと)と名乗った彼に、強く心惹かれたのを瀬奈は今でも覚えている。一目惚れだったのかもしれない。
サラサラの黒い髪、高い鼻梁、切れ長の美しい瞳、幼いながらに整った顔立ち。瀬奈は一瞬にして彼に心を奪われてしまった。
暁グループの令嬢だった瀬奈と、神宮司財閥の御曹司だった湊斗。
二人は許嫁だった。そのことを父親から聞かされたとき、瀬奈はとても喜んだ。彼女にとって初恋の相手であり、愛する湊斗と結婚できるのだと。
しかし、彼のほうはそうではなかった。
湊斗は瀬奈との婚約中、多くの女性と浮名を流した。学校の同級生、年上の社会人、父親が経営する会社の社員にまで。彼は相手の身分関係なく手を出した。
瀬奈は自分には指一本触れないにもかかわらず、他の女性と関係を持ち続ける湊斗に不満がないわけではなかった。しかし、彼に嫌われるのを恐れていた瀬奈は何も言うことができなかった。
「結婚前に遊びたいだけだろう。神宮司家の正妻になれるのだから、それくらいは目を瞑りなさい」
父親は湊斗が遊んでいることを知っていたが、瀬奈に我慢しろと言った。
両親からも味方してもらえなかった瀬奈は、必死で自分に言い聞かせた。
彼女たちはただの遊びであり、自分は神宮家の夫人となる女だ。だから結婚すればきっと自分だけを見てくれる、とそう信じていた。
しかし、現実は残酷だった。
湊斗は結婚してもなお、瀬奈の元には訪れることなく、愛人の元で夜を過ごした。そのことを責めた瀬奈に、彼は言い放った。
「お前を愛することはできない、これからは俺の行動に口を出さないでくれ」
彼の目は初めて出会った頃とは別人のように冷たかった。
それから湊斗は瀬奈に指一本触れることなく、多くの愛人を囲い、彼女たちとの間に五人もの子供をもうけた。そのうちの誰かに会社を継がせるつもりのようだ。
「奥様ったら、今日も一人ぼっちでいるわ」
瀬奈は湊斗の帰ってこない邸宅に一人取り残された。彼は今日もきっと愛人たちの住む家へ帰っているのだろう。
しかし、湊斗を愛している彼女は毎日のように彼を待ち続けた。自分の元へ来るわけがないとわかっていながらも。
そんなことを続けているうちに、二十年という歳月が経過していた。瀬奈と湊斗はお互いに三十八歳となった。
彼女は既に子を望めるような年齢ではなくなり、湊斗のほうも新しく愛人となった若く美しい女に夢中になっていると聞いている。
瀬奈の中で、何かが音を立てて崩れ落ちて行くようだった。
二十年という年月はあまりにも長すぎた。彼女の心は既に限界を迎えていた。
翌朝、心配そうに彼女に声をかけたのは湊斗の秘書だった。
「奥様……」
普段別邸で暮らしている湊斗の私物を取りに来る彼は、たびたび瀬奈とも顔を合わせていた。神宮司家で彼女を気にかけてくれていた数少ない人だ。
「今日も湊斗は愛人のところにいるんでしょう?」
「そ、それは……」
彼の秘書・中田一馬(なかたかずま)が言いづらそうに視線を逸らした。
知ったところで今さら驚きもしない。湊斗が瀬奈の元を訪れることなど、この二十年間数えるほどしかなかったのだから。
それでも彼女は彼のことを信じて待っていたが。
「いいのよ、わかっているから」
「……」
彼はうつむいた。瀬奈が辛い思いをしていることを知っておきながら、何もしてあげられないことに罪の意識を抱いていた。
しかし、今日の瀬奈の表情はいつもと違うと、彼は思った。これまでは湊斗に対する希望を見せていたにもかかわらず、今はどこか諦念に似たものを彼は感じた。
「中田さん、私最後に行きたい場所があるの。よかったら付き添ってくれない?」
「は、はい!奥様!」
”最後”という言葉に疑問を感じながらも、中田は彼女について行った。
沙織はまるで罪人のように警察に腕を掴まれ、家の外に引きずり出された。パトカーが家の周りに集まるという異様な光景に、外には人だかりができていた。「……沙織さんが?嘘でしょう?」「そんな……彼女が一体何の罪を犯したというんだ」近隣住民たちは沙織のことをよく知っていた。元々、黒川区で彼女のことを知らない者などほとんどいない。近所に住んでいるのならなおさらだ。沙織は外面だけは取り繕っていたため、美しく愛想が良いことで評判だった。そんな彼女が警察に連れていかれる姿は、人々にとって衝撃だった。黒川区は裕福な家庭が多い都会だが、治安はあまり良いとは言えず、事件が起きるのはよくあることだった。しかし、犯人が美しい女性ともなれば注目を集めるのも当然である。(……みんなが私を見ているわ。噂が立つのだけは避けないと)沙織は近隣住民たちからの視線を避けるように、下を向いた。いつものように弱々しく振舞うことで、自身が被害者であるように見せるつもりだった。しかし、追い詰められたこの状況では意識していても本当の姿が出てしまう。沙織はパトカーに乗せられる際、警官の一人に頭を掴まれた。毎日手入れを欠かさない美しい髪の毛を見ず知らずの男に触られ、彼女は不快感を隠せなかった。「ちょっと、乱暴にしないでよ!」「……」犯罪者が何を言っているんだ――とでも言うかのように、冷たい目。彼女の美貌など、既に本当の姿を知っている警官たち相手には何の役にも立たなかった。彼女を軽蔑している若い警察官は、短く命じた。「さっさと乗れ」一回り以上年下であるにもかかわらず、なんて失礼な言い方。頭に血が上った沙織は思わず反論していた。「何よその言い方!私が釈放されたら、アンタたち全員皆殺しにしてやるわ!」「………」我に返ったときには、既に遅かった。普段の彼女からは想像もつかない暴言を吐いたことで、一部始終を見ていた近隣住民たちの視線が厳しいものへと変化した。「沙織さんがあんな言葉を使うなんて……」「やはり本当は悪人で、何らかの罪を犯して捕まってしまったのだろう」最初は何かの間違いだと思っていた近隣住民たちも、先ほどの暴言で考えを変えたようだった。沙織は羞恥で顔を真っ赤にしながらも、パトカーに乗り込んだ。突然大人しくなった彼女は、諦めたように車内にいる警官に向かって呟いた。「……さっさ
湊斗はここ数日間の出来事を振り返った。瀬奈と里亜がいない屋敷で、一人寂しく過ごすのはなかなかに辛いものがあった。しかし、彼女を危険から遠ざけたいと思っていたため、帰省を反対することができなかった。「それももう終わるんだな……長かったな……」全て終わった――とでも言いたそうに強張っていた表情を緩めた湊斗を、一馬がからかうように声をかけた。「まぁ、終わったとしても瀬奈ちゃんがいつ実家から帰ってくるかわからないけどな。もしかするとこのまま永遠にってことも……」「……お前、一発殴られたいか?」湊斗の身体から放たれる冷気を感じ取り、一馬は慌てて首を横に振った。「じょ、冗談だよ冗談!ちょっと場を明るくしようと思っただけで」「二度とくだらない冗談を言うな」湊斗の忠告に、一馬はわかったわかったと何とか彼を宥めた。「………ところで、子供たち二人は保護してあるんだな?」「ああ、沙織はあの子たちに悪影響を及ぼしてしまうだろうし……今は別の場所で暮らしてる」百合子と愛斗は、湊斗の計らいで今はベビーシッターの家にいる。いくら毒親だったとはいえ、血の繋がった母親が捕まるところを見るのは辛いだろう。そのような配慮からだった。「……今頃、沙織の家に警官が来ているはずだ。アイツに裁きが下る日も近いだろう」***湊斗の言う通り、沙織の家の前にはパトカーが停まっていた。警察官だけではなく、刑事までが彼女の家に集結していた。「ちょ、ちょっと何なのよ!」「――嶋田沙織さんですね?署まで同行願います」自身の家に押しかけた大量の警官を前に、沙織は狼狽えた。決して、心当たりがないわけではない。(どうして今になって警察が……?あの一件は終わったと思っていたのに……!)自分が黒幕だとバレることは絶対にないと高を括っていた。共犯たちは絶対に口を割らないだろうし、証拠だって全て燃やしている。ならば一体なぜ、彼女の存在が明るみに出てしまったのか。考える隙など与えられず、彼女は警官たちに引きずられていく。「ちょ、やめてよ!触らないでちょうだい!私には二人の子供がいるのよ!?」「関係ありません、さっさと連れて行け」沙織は外へ引きずり出され、代わりに刑事たちが家に入った。「何すんのよ!人の家に勝手に入らないでよ!」「家宅捜索です。あなたは容疑者ですから、話したいことがあるの
女の友情とは、儚く脆いものである。湊斗は今回の一件で、そのことをより強く感じることとなった。マナミという自称沙織の親友の女は、まるで彼女を売るようにペラペラと語り始めた。『そういえば……沙織があの一件に関与したと言っていたわ』『…………それは本当か?』『ええ、間違いないわ。ついこの間、酒の席で口を滑らせたのよ。あの女ったら、どこまでも愚かだわ』マナミは沙織とは学生時代からの仲で、かなり親しい間柄だった。お互いが内心どう思っているかは知らないが、何でも打ち明けられる関係なのは間違いないようだ。『沙織が犯行を主導したという証拠が欲しいんだが……』『すぐにでも手に入れるわ、あの女は酒に酔ったら何でも言っちゃうんだから。簡単に引き出せると思うわ。お礼は……わかっているわね?』『…………ああ、約束しよう』マナミは狡猾な女で、事件の証拠を集める代わりに湊斗に金銭を要求した。彼女は金さえあれば何でもする女だった。しかし、要求された額は湊斗にとっては大したことがないので、別に躊躇うこともなかった。マナミは絵に描いたような悪女だったが、約束はきちんと守る女だった。マナミは超小型ボイスレコーダーを着け、沙織に接触した。『証拠を手に入れたわ。あの女の証言は全てここに録音してある』『……感謝するよ、マナミ』湊斗はマナミからボイスレコーダーを受け取った。そこには、恐るべき彼女の犯行内容と隠された本性がハッキリと記録されていた。『―――邪魔だったから、始末しようと思ったの。せめて瀬奈が死んでくれていたらよかったけど、あの女は生きていた』『―――アイツらが失敗したんだって知ったときは焦ったわ。いつ自分に捜査の手が及ぶかわからない。湊斗は絶対に犯人たちをただでは済まさないでしょうから……証拠は全て燃やしておいたの』『―――目的は何かって?そりゃあ湊斗の子である里亜を消すことよ。それ以外にあり得ないでしょう?アイツは生きてちゃいけないのよ。この世からいなくなるべき』どれも、聞くに堪えないような侮辱の言葉だった。もはや沙織を断罪することに対する罪悪感などなかったが、こんなものを聞いたあとでは何の未練もなくやれそうだった。その後、湊斗は共犯の男たちにも面会をし、沙織が首謀者だと証言を取ることに成功した。確実な証拠を手に入れ、彼女を追い詰める準備は着々とできていた
二週間前、湊斗は書斎で一人頭を悩ませていた。彼の悩みはただ一つ。愛人の沙織が起こした事件に関してだった。「どうすれば沙織を追い詰められるか……」瀬奈を誘拐し、殺害しようとしたあの事件。実行犯たちが捕らえられて一件落着したかと思われていたが、彼の中ではまだ終わっていなかった。―――主犯格の沙織を捕まえるまで、戦いは終わらない。実行犯の男には十年を超える重い懲役刑が課され、共犯の男たちにもそれぞれ数年の刑期が課された。彼らがしっかりと罰を受けた中で、沙織だけ何のお咎めもなしだなんて当然認められるはずがない。湊斗は瀬奈の言葉を疑っていなかった。たしかに沙織であれば、里亜を排除しようと考えるかもしれない。彼女はなぜか、自分の子供を後継者にしようと必死だったから。「湊斗……まさかとは思うけど、あの女の子を次の社長にするつもりじゃないよな……?」「……とんでもないことを言うな。あるわけがないだろう」一馬の問いを、湊斗は即座に否定した。彼は元々、後継者のことにあまり関心がなかった。そのため、別に誰が跡を継いでもかまわないと思っていた。社長など疲れるだけだし、なりたい者がなればいいと彼は考えている。親の意思よりも、本人の意思が一番大切だ。そのような考えから、湊斗はあえてその件に言及してこなかった。しかし、そのために沙織が他人を傷付けることを企んでいるのなら、当然後継者の座など与えるはずがない。今すぐにでも彼女を痛い目に遭わせてやりたかったが、すぐにとはいかなかった。沙織は今回の犯行に、自分自身が関与したという証拠を何一つ残していなかった。実行犯たちも口を閉ざしているし、このままでは彼女を捕まえることなどできない。悩みに悩んだ湊斗は、彼女を追い詰めるためにあることを考えた。沙織には、普段からかなり親しくしている女友達がいた。彼女は沙織と似たような性格で、三十を超えてもなお裕福な既婚男性の愛人などで生計を立てているという。そんな彼女に、湊斗は狙いを定めた。「もし、俺が接触すれば……その女は必ず誘いに乗るはずだ……」たとえ親しくしている友人と関係があったとしても、気にはならない。そのようなタイプの女が、神宮司財閥の社長を逃すはずがないだろう。彼はそんな考えから、沙織の親友に近づいた。湊斗の予想は的中、罠だとも知らずに彼女は湊斗の誘いに応じた。も
瀬奈と里亜がいない神宮司家にて。邸内の書斎で、湊斗は一人深いため息をついていた。瀬奈が実家に帰ってから数日が経っていたが、彼はかなり疲弊していた。特に仕事が忙しいというわけではない。彼が疲れている理由はただ一つ。「二人がいないというのは、こんなにも辛いのか……」目の下に大きなクマを作った彼が、ボソッと呟いた。「そんなふうになるくらいなら、あのとき縋ってでも引き留めておけばよかっただろう?快く笑顔で送り出したのはお前自身じゃないか」同じ部屋で作業をしていた一馬は、呆れたように彼に言葉を返した。縋っても引き留める――そうするべきだっただろうか。そう思い始めた湊斗は、静かに首を横に振った。いや、そんなことはできない。「彼女を縛り付けたくなかったんだ。重い男だと思われて嫌われたくもなかったし……瀬奈には自由に過ごしてほしかったからな」「重いのは事実だろう?瀬奈ちゃんも既に知ってるだろうに、今さら隠すことなんてないさ」慰めているのか、貶しているのか。しかし、今は一馬と言い争いができるような気分ではなかった。一馬はそんな湊斗の気持ちに気付くことはなく、そういえばと何かを思い出した様子で尋ねた。「それより、計画は順調にいっているのか?」「ああ、沙織の犯行の証拠を見つけることができた―――これがあれば、あの女を法的に処罰することができる」キッパリと言い放った湊斗に、一馬はホッとしたように笑った。「よくやったな、湊斗。お前のこれまでの苦労は報われたんだ」「ああ、たった数週間のことだというのに、ずいぶんと長く感じるな……」一仕事終えたようにゆっくりと息を吐いた湊斗に、一馬が労うようにその肩を撫でた。「そのために、今まで瀬奈ちゃんを遠ざけていたんだろう?」「ああ……ようやく終わったのかと思うと気が楽になったな」湊斗は肩の荷が下りたように伸びをすると、数週間前までの出来事を回想した。彼は瀬奈から距離を置いているかのように見えたが、実はそれにはきちんとした理由があった。始まりは、二週間前の夜のことだった。
その後、三人は近くにあるデパートでショッピングを楽しんだ。セレブが多く訪れる都内の高級デパートに来るのは久しぶりだった。「姉さん、兄さん、早く早く!」「瀬奈、あまり急ぐな……」瀬奈は年を取ってもなお、お転婆なところが昔と変わらない。そんな彼女に、泰西も静香もクスリと笑みを溢した。「昔はいつも走っては転んで泣いちゃってたのに……今はすっかり大人ね」「姉さんったら、私のことを何だと思っているの?もう子供じゃないんだから」泰西はそんな妹の姿に、懐かしさを覚えた。そういえば、昔は時々二人で遊んだっけ。瀬奈は幼すぎて覚えていないだろうが、彼にはたしかにそんな記憶があった。無邪気な姿が、あのときに見た彼女と重なった。はしゃぎまわるところも、自分には到底作れない屈託のない笑顔も。瀬奈は良い意味で、昔から何も変わっていなかった。もしも、彼女がいなければ、静香とこんなふうに和解することもなかっただろう。その点で言えば、瀬奈には感謝してもしきれない。「ねえ、見て!あの人たち、とっても綺麗だわ!芸能人か何かのグループかしら?」「あら、本当!特にあの男の人……俳優さんみたいね」誰から見ても美しい三兄弟は、周囲からかなりの注目を集めていた。しかし、三人の時間に入り込んでいる瀬奈たちは、当然そんなこと気にも留めていない。三人全員にそれぞれ配偶者がいるし、別に異性からの人気を集めたいとも思っていなかった。「今日は……欲しいものがあったら何でも言え。特別に俺が買ってやろう」「あら、兄さん、太っ腹なのね?」その言葉に、瀬奈は嬉しそうに笑った。彼女の笑顔に、彼は昔から勝てなかった。泰西は何だかんだ、妹には甘い兄だった。「デパ地下でケーキでも買いましょうよ!今日は兄さんの奢りだし、甘いものを食べると幸せになれるんだから!」「あら、いいわね」静香は彼女の提案に賛成し、三人はエスカレーターで地下へと下りて行った。以前の三人の関係からは信じられないくらいに穏やかな時間が流れていた。(この幸せが永遠に続いたらいいな……)瀬奈は静香と泰西に囲まれながら、心の中で願った。一方その頃、湊斗は愛する瀬奈のためにある決断を下していた――