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第488話

Author: 無敵で一番カッコいい
大きな窓辺、夕陽が最後の輝きを投げかける中、明日香は俯いたまま、静かにパジャマのボタンを留めていた。

「君が卒業したら、婚約を発表しよう」

樹の声は穏やかだが、その眼差しは彼女のわずかな反応さえも見逃すまいと注がれていた。

明日香の手が一瞬止まり、数秒の沈黙ののち、ようやく小さく返事がこぼれる。

「ええ」

彼女は承諾した。

だがその翌日、帝都中のメディアが一斉に報じた。

――藤崎樹と月島明日香、婚約間近。

――藤崎グループ社長・藤崎樹、六月に月島家令嬢と婚約予定。

――スクープ、そして祝福。藤崎樹、いよいよ結婚へ。

学校へ向かう車中。

樹の手にある新聞は、今朝明日香が持ち込んだものだった。一面トップに躍る記事は、否応なく視界に飛び込んでくる。

「まだ、心の準備ができてない」

制服姿の明日香は膝に鞄を置き、緑のリボンで結んだ長い髪を揺らしていた。耳元にかかる後れ毛は柔らかくカールしている。

彼女は隣の男を見つめた。

「樹……まだ心の準備ができてないの。公式発表のことは、先に私と相談してほしかった」

樹の墨のように澄んだ瞳には笑みが浮かんでいたが、どこか遠いような、よそよそしさを孕んでいた。

「あと二ヶ月だ。結局はいつか公表することになる。心配はいらない。君を困らせるようなことは誰にもさせない」

これから明日香は、藤崎樹の婚約者という肩書きを背負うことになる。

「嬉しくないのか」

樹は手を伸ばし、彼女の頬を包み込む。親指が目の下をなぞり、その瞳には偏執にも似た独占欲が宿っていた。

明日香は唇の端をわずかに上げる。

「そんなこと、ないわ」

「なら、よかった」

樹はかすかに笑った。

学校に着くと、いつものように彼は彼女にキスを落とした。明日香はどこか上の空のまま、車を降りていった。

樹が遼一を調べ始めて以来、彼の態度はどこか不自然に変わり、独占欲はますます強まっていた。まるで誰かに明日香を奪われるのを恐れているかのように。

昨夜、二人は同じ部屋で眠ったが、樹はただ彼女を抱きしめるだけで、それ以上はなかった。それでも、明日香には彼の体調の異変が伝わっていた。

夜半、彼はベッドを抜け出し、長い時間トイレにこもった末、一時間半後に戻ってきた。その後、冷たいシャワーを浴びていた。

昨日の婚約の申し出を受け入れたことは、本当に
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