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03.初陣

last update تاريخ النشر: 2026-07-06 10:51:17

 急行した特務軍の専用車両が居住区に到着したとき、そこはすでに地獄と化していた。

 かつて人々の平穏な営みがあったはずの街並みは無残に破壊され、粉塵が舞う視界の先で、巨大な影が蠢いている。

 〝異形〟――それは、人間の形を歪に引き伸ばしたような悍ましい姿をしていた。ある個体は人の数十倍もの巨躯を誇り、またある個体は異常に発達した巨大な腕を振り回して家屋を紙屑のように薙ぎ払っていく。

 鋭い爪と牙が、逃げ遅れた住民たちへと容赦なく襲いかかる。

「あ、ああぁっ……!」

 緋依の目の前で、特務軍の兵士が巨大な顎に頭から噛み砕かれた。鈍い音とともに鮮血が吹き出し、ひしゃげた腕が宙を舞う。飛び散った肉片が石畳を赤く染め上げた。

 特務軍による銃撃や砲撃が絶え間なく打ち込まれているが、異形の分厚い皮膚の前ではほんの足止めにしかなっていない。軍の主な任務はあくまで住民の避難誘導と、決定打となる〝神〟の援護でしかなかった。

 あまりにも素早く、あまりにも凶暴な化け物の群れ。

(こんなの……勝てるの……?)

 目の前の凄惨な光景に、緋依は思わず後ずさった。全身の血の気が引き、足がガクガクと震え出す。

 圧倒的な絶望が居住区を支配する中、白玖は舌打ちを一つ落とし、車両からふらりと降り立った。

「下がってな。巻き込まれて死んでも知らないよ」

 冷淡な声とともに、彼の身体が眩い光に包まれる。

 直後、周囲の空気がビリビリと震え、巨大な影が顕現した。

 二階建ての家屋をも見下ろすほどの巨躯。雪を欺くように美しい毛並みに、九つに分かれた豪奢な尻尾。

 天都皇国が誇る決戦兵器、白狐の神がその真の姿を現したのだ。

『――グルルォォォォォッ!!』

 空気を切り裂く咆哮とともに、白狐が大地を蹴る。

 巨大な爪が一閃され、先ほど兵士を喰らった異形の胴体をいとも容易く両断した。さらに強靭な顎でもう一体の異形の首筋に食らいつき、そのまま力任せに引き千切る。

 圧倒的な暴力と暴力の衝突。巻き起こる突風に、緋依は顔を覆った。

 けれど、指の隙間から見えるその姿は、あまりにも美しく、そして孤高だった。

(白玖様が、一人で戦っている……この大好きな街を守るために)

 自分は生贄だ。彼に守られるためではなく、彼と共に戦い、力を与えるためにここにいる。

 恐怖で竦んでいた足に、ぐっと力を込める。緋依は深呼吸を一つして、自らの内に眠る膨大な魔力を引き出した。

 彼女の深紅の瞳が、炎のように熱く輝き始める。

「私も……やりますっ!」

 緋依は両手を前に突き出し、迫り来る異形の群れに向けて特大の炎弾を放った。

 轟音とともに爆炎が上がり、異形の視界を奪い、その表面を焼き焦がす。怯んだ隙を逃さず、白狐の巨大な爪が化け物を粉砕した。

 さらに緋依は、建物の残骸を利用して岩の魔法を編み出す。

「白玖様、足場にしてください!」

 異形の頭上に巨大な岩の足場が隆起する。白狐はそれを見るや否や、しなやかな跳躍で岩を蹴り、空中から異形の死角へと強烈な一撃を叩き込んだ。

 神の絶大な力と、生贄の少女の高魔力による的確な援護。

 それは、特務軍の歴史上、かつてないほど完璧な連携だった。

 次々と異形が地に伏し、やがて最後の一体が塵となって消え去る。

 静寂が戻った居住区には、黒焦げた瓦礫と、微かな硝煙の匂いだけが残されていた。

「お、終わった……」

 すべての異形を排除したことを確認した瞬間、緋依はぷつりと緊張の糸が切れ、その場にへたり込んだ。

 魔力を急激に消費したせいで、息が荒く、全身から汗が噴き出している。腰が抜けてしまい、立ち上がることすらできない。

 そこへ、ずしり、ずしりと重い足音を立てて、巨大な白狐が近づいてきた。

 見上げるほどの巨体に、緋依はわずかに身を竦める。

 しかし白狐は、攻撃的な様子を見せることなく、緋依の目の前でゆっくりとその大きな顔を下げた。

 ふんす、と鼻を鳴らし、雪のような柔らかい毛並みを持つ鼻先を、緋依の頬にすりすりと擦り寄せてくる。

『――君、気が利くじゃん』

 頭の中に直接響いてきたのは、白玖の呆れたような、けれどどこか嬉しそうな声だった。

 人ならざる神からの、思いがけない称賛。

 頬に伝わる獣の温もりに、緋依の恐怖と疲労はふっと溶けていった。

「へへ……」

 泥だらけの顔を綻ばせ、緋依は満面の笑みを浮かべた。

 大好きな世界を守れた喜びと、彼と共に戦い抜けた誇りが、その深紅の瞳でキラキラと輝いていた。

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  • 余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる   48.決戦前のプロポーズ

     澄み渡るような秋の陽射しが、薄く引かれたカーテンの隙間から静まり返った寝室に差し込んでいる。 乱れた真っ白なシーツの海に身を沈め、緋依は熱を持った呼気を吐き出しながら、ぐったりと横たわっていた。  肌蹴たブラウスから覗く白い首筋や鎖骨、そしてさらにその奥の柔らかな肌には、いくつもの赤い吸血の痕と、それだけではない、ひどく甘く艶やかな鬱血の痕が花びらのように散らされている。 指先一つ動かす気力さえ残っていないほどの深い疲労感。それは単に大量の魔力と血液を吸い上げられたからというだけでなく、心と身体の奥底までをも熱く繋ぎ合わせたことによる、甘美な気怠さだった。「…………っ」 緋依は火照った顔を両手で覆い、恥ずかしさのあまりシーツの中に深く潜り込もうとした。  魔力補給のためという名目があったとはいえ、彼に触れられるがまま、自分でも信じられないような甘い声を上げて彼にすがってしまった記憶が、頭の中で鮮明にリフレインしている。 ベッドの傍らでシャツのボタンを留めながら、白玖が満足げな、そしてどこか意地悪な笑みを浮かべて緋依を見下ろしていた。「も、もうお嫁に行けないかもしれません……」 緋依が指の隙間から深紅の瞳を覗かせ、消え入りそうな声で恨みがましく呟く。  すると、白玖はシャツの袖をまくりながら、不思議そうに小首を傾げた。「何言ってるの?」 白玖はベッドの端に腰を下ろすと、シーツに隠れようとしていた緋依の左手首を優しく、けれど逃げられない力強さで掴み取った。「僕のお嫁さんになるんでしょ?」 甘く、低い声が耳元に落ちる。  息を呑む緋依の目の前で、白玖は自身の軍服のポケットから小さなビロードの箱を取り出した。  片手で器用に蓋を弾き開けると、中には、細工の施された美しいプラチナの指輪が静かに光を放っていた。 白玖は掴んでいた緋依の左手を引き寄せ、その細い薬指に、冷たい輪っかをゆっくりと滑り込ませた。  それは、緋依の指にあつらえたようにぴったりと収まる。「……えっ? こ、これ……」 緋依は自分の左手に嵌められた指輪と、白玖の顔を交互に見比べ、目を丸くして固まってしまった。  そんな緋依の呆然とした顔を見て、白玖は照れ隠しのようにふっと微笑み、白色の髪を掻き上げた。「実はさ、君の誕生日の花束を買う時に、これもこっそり買っておいた

  • 余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる   47.化け物から神になった日

     数週間ぶりの本格的な吸血に備えて、緋依は残さずに朝食を平らげた。 失われる血液を補い、彼に十分な魔力を分け与えるためには、しっかりと造血して体力をつけておかなければならない。飲み干したスープの空の器を見て、白玖は満足そうに目を細めた。「偉いね。緋依」 白玖はソファーから立ち上がると、緋依の身体をふわりと横抱きに抱え上げた。 突然身体が宙に浮き、緋依は「ひゃっ」と小さく声を上げて彼の首に腕を回す。 白玖はそのまま特別室の奥にある寝室へと歩を進め、緋依を清潔なシーツの敷かれたベッドの上へと優しく下ろした。 彼から漂うほのかな煙草の香りが、緋依の鼻腔をくすぐる。 シーツに沈み込む緋依に覆い被さるようにして、白玖がそっと唇を落とした。 最初は触れるだけの優しいキス。しかし、一度唇が離れ、再び重なり合うと、それは次第に角度を変え、数を重ねるごとに熱を帯びて深くなっていく。 甘く長い口付けに緋依の呼吸が乱れ始めた頃、ふと、ずっと心の片隅に引っかかっていた疑問が口を突いて出た。「白玖様は……海に放り出されたあと、どうやって助かったのですか……?」 その突然の質問に、白玖は少しだけ身を引いて目を丸く見開いた。 父親から漆黒の海へと投げ落とされ、息ができずに沈んでいったというあの悪夢の続き。これまで誰にも語ることのなかった過去だ。 白玖はゆっくりと瞬きをすると、「……いい機会かもしれないね」と、失われた記憶の糸を辿るように静かに語り始めた。 ――暗く冷たい海の底へ沈んでいったはずが、白玖は運良くどこかの海岸に打ち上げられて目を覚ました。 生き延びたというよりも、人間と化け物の血が混ざった中途半端な肉体が、彼を死なせてくれなかったのだ。 人目に付かない湿った洞窟の中で、白玖は打ち上げられた生魚を齧りながら、感情もなくただ息をして生きていた。 どれだけの月日が流れたのかはわからない。だが、彼の身体は少年の姿から一切成長していなかった。 自分は一体、何者なのか。 突如として湧き上がったその疑問に突き動かされ、白玖は洞窟を出て人間の街へと足を踏み入れた。 しかし、ボロボロの衣服に身を包み、人外の異様な雰囲気を纏った少年を、人間たちは当たり前のように恐れ、〝異形の化け物〟として激しく迫害した。 石を投げられ、罵声を浴びせられ、太い棒で殴られ、時には

  • 余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる   46.封じられた記憶、海底への道

     花ノ瀬の孤児院での惨劇から、一週間が経過していた。 帝都・白嶺から遠く離れた郊外の街にまで、しかも気配を持たない改良型の〝異形〟が大挙して押し寄せたという事態は、特務軍の上層部にかつてないほどの大きな衝撃を与えていた。 軍の内部は連日慌ただしく動き、防衛線の見直しが図られ、これまでは比較的安全だとされていた各地の郊外にも、早急に兵士が配属されることとなった。 しかし、そんな世界の慌ただしさなど、今の緋依にはひどく遠い出来事のように感じられていた。 目を閉じれば、今でも鮮明に蘇ってくる。 生温かい血液の感触。ゴロンと足元に転がってきた幼馴染の頭部。真っ二つに引き裂かれた橘先生の悲鳴。そして、瓦礫の下敷きになった親友や子供たちの、唐突に途絶えた声。 あの凄惨な地獄から白玖の口に咥えられて帝都へ逃げ帰ってからというもの、緋依は文字通り、抜け殻のように塞ぎ込んでいた。食事も喉を通らず、夜になれば浅い眠りの中で悪夢にうなされ、声にならない悲鳴を上げて跳ね起きる。 それでも。『あいつと一緒に、生きろ』『小夜たちを……お願い……。緋依……貴女は、生き……て……』 大切な人たちが最後に遺してくれたその言葉が、強烈な呪いであり、そして祈りとなって緋依を立ち上がらせていた。 ここで自分が心を壊して立ち止まってしまえば、彼らの死は本当に無駄になってしまう。残された時間は少ないのだ。自分が冬の満月に〝生贄〟として命を終える前に、必ずあの化け物たちの根源を絶たなければならない。 だから緋依は、心にぽっかりと空いた巨大な穴から目を逸らし、あえて気丈に振る舞うことに決めたのだった。 唯一の光と言える報せは、今朝方、火野参謀官から伝えられた。 奇襲を受けて重傷を負っていた技術研究局の菫川主任が、ついに意識を取り戻したというのだ。「……白玖様。朝ごはんですよ」 特別室の居間。緋依は努めて明るい声を出しながら、テーブルの上に二人分の朝食を並べた。 こんがりと焼いたパンに、厚焼き卵を挟み込んだサンドイッチ。そして、湯気を立てる濃厚なポタージュスープだ。「だいぶ、冷え込んできましたから。あたたかいスープを用意いたしました」「緋依……」「そろそろ、あの青いマフラーも出さなくてはいけませんね」 作り物めいた明るさで話しかける緋依の背中に、ふわりと、冷たく甘い香りを

  • 余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる   45.守れなかったもの

     喉が裂けるほどの悲鳴が、血に染まった部屋の中に木霊した。 目の前には、つい先ほどまで不器用な笑顔を見せてくれていた宗一郎の、首を失った肉体が横たわっている。足元に転がった彼の頭部を見つめ、緋依の思考は完全に停止した。 その絶望の渦中に、凄まじい風圧とともに巨大な白い影が飛び込んできた。九つの尾を逆立たせた巨大な白狐――白玖だ。 いつもは細められている氷のような瞳が、今は激しい怒りに燃え上がっている。白玖は強靭な顎で、宗一郎の命を奪った四つん這いの化け物の首を容赦なく噛み砕いた。おぞましい黒い体液が飛び散り、生温かい不快な雨となって部屋を汚していく。『緋依、しっかりして!』 白玖の切迫した声が、脳内に直接響き渡った。『こないだの気配を感じない〝異形〟だ。今回のはご丁寧に大きくて力もあるやつに改良されている。なぜ帝都ではなく、郊外のここが狙われたのかはわからないけれど――っ!』 白玖は巨体を翻し、廊下へと繋がる扉を破壊しようとしていた別の個体を鋭い爪で引き裂いた。木製の扉は化け物の肉体ごと粉々に粉砕され、凄惨な光景が広がっていく。『ふー、こないだじゃれ合いとはいえ、魔力補給しておいてよかったよ』 白玖はあえて、いつもの軽薄なトーンを崩さずに声をかけた。一刻も早く緋依を正気に戻さなければ、この地獄を生き延びることはできないと本能で察していたからだ。 しかし、その必死の試みも今の緋依には届かない。緋依は血の海に両膝をついたまま、耳を塞いで小さく震えていた。深紅の瞳からは完全に光が消え失せ、ただ目の前の凄惨な現実を拒絶するように、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。『まずいな……おい! 緋依!』 白玖が鋭く吠える。不自然なほどに、〝異形〟どもは白玖への攻撃を後回しにし、執拗に緋依の元へと群がろうとしていた。 まるで、その〝生贄〟の命だけを確実に刈り取ることを最初から命じられているかのように。 白玖は襲い来る化け物を次々と蹴散らしながら、廊下へ溢れ出ていた孤児院の小さな子供たちを避難させるべく誘導を開始した。異変を察知した橘も奥から駆けつけ、必死の形相で子供たちを抱きかかえ、裏手へと逃がそうと動いている。 しかし、敵の物量は彼らの想定を遥かに超えていた。 地響きのような不穏な音が響いた直後、ひときわ巨大な個体がおぞましい咆哮を上げ、孤児院

  • 余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる   44.来年の桜を、君と

     孤児院の二階。軋む木板の廊下を歩き、一番奥にある部屋の前に立つ。 緋依は小さく深呼吸をしてから、迷いを振り切るようにコンコンと扉をノックした。「……入ってくんな」 扉の向こうから、ぶっきらぼうで、ひどく刺々しい声が返ってくる。 それでも緋依は引かなかった。ここで逃げたら、一生後悔する気がしたからだ。「やだ。入るよ」 返事を待たずに、緋依は無理やりドアノブを回して部屋へと足を踏み入れた。「っ、おい。入ってくんなって……」 机に突っ伏していた宗一郎が、弾かれたように顔を上げる。その目は少し赤く腫れていて、怒ったように眉を寄せているが、ドアの前に立つ緋依が今にも泣き出しそうな顔をしているのを見ると、一瞬だけ眉尻を下げた。 そして、バツが悪そうにふいっと顔を窓の方へ逸らしてしまう。「……何の用だよ」 冷たく突き放すような言葉。 けれど、緋依は知っている。彼が本当は誰よりも優しくて、不器用なだけだということを。 部屋の中には、しばらくの間、古い柱時計の秒針の音だけがカチコチと響いていた。 沈黙に耐えかねたように、緋依がぽつりと口を開く。「……ごめんね」 夏の夜、千日紅の花畑で彼を突き放してしまったこと。自分の運命を勝手に受け入れて、彼の想いから逃げていたこと。様々な感情が入り混じった謝罪だった。 すると、宗一郎は窓の外を見たまま、吐き捨てるように言った。「謝んな」 そして、彼は重いため息をつき、ゆっくりと緋依の方へと向き直った。その瞳には、これまで見せたことのないような、静かな諦観の色が浮かんでいた。「俺……何回考えても、お前があの神様を好きになるのだけは、止められなかった」「宗一郎……」「俺がどれだけお前を好きでも。幼い頃からずっと一緒に育ってきても。……勝てねぇもんは、勝てねぇ」 宗一郎は、ここで初めて緋依への想いを完全に諦め、自らの負けを認めた。 幼馴染としての長い年月よりも、神である白玖と緋依が共に戦い、血を分け合ってきた一年間の絆の方が、圧倒的に深く、そして強い引力を持っていたのだと。 だが、彼の言葉はそこで終わりではなかった。「……だからって、お前が死ぬのだけは絶対に認めねぇ」「でも、私は〝生贄〟だから……」「それだ!」 悲しげに俯いた緋依の言葉を遮るように、宗一郎が声を荒げた。「お前、いつもそうだ。

  • 余命一年の生贄少女は、帝都を護る兵器の神様に捧げられる   43.自己犠牲という名の呪い

     緋依の腕の中でひとしきり涙を流した小夜は、やがて鼻をすすりながらゆっくりと身体を離した。「……ほんとは、こういうこと……絶対に言わないようにしようって、一人で決めてたんだけどね」 充血した目を擦りながら、小夜は無理に作ったような笑顔を浮かべる。「困らせたら、ごめんね」 それだけ言い残すと、小夜は踵を返し、足早に孤児院の建物の中へ、自室へと走り去っていった。 残された緋依は、夕闇が迫る庭に一人立ち尽くし、ただ静かに俯いていた。胸の奥がギュッと締め付けられるように痛い。 自分はどれだけの人に悲しい思いをさせ、どれだけの優しさに支えられて生きているのだろうか。 重い足取りで孤児院の建物に入ると、暖かなオレンジ色の明かりが灯る食堂で、橘が一人で静かにテーブルを拭いていた。 小夜が廊下を走っていく足音と、うつむき加減で入ってきた緋依の暗い表情を見て、橘はすべてを察したように優しく微笑んだ。「緋依。少し、座りなさい」 橘に促されるままに木の椅子に腰を下ろすと、目の前には湯気を立てるホットミルクと、手作りの素朴なビスケットが置かれた。 温かいマグカップを両手で包み込むと、ミルクの甘い香りが強張っていた心を少しだけ解きほぐしてくれた。「……貴女が初めてこの孤児院にやって来た日のことを、今でも鮮明に覚えているわ」 橘は向かいの席に座り、懐かしむように目を細めた。「あの頃の緋依は、人見知りがとても激しくてね。〝異形〟にご両親を奪われたショックからか、いつも私のエプロンの後ろに隠れて、怯えたように大きな瞳を揺らしていた」「……はい」「でも、同じようにご両親を亡くした宗一郎や小夜と出会って、少しずつ笑顔を取り戻していって……初めて三人で手を繋いで笑い合った時、私は本当に嬉しかったのですよ」 橘の優しい声が、静かな食堂に響く。 そして、運命の歯車が狂い始めた日のことも。「やがて、その高すぎる魔力を鷺原総帥に見出されて……特務軍で、魔法の訓練を受けることになったわね。まだ幼い子供だった貴女には、軍の過酷な訓練はあまりにも辛かったはず。……それなのに貴女は、一度たりとも弱音を吐かなかった」 どんなに身体中が痣だらけになっても、帰ってくれば「大丈夫だよ」と笑っていた。 料理の腕を磨き、小さな子供たちの面倒をよく見て、いつも自分のことは後回しにして、誰か

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