Share

4.触れない優しさ

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2026-02-23 15:04:44

宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。

史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。

律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。

「律くん、いけるんかそれ」

米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。

律は肩をすくめて、さらりと言った。

「いけるいける」

言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。

串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。

律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かなさを消すための落ち着かなさに見える。

史人は見ないふりをしたかった。見ないふりをして、宵だまりの膜に包まれていたかった。だし巻きの湯気と笑い声で、何も考えずにいたかった。けれど視線は勝手に律の手元を追う。追ってしまうことが、自分でも嫌だった。

史人の中には、厄介な癖がある。異常を見つける癖だ。仕事柄、異常を見つけないと死ぬ。障害対応は、気づいた者が責任を負う。気づかなかったふりをした者が生き残ることもある。史人はうまく生き残れなかった。気づいてしまう。気づいたら動いてしまう。動いたら余計な責任を背負う。それでも、気づかないふりの方が苦しい。

律が三杯目を頼もうとしたとき、手が止まった。

グラスを掲げる途中で、空中に残る。指が開いたまま固まる。たった一拍。二拍。宵だまりの賑わいの中で、その停止がひどく目立った。まるで音楽が一瞬だけ止まったみたいに、史人の耳がその沈黙を拾う。

律の喉が小さく動いた。唇が乾いて、無意識に舐める。視線が泳ぐ。泳いだ視線は、カウンターの木目に落ち、また宙へ戻る。呼吸が浅い。胸が上下するのが速い。肩が僅かに上がる。

史人の胃がきゅっと縮んだ。胸の奥が冷たくなる。これは知っている。仕事の障害対応で何度も見た「予兆」だ。異常はいつも小さく始まる。小さく始まった異常を見逃すと、数分後に大きく崩れる。崩れた後では遅い。遅いのに、誰も待ってくれない。

史人は声を荒げない。荒げたら、律が逃げる。逃げるというより、引き返せない方向へ走る。そういう人間の気配が律にはある。史人はそれを直感で感じていた。

史人はカウンターの向こうの串田を見た。目を合わせるのではない。合図の形だけを作る。史人が水のコップを指先で軽く叩く。音は立てない。形だけだ。

串田は一瞬だけ史人の手元を見て、すぐに頷いた。頷きはほんの僅か。声は出さない。串田はすぐに水のコップを用意し、氷を入れずに、静かに注ぐ。水の音が小さく響き、その音が史人の胸の奥の緊張を少しだけ解いた。

串田はそれを律の前ではなく、史人の前に置いた。直接渡すと律が意地を張るかもしれない。史人を経由させることで、宵だまりの日常の中に紛れ込ませる。実務で優しさを出す。串田のやり方だ。

史人はそのコップを手に取り、律の方へ少しだけ寄せた。押し付けない距離。突きつけない角度。仕事で覚えた「相手が拒否しにくい提示」の技術が、こんなところで役に立つのが嫌だった。

史人は低い声で言った。

「水」

律の目が史人の手元に落ちる。落ちて、一瞬だけ硬直する。硬直の後、律は笑った。笑い方が、さっきまでの軽さではない。軽さを装っている重さだ。

「優しいな」

史人は返さない。優しいと受け取られると、責任が生まれる。責任が生まれると、逃げられなくなる。史人は逃げるために生きてきた。逃げることしかできなかった。

だから史人は、優しさの言葉を受け取らない代わりに、実務を続ける。

「飲み」

律は一拍遅れて、コップに手を伸ばした。指が長い。さっきまで震えていた指が、水のコップに触れると少しだけ落ち着く。律は一口飲んだ。喉が動く。二口飲む。肩が少し下がる。呼吸が少しだけ深くなる。

それだけで、史人の胸の奥の冷たさが和らいだ。和らぐのが、怖い。自分が安心してしまうことが怖い。安心したら、もう戻れない気がする。

米谷が律の変化に気づかず、勝手に話を続けている。気づかないふりをしているのか、本当に気づいていないのか分からない。宵だまりの常連は、人の痛みに触れそうになったとき、雑な冗談で覆い隠す。優しさが露骨になると照れるからだ。照れを隠すために、笑い声が大きくなる。

律は水を飲み終え、コップをそっと戻した。戻す動作が丁寧すぎて、逆に目立つ。目立つのに、誰も何も言わない。言わないことが、この店の優しさだ。

律は息を整えるように、ハイボールのグラスに触れた。触れたが、すぐに離した。飲みたいのに飲めないのか、飲んではいけないと分かっているのか、史人には判断がつかない。判断がつかないまま、史人の胸に小さな棘が刺さる。

律が目だけで史人を見た。さっきまでの軽口の目ではない。ほんの一瞬だけ、真面目な目になる。助けられたことを認めたくない顔。認めたら弱くなるから、認めたくない顔。

律は声を落として言った。

「…ありがと」

たった四文字が、史人の胸に重く落ちた。礼を言われると、史人は居場所を失う。礼を言われると、自分の行動に意味が生まれる。意味が生まれると、次も求められる。求められたら、断れない。断れないまま疲れて、またどこかで壊れる。史人はそうやって仕事で何度も壊れかけた。

史人は礼を受け取らないために、わざと雑に返した。

「別に」

律の目が少しだけ細くなる。傷ついたのか、呆れたのか、分からない。分からないまま、史人は話題をずらす。ずらすことでしか、自分を守れない。

史人はカウンターの短冊メニューを指差した。

「それ、食う? 砂ずり」

律は一瞬、言葉を失った顔をして、それから笑った。軽口に戻る速度が速い。速すぎる速度は、さっきの不安の芽を覆い隠すための速度だと史人は思った。

「砂ずり、渋いな。社畜って渋いもん食うん?」

史人は肩をすくめた。渋いも何も、胃が弱っていると油っこいものが入らない。ただそれだけだ。けれどそんなことを言うと、生活の話になってしまう。生活の話は、踏み込む入り口になる。史人は入り口を作りたくない。

「適当」

史人が言うと、律は笑いながら串田に向き直った。

「すんませ…砂ずり、ください」

串田は短く頷く。注文を受ける声はいつも通りだ。いつも通りの声が、さっきの緊張をなかったことにしてくれる。なかったことにするのは正しいのか分からない。けれど、今はそれでいい気がした。宵だまりは、そういう場所だ。

砂ずりを焼く音が、厨房から聞こえる。じゅっという音。香ばしい匂いが立つ。匂いが立つと、宵だまりの空気がまた食い物の方向へ引っ張られる。人の心を引っ張るのは、言葉より匂いだ。匂いは嘘をつけない。匂いがあると、ここが現実だと分かる。

律は深呼吸を一つして、椅子に座り直した。座り直し方が綺麗だった。背中が伸び、肩が落ちる。さっきの不安の芽が嘘みたいに消える。消えるというより、奥へ押し込められる。押し込められたものは、いつかまた出てくる。その予感だけが残る。

米谷がようやく史人の方へ身を乗り出してきた。

「兄ちゃん、何したんや。律くんに水飲ませるとか、もう保護者やん」

米谷の声は笑い混じりだ。笑い混じりだからこそ、史人は救われた。真面目に言われたら、逃げ場がなくなる。

史人は冷たく返す。

「うるさい」

米谷は「こわ」と笑い、勝手に話を別の方向へ飛ばした。飛ばしてくれることがありがたい。宵だまりの常連は、踏み込みそうになると、雑に線を引く。線を引いたことを、線だと認めない。だから居心地がいい。

律が史人の方をちらりと見た。さっきの礼の続きみたいな視線。史人はそれを受け止めきれず、グラスの水を飲んだ。水の冷たさが喉を通り、胸の奥へ落ちる。落ちると、さっきの緊張が少しだけ実感になる。緊張は現実だ。幻ではない。だから史人は、緊張を認めたくないのに、認めてしまう。

自分はさっき、律を助けたかった。

助けたかったという言葉は大げさだ。助けたというほどのことはしていない。水を出しただけだ。それでも、異常を見つけた瞬間に身体が動いた。動いてしまった。止められなかった。止められない自分が嫌なのに、止めたらもっと嫌になるのも知っている。

律は砂ずりが出てくると、嬉しそうに箸を取った。嬉しそうに見えるのに、箸の持ち方が少しだけ硬い。硬さは残っている。残っている硬さが、史人の胸をまたきゅっと締める。

「これ、うま」

律が言う。言い方はいつも通り軽い。いつも通りの軽さが、さっきの綻びを覆い隠す布になる。

史人はそこで気づく。二人は同じことをしている。言語化しない。踏み込まない。けれど身体だけが先に反応する。反応してしまったことを、軽口と生活の匂いで誤魔化す。

史人は仕事の世界で、言葉がないと責任を取らされる場所にいた。だから言葉を嫌うようになった。言葉にすると捕まる。捕まると縛られる。縛られるのが怖い。律も、同じ匂いがする。何に縛られているのかは分からない。ただ、縛られるのが怖い人間の匂いがする。

律がハイボールを見て、少しだけ迷う顔をした。迷いはすぐに消える。消えて、律はまた笑う。

「もう一杯、いけるかな」

その言葉は、自分に言い聞かせるみたいだった。

史人は答えない。答えたら、許可になる。許可になると責任になる。責任は取れない。取れないのに取ろうとしてしまう自分が怖い。

串田が静かに近づいてきて、律の前に水を置いた。今度は直接。律が拒否できないくらい自然な動き。宵だまりの日常に紛れた、実務の優しさ。

律は一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。

「また水」

串田は短く言った。

「飲んどき」

律は口を尖らせるふりをして、水を飲んだ。飲みながら、史人の方を見た。さっきの礼を、もう一度言いたいのかもしれない。言いたいのに言えない顔。言ったら、そこから先に進んでしまうからだ。

史人はその視線を受け止めた。受け止めたまま、わざと視線をそらさずに、短く言った。

「砂ずり、うまいな」

律が一瞬、拍子抜けした顔をして、それから笑った。笑いは小さかった。小さい笑いの方が、本当の息に近い。

「うまい」

律が言った。言葉はそれだけだった。ありがとうも、ごめんもない。宵だまりの夜更けには、それで十分だった。

史人の胸の奥にあった硬い板が、ほんの少しだけずれた。ずれた隙間から、温かいものが入ってくる。入ってくるのが怖いのに、嫌ではない。嫌ではないことが、もっと怖い。

それでも史人は、今夜の宵だまりの空気に身を預けた。預けると言っても、全体重を乗せるわけではない。指先だけ触れる。触れて、すぐに離れられる距離。律も同じだ。軽口と酒と水で、どうにか呼吸を整えながら、まだ踏み込まない場所に踏みとどまっている。

賑わいの裏で、静かに張る緊張は消えなかった。消えないまま、宵だまりの生活の音に紛れていく。氷が鳴り、油が鳴り、誰かが笑う。その音の膜の中で、史人は初めて気づく。自分は誰かの変調に気づいたとき、もう見過ごせない人間になってしまっている。仕事のせいでそうなったのか、元からそうだったのか分からない。

分からないまま、史人はまた水を飲んだ。水の冷たさが、喉を通り、胸の奥へ落ちる。落ちた先で、律の小さな安心が、史人の中にも微かに移る気がした。移ったことを認めたくなくて、史人は砂ずりをもう一口食べた。噛む音が、宵だまりの夜更けに小さく混ざった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   7.27歳の顔

    薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   6.勢いの夜

    ドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。律が背中越しに囁く。「史人さん」名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。史人は振り返らずに言った。「狭いけど」それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   5.帰り道

    宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」米谷が言うと、隣の常連が笑った。「それ言うたら飲まれへんやろ」律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。史人は即座に否定したか

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   4.触れない優しさ

    宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。「律くん、いけるんかそれ」米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。律は肩をすくめて、さらりと言った。「いけるいける」言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かな

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   3.初来店の男

    宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。引き戸が開いたのは、そのときだ。外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。史人は反射で入口を見た。男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所の

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   2.だし巻きの湯気

    宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。「生きてます」史人が言うと、米谷は鼻で笑った。「それ、死んでるやつが言うやつや」米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。「ありがとう」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status