LOGIN薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。
隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。
史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。
身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。
史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。
史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。
洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。
水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。
史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。
大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現実味を持って映る。二十七のはずなのに、今の顔は三十を越えて見える瞬間がある。目の下の影が濃い。まぶたが少し重い。頬の血色が薄い。口元は乾いていて、唇の縁がかさついている。髪は整えていたはずなのに、寝癖がほんの少し跳ねている。
史人は鼻で笑いそうになった。笑いは出ない。出るのは乾いたため息だけだ。
疲れすぎやろ。
心の中で呟くと、鏡の中の男が薄く口角を動かしたように見えた。そういう表情ができる顔なのに、史人はそれを忘れていた。
整っている。気づきたくない形で、それは確かだった。鼻筋はまっすぐで、頬骨のラインがはっきりしている。眉の形も悪くない。目元の線は、疲れでくすんでいるのに、元の二重の幅が綺麗に出れば強い印象になるタイプだ。骨格は、鏡の中で光を受けるときに陰影を作ってしまう。疲れが抜ければ、確かに見栄えのする顔になる。
史人はその事実に腹が立った。見栄えがする顔が何になる。仕事は終わらない。睡眠は足りない。恋愛をする余裕はない。価値があるなら、せめて生活が楽になるはずだ。そうならないのなら、顔が整っていることなど意味がない。
意味がない、と言い切れない自分が一番厄介だった。昨夜、律の視線が自分の顔に触れたとき、史人の中のどこかが熱を持った。熱を持ったまま、今この鏡の前に立っている。整っていると言われたわけでもない。褒められたわけでもない。なのに、誰かに見られたことが、こんなにも胸をざわつかせる。
史人は蛇口を閉め、タオルで顔を拭いた。タオルの繊維が頬を擦り、少しだけ痛い。痛いのがちょうどいい。痛みは現実で、現実は余計な想像を止めてくれる。
鏡から視線を外した。外したまま、歯ブラシを手に取る。歯磨き粉のミントの匂いが、口の中の乾きを冷やす。磨きながら、史人は昨夜を思い出さないようにした。思い出すのは簡単だ。律の声、手の熱、呼吸の近さ。思い出した瞬間に身体が反応してしまう。その反応が恥ずかしい。恥ずかしいのに、嫌ではない。嫌ではないことが、もっと恥ずかしい。
口をすすぎ、口元を拭く。洗面所の空気は冷たい。狭い空間にひとりで立っていると、呼吸がやっと自分のものになる。仕事の呼吸でもない。誰かに合わせる呼吸でもない。ただの呼吸。そのただの呼吸が、昨夜のせいで乱れてしまうことが腹立たしい。
史人は一度、目を閉じた。閉じた瞼の裏に、律の寝顔が浮かんだ。平気な顔で眠る男の顔。平気な顔が、ずるい。ずるいと思うのに、救われてもいる。平気な顔でいてくれたから、史人は昨夜を「勢い」として棚に上げられる。棚に上げて、今日を生きられる。
史人は洗面所を出た。廊下を歩くたび、床が冷たく、足音が小さく響く。寝室のドアの前で、一瞬だけ足が止まった。中には律がいる。律がいるという事実が、史人の生活の輪郭を変える。変わるのが怖い。
史人はドアを開けた。カーテンの隙間から差し込む光が少し増えている。夜明けが近い。薄い光は、部屋の埃を浮かび上がらせる。テーブルの上の私用スマホが伏せられたまま置かれている。伏せられていることに、史人は妙に安心した。見ないふりができる。通知も、現実も、今は見ないふりができる。
律はまだ眠っていた。布団を肩までかぶり、髪が少し乱れている。乱れているのに、寝姿がだらしなくない。体の線が綺麗にまとまっている。生活の場にいるのに、生活に呑まれていない感じがする。その感じが、史人の心をざわつかせた。羨ましいのか、怖いのか、自分でも分からない。
史人は窓に近づき、カーテンを少しだけ開けた。外の空気が変わった匂いがする。雨上がりの湿り気が薄れ、朝の乾いた匂いが混ざる。遠くで車が走る音がして、近所の誰かが扉を閉める音がした。生活の音。いつもの朝の音。いつもの朝の音が、昨夜を異物にしようとする。異物にされるのが、少しだけ嫌だった。
史人はキッチンへ行き、水を飲む準備をした。コップを出し、蛇口をひねる。水の音がする。昨日の夜にも水の音はあったのに、今は違う意味を持つ。水は、誤魔化しの道具だ。言葉にできないものを、水で流す。
コップに水を注いでいると、背後から布団の擦れる音がした。史人の肩が反射で上がる。上がった肩を自覚して、史人は自分に腹が立つ。何を怯えている。相手は寝起きだ。今すぐ何かが起きるわけじゃない。
それでも史人は振り返れなかった。振り返ったら、目が合うかもしれない。目が合ったら、昨夜が現実になる。現実になったら、何かを言わなければならない気がする。
律の声がした。少し掠れている。寝起きの声だ。
「おはよ」
史人はコップを持ったまま、短く返した。
「…おはよう」
返事がぎこちない。ぎこちないのを誤魔化すように、史人は水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、胃へ落ちる。落ちた冷たさが、胸の熱を一瞬だけ鎮める。
律が欠伸をした。欠伸の音すら、妙に生活っぽい。
「朝やな」
律が言う。言葉はそれだけ。昨夜のことを掘り返さない。掘り返さないことで、空気が保たれる。保たれることがありがたい。ありがたいのに、寂しい。
史人はコップを置き、タオルを畳むふりをした。何かをしていないと、沈黙が怖い。沈黙は仕事の場で責められる。沈黙は無能の証拠になる。ここでは責められないのに、身体がまだ怯えている。
律が布団から起き上がり、首を軽く回した。シャツの襟元が少し乱れている。乱れているのに、妙に似合う。似合うという感覚が、自分の中に生まれることが嫌だった。嫌なのに、視線が追う。
律が史人を見て、口元を緩めた。いつもの軽口の顔だ。宵だまりで見た顔。
「水、飲む?」
史人は頷いた。頷きが、答えにも見える。答えにしたくないのに、答えになる。
史人は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して渡した。昨夜の自販機の水と同じような動作だ。反復が怖い。反復が、習慣の芽になる。芽が育つと、逃げ道がなくなる。
律はペットボトルを受け取り、一口飲んだ。喉が動く。喉が動くのを、史人は見ないようにした。見たらまた身体が熱を持つ。
律がペットボトルを置き、軽い調子で言った。
「タオル貸して」
史人はタオルを渡した。渡す指が触れないように、少し距離を取る。距離を取るのが露骨で、自分でも分かってしまい、史人は耳が熱くなった。律は気づいているのか気づいていないのか分からない顔で、タオルで顔を拭いた。
律が言った。
「シャワー、借りてもええ?」
史人は一瞬、喉が詰まった。シャワーを浴びるという生活行為が、関係を生活に引き寄せる気がした。昨夜は勢いだと言い訳できる。朝のシャワーは言い訳が薄くなる。
史人はそれでも言った。
「…ええよ」
律が笑った。
「助かる」
助かる、という言葉が宵だまりのだし巻きみたいに丸くて、史人の胸に柔らかく落ちた。柔らかい言葉が、怖い。怖いのに、受け取りたくなる。
浴室のドアが閉まり、シャワーの音が始まった。水音が続く。一定の水音は、妙に心を落ち着かせる。史人はその音を聞きながら、テーブルの上の私用スマホに視線を落とした。伏せられたままの黒い画面。昨夜、伏せたことで手に入れた静けさ。今も伏せていることで守っている静けさ。
守っているのに、心の中は騒がしい。騒がしさの中心にいるのは、仕事ではなく律だ。律の存在が、史人の生活の中に入ってきてしまった。その事実を認めたくない。認めたら、何かが始まる。始まったら、終わるときに傷がつく。傷がつくのが嫌で、史人はいつも先に逃げてきた。
史人はキッチンに立ち、使いかけの食器を洗うふりをした。水を流し、スポンジを動かす。音を作る。音があると、考えなくて済む。考えなくて済むはずなのに、昨夜の感触が指先に蘇る。蘇って、腹の奥が熱くなる。史人は蛇口を強くひねり、冷たい水を指先に当てた。熱が引く。引いたあとに、空白が残る。
空白は、渇きに似ている。
史人はその渇きを認めたくなくて、また水を飲んだ。水で埋まる渇きではない。分かっているのに飲む。飲むことで、渇きに名前をつけなくて済む。
シャワーの音が止まった。浴室のドアが開く音。湿った空気が廊下へ漏れてくる。石鹸の匂いが混ざった湿気が、部屋の乾いた匂いを少しだけ塗り替える。塗り替えられることが、妙に落ち着かない。
律がタオルで髪を拭きながら出てきた。頬が赤い。湯気のせいで目元が少し柔らかい。史人はその顔を見て、さっき洗面所で見た自分の顔を思い出した。くたびれた二十七歳の顔。対照的に見えてしまうのが嫌だった。嫌なのに、視線が離れない。
律が言った。
「もう行くわ」
あまりにも自然な言い方だった。昨日の夜と今日の朝が、地続きのまま終わる言い方。史人はその自然さに救われた。救われたのに、胸の奥がじくりと痛む。痛むのは、寂しさの形だと気づきたくなかった。
史人は頷いた。
「…そやな」
律は部屋の中を見回して、軽口を落とす準備をするみたいに口角を上げた。
「部屋、ちゃんと片付けたほうがええで」
史人は反射で言い返した。
「うるさい」
言い返せたことが、少しだけ救いだった。言い返せる関係なら、まだ深くないと言い訳できる。深くないなら、安全だ。
律は笑った。笑い方が宵だまりと同じだ。宵だまりの膜が一瞬だけ戻ってくる。
「ほなな」
史人は返事を探した。返事の種類が多すぎる。気をつけて、また来て、連絡して、昨夜のこと。どれも言えない。言えないまま、史人は口を開いた。
「…気ぃつけて」
それだけが、生活の言葉として出た。恋愛の言葉ではない。恋愛の言葉ではないと、自分に言い聞かせられる言葉。
律が一瞬だけ目を細めた。照れたのかもしれない。照れたように見えただけかもしれない。分からない程度の変化だった。分からない程度だからこそ、史人の胸に残った。
律は玄関へ向かい、靴を履いた。靴を揃える動作がやっぱり綺麗で、史人は目を逸らしたくなった。逸らすと、存在が消えてしまう気がして逸らせない。
ドアが開いて、外の朝の空気が入る。乾いた匂い。遠くの車音。鳥の声はまだはっきりしない。曇りがかった空が、薄く明るい。
律がドアの向こうで振り返った。
「史人さん」
名前を呼ばれて、史人の喉が動いた。返事をする前に、律が軽い調子で続ける。
「水、サンキュ」
その言い方がずるかった。昨夜も今朝も、言葉にできないものを水で誤魔化した。その誤魔化しを、律はちゃんと拾って、軽口にして返してくる。軽口にされると、助けたことが責任にならずに済む。責任にならないまま、温かさだけが残る。
史人は短く返した。
「別に」
律は笑って、ドアを閉めた。閉まる音は静かだった。静かすぎて、部屋の空気がすぐに元に戻る。洗剤と埃と、ひとり暮らしの匂い。その中に、石鹸の湿気がほんの少しだけ残る。残る湿気が、さっきまで誰かがいた証拠だ。
史人は玄関に立ち尽くした。立ち尽くすと、途端に静けさが重くなる。重くなるのに、昨夜みたいに怖くはない。怖くはないのは、身体がまだ温度を覚えているからだ。覚えている温度が、胸の奥の渇きを呼び起こす。
渇きは、名前を持ちたがる。
史人はそれを拒んだ。拒みながら、テーブルへ戻り、私用スマホを見た。見ない。見ると、何かが始まってしまう。始まるのが怖い。怖いのに、始まってほしい気もする。矛盾が腹の奥で膨らむ。
史人はスマホを伏せたまま、椅子に座った。椅子の硬さが太腿に伝わり、現実が戻る。戻ってくる現実は、仕事だ。今日も梅田へ行く。通知音に怯える。社畜の鎧を着る。
それでも史人は、さっき洗面所で見た二十七歳の顔を思い出した。くたびれて、古く見える顔。その顔に、昨夜の熱がほんの少しだけ残っていたことを思い出す。残っていた熱が、意味を持ってしまうのが怖い。
史人は窓の方を見た。カーテンの隙間から光が増えている。朝が来る。朝が来てしまう。
史人は小さく息を吐いた。吐いた息が部屋に溶け、すぐに消える。消えるのに、胸の奥の渇きだけが残る。名前をつけられない渇きが、今夜また宵だまりへ行けと囁いている気がした。
薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現
ドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。律が背中越しに囁く。「史人さん」名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。史人は振り返らずに言った。「狭いけど」それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦
宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」米谷が言うと、隣の常連が笑った。「それ言うたら飲まれへんやろ」律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。史人は即座に否定したか
宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。「律くん、いけるんかそれ」米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。律は肩をすくめて、さらりと言った。「いけるいける」言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かな
宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。引き戸が開いたのは、そのときだ。外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。史人は反射で入口を見た。男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所の
宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。「生きてます」史人が言うと、米谷は鼻で笑った。「それ、死んでるやつが言うやつや」米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。「ありがとう」