Partager

7.27歳の顔

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-02-26 15:05:53

薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。

隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。

史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。

身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。

史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。

史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。

洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。

水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。

史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。

大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現実味を持って映る。二十七のはずなのに、今の顔は三十を越えて見える瞬間がある。目の下の影が濃い。まぶたが少し重い。頬の血色が薄い。口元は乾いていて、唇の縁がかさついている。髪は整えていたはずなのに、寝癖がほんの少し跳ねている。

史人は鼻で笑いそうになった。笑いは出ない。出るのは乾いたため息だけだ。

疲れすぎやろ。

心の中で呟くと、鏡の中の男が薄く口角を動かしたように見えた。そういう表情ができる顔なのに、史人はそれを忘れていた。

整っている。気づきたくない形で、それは確かだった。鼻筋はまっすぐで、頬骨のラインがはっきりしている。眉の形も悪くない。目元の線は、疲れでくすんでいるのに、元の二重の幅が綺麗に出れば強い印象になるタイプだ。骨格は、鏡の中で光を受けるときに陰影を作ってしまう。疲れが抜ければ、確かに見栄えのする顔になる。

史人はその事実に腹が立った。見栄えがする顔が何になる。仕事は終わらない。睡眠は足りない。恋愛をする余裕はない。価値があるなら、せめて生活が楽になるはずだ。そうならないのなら、顔が整っていることなど意味がない。

意味がない、と言い切れない自分が一番厄介だった。昨夜、律の視線が自分の顔に触れたとき、史人の中のどこかが熱を持った。熱を持ったまま、今この鏡の前に立っている。整っていると言われたわけでもない。褒められたわけでもない。なのに、誰かに見られたことが、こんなにも胸をざわつかせる。

史人は蛇口を閉め、タオルで顔を拭いた。タオルの繊維が頬を擦り、少しだけ痛い。痛いのがちょうどいい。痛みは現実で、現実は余計な想像を止めてくれる。

鏡から視線を外した。外したまま、歯ブラシを手に取る。歯磨き粉のミントの匂いが、口の中の乾きを冷やす。磨きながら、史人は昨夜を思い出さないようにした。思い出すのは簡単だ。律の声、手の熱、呼吸の近さ。思い出した瞬間に身体が反応してしまう。その反応が恥ずかしい。恥ずかしいのに、嫌ではない。嫌ではないことが、もっと恥ずかしい。

口をすすぎ、口元を拭く。洗面所の空気は冷たい。狭い空間にひとりで立っていると、呼吸がやっと自分のものになる。仕事の呼吸でもない。誰かに合わせる呼吸でもない。ただの呼吸。そのただの呼吸が、昨夜のせいで乱れてしまうことが腹立たしい。

史人は一度、目を閉じた。閉じた瞼の裏に、律の寝顔が浮かんだ。平気な顔で眠る男の顔。平気な顔が、ずるい。ずるいと思うのに、救われてもいる。平気な顔でいてくれたから、史人は昨夜を「勢い」として棚に上げられる。棚に上げて、今日を生きられる。

史人は洗面所を出た。廊下を歩くたび、床が冷たく、足音が小さく響く。寝室のドアの前で、一瞬だけ足が止まった。中には律がいる。律がいるという事実が、史人の生活の輪郭を変える。変わるのが怖い。

史人はドアを開けた。カーテンの隙間から差し込む光が少し増えている。夜明けが近い。薄い光は、部屋の埃を浮かび上がらせる。テーブルの上の私用スマホが伏せられたまま置かれている。伏せられていることに、史人は妙に安心した。見ないふりができる。通知も、現実も、今は見ないふりができる。

律はまだ眠っていた。布団を肩までかぶり、髪が少し乱れている。乱れているのに、寝姿がだらしなくない。体の線が綺麗にまとまっている。生活の場にいるのに、生活に呑まれていない感じがする。その感じが、史人の心をざわつかせた。羨ましいのか、怖いのか、自分でも分からない。

史人は窓に近づき、カーテンを少しだけ開けた。外の空気が変わった匂いがする。雨上がりの湿り気が薄れ、朝の乾いた匂いが混ざる。遠くで車が走る音がして、近所の誰かが扉を閉める音がした。生活の音。いつもの朝の音。いつもの朝の音が、昨夜を異物にしようとする。異物にされるのが、少しだけ嫌だった。

史人はキッチンへ行き、水を飲む準備をした。コップを出し、蛇口をひねる。水の音がする。昨日の夜にも水の音はあったのに、今は違う意味を持つ。水は、誤魔化しの道具だ。言葉にできないものを、水で流す。

コップに水を注いでいると、背後から布団の擦れる音がした。史人の肩が反射で上がる。上がった肩を自覚して、史人は自分に腹が立つ。何を怯えている。相手は寝起きだ。今すぐ何かが起きるわけじゃない。

それでも史人は振り返れなかった。振り返ったら、目が合うかもしれない。目が合ったら、昨夜が現実になる。現実になったら、何かを言わなければならない気がする。

律の声がした。少し掠れている。寝起きの声だ。

「おはよ」

史人はコップを持ったまま、短く返した。

「…おはよう」

返事がぎこちない。ぎこちないのを誤魔化すように、史人は水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、胃へ落ちる。落ちた冷たさが、胸の熱を一瞬だけ鎮める。

律が欠伸をした。欠伸の音すら、妙に生活っぽい。

「朝やな」

律が言う。言葉はそれだけ。昨夜のことを掘り返さない。掘り返さないことで、空気が保たれる。保たれることがありがたい。ありがたいのに、寂しい。

史人はコップを置き、タオルを畳むふりをした。何かをしていないと、沈黙が怖い。沈黙は仕事の場で責められる。沈黙は無能の証拠になる。ここでは責められないのに、身体がまだ怯えている。

律が布団から起き上がり、首を軽く回した。シャツの襟元が少し乱れている。乱れているのに、妙に似合う。似合うという感覚が、自分の中に生まれることが嫌だった。嫌なのに、視線が追う。

律が史人を見て、口元を緩めた。いつもの軽口の顔だ。宵だまりで見た顔。

「水、飲む?」

史人は頷いた。頷きが、答えにも見える。答えにしたくないのに、答えになる。

史人は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して渡した。昨夜の自販機の水と同じような動作だ。反復が怖い。反復が、習慣の芽になる。芽が育つと、逃げ道がなくなる。

律はペットボトルを受け取り、一口飲んだ。喉が動く。喉が動くのを、史人は見ないようにした。見たらまた身体が熱を持つ。

律がペットボトルを置き、軽い調子で言った。

「タオル貸して」

史人はタオルを渡した。渡す指が触れないように、少し距離を取る。距離を取るのが露骨で、自分でも分かってしまい、史人は耳が熱くなった。律は気づいているのか気づいていないのか分からない顔で、タオルで顔を拭いた。

律が言った。

「シャワー、借りてもええ?」

史人は一瞬、喉が詰まった。シャワーを浴びるという生活行為が、関係を生活に引き寄せる気がした。昨夜は勢いだと言い訳できる。朝のシャワーは言い訳が薄くなる。

史人はそれでも言った。

「…ええよ」

律が笑った。

「助かる」

助かる、という言葉が宵だまりのだし巻きみたいに丸くて、史人の胸に柔らかく落ちた。柔らかい言葉が、怖い。怖いのに、受け取りたくなる。

浴室のドアが閉まり、シャワーの音が始まった。水音が続く。一定の水音は、妙に心を落ち着かせる。史人はその音を聞きながら、テーブルの上の私用スマホに視線を落とした。伏せられたままの黒い画面。昨夜、伏せたことで手に入れた静けさ。今も伏せていることで守っている静けさ。

守っているのに、心の中は騒がしい。騒がしさの中心にいるのは、仕事ではなく律だ。律の存在が、史人の生活の中に入ってきてしまった。その事実を認めたくない。認めたら、何かが始まる。始まったら、終わるときに傷がつく。傷がつくのが嫌で、史人はいつも先に逃げてきた。

史人はキッチンに立ち、使いかけの食器を洗うふりをした。水を流し、スポンジを動かす。音を作る。音があると、考えなくて済む。考えなくて済むはずなのに、昨夜の感触が指先に蘇る。蘇って、腹の奥が熱くなる。史人は蛇口を強くひねり、冷たい水を指先に当てた。熱が引く。引いたあとに、空白が残る。

空白は、渇きに似ている。

史人はその渇きを認めたくなくて、また水を飲んだ。水で埋まる渇きではない。分かっているのに飲む。飲むことで、渇きに名前をつけなくて済む。

シャワーの音が止まった。浴室のドアが開く音。湿った空気が廊下へ漏れてくる。石鹸の匂いが混ざった湿気が、部屋の乾いた匂いを少しだけ塗り替える。塗り替えられることが、妙に落ち着かない。

律がタオルで髪を拭きながら出てきた。頬が赤い。湯気のせいで目元が少し柔らかい。史人はその顔を見て、さっき洗面所で見た自分の顔を思い出した。くたびれた二十七歳の顔。対照的に見えてしまうのが嫌だった。嫌なのに、視線が離れない。

律が言った。

「もう行くわ」

あまりにも自然な言い方だった。昨日の夜と今日の朝が、地続きのまま終わる言い方。史人はその自然さに救われた。救われたのに、胸の奥がじくりと痛む。痛むのは、寂しさの形だと気づきたくなかった。

史人は頷いた。

「…そやな」

律は部屋の中を見回して、軽口を落とす準備をするみたいに口角を上げた。

「部屋、ちゃんと片付けたほうがええで」

史人は反射で言い返した。

「うるさい」

言い返せたことが、少しだけ救いだった。言い返せる関係なら、まだ深くないと言い訳できる。深くないなら、安全だ。

律は笑った。笑い方が宵だまりと同じだ。宵だまりの膜が一瞬だけ戻ってくる。

「ほなな」

史人は返事を探した。返事の種類が多すぎる。気をつけて、また来て、連絡して、昨夜のこと。どれも言えない。言えないまま、史人は口を開いた。

「…気ぃつけて」

それだけが、生活の言葉として出た。恋愛の言葉ではない。恋愛の言葉ではないと、自分に言い聞かせられる言葉。

律が一瞬だけ目を細めた。照れたのかもしれない。照れたように見えただけかもしれない。分からない程度の変化だった。分からない程度だからこそ、史人の胸に残った。

律は玄関へ向かい、靴を履いた。靴を揃える動作がやっぱり綺麗で、史人は目を逸らしたくなった。逸らすと、存在が消えてしまう気がして逸らせない。

ドアが開いて、外の朝の空気が入る。乾いた匂い。遠くの車音。鳥の声はまだはっきりしない。曇りがかった空が、薄く明るい。

律がドアの向こうで振り返った。

「史人さん」

名前を呼ばれて、史人の喉が動いた。返事をする前に、律が軽い調子で続ける。

「水、サンキュ」

その言い方がずるかった。昨夜も今朝も、言葉にできないものを水で誤魔化した。その誤魔化しを、律はちゃんと拾って、軽口にして返してくる。軽口にされると、助けたことが責任にならずに済む。責任にならないまま、温かさだけが残る。

史人は短く返した。

「別に」

律は笑って、ドアを閉めた。閉まる音は静かだった。静かすぎて、部屋の空気がすぐに元に戻る。洗剤と埃と、ひとり暮らしの匂い。その中に、石鹸の湿気がほんの少しだけ残る。残る湿気が、さっきまで誰かがいた証拠だ。

史人は玄関に立ち尽くした。立ち尽くすと、途端に静けさが重くなる。重くなるのに、昨夜みたいに怖くはない。怖くはないのは、身体がまだ温度を覚えているからだ。覚えている温度が、胸の奥の渇きを呼び起こす。

渇きは、名前を持ちたがる。

史人はそれを拒んだ。拒みながら、テーブルへ戻り、私用スマホを見た。見ない。見ると、何かが始まってしまう。始まるのが怖い。怖いのに、始まってほしい気もする。矛盾が腹の奥で膨らむ。

史人はスマホを伏せたまま、椅子に座った。椅子の硬さが太腿に伝わり、現実が戻る。戻ってくる現実は、仕事だ。今日も梅田へ行く。通知音に怯える。社畜の鎧を着る。

それでも史人は、さっき洗面所で見た二十七歳の顔を思い出した。くたびれて、古く見える顔。その顔に、昨夜の熱がほんの少しだけ残っていたことを思い出す。残っていた熱が、意味を持ってしまうのが怖い。

史人は窓の方を見た。カーテンの隙間から光が増えている。朝が来る。朝が来てしまう。

史人は小さく息を吐いた。吐いた息が部屋に溶け、すぐに消える。消えるのに、胸の奥の渇きだけが残る。名前をつけられない渇きが、今夜また宵だまりへ行けと囁いている気がした。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   68.ノクターンの続き

    夜の部屋は、昼の部屋より狭い。狭いのに、隙間が多い。照明の下でだけ明るく、照明の外側は薄い影になって、そこに音が溜まる。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の回転、隣室の水道の気配。遠い車の音が、窓ガラスで一度ひしゃげてから入ってくる。史人はテーブルの上に置いたスマホを、何度も見た。画面は暗い。通知はない。暗いままの画面が、かつては救いだった。今は違う。暗いままでも、胸の奥が勝手に騒ぐ。来るはずのない通知を待つ癖が、身体に残っている。それでも、いまは呼吸がある。逃げ場の呼吸じゃない。戻るための呼吸だ。律は台所に立ち、エプロンを胸元で結び直した。結び目を確かめる指が丁寧で、丁寧さが強がりではなくなっている。イタリアで身につけた動作だと史人は思った。向こうの市場の匂いを、ここへ連れてきたみたいに。「何作る?」律が振り返って言った。声は軽い。軽い声は膜ではなく、確かめの声になっていた。史人は冷蔵庫の中身を思い浮かべた。買い物は帰りに済ませている。袋から野菜を出して冷蔵庫に押し込み、冷える音と一緒に少しだけ安心した。生活は音があると分かりやすい。音があると、空白が薄まる。「鍋、でもええ?」史人が言うと、律は少し考えてから頷いた。「鍋はええな。あったかい」律の言葉に、史人の胸が少しだけ緩んだ。あったかい、は一番単純な答えで、一番強い合意でもある。鍋は誰かの体温を借りなくても、あったかくなる。逃避ではなく生活として、そこにある。史人はまな板を出し、包丁を手に取った。刃の重さが、手に馴染む。仕事のキーボードより、ずっと素直な道具だと思う。切れば切れる。切った分だけ形になる。進捗表の色みたいに、何をしても詰められることがない。切り口が揃わなくても、誰も責めない。律は野菜を洗い、手を拭いたタオルをきちんと掛け直した。掛け直す動作が、境界線の動作に見える。雑に扱わない。雑に扱うと、自分が雑に扱われる。律がその理屈を身体で知っているのが分かる。史人は白菜を切りながら、律の横顔を盗み見た。頬の線が少し柔らかい。けれど目の奥はまだ鋭い。鋭さは恐れの鋭さではなく、選ぶための鋭さだ。鍋に出汁を張る

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   67.境界線を引く言葉

    昼の光は、夜より残酷だと史人は思うことがある。夜は暗さが隠してくれる。昼は輪郭が出る。輪郭が出ると、見ないふりをしていたものが、机の上に置かれてしまう。午前の作業を切り上げて、史人はノートパソコンの蓋を閉じた。独立してから、閉じるタイミングを自分で決められるようになった。それでも、手が反射で震える瞬間がある。蓋を閉じても通知が鳴る気がする。梅田の終電レースが、身体の裏側にまだ貼り付いている。史人はその感覚を、呼吸で押さえた。最近は呼吸が少しだけ役に立つ。律の呼吸を見て学んだのかもしれない。台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。律が小鍋を火にかけ、湯気を見ながら味噌を溶いている。湯気は祖父母宅の台所の湯気と似ていて、生活の匂いは人を油断させる。その油断の隙間に、影は入り込む。律のスマホがテーブルの上で震えた。音は鳴らない設定になっている。震えだけで十分だ。律の肩が、ほんの少しだけ上がる。上がった肩がすぐに落ちる。律が呼吸を選んだのが分かる。それでも指先は冷たくなるらしく、律は鍋の取っ手を握り直した。史人は椅子から立ち上がりかけて、止まった。止まることが、今の二人の合図になっている。何かが起きたとき、勢いで触れない。勢いで聞かない。まず止まり、息を整える。律は鍋の火を弱めてから、スマホを手に取った。画面を見て、目が一瞬だけ固くなる。固くなったのに、息は止まらない。律は親指で画面を滑らせ、通知の内容を確認する。確認したあと、スマホを伏せた。伏せる動作がゆっくりで、生活の動作に戻そうとしているのが分かる。史人は声を出さず、コップに水を注いで律の横に置いた。律は頷いて水を飲んだ。喉が鳴る。喉が鳴ると、史人の胸の奥の緊張が少しだけ緩む。律は水のコップを置き、息を吸って吐いた。吐く息が長い。長い息は、戻るための息だ。史人は言葉を選んだ。大丈夫? は言わない。大丈夫と言わせる言葉になるからだ。代わりに、必要なことだけを確認する。「今、読む?」律は一瞬だけ史人を見た。目の奥に影がある。影は恐怖の影だ。恐怖はまだ消えていない。でもその影の中に、薄い光もある。光は、境界線を引けるようになった光だ。「読む」

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   66.鍵を渡す日

    史人の部屋の鍵は、いつもより重かった。金属の重さではなく、手の中で鳴らない重さだ。ポケットの底で触れたとき、冷たいはずの感触がぬるく感じる。身体が勝手に体温を乗せる。自分のものだったはずの鍵が、誰かの手に渡る前に、別の意味を帯び始めるのが怖い。玄関の前に立つと、廊下の蛍光灯が白くて、少しだけ梅田の白を思い出した。あの白は人を干上がらせる。ここは違うと分かっていても、白は白だ。史人は息を吸い、吐いて、鍵穴に差し込んだ。音が小さく、乾いている。回す指の腹が少し汗ばんでいるのが分かる。背後で足音が止まる。律が立っていた。空港から戻って数日、律は祖父母の家に荷物を置き、必要なものだけをリュックに詰めて来た。史人の部屋で一度、試す。そこまでを二人は言葉にした。試す、という言葉が便利なだけではないと、史人は知っている。試すと決めることは、いつでも止まれると決めることだ。止まる権利を最初に置く。それが今回の合意だった。ドアを開けると、部屋の匂いがした。洗濯洗剤と、パソコンの熱が残ったような乾いた匂いと、少しだけ煙草ではない紙の匂い。律の匂いはまだ混ざっていない。混ざっていないことが少し寂しく、同時に安心する。混ざったら戻れない気がして、どこかで怖い。「入って」史人はそう言った。言葉が短い。短くないと、余計なものが紛れ込む。「お邪魔します」律は靴を脱ぎ、揃えた。揃え方が丁寧すぎて、史人は笑いそうになり、笑わなかった。律は気を張っている。気を張っているのに、張り詰めていない。張り詰める一歩手前で、止まれる感じがする。それが留学の成果なのだろうと、史人は勝手に思った。リビング兼寝室の狭さは変わらない。ベッドと机と、本棚と、最近買った折り畳みの小さなテーブル。宵だまりで飲んだ帰りに、何度もこの部屋へ戻った。その導線に律が乗ると、過去の逃避が一瞬だけ顔を出す。史人は喉の奥がきゅっとなるのを感じた。律は視線を部屋の隅に滑らせ、軽く息を吐いた。息が止まっていない。史人はそれだけで少し落ち着く。「荷物、ここでええ?」律がリュックを持ち上げる。置き場所を聞くのが、律の条件提示の仕方だと史人は理解している。勝手に置かない

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   65.ストリートピアノの余韻

    ホテルを出た瞬間、空気が変わった。夜の間に溜まった湿り気が、朝の光に薄く引き延ばされている。ロビーに漂うコーヒーの匂いはまだ強く、スーツケースの車輪が床を擦る乾いた音が、どこか遠い。窓の外には滑走路が見え、昨夜と同じ点滅が今は淡く、昼に飲み込まれかけていた。史人はカードキーを返却機に入れる前、指先に残るプラスチックの角の感触を一瞬だけ確かめた。握りしめれば、昨夜の熱まで握りしめられそうで怖い。握りしめないほうがいい。逃避に戻らないために、ここで眠ったのだと、自分で決めたのだと、忘れないために。律はフロントを横目に見ながら、ひとつ息を吸った。浅くない。胸の奥まで入って、肋骨の裏側に柔らかい重みが広がる。その重みが「生きてる」を支えるのだと、律は知っている顔をしていた。以前の、息を止める顔ではない。史人はそれに気づいた瞬間、言葉が喉に詰まった。上手く言えない。おかえりの次に何を置けばいいのか、まだ分からない。ただ、呼吸が止まっていない。それだけで、胸の中の硬い塊が少しだけ溶ける。連絡通路を渡ると、窓が大きくなり、海の色が見えた。空港の外側は、思っていたより明るい。明るさは現実を連れてくる。昨夜の余韻を抱えたまま現実に踏み出すと、いつか転ぶ気がする。史人はその恐怖を、足の裏の感触で誤魔化した。床が固い。歩ける。歩くしかない。電車の時間を確認しようと、律がスマホを取り出す。画面の白さが朝の光と重なり、史人は反射で身構えた。通知音が鳴っていないのに、身体が先に構える癖は、まだ完全には抜けていない。律の指先が画面を滑り、数秒、止まる。律は眉を少しだけ上げた。見つけたのは、情報だった。脅しでも、契約書でもない。ただの、駅周辺の案内の一行。けれど律は、その一行に目を留める顔になった。逃げ場を探す顔ではなく、自分で選ぶ顔。「なあ」声は小さく、滑走路の遠い音に溶けそうだった。それでも史人は聞き取る。「ちょっと寄り道したい」史人は足を止めた。すぐに理由を聞きそうになって、飲み込む。理由を聞けば、正しさで埋めてしまいそうな気がした。今は、正しさより、律が今ここで何を欲しがっているかを確かめたい。「寄り道?」

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   64.チェックアウト、ここから先の現実

    朝の光は、夜の約束を容赦なく薄める。ホテルのカーテンの隙間から差し込む白さは、昨夜のスタンドの円い灯りとは違って、輪郭をはっきりさせた。ベッドのシーツの皺も、床に落ちたタオルの端も、窓の外の滑走路の線も、現実の線として並び直される。史人は目を開けた瞬間に、自分が息をしていることを確かめた。胸の奥が浅くならない。終電の計算も、通知音の幻も、今はない。代わりに、隣の体温がある。体温があるのに、逃避の甘さだけではない。昨夜、言葉で合意した「止まれる」という感覚が、まだ身体の奥に残っている。律はまだ眠っていた。横顔の角が、梅田の夜より少しだけ丸く見える。寝ているのに眉間の皺が薄い。眠りが浅いときに出る肩の硬さも、今はない。史人はそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、熱くなりすぎる前に息を吐いた。熱くなるのは悪いことではない。ただ、熱だけで動くと、また同じ場所に戻る。戻る場所が、宵だまりと1Kだけになってしまう。史人は静かにベッドを抜けた。床は冷たい。足裏が冷えると、頭が少し冴える。洗面台の前で顔を洗う。水が頬を叩き、夜の余韻を削る。鏡の中の自分は、寝不足の目をしているのに、目の奥が変に澄んでいた。澄んでいるせいで、怖い。澄んでいると、逃げ道がない。逃げ道がないのは、悪いことではない。選ぶしかないからだ。コーヒーメーカーのボタンを押すと、低い振動音が小さく響いた。豆の香りが、空調の乾いた匂いに混ざり、部屋に生活の気配を増やしていく。史人は紙コップに注ぎ、湯気を見つめた。湯気はすぐ消える。消える速度が、今の自分の生活と似ていると思った。整えても、放っておけばまた散らかる。散らかる前に手を入れるしかない。律が身じろぎをした。布団の擦れる音が微かに聞こえ、次に、息を吸う音が聞こえた。律は目を開け、天井を見て、状況を確かめるように瞬きをした。目が史人を見つけるまでに一拍ある。その一拍が、昨夜の「止まれる」拍に似ていた。律が掠れた声で言う。「……朝やな」史人は頷いて、コーヒーを差し出した。「飲む?」律は起き上がり、受け取った。指が史人の指に触れ、触れた瞬間に引っ込めない。触れたまま、律は紙コッ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   63.窓の外の機体灯

    未明のホテルの部屋は、昼の白さをすっかり失っていた。壁の灯りは落とされ、ベッドサイドのスタンドだけが、淡い円を床に作っている。空調の乾いた息が一定の間隔で吐かれ、肌の汗を薄く冷やした。窓の外には、滑走路の点滅が規則的に並び、黒い空を切り取るガラスに、細い光が浮かんでいる。機体灯が遠く動くたび、ここが「空港の夜」だと改めて突きつけられる。史人はベッドの端に座り、手のひらを膝の上で組んだ。指先に残る体温が、まだ熱い。熱いのに、落ち着いている。さっきまでの熱が、虚しさに沈んでいかない。それが不思議で、怖かった。怖いのは、これがただの一夜の慰めに戻れないからだと、史人は薄く理解していた。律は浴室から出てきたところだった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋の薄い灯りの中で一瞬だけ立ち止まる。ホテルの部屋着は体の線を隠しきれず、肩から首筋にかけての白さが、灯りを柔らかく受けている。史人は視線を逸らすべきか迷い、迷ったまま見てしまった。見てしまっても、律は何も言わない。言わないまま、窓の方へ歩く。窓際に置かれた小さなテーブルの上には、さっき律が飲んだ水のボトルが半分残っている。律はそれを指で回し、キャップの感触を確かめるように握った。握った指が、ほんの少し震えた。震えは寒さのせいではない。史人は、それが「言葉」を出す前の揺れだと感じた。史人は息を吸い込み、吐いた。吐く息は長くする。長くすると胸の奥が少し広がる。広がった場所に、律の存在が入ってくる。入ってくるのに、押し潰されない。押し潰されない自分になったのだと、史人は思い込みたい。律は窓の外に目をやった。点滅する灯りを眺めながら、喉の奥で何かを飲み込む仕草をした。言葉を選ぶときの癖だ。梅田で、鍵盤に触れる前も、こんなふうに息を止めかけた。あの時は音が先で、言葉は後だった。いや、言葉は後に来なかった。来なかったことが、ずっと史人の胸の奥で残響になっていた。律が背中越しに言う。「なあ」史人はすぐに返せない。喉が固まる。返事をしない沈黙が、律を追い詰めるかもしれないと思い、史人は無理に声を出した。「うん」律は振り返らなかった。振り返らないまま、続ける。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   3.初来店の男

    宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にあ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   2.だし巻きの湯気

    宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   1.死んだ目の帰り道

    終電の一つ手前だと気づいたのは、改札を抜けてホームの冷気に頬を撫でられたときだった。梅田の地下から吐き出される風は、昼間に吸い込んだ埃と油の匂いをまだ抱えている。史人の鼻の奥に、蛍光灯の白さがそのまま刺さるような錯覚が残っていた。光に焼かれた目は、焦点が合うまでに一拍遅れる。視界の端で人が動き、広告が揺れ、電光掲示板の数字が滑っていくのに、どれも手に取れない。大原史人は立ち止まらなかった。立ち止まったら、足元から崩れる気がする。崩れても誰も拾ってくれないことを、仕事で十分に学んだ。だから歩く。体が命令に従うふりをしている間は、心は少しだけ後ろに逃げられる。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   4.触れない優しさ

    宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status