LOGINドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。
狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。
律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。
史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。
史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。
史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。
律が背中越しに囁く。
「史人さん」
名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。
史人は振り返らずに言った。
「狭いけど」
それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦笑いが出そうになる。苦笑いが出ると余裕が見えるから、史人は口元を固くした。
律が笑った気配がした。笑い声は出さない。呼気だけが震える。呼気の震えが、史人の首筋に当たる。
「狭いほうがええ」
史人は返す言葉を失った。ええ、の意味が多すぎて、どれも選べない。選べないまま、史人の身体が硬くなる。
律が史人の肩に手を置いた。置き方は軽い。軽いのに、掌が熱い。熱が布越しにしみ込み、肩の筋肉が反射で強張る。強張りに、律は気づくだろう。気づかれるのが恥ずかしい。恥ずかしいのに、手を振り払えない。
律が低い声で言った。
「緊張してる?」
史人は否定したかった。否定できない。否定できない沈黙が、答えになる。答えになるのが怖いのに、答えを出してしまう。
史人はかすれた声で言った。
「酔ってるだけやろ」
律はくすっと笑った。
「酔ってるの、俺やで」
その言い方は軽い。軽いのに、史人の逃げ道を塞ぐ。史人が酔っていると言えば、律は酔いのせいにできる。でも律は自分が酔っていると言ってしまう。つまり史人の反応は、史人のものになる。
史人の喉が鳴った。鳴った音が部屋に吸い込まれず、壁に当たって返ってくる。狭い部屋は、音も感情も逃がさない。
律が史人の前へ回り込んだ。顔が近い。近いだけで、息が混ざる。律の息はアルコールの甘い匂いがする。宵だまりの出汁と油の匂いの名残もある。生活の匂いの上に、どこか上品な香りが薄く重なる。香水なのか、石鹸なのか、分からない程度の匂い。それが余計に危ない。分からないことは、想像を呼ぶ。
律は史人の顔を覗き込んで、悪戯みたいに言った。
「俺、ゲイやねん」
告白は冗談みたいな顔で落とされた。軽く落とされた言葉が、史人の胸の奥に沈むまでに少し時間がかかった。沈んだ瞬間、史人の中の何かが跳ねた。驚きではない。理解でもない。もっと生々しい、反射だ。
史人は言葉が出ない。否定も肯定も出ない。出せば、何かが決定する。決定するのが怖い。怖いのに、律は決定を迫ってくる。
律が続ける。
「史人さんは?」
史人は視線を逸らした。逸らした先に、部屋の生活感がある。脱ぎっぱなしの服、シンクに置いたままのコップ、洗っていない皿。恋愛をする余裕がない生活の証拠。証拠の中で、今さら自分の性的指向を言葉にするなんて無理だと思った。
史人は唇を開いて、閉じた。言葉が喉で引っかかる。引っかかるのは、ずっと隠してきたからだ。自分でも見ないふりをしてきたからだ。男に惹かれたことがないわけではない。ないわけではないのに、ないことにしてきた。仕事で手いっぱいだと言い訳して、恋愛から逃げて、性欲すら疲労で押し潰してきた。だからこれは、初めてだ。初めてなのに、初めてじゃない気もする。ずっと先延ばしにしてきたものが、今夜まとめて追いついてきた。
律が史人の沈黙を見て、笑った。責める笑いではない。試す笑いでもない。受け止める笑いだ。
「言わんでええ」
史人の胸がきゅっと締まった。言わなくていいと言われると、救われる。救われるのに、救われたことが悔しい。悔しいのは、自分が弱いからだ。
律は手を伸ばし、史人の頬に触れた。指先が冷たい。外の夜気をまだ持っている冷たさ。その冷たさが肌に触れると、史人の皮膚が敏感になる。敏感になると、触れられている場所だけが浮き上がる。浮き上がった場所から、熱が広がる。
律が囁く。
「嫌ならやめる」
嫌か、と問われると、史人は言葉に詰まった。嫌ではない。嫌ではないことが怖い。怖いから嫌だと言ってしまえば、簡単だ。簡単に逃げられる。逃げたら、明日も同じだ。仕事に戻って、宵だまりに寄って、またひとりの部屋で通知音の幻に怯える。そうやって生きるのは慣れている。慣れている苦しさは耐えられる。
でも、今夜の熱は慣れていない。慣れていないから怖い。怖いのに、耐えられないほど欲しい。
史人はやっと、短く言った。
「嫌ちゃう」
声が震えた。震えを隠すように、史人は視線を落とした。視線を落とすと、律の喉元が見える。喉仏がゆっくり動く。唾を飲み込んだのだろう。その動きが、史人の腹の奥に熱を落とす。
律が少しだけ笑う。
「ほな、ええな」
その言葉は、許可みたいで、同時に契約みたいだった。契約は怖い。けれどこの契約は、紙ではなく皮膚で交わされる。皮膚なら、破っても血が出るだけだ。紙よりも誠実で、紙よりも残酷だ。
律が史人の手を取った。手首を掴むのではなく、指を絡める。指を絡められると、逃げられない。逃げられないことを、史人はなぜか安堵として感じてしまう。安堵が罪悪感を呼ぶ。自分は救われたいのか、と自問してしまう。
律は史人をベッドの方へ導いた。1Kの狭い部屋では、数歩で終わる距離だ。終わる距離なのに、史人の心拍は速くなる。速くなる心拍は仕事の通知音のせいではない。自分の意思のせいだ。意思で鼓動が速くなるのが、こんなに怖いとは知らなかった。
史人はベッドの端に座らされ、無意識に背筋を伸ばした。律はその前に立って、史人の顔を見下ろす。見下ろされると、史人は自分が受け身になるのだと理解してしまう。理解が遅れて、羞恥が追いつく。羞恥の熱が頬に上がる。上がった頬を見られるのが、さらに恥ずかしい。
律が指先で史人のネクタイに触れた。結び目を緩め、引き抜く。ほどける布が首から離れると、史人の呼吸が少し楽になる。楽になると同時に、守りが一枚剥がれる。
律が史人のシャツのボタンに指をかけた。外す動作はゆっくりだ。酔っているはずなのに、手元は正確だ。正確さが怖い。怖いのに、正確な指先が心地いい。ボタンが外れるたび、夜の冷気が肌に触れる。触れた冷気がすぐに律の体温で塗り替えられる。塗り替えられると、史人の身体が熱に追いつこうとして震える。
史人は、自分の身体がこんなふうに反応することを知らなかった。女と付き合っていた頃も、疲れた日は形だけの夜があった。求められても、応える余裕がなくて、気持ちだけで済ませた夜があった。けれど今、律に触れられると、空っぽだったはずの身体が急に輪郭を取り戻す。輪郭を取り戻すということは、自分が生きているということだ。生きていることが痛い。痛いのに、嬉しい。
律が史人の顎に指をかけ、顔を上げさせた。目が合う。合った目は、からかう目ではない。試す目でもない。どこか真剣で、どこか優しい。優しいのが怖い。優しいと、史人は依存する。
律が低い声で言った。
「無理せんで」
史人は反射で言い返したくなる。無理をして生きてきた。無理をしない生き方を知らない。無理をしないと言われると、自分の過去が否定される気がする。否定されたくないのに、否定してほしい気もする。矛盾が胸の中で絡まる。
史人は言葉の代わりに、息を吐いた。吐いた息が律の唇に当たる距離だった。近さが限界を越えている。
律が史人の唇に触れた。触れ方は軽い。軽いのに、史人の中の緊張が一気にほどける。ほどけると、空っぽのはずの場所に熱が満ちる。満ちた熱が、喉の奥にまで上がってくる。息が乱れる。乱れた息が恥ずかしい。恥ずかしいのに、止められない。
律はキスを深くしない。深くしないまま、何度も触れて、離れて、また触れる。触れて離れるたび、史人の身体が追いかける。追いかけることが、自分でも信じられない。追いかける自分が、今までの自分と違う。違う自分が怖いのに、違う自分が欲しい。
律の指が史人の鎖骨をなぞり、胸元へ落ちる。指先が皮膚の上を滑ると、史人の身体が小さく跳ねる。跳ねるたびに律は笑わない。笑わないことが、史人の救いだった。笑われたら耐えられない。初めての男の夜を笑いにされたら、史人はもう二度と立ち上がれない。
律は史人の反応を確かめるように、視線だけで問いかけてくる。史人は答えを言えない。言えない代わりに、手が律の腕に触れた。触れた指が震える。震えても、律は止めない。止めないことが、史人の背中を押す。
史人は知らないまま、受け身になっていた。受け身になることで、責任から逃げられる気がする。逃げられる気がするのに、身体は責任を持ってしまう。反応してしまう。反応は嘘をつけない。嘘をつけない反応が、史人の心を焼く。
律は史人をベッドへ倒した。倒し方は乱暴ではない。布団が沈み、スプリングが小さく鳴る。史人の背中にシーツの冷たさが触れ、すぐに律の体温が覆いかぶさる。覆いかぶさる重みが、怖いのに安心する。重みは圧迫なのに、同時に支えでもある。仕事の圧は支えにならない。押し潰すだけだ。けれど律の重みは、史人の輪郭を押し固めてくれる。
史人の耳に、外を走る車の音が聞こえた。遠い音。遠い音は生活の音だ。生活の音が聞こえるのに、史人の世界は今、狭いベッドの上に収まっている。狭い世界の中で、史人は息をする。深く息をする。深く息をしても、怖くない。怖くないことが、涙に近い熱を呼ぶ。
律が史人の耳元で囁いた。
「史人さん、かわいい」
その言葉は、史人の胸を刺した。かわいいと言われる年齢ではない。社会人の男が、かわいいと言われて喜ぶはずがない。なのに史人は、刺された場所が熱くなるのを止められなかった。熱くなるのは、評価とは違う言葉だからだ。仕事での評価は、価値を決める。律の言葉は、価値ではなく存在を撫でる。撫でられると、史人は自分の存在がここにあっていい気がしてしまう。
史人は声を出しそうになって、唇を噛んだ。声を出すと、情けない自分が露わになる。露わになった自分を、律がどう思うかが怖い。怖いのに、律は史人の唇を指でそっと外した。
律が言った。
「噛まんで」
命令ではない。叱責でもない。生活の指示だ。宵だまりの串田が水を出したときと同じ種類の実務の優しさ。その優しさが、史人の中の抵抗を溶かす。溶けた抵抗の下に、ずっと押し込めてきた欲が現れる。欲は醜いかもしれない。けれど今夜は、その醜さが許される気がした。
二人の間で、言葉は多くない。言葉にすると壊れるものがあると、どちらもどこかで知っている。だから触れる。触れて確かめる。確かめ方は激しくないのに、史人の中では嵐みたいに揺れる。揺れて、揺れたまま、どこへ行くのか分からない。分からないまま進むのが、怖くて気持ちいい。
夜は深くなり、室内の空気が少しずつぬるくなる。窓の外の車音が遠のき、代わりに二人の呼吸が部屋の中心になる。史人は呼吸の音が恥ずかしくて、布団に顔を埋めた。布団には洗剤の匂いがする。生活の匂い。誰にも見せない匂い。その匂いの中で、史人は自分の身体が生きていることを感じる。感じることが、こんなに痛くて、こんなに救いになるとは知らなかった。
やがて、波が引くように熱が落ち着いた。落ち着いた後の静けさが、宵だまりの笑い声の膜とは違う種類の膜を作る。薄い膜の中で、史人の心臓の音がはっきり聞こえる。聞こえるのに、怖さが少し薄い。隣に律の体温があるからだ。
律は史人の肩口に額を寄せ、しばらく動かなかった。動かないまま呼吸だけを整える。整う呼吸が、さっきまでの熱の証拠みたいで、史人は目を閉じた。目を閉じると、罪悪感が波のように押し寄せる。何をしてしまったのか。自分は何を許してしまったのか。仕事で疲れ切った勢いで、取り返しのつかないことをしたのではないか。
取り返しのつかない、という言葉が頭の中に浮かび、すぐに別の感情がそれを押し返す。安堵だ。生き返ったような安堵。久しぶりに深く息を吸えた安堵。息を吸えたことが嬉しくて、嬉しいことが怖い。怖いのに、今はその安堵に溺れたい。
律が先に動いた。布団を引き寄せ、史人の肩を覆う。覆い方が雑ではない。寒くないように、という生活の動作。生活の動作をされると、史人の胸がまたきゅっと痛む。生活は恋愛より重い。恋愛は言い訳ができる。生活は言い訳ができない。
律は史人の耳元で、囁くように言った。
「おやすみ」
言葉はそれだけだった。謝りもしない。約束もしない。評価もしない。ただ、眠りに入るための言葉だけを置く。置かれた言葉が、史人の胸の奥の騒ぎを少しだけ鎮めた。
史人は返事をしなかった。返事をしたら、明日が来る。明日を想像すると、現実が戻ってくる。現実が戻ってきたら、この夜が急に恥ずかしくなる気がする。だから史人は黙ったまま、律の呼吸を聞いた。
律の呼吸は、数分で一定になった。寝つきがいい。寝つきの良さは虚勢にも見える。何もなかった顔で眠りに落ちるのは、そうしないと壊れるからかもしれない。史人はその可能性に触れそうになって、すぐに思考を止めた。今は考えない。考えたら責任が生まれる。
史人はそっと起き上がり、枕元に置いた私用スマホを手に取った。画面が光るのが怖くて、電源を入れない。会社用スマホの幻振動が、夜更けに戻ってくるのが怖い。だから史人はスマホを伏せた。宵だまりで伏せたのと同じように。今夜は、それができる。
史人は天井を見上げた。天井の白さが、ぼんやりと滲む。眠気が来ない。眠気が来ないのは、罪悪感と安堵が同居しているからだ。二つの感情が胸の中で絡み合い、どちらにも傾けないまま揺れている。
恋愛をする余裕はない。そう言い聞かせてきた。余裕がないのは本当だ。仕事に潰されて、生活を維持するだけで精一杯だ。なのに今、隣に男が眠っている。男の体温が、史人の肩口にまだ残っている。残っている体温が、史人の輪郭を保っている。
史人は目を閉じた。閉じた瞼の裏に、律の言葉が残る。俺、ゲイやねん。史人さんは。答えられなかった問いが、暗闇でじわじわと形を持つ。形を持つほど、怖い。怖いのに、もう逃げられない気がした。
史人は小さく息を吐き、吐いた息を布団に吸い込ませた。隣の律の呼吸は変わらない。変わらない呼吸が、史人に束の間の静けさを与える。
史人はその静けさに溺れた。溺れることでしか、明日を迎えられないと知っていたからだ。
薄い眠りは、崩れるときの音がない。史人は目を開けた瞬間、自分がどこにいるのかを一拍遅れて思い出した。天井の白さ。カーテンの隙間から差す、夜明け前の青い光。エアコンの送風が止まったあとの静けさ。静けさの中に、もう一つの呼吸が混ざっている。隣で、律が眠っていた。平気な顔で、という言葉がそのまま当てはまる寝顔だった。眉間に力は入っていない。口元も緩みすぎていない。眠りに落ちるときの言葉は短かったのに、眠りそのものは深いらしい。胸がゆっくり上下して、吐く息が規則正しく布団を揺らす。史人は視線を逸らした。寝顔を見続けると、昨夜が現実になってしまう気がした。現実になったら、責任が生まれる。責任が生まれたら、今この瞬間の静けさが壊れる。壊れるのが怖くて、史人は布団の中で指先を動かし、自分の体のどこが熱く、どこが冷えているかを確かめた。身体は妙に軽かった。軽いのに、胸の奥だけが重い。重さの形がいつもと違う。仕事の重さではない。仕事の重さは肩に乗る。首を絞める。眠りを奪う。今の重さは、腹の奥に沈む。息を吸うたびに揺れる。揺れて、名前をつけろと迫ってくる。史人は息を止めた。止めたまま、布団から抜け出した。フローリングが足裏に冷たい。冷たい床が、現実を引き戻す。現実に引き戻されるたびに、昨夜が遠くなる。遠くなってほしい。遠くなったら楽になる。でも遠くなりすぎたら、あの熱が嘘になる気がして怖い。史人は洗面所へ向かった。狭い廊下を数歩で抜ける。壁にぶつかりそうな距離感が、ひとり暮らしの生活を思い出させる。誰にも合わせなくていい距離。誰にも触れられない距離。安全な距離。洗面所のスイッチを入れると、白い光が弾けた。蛍光灯の光は容赦がない。宵だまりの暖色と違って、肌も疲れも全部さらけ出す。史人は一瞬目を細め、鏡を見る勇気が出ないまま蛇口をひねった。水の音がする。透明な音。昨日の夜のどんな音とも違う。どんな匂いとも違う。水は現実だ。水は嘘をつかない。史人は両手で水をすくい、顔を洗った。冷たさが皮膚に刺さり、頭の奥が少しだけ冴える。冴えたぶん、胸の重さがはっきりする。史人は顔を上げた。鏡の中に、自分がいた。大原史人、二十七歳。社会人という年齢が、やけに現
ドアが閉まった瞬間、外の夜が薄い膜になって切り離された。玄関の鍵が噛み合う小さな音が、部屋の狭さに反響して、史人の胸の奥まで届く。宵だまりの暖色はもう背中にない。代わりに、天井灯の白さが生活の輪郭をさらけ出している。洗剤の匂いと、乾いた埃の匂い。小さな流し台の金属の冷たさ。脱ぎっぱなしのスリッパ。畳む気力を失ったまま椅子に掛けられたジャケット。ひとり暮らしの匂いは、律に言われた通りだった。狭いのに、妙に広く感じる。広く感じるのは、隠せる場所がないからだ。何もない部屋は、言い訳を置けない。言い訳を置けない場所に、今、律がいる。それだけで史人は落ち着かない。落ち着かないことを悟られたくなくて、史人は靴を揃えるふりをして、視線を床に落とした。律は玄関に立ったまま、部屋の奥を見た。観察というより、空気を吸い込むみたいに見ている。宵だまりでは空気に溶けていた男が、ここでは溶けない。溶けない分だけ、存在が濃くなる。史人は喉が乾いていることに気づいた。宵だまりで飲んだ水では足りない。足りないのは水だけではない気がして、史人はそれを否定するように唇を噛んだ。痛みが現実を引き戻す。仕事の現実ではなく、今夜の現実に。史人は部屋の奥へ歩き、靴下のままフローリングを踏んだ。冷たい。冷たい床が足裏に貼りつき、身体の中の熱を際立たせる。背後で律の足音がついてくる。ついてくる足音は静かで、静かなのに逃げ道がない。史人はテーブルの上に置いたままだった私用スマホを反射で見てしまい、すぐに視線を逸らした。会社用スマホは鞄の中だ。宵だまりのカウンターに伏せた時と同じように、ここでも伏せたい。伏せれば、少しだけ自分の鼓動が静かになる気がする。律が背中越しに囁く。「史人さん」名前を呼ばれると、背筋が薄く粟立つ。宵だまりで呼ばれたときよりずっと近い距離で、声が耳の後ろに触れる。触れた声が、史人の中の乾いた部分を濡らすみたいに広がる。濡れると、余計に怖い。濡れたら、もう乾いたふりができない。史人は振り返らずに言った。「狭いけど」それは言い訳だった。狭いから仕方ない。距離が近いのは部屋のせい。そう言いたかった。言い訳の薄さに、自分で苦
宵だまりの灯りは、人の輪郭を少しだけ柔らかくする。暖色の照明に照らされると、疲れた顔も眠そうな目も、どこか冗談みたいに見える。だから史人はこの店でだけ、社畜の鎧の継ぎ目を緩められる。それが救いで、同時に怖かった。緩めた継ぎ目から、自分の本音が漏れそうになるからだ。閉店の時間は決まっていないようで決まっている。串田が「そろそろ」と言わずとも、空気がそうなる。笑い声が一段落して、グラスを置く音が増える。換気扇の唸りだけが変わらず、店の終わりを知らせる鐘みたいに鳴っている。米谷が最後のハイボールを煽って、派手にため息をついた。ため息はいつもより大きく、演技が混じっている。「明日も早いのに、なんで飲んでまうんやろな」米谷が言うと、隣の常連が笑った。「それ言うたら飲まれへんやろ」律も笑った。笑い声は軽い。軽いのに、頬の赤みがほんの少し濃い。さっき水を飲ませた後の落ち着きは戻っているが、アルコールの熱が肌の下でじわじわと育っているのが分かる。ハイボールのグラスの中で氷が少し溶け、音が鈍くなっている。鈍い音が、夜更けの粘度を増やしていた。史人は会計を済ませようと財布を出した。いつも通りの動きだ。店で無駄に格好をつける気はない。けれど今夜は、隣に律がいる。それだけで、財布の開け方が妙にぎこちなくなる気がして、史人は手元を見ないようにした。串田がレジに立ち、史人の方を一瞥する。視線は短いが、必要な情報を含んでいる。史人が飲んだ量、食べたもの、疲れ具合、そして隣にいる律の酔い具合。串田はそれを全部、言葉にしないまま把握する。把握して、必要なことだけをする。串田は史人に会計額を告げ、史人が出した紙幣を受け取った。釣り銭を返す指先が早い。指先が早いのに丁寧だ。宵だまりの生活は、こういう手の記憶でできている。米谷が立ち上がり、よろけるふりをした。「律くん、気をつけや。兄ちゃん、送ったってな」米谷がわざとらしく言う。わざとらしさが、この店の優しさの形だ。真面目に言ったら、踏み込みになってしまう。踏み込むと、息苦しくなる。だから茶化す。茶化して、必要な線だけ引く。史人は即座に否定したか
宵だまりの夜は、遅くなるほど柔らかくなる。客の声は少しずつ丸くなり、笑い声は角が取れて、氷の音に溶ける。油の匂いは揚げ物の甘さを含み、出汁の匂いは湯気と一緒に天井へ逃げる。換気扇の唸りだけが変わらず低く、店の骨格を支えていた。史人はカウンターの端で、空いたグラスを指先でなぞっていた。グラスの外側に残った結露の跡が、指の腹に冷たい線を引く。冷たさがあると、自分の輪郭がまだここにあると確かめられる。仕事の場では輪郭が薄くなる。名前も顔も、結局は「対応する人間」として一括りにされる。宵だまりでは、輪郭が少しだけ戻る。戻ると同時に、余計なものも見えてしまう。律は二つ隣で、ハイボールを二杯目にしていた。最初に入ってきたときの余裕は変わらないように見える。笑い方も声の高さも変わらない。けれど、飲む速度が上がっている。グラスが空になるまでが短い。短いのに、雑に飲まない。氷が歯に当たるような飲み方をしない。舌の上で味を確かめるように喉へ落とす。丁寧さが、逆に不安を呼ぶ。丁寧なまま急ぐ人間は、何かから逃げている。「律くん、いけるんかそれ」米谷が笑いながら言った。米谷の声はいつも大きいが、今は酔いでさらに大きい。テーブル席の方でも笑い声が上がり、宵だまりの狭い空間に声が重なる。声の層が厚くなるほど、史人は少しだけ楽になる。自分の鼓動が、他人の音に隠れるからだ。律は肩をすくめて、さらりと言った。「いけるいける」言葉は軽い。軽いのに、目が笑っていない瞬間がある。笑っていない目が、すぐに笑う目に戻る。戻り方が速すぎる。速いものは、いつか破れる。史人は仕事で、速すぎる笑顔が壊れる瞬間を何度も見てきた。串田がカウンターの向こうで、さりげなく律のグラスの位置を見た。視線は短い。すぐに手元へ戻る。気づいていても詮索しない。それが宵だまりのやり方だ。史人はそのやり方に救われてきた。救われてきたのに、今夜はそのやり方だけでは足りない気がした。律が笑って、米谷の話に適当に相槌を打つ。適当なのに場が崩れない。崩れないのに、律の指先だけが落ち着かない。グラスの底を親指で撫で、箸を置き直し、膝の上で指を開いて閉じる。癖だと片付けるには、動きが細かすぎる。落ち着かな
宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にある空白が見えそうになって、史人は視線を木目へ落とした。空白を見ると、今夜の救いが嘘みたいに思えてしまう。「兄ちゃん、ほんまに人間戻ってきたな」米谷が隣から囁くように言って、すぐにいつもの大きさで笑った。笑い声が店の壁に当たって返り、また吸い込まれる。史人は返事の代わりに、グラスを軽く持ち上げた。乾杯の形を作ると、米谷も勝手にグラスを寄せてくる。カチンと氷が触れ合い、澄んだ音がした。音がするだけで、胸の中のざわつきが少し整う。串田がカウンターの向こうで皿を拭いていた。濡れ布巾が陶器を擦る音は、仕事のキーボードよりずっと優しい。指先に伝わる摩擦が想像できる音だ。想像できることが、生活の感覚だった。引き戸が開いたのは、そのときだ。外の冷気が一瞬、店内の温度を押し分けた。暖簾が揺れ、湿った夜の匂いが入ってくる。雨上がりの土とアスファルトの匂い。そこに、かすかな香水の気配が混ざった。強くはない。けれど、宵だまりの出汁と油の匂いに混ざると、やけに目立つ。史人は反射で入口を見た。男が立っていた。背は高い。派手な服ではないのに、妙に整って見える。髪は無造作に見えるのに、乱れている感じがしない。顔立ちは、ぱっと見はそこまで主張しない。しかし目が、印象を決めてしまう種類の目だった。軽く笑っているのに、奥の方が冷えている。冷えているというより、冷やしている。自分で温度を調整しているみたいな目。男は店内を見渡し、すぐに空気を掴んだ。掴み方が速い。初めての場所の
宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま、指先で位置を確かめた。伏せても重さは消えない。黒い画面は、まるで虫の背中みたいに鈍く光を吸う。史人はその背中を見ないようにして、店内の音に意識を向けた。厨房で包丁がまな板を叩く音がして、油が弾ける。誰かが笑って、誰かが咳払いをする。空気が生きている。仕事場の空気とは違う。仕事場は、空気そのものが評価の匂いをしている。ここは評価ではなく、生活の匂いがする。「兄ちゃん、今日も目ぇ死んでるな」米谷正志の声が、隣から飛んできた。中年の男で、背が高いわけでもないのに声だけが大きい。肩で笑って、勝手に距離を詰めてくる。宵だまりの常連は、こういう雑な優しさでできている。史人は反射で口角を上げかけて、すぐに戻した。笑うための筋肉が固まっている。意識すると余計にぎこちない。「生きてます」史人が言うと、米谷は鼻で笑った。「それ、死んでるやつが言うやつや」米谷はグラスを揺らし、氷を鳴らした。ハイボールの薄い香りがふわりと漂う。史人はその匂いを嗅いだだけで、喉の奥が乾いていることに気づいた。カウンターの向こうで串田剛が手を止めた。店主は、派手な動きはしない。無駄な愛想も振りまかない。それでも視線だけで客の状態を拾う。拾ったものを口にせず、実務で返す。串田は史人の前に水の入ったコップを置いた。氷は入っていない。冷たすぎない水。喉を刺激しない温度。史人がそれを口にしたときに、身体がびくっとしないように計算された温度だった。「ありがとう」