Partager

8.連絡先は約束じゃない

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-02-27 15:06:17

玄関のドアが閉まったあとも、空気はすぐには戻らなかった。律の石鹸の匂いが、ひとり暮らしの乾いた匂いに薄く混ざり、どこかでまだ湿っている。史人はその湿り気が消えるのを待つように、玄関に立ったまま動けなかった。動いたら、昨夜と今朝が「終わった」ことになってしまう気がした。終わったと認めた瞬間に、罪悪感だけが残りそうで怖い。

怖いのに、残るものが罪悪感だけではないことも分かっている。肩口に触れた体温の残像。手首に絡んだ指の感触。水を渡したときの、短い視線。そういう些細なものが、仕事の通知音とは別の種類で史人の神経を刺激している。刺激は痛みにならず、熱に変わる。熱になると、渇きに似たものが胸の奥に生まれる。渇きは名前を求めてくる。名前を与えたら、そこから先へ進んでしまう。

史人はゆっくりと靴を履いた。外に出るつもりはなかったのに、身体が勝手にそう動いた。律を追いかけたいわけではない、と頭は言い訳を並べる。郵便受けを見なければならないとか、ゴミを捨てるついでとか、そういう生活の理由を作って、昨夜の余韻をごまかす。だが結局、史人の手はドアノブにかかり、鍵を回していた。

アパートの外廊下に出ると、朝の空気が頬に当たった。乾いている。雨上がりの匂いはもう薄く、かわりに日差しが温度を作り始めている。遠くから聞こえる車の音が、夜よりも高い。生活が始まっている音だ。生活の音に混ざると、昨夜が夢みたいに薄くなる。薄くなるのに、胸の奥の熱は消えない。

階段を下りる途中で、律の背中が見えた。もうアパートの敷地を出るところだった。Tシャツの首元が少し緩く、髪は乾ききっていないのか柔らかく揺れる。その背中は、昨夜の夜道で見た背中よりずっと明るい朝に晒されている。朝に晒されると、どこか現実味が増す。現実味が増すと、史人の中で警戒が持ち上がる。現実になったら、関係を説明しなければならない気がするからだ。

律は振り返らずに歩いていた。迷いがない。迷いがないのが、史人には少しだけ腹立たしい。自分は洗面台の鏡の前で、二十七歳の顔を見て、意味のない自嘲をして、名前をつけられない渇きに怯えていたのに、律は平気な顔で去っていく。平気な顔がずるい。

史人は階段を下りきってから、律の背中に声をかけるか迷った。迷って、結局声は出ない。出したら、何を言う。引き止めるのか。昨夜のことを確認するのか。そんなことができるわけがない。恋愛をする余裕がない。余裕がないという現実は、ここに来た瞬間にまた強度を取り戻す。

律が角を曲がる前に、ふと足を止めた。史人が追ってきたことに気づいたのか、それとも偶然か。律はゆっくり振り返り、史人を見た。朝の光を受けた目は、宵だまりの暖色の下よりも透明に見える。透明だからこそ、嘘が隠せない気がした。

律が先に口を開いた。

「どうしたん」

その声は軽い。軽いから、史人は救われる。重い問いではない。重い問いではないなら、重い答えを出さなくていい。

史人は喉が詰まった。何も用はないと言い切れない自分が情けない。けれど、情けなさを軽口で包む術もない。

史人は結局、生活の言葉に逃げた。

「駅、どっち」

律が一瞬、目を細めた。笑ったのか、観察したのか分からない程度の表情。

「そっち」

律が指差した。史人のアパートから最寄りの駅へ向かう道だ。史人がいつも仕事に行く道でもある。いつもの道が、今朝は妙に違って見える。律と並ぶだけで景色が変わるのが、怖い。

史人は頷いて歩き出した。律も歩き出し、自然に隣に並んだ。距離は近いのに、肩は触れない。触れないように保たれている距離。触れない距離のほうが、触れていた夜よりも胸をざわつかせる。触れないことが、意識になるからだ。

アパートの並ぶ細い道を抜けると、小さな公園が見えた。朝の犬の散歩をする人がいて、犬が史人たちの足元の匂いを嗅ぎたそうに尻尾を振った。生活の光景だ。生活の光景に紛れると、昨夜の熱が異物になる。異物にしたくない気持ちが、史人の中で小さく疼いた。疼きは、欲望に似ている。欲望と認めたくないから、史人は視線を前へ固定した。

律が言った。

「史人さん、今日仕事?」

史人は短く答えた。

「うん」

律はあっさり頷いた。

「社畜やもんな」

その言い方が、昨夜の宵だまりの空気を呼び戻す。あの場所で交わした軽口の延長線。延長線上なら、今の二人はまだ“昨日の続き”のように振る舞える。史人はその便利さに救われる。救われることが、さらに怖い。

史人は返した。

「お前は」

律は肩をすくめる。

「俺は、暇」

暇という言葉が、史人の胸に妙に引っかかった。二十二歳の暇。史人の二十七歳にはないもの。暇があるから、宵だまりにも来られる。暇があるから、昨夜の勢いも笑って受け止められる。そう考えるのは、嫉妬に近い。嫉妬と認めるのはもっと嫌だ。

史人は話題をずらした。

「だし巻き、うまかったな」

律がくすっと笑った。

「急に食いもんの話」

史人は肩をすくめた。食いもんの話なら安全だ。食いもんの話は、生活の話であって、関係の話ではない。関係の話に繋がりそうで繋がらない場所にいられる。

律はうなずいて、素直に言った。

「うまかった。あれ、反則やろ」

史人はその言葉に、なぜか胸が少し温かくなった。共通のものがあると、人は勝手に安心する。安心は危険だ。危険なのに、拒めない。

しばらく歩くと、コンビニの前に自販機が見えた。昨夜も水を買った場所ではないが、似た白い光が朝の中でも目立つ。史人はそこを見るだけで、ペットボトルを差し出した自分の手の感覚が蘇る。蘇って、喉が乾く。乾きは水で誤魔化せる。誤魔化せるうちは安全だ。

律が自販機を見て、言った。

「水、好きやな」

史人は反射で言い返した。

「別に」

律は笑った。

「昨日も今日も水くれるから」

史人は言葉に詰まった。昨日と今日を並べられると、反復が現実になる。反復は習慣の始まりだ。習慣は関係の固定化だ。固定化は責任を生む。

史人は責任を生みたくない。生みたくないのに、律がそれを軽口で言ってしまうと、責任が責任に見えなくなる。見えなくなるから、史人は拒めなくなる。

史人は視線を逸らし、呟いた。

「…便利やろ、水」

律が少しだけ笑い声を落とした。声が低くなると、距離が近く感じる。

「便利って言葉、好きやな」

史人の胸が跳ねた。便利という言葉が救いだと見抜かれた気がした。便利と言えば、約束ではない。便利と言えば、恋愛ではない。便利と言えば、責任を負わなくていい。そうやって生きてきた癖を、律に触れられると腹が立つ。腹が立つのに、見抜かれることが嫌ではない。

史人は言い返そうとして、言葉が見つからない。見つからない沈黙がまた答えになる。答えにしたくないのに、答えになってしまう。

律はその沈黙を責めなかった。責める代わりに、さらりと言った。

「連絡先、交換する?」

その言葉は、道端の会話としては不自然なはずなのに、律の口から出ると不自然ではない。だし巻きの話と同じ温度で投げられる。軽い温度で投げられるから、史人の警戒が遅れる。遅れるのは危険だ。危険なのに、史人はその温度に救われる。

史人は足を止めた。止めた拍子に、背中に朝の風が当たる。汗が少し冷える。冷えた汗が、現実感を増す。

史人は律を見た。律はスマホを取り出している。取り出す動作が迷いなくて、史人の胸の奥がざわついた。ざわつきは拒否のざわつきではない。繋がってしまう予感に対するざわつきだ。

史人は断るべきだと思った。断る理由もある。恋愛をする余裕がない。仕事が忙しい。面倒を見る責任を増やしたくない。昨夜は勢いだった。今日からは切り替えるべきだ。

けれど断る理由を言葉にするほど、昨夜を否定することになる。否定すると、昨夜が恥になる。恥になったら、史人は自分を責める。自分を責めると、また宵だまりへ逃げる。逃げるなら、最初から否定しないほうがましだ。

そう考えてしまう自分が、すでにどこかで負けている気がした。

律がスマホの画面を見せた。

「番号でも、LINEでも」

史人の私用スマホはポケットの中にある。取り出すと、画面が光る。光った瞬間に、仕事とは別の緊張が生まれる。通知音に怯える日々の中で、今度は別の通知を待つ人間になるかもしれない。そんな未来が怖い。

それでも史人は、スマホを取り出した。自分の指が少し震えているのが分かった。震えは寒さのせいにできる程度だが、朝はもうそこまで寒くない。震えは自分のせいだ。

史人がスマホのロックを解除すると、画面が白く光った。その光が、二人の間の距離を測る定規みたいに思えた。ここから先、画面の向こうで繋がる。繋がるのは、夜の勢いよりも厄介だ。夜の勢いは朝になれば終わる。画面の繋がりは、朝になっても残る。

律が言った。

「そっち、見せて」

史人は渋々、自分のID画面を出した。指が慣れていない動きをする。仕事用のスマホなら迷わないのに、私用の画面は触れるたびに生活が露わになる。露わになるのが恥ずかしい。

律は画面を覗き込み、指先で自分のスマホを操作した。長い指が、画面の上を正確に滑る。操作が速いのに丁寧で、史人はまた別の違和感を拾った。律は、こういう細かい動作がやけに綺麗だ。綺麗な動作は、習慣に裏打ちされている。習慣は人生の形だ。律の人生が、史人の知らない形をしている気がして、胸がざわつく。

スマホが小さく震えた。通知音は鳴らない。バイブだけが、掌に控えめな信号を送る。

画面に表示された。

律が友だちに追加されました。

その一文が、史人の胸に妙に重く落ちた。たった一文なのに、昨夜の熱よりも現実的な拘束力を持つ。拘束力があるのに、手を離せない。

律が満足そうに笑った。

「できた」

史人は「うん」としか言えなかった。言えなかったことが、また答えになる。答えにしたくないのに、答えになってしまう。

律が自分の画面を操作して、ぽん、と短いメッセージを送ってきた。史人の画面に通知が出る。

りつ

名前だけ。たった二文字。たった二文字が、宵だまりの暖色の匂いを呼び戻す。呼び戻すと同時に、昨夜の体温も呼び戻す。呼び戻された体温が、史人の腹の奥で小さく熱を持つ。

史人は返信しなければならない気がした。返信しなければ、礼儀がない。礼儀は仕事で叩き込まれている。礼儀を守ることは、関係を円滑にする。円滑にしたいわけではないのに、礼儀の癖が身体を動かす。

史人は短く打った。

ふみと

名前だけなら、約束ではない。挨拶ではなく、確認。そう自分に言い聞かせる。

律の目が少しだけ柔らかくなった。

「ええやん」

史人はその言葉を受け取りたくなくて、すぐに画面を消した。スマホをポケットに戻す。戻した瞬間、胸が軽くなる。軽くなるのに、別の場所が重くなる。繋がったという事実は消えない。消えないものが、ポケットの中で脈打っている気がする。

駅が近づくと、人が増える。朝の通勤の匂いがする。整髪料、コーヒー、紙の匂い。人の流れの中で、律の存在が少しだけ薄くなる。薄くなるのが寂しい。寂しいと認めたくなくて、史人は歩幅を少しだけ速くした。速くして、人の流れに溶ける。溶けることで、安全になる。

改札が見えた。ここで別れる。別れは自然なはずだ。自然に別れれば、昨夜のことは勢いとして終わるはずだ。終わるはずだ、と史人は必死に思う。

律が足を止めた。史人も止まる。改札の電子音が規則正しく鳴り、駅員のアナウンスが遠くで流れる。生活の音が、二人の沈黙を覆ってくれる。覆ってくれるのに、沈黙は残る。沈黙は、言葉にできないものの形だ。

律が軽い声で言った。

「また、宵だまり行く?」

史人の心臓が跳ねた。約束を作らないはずなのに、問いが出てしまった。問いが出たら、答えが必要になる。答えを出したら、関係が形になる。

史人は答えを避けたかった。避けたかったのに、宵だまりのだし巻きの匂いが頭に浮かぶ。あの暖色の膜。氷の音。笑い声の膜に紛れれば、言葉にしなくて済む。言葉にしなくて済む場所があるなら、答えは出さずに済む。

史人は視線を逸らしながら言った。

「…行くかもしれん」

律が笑った。満足そうな笑いではない。押し付けない笑い。押し付けない笑いが、史人には一番厄介だった。押し付けられたら断れる。押し付けられないと、自分が選んだように感じてしまう。

律が言った。

「ほな、たまたま会えたら」

その言い方が、ずるい。約束じゃない形で、再会の未来を作る。史人が欲しがっている“安全”を律が与えてしまう。与えられると、史人は拒めない。

史人は短く頷いた。

「…うん」

律が改札へ向かう。史人とは反対方向のホームへ行くらしい。律は振り返らずに歩き出した。振り返らない背中が、今朝の光の中で小さく遠ざかる。遠ざかる背中を見送ると、史人の胸の奥に微かな空洞ができた。空洞は渇きに似ている。渇きは水では埋まらない。

史人は改札を通った。電子音が鳴る。仕事の始まりの音だ。仕事の音に混ざると、律の声が遠くなる。遠くなるのに、ポケットの中のスマホがやけに重い。画面は消えているのに、繋がった事実が脈打っているように感じる。

ホームへ向かう階段を上がりながら、史人は自分に言い聞かせた。

これは約束じゃない。便利なだけや。連絡先なんて、ただの手段や。

言い聞かせるほど、言い訳が薄くなる。薄くなるほど、胸の奥の熱がはっきりする。熱は、期待の形をしている。期待などしてはいけない。恋愛をする余裕がない。余裕がない現実は、これから始まる仕事が証明してくれる。

それでも史人は、改札の電子音の向こうで、宵だまりの暖色を思い出してしまった。たまたま会えたら。約束ではない言葉が、史人の心を少しだけ軽くした。軽くなった心の隙間に、微かな期待が芽を出す。芽は小さくて、すぐ折れそうで、だからこそ史人は目を背けたくなる。

目を背けながら、史人は電車に乗った。扉が閉まり、車内の空気が仕事の匂いに染まる。その匂いの中でも、指先に残る熱だけが消えなかった。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   68.ノクターンの続き

    夜の部屋は、昼の部屋より狭い。狭いのに、隙間が多い。照明の下でだけ明るく、照明の外側は薄い影になって、そこに音が溜まる。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の回転、隣室の水道の気配。遠い車の音が、窓ガラスで一度ひしゃげてから入ってくる。史人はテーブルの上に置いたスマホを、何度も見た。画面は暗い。通知はない。暗いままの画面が、かつては救いだった。今は違う。暗いままでも、胸の奥が勝手に騒ぐ。来るはずのない通知を待つ癖が、身体に残っている。それでも、いまは呼吸がある。逃げ場の呼吸じゃない。戻るための呼吸だ。律は台所に立ち、エプロンを胸元で結び直した。結び目を確かめる指が丁寧で、丁寧さが強がりではなくなっている。イタリアで身につけた動作だと史人は思った。向こうの市場の匂いを、ここへ連れてきたみたいに。「何作る?」律が振り返って言った。声は軽い。軽い声は膜ではなく、確かめの声になっていた。史人は冷蔵庫の中身を思い浮かべた。買い物は帰りに済ませている。袋から野菜を出して冷蔵庫に押し込み、冷える音と一緒に少しだけ安心した。生活は音があると分かりやすい。音があると、空白が薄まる。「鍋、でもええ?」史人が言うと、律は少し考えてから頷いた。「鍋はええな。あったかい」律の言葉に、史人の胸が少しだけ緩んだ。あったかい、は一番単純な答えで、一番強い合意でもある。鍋は誰かの体温を借りなくても、あったかくなる。逃避ではなく生活として、そこにある。史人はまな板を出し、包丁を手に取った。刃の重さが、手に馴染む。仕事のキーボードより、ずっと素直な道具だと思う。切れば切れる。切った分だけ形になる。進捗表の色みたいに、何をしても詰められることがない。切り口が揃わなくても、誰も責めない。律は野菜を洗い、手を拭いたタオルをきちんと掛け直した。掛け直す動作が、境界線の動作に見える。雑に扱わない。雑に扱うと、自分が雑に扱われる。律がその理屈を身体で知っているのが分かる。史人は白菜を切りながら、律の横顔を盗み見た。頬の線が少し柔らかい。けれど目の奥はまだ鋭い。鋭さは恐れの鋭さではなく、選ぶための鋭さだ。鍋に出汁を張る

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   67.境界線を引く言葉

    昼の光は、夜より残酷だと史人は思うことがある。夜は暗さが隠してくれる。昼は輪郭が出る。輪郭が出ると、見ないふりをしていたものが、机の上に置かれてしまう。午前の作業を切り上げて、史人はノートパソコンの蓋を閉じた。独立してから、閉じるタイミングを自分で決められるようになった。それでも、手が反射で震える瞬間がある。蓋を閉じても通知が鳴る気がする。梅田の終電レースが、身体の裏側にまだ貼り付いている。史人はその感覚を、呼吸で押さえた。最近は呼吸が少しだけ役に立つ。律の呼吸を見て学んだのかもしれない。台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。律が小鍋を火にかけ、湯気を見ながら味噌を溶いている。湯気は祖父母宅の台所の湯気と似ていて、生活の匂いは人を油断させる。その油断の隙間に、影は入り込む。律のスマホがテーブルの上で震えた。音は鳴らない設定になっている。震えだけで十分だ。律の肩が、ほんの少しだけ上がる。上がった肩がすぐに落ちる。律が呼吸を選んだのが分かる。それでも指先は冷たくなるらしく、律は鍋の取っ手を握り直した。史人は椅子から立ち上がりかけて、止まった。止まることが、今の二人の合図になっている。何かが起きたとき、勢いで触れない。勢いで聞かない。まず止まり、息を整える。律は鍋の火を弱めてから、スマホを手に取った。画面を見て、目が一瞬だけ固くなる。固くなったのに、息は止まらない。律は親指で画面を滑らせ、通知の内容を確認する。確認したあと、スマホを伏せた。伏せる動作がゆっくりで、生活の動作に戻そうとしているのが分かる。史人は声を出さず、コップに水を注いで律の横に置いた。律は頷いて水を飲んだ。喉が鳴る。喉が鳴ると、史人の胸の奥の緊張が少しだけ緩む。律は水のコップを置き、息を吸って吐いた。吐く息が長い。長い息は、戻るための息だ。史人は言葉を選んだ。大丈夫? は言わない。大丈夫と言わせる言葉になるからだ。代わりに、必要なことだけを確認する。「今、読む?」律は一瞬だけ史人を見た。目の奥に影がある。影は恐怖の影だ。恐怖はまだ消えていない。でもその影の中に、薄い光もある。光は、境界線を引けるようになった光だ。「読む」

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   66.鍵を渡す日

    史人の部屋の鍵は、いつもより重かった。金属の重さではなく、手の中で鳴らない重さだ。ポケットの底で触れたとき、冷たいはずの感触がぬるく感じる。身体が勝手に体温を乗せる。自分のものだったはずの鍵が、誰かの手に渡る前に、別の意味を帯び始めるのが怖い。玄関の前に立つと、廊下の蛍光灯が白くて、少しだけ梅田の白を思い出した。あの白は人を干上がらせる。ここは違うと分かっていても、白は白だ。史人は息を吸い、吐いて、鍵穴に差し込んだ。音が小さく、乾いている。回す指の腹が少し汗ばんでいるのが分かる。背後で足音が止まる。律が立っていた。空港から戻って数日、律は祖父母の家に荷物を置き、必要なものだけをリュックに詰めて来た。史人の部屋で一度、試す。そこまでを二人は言葉にした。試す、という言葉が便利なだけではないと、史人は知っている。試すと決めることは、いつでも止まれると決めることだ。止まる権利を最初に置く。それが今回の合意だった。ドアを開けると、部屋の匂いがした。洗濯洗剤と、パソコンの熱が残ったような乾いた匂いと、少しだけ煙草ではない紙の匂い。律の匂いはまだ混ざっていない。混ざっていないことが少し寂しく、同時に安心する。混ざったら戻れない気がして、どこかで怖い。「入って」史人はそう言った。言葉が短い。短くないと、余計なものが紛れ込む。「お邪魔します」律は靴を脱ぎ、揃えた。揃え方が丁寧すぎて、史人は笑いそうになり、笑わなかった。律は気を張っている。気を張っているのに、張り詰めていない。張り詰める一歩手前で、止まれる感じがする。それが留学の成果なのだろうと、史人は勝手に思った。リビング兼寝室の狭さは変わらない。ベッドと机と、本棚と、最近買った折り畳みの小さなテーブル。宵だまりで飲んだ帰りに、何度もこの部屋へ戻った。その導線に律が乗ると、過去の逃避が一瞬だけ顔を出す。史人は喉の奥がきゅっとなるのを感じた。律は視線を部屋の隅に滑らせ、軽く息を吐いた。息が止まっていない。史人はそれだけで少し落ち着く。「荷物、ここでええ?」律がリュックを持ち上げる。置き場所を聞くのが、律の条件提示の仕方だと史人は理解している。勝手に置かない

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   65.ストリートピアノの余韻

    ホテルを出た瞬間、空気が変わった。夜の間に溜まった湿り気が、朝の光に薄く引き延ばされている。ロビーに漂うコーヒーの匂いはまだ強く、スーツケースの車輪が床を擦る乾いた音が、どこか遠い。窓の外には滑走路が見え、昨夜と同じ点滅が今は淡く、昼に飲み込まれかけていた。史人はカードキーを返却機に入れる前、指先に残るプラスチックの角の感触を一瞬だけ確かめた。握りしめれば、昨夜の熱まで握りしめられそうで怖い。握りしめないほうがいい。逃避に戻らないために、ここで眠ったのだと、自分で決めたのだと、忘れないために。律はフロントを横目に見ながら、ひとつ息を吸った。浅くない。胸の奥まで入って、肋骨の裏側に柔らかい重みが広がる。その重みが「生きてる」を支えるのだと、律は知っている顔をしていた。以前の、息を止める顔ではない。史人はそれに気づいた瞬間、言葉が喉に詰まった。上手く言えない。おかえりの次に何を置けばいいのか、まだ分からない。ただ、呼吸が止まっていない。それだけで、胸の中の硬い塊が少しだけ溶ける。連絡通路を渡ると、窓が大きくなり、海の色が見えた。空港の外側は、思っていたより明るい。明るさは現実を連れてくる。昨夜の余韻を抱えたまま現実に踏み出すと、いつか転ぶ気がする。史人はその恐怖を、足の裏の感触で誤魔化した。床が固い。歩ける。歩くしかない。電車の時間を確認しようと、律がスマホを取り出す。画面の白さが朝の光と重なり、史人は反射で身構えた。通知音が鳴っていないのに、身体が先に構える癖は、まだ完全には抜けていない。律の指先が画面を滑り、数秒、止まる。律は眉を少しだけ上げた。見つけたのは、情報だった。脅しでも、契約書でもない。ただの、駅周辺の案内の一行。けれど律は、その一行に目を留める顔になった。逃げ場を探す顔ではなく、自分で選ぶ顔。「なあ」声は小さく、滑走路の遠い音に溶けそうだった。それでも史人は聞き取る。「ちょっと寄り道したい」史人は足を止めた。すぐに理由を聞きそうになって、飲み込む。理由を聞けば、正しさで埋めてしまいそうな気がした。今は、正しさより、律が今ここで何を欲しがっているかを確かめたい。「寄り道?」

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   64.チェックアウト、ここから先の現実

    朝の光は、夜の約束を容赦なく薄める。ホテルのカーテンの隙間から差し込む白さは、昨夜のスタンドの円い灯りとは違って、輪郭をはっきりさせた。ベッドのシーツの皺も、床に落ちたタオルの端も、窓の外の滑走路の線も、現実の線として並び直される。史人は目を開けた瞬間に、自分が息をしていることを確かめた。胸の奥が浅くならない。終電の計算も、通知音の幻も、今はない。代わりに、隣の体温がある。体温があるのに、逃避の甘さだけではない。昨夜、言葉で合意した「止まれる」という感覚が、まだ身体の奥に残っている。律はまだ眠っていた。横顔の角が、梅田の夜より少しだけ丸く見える。寝ているのに眉間の皺が薄い。眠りが浅いときに出る肩の硬さも、今はない。史人はそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、熱くなりすぎる前に息を吐いた。熱くなるのは悪いことではない。ただ、熱だけで動くと、また同じ場所に戻る。戻る場所が、宵だまりと1Kだけになってしまう。史人は静かにベッドを抜けた。床は冷たい。足裏が冷えると、頭が少し冴える。洗面台の前で顔を洗う。水が頬を叩き、夜の余韻を削る。鏡の中の自分は、寝不足の目をしているのに、目の奥が変に澄んでいた。澄んでいるせいで、怖い。澄んでいると、逃げ道がない。逃げ道がないのは、悪いことではない。選ぶしかないからだ。コーヒーメーカーのボタンを押すと、低い振動音が小さく響いた。豆の香りが、空調の乾いた匂いに混ざり、部屋に生活の気配を増やしていく。史人は紙コップに注ぎ、湯気を見つめた。湯気はすぐ消える。消える速度が、今の自分の生活と似ていると思った。整えても、放っておけばまた散らかる。散らかる前に手を入れるしかない。律が身じろぎをした。布団の擦れる音が微かに聞こえ、次に、息を吸う音が聞こえた。律は目を開け、天井を見て、状況を確かめるように瞬きをした。目が史人を見つけるまでに一拍ある。その一拍が、昨夜の「止まれる」拍に似ていた。律が掠れた声で言う。「……朝やな」史人は頷いて、コーヒーを差し出した。「飲む?」律は起き上がり、受け取った。指が史人の指に触れ、触れた瞬間に引っ込めない。触れたまま、律は紙コッ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   63.窓の外の機体灯

    未明のホテルの部屋は、昼の白さをすっかり失っていた。壁の灯りは落とされ、ベッドサイドのスタンドだけが、淡い円を床に作っている。空調の乾いた息が一定の間隔で吐かれ、肌の汗を薄く冷やした。窓の外には、滑走路の点滅が規則的に並び、黒い空を切り取るガラスに、細い光が浮かんでいる。機体灯が遠く動くたび、ここが「空港の夜」だと改めて突きつけられる。史人はベッドの端に座り、手のひらを膝の上で組んだ。指先に残る体温が、まだ熱い。熱いのに、落ち着いている。さっきまでの熱が、虚しさに沈んでいかない。それが不思議で、怖かった。怖いのは、これがただの一夜の慰めに戻れないからだと、史人は薄く理解していた。律は浴室から出てきたところだった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋の薄い灯りの中で一瞬だけ立ち止まる。ホテルの部屋着は体の線を隠しきれず、肩から首筋にかけての白さが、灯りを柔らかく受けている。史人は視線を逸らすべきか迷い、迷ったまま見てしまった。見てしまっても、律は何も言わない。言わないまま、窓の方へ歩く。窓際に置かれた小さなテーブルの上には、さっき律が飲んだ水のボトルが半分残っている。律はそれを指で回し、キャップの感触を確かめるように握った。握った指が、ほんの少し震えた。震えは寒さのせいではない。史人は、それが「言葉」を出す前の揺れだと感じた。史人は息を吸い込み、吐いた。吐く息は長くする。長くすると胸の奥が少し広がる。広がった場所に、律の存在が入ってくる。入ってくるのに、押し潰されない。押し潰されない自分になったのだと、史人は思い込みたい。律は窓の外に目をやった。点滅する灯りを眺めながら、喉の奥で何かを飲み込む仕草をした。言葉を選ぶときの癖だ。梅田で、鍵盤に触れる前も、こんなふうに息を止めかけた。あの時は音が先で、言葉は後だった。いや、言葉は後に来なかった。来なかったことが、ずっと史人の胸の奥で残響になっていた。律が背中越しに言う。「なあ」史人はすぐに返せない。喉が固まる。返事をしない沈黙が、律を追い詰めるかもしれないと思い、史人は無理に声を出した。「うん」律は振り返らなかった。振り返らないまま、続ける。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   3.初来店の男

    宵だまりの空気が少しだけ温まってきたころだった。だし巻きの皿が空に近づき、ビールの泡が薄くなると、店内の雑音がひとつの膜みたいに重なる。笑い声は遠くならず、近すぎもしない。誰かの会話の断片が耳に触れては溶け、氷の音がそのたびに輪郭を整える。史人はその膜の中で、ようやく肩の位置を思い出していた。上がりっぱなしの肩を少し下ろしても、誰にも責められない場所だと身体が理解し始めていた。カウンターの端で、史人はビールをひと口飲んだ。苦味が舌に残る。その苦味を飲み込むと、胃の奥が温かくなる。温かくなるだけで、心の奥に張り付いていた緊張が数ミリ剥がれる。剥がれると同時に、剥がれた下にあ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   2.だし巻きの湯気

    宵だまりの中は、外より少しだけ時間が遅かった。暖色の照明が空気を柔らかくして、壁の短冊メニューの文字まで丸く見せる。換気扇の低い唸りが天井に張り付き、氷がグラスに当たる乾いた音が、ときどきその唸りを裂く。誰かの笑い声が跳ねて、すぐに油の匂いと出汁の匂いに吸い込まれる。その雑多さが、史人の胸に溜まった硬いものを少しずつほぐしていく。史人はカウンターの端の席に腰を落ち着けた。椅子の木が少しだけ軋む。背もたれはない。背筋を預けられない椅子の方が、今の史人には合っていた。預けた瞬間に崩れてしまう気がして、崩れた自分を見られるのが怖い。史人は会社用スマホを伏せたまま

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   1.死んだ目の帰り道

    終電の一つ手前だと気づいたのは、改札を抜けてホームの冷気に頬を撫でられたときだった。梅田の地下から吐き出される風は、昼間に吸い込んだ埃と油の匂いをまだ抱えている。史人の鼻の奥に、蛍光灯の白さがそのまま刺さるような錯覚が残っていた。光に焼かれた目は、焦点が合うまでに一拍遅れる。視界の端で人が動き、広告が揺れ、電光掲示板の数字が滑っていくのに、どれも手に取れない。大原史人は立ち止まらなかった。立ち止まったら、足元から崩れる気がする。崩れても誰も拾ってくれないことを、仕事で十分に学んだ。だから歩く。体が命令に従うふりをしている間は、心は少しだけ後ろに逃げられる。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   10.再び、カウンターで

    宵だまりの暖簾は、夜の湿り気を含んで少し重い。史人はその暖簾をくぐる前に、無意識に肩をすくめた。雨上がりの冷気がまだ服の繊維に残っていて、駅からここまでの短い距離でさえ身体が固まっている。固まっているのは寒さのせいだけではない。今日一日、蛍光灯の白さに削られた神経が、やっと逃げ込める場所を前にして警戒を解けずにいる。引き戸を引くと、木の軋む音と一緒に、出汁と油の匂いが流れ出てきた。匂いはあたたかい。あたたかい匂いが鼻腔に入った瞬間、史人の胸の奥の硬い板が少しだけずれる。ずれた隙間から息が入る。息が入ると、やっと自分が生きていると分かる。仕事の中での生存ではなく、生活の生存

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status