LOGIN玄関のドアが閉まったあとも、空気はすぐには戻らなかった。律の石鹸の匂いが、ひとり暮らしの乾いた匂いに薄く混ざり、どこかでまだ湿っている。史人はその湿り気が消えるのを待つように、玄関に立ったまま動けなかった。動いたら、昨夜と今朝が「終わった」ことになってしまう気がした。終わったと認めた瞬間に、罪悪感だけが残りそうで怖い。
怖いのに、残るものが罪悪感だけではないことも分かっている。肩口に触れた体温の残像。手首に絡んだ指の感触。水を渡したときの、短い視線。そういう些細なものが、仕事の通知音とは別の種類で史人の神経を刺激している。刺激は痛みにならず、熱に変わる。熱になると、渇きに似たものが胸の奥に生まれる。渇きは名前を求めてくる。名前を与えたら、そこから先へ進んでしまう。
史人はゆっくりと靴を履いた。外に出るつもりはなかったのに、身体が勝手にそう動いた。律を追いかけたいわけではない、と頭は言い訳を並べる。郵便受けを見なければならないとか、ゴミを捨てるついでとか、そういう生活の理由を作って、昨夜の余韻をごまかす。だが結局、史人の手はドアノブにかかり、鍵を回していた。
アパートの外廊下に出ると、朝の空気が頬に当たった。乾いている。雨上がりの匂いはもう薄く、かわりに日差しが温度を作り始めている。遠くから聞こえる車の音が、夜よりも高い。生活が始まっている音だ。生活の音に混ざると、昨夜が夢みたいに薄くなる。薄くなるのに、胸の奥の熱は消えない。
階段を下りる途中で、律の背中が見えた。もうアパートの敷地を出るところだった。Tシャツの首元が少し緩く、髪は乾ききっていないのか柔らかく揺れる。その背中は、昨夜の夜道で見た背中よりずっと明るい朝に晒されている。朝に晒されると、どこか現実味が増す。現実味が増すと、史人の中で警戒が持ち上がる。現実になったら、関係を説明しなければならない気がするからだ。
律は振り返らずに歩いていた。迷いがない。迷いがないのが、史人には少しだけ腹立たしい。自分は洗面台の鏡の前で、二十七歳の顔を見て、意味のない自嘲をして、名前をつけられない渇きに怯えていたのに、律は平気な顔で去っていく。平気な顔がずるい。
史人は階段を下りきってから、律の背中に声をかけるか迷った。迷って、結局声は出ない。出したら、何を言う。引き止めるのか。昨夜のことを確認するのか。そんなことができるわけがない。恋愛をする余裕がない。余裕がないという現実は、ここに来た瞬間にまた強度を取り戻す。
律が角を曲がる前に、ふと足を止めた。史人が追ってきたことに気づいたのか、それとも偶然か。律はゆっくり振り返り、史人を見た。朝の光を受けた目は、宵だまりの暖色の下よりも透明に見える。透明だからこそ、嘘が隠せない気がした。
律が先に口を開いた。
「どうしたん」
その声は軽い。軽いから、史人は救われる。重い問いではない。重い問いではないなら、重い答えを出さなくていい。
史人は喉が詰まった。何も用はないと言い切れない自分が情けない。けれど、情けなさを軽口で包む術もない。
史人は結局、生活の言葉に逃げた。
「駅、どっち」
律が一瞬、目を細めた。笑ったのか、観察したのか分からない程度の表情。
「そっち」
律が指差した。史人のアパートから最寄りの駅へ向かう道だ。史人がいつも仕事に行く道でもある。いつもの道が、今朝は妙に違って見える。律と並ぶだけで景色が変わるのが、怖い。
史人は頷いて歩き出した。律も歩き出し、自然に隣に並んだ。距離は近いのに、肩は触れない。触れないように保たれている距離。触れない距離のほうが、触れていた夜よりも胸をざわつかせる。触れないことが、意識になるからだ。
アパートの並ぶ細い道を抜けると、小さな公園が見えた。朝の犬の散歩をする人がいて、犬が史人たちの足元の匂いを嗅ぎたそうに尻尾を振った。生活の光景だ。生活の光景に紛れると、昨夜の熱が異物になる。異物にしたくない気持ちが、史人の中で小さく疼いた。疼きは、欲望に似ている。欲望と認めたくないから、史人は視線を前へ固定した。
律が言った。
「史人さん、今日仕事?」
史人は短く答えた。
「うん」
律はあっさり頷いた。
「社畜やもんな」
その言い方が、昨夜の宵だまりの空気を呼び戻す。あの場所で交わした軽口の延長線。延長線上なら、今の二人はまだ“昨日の続き”のように振る舞える。史人はその便利さに救われる。救われることが、さらに怖い。
史人は返した。
「お前は」
律は肩をすくめる。
「俺は、暇」
暇という言葉が、史人の胸に妙に引っかかった。二十二歳の暇。史人の二十七歳にはないもの。暇があるから、宵だまりにも来られる。暇があるから、昨夜の勢いも笑って受け止められる。そう考えるのは、嫉妬に近い。嫉妬と認めるのはもっと嫌だ。
史人は話題をずらした。
「だし巻き、うまかったな」
律がくすっと笑った。
「急に食いもんの話」
史人は肩をすくめた。食いもんの話なら安全だ。食いもんの話は、生活の話であって、関係の話ではない。関係の話に繋がりそうで繋がらない場所にいられる。
律はうなずいて、素直に言った。
「うまかった。あれ、反則やろ」
史人はその言葉に、なぜか胸が少し温かくなった。共通のものがあると、人は勝手に安心する。安心は危険だ。危険なのに、拒めない。
しばらく歩くと、コンビニの前に自販機が見えた。昨夜も水を買った場所ではないが、似た白い光が朝の中でも目立つ。史人はそこを見るだけで、ペットボトルを差し出した自分の手の感覚が蘇る。蘇って、喉が乾く。乾きは水で誤魔化せる。誤魔化せるうちは安全だ。
律が自販機を見て、言った。
「水、好きやな」
史人は反射で言い返した。
「別に」
律は笑った。
「昨日も今日も水くれるから」
史人は言葉に詰まった。昨日と今日を並べられると、反復が現実になる。反復は習慣の始まりだ。習慣は関係の固定化だ。固定化は責任を生む。
史人は責任を生みたくない。生みたくないのに、律がそれを軽口で言ってしまうと、責任が責任に見えなくなる。見えなくなるから、史人は拒めなくなる。
史人は視線を逸らし、呟いた。
「…便利やろ、水」
律が少しだけ笑い声を落とした。声が低くなると、距離が近く感じる。
「便利って言葉、好きやな」
史人の胸が跳ねた。便利という言葉が救いだと見抜かれた気がした。便利と言えば、約束ではない。便利と言えば、恋愛ではない。便利と言えば、責任を負わなくていい。そうやって生きてきた癖を、律に触れられると腹が立つ。腹が立つのに、見抜かれることが嫌ではない。
史人は言い返そうとして、言葉が見つからない。見つからない沈黙がまた答えになる。答えにしたくないのに、答えになってしまう。
律はその沈黙を責めなかった。責める代わりに、さらりと言った。
「連絡先、交換する?」
その言葉は、道端の会話としては不自然なはずなのに、律の口から出ると不自然ではない。だし巻きの話と同じ温度で投げられる。軽い温度で投げられるから、史人の警戒が遅れる。遅れるのは危険だ。危険なのに、史人はその温度に救われる。
史人は足を止めた。止めた拍子に、背中に朝の風が当たる。汗が少し冷える。冷えた汗が、現実感を増す。
史人は律を見た。律はスマホを取り出している。取り出す動作が迷いなくて、史人の胸の奥がざわついた。ざわつきは拒否のざわつきではない。繋がってしまう予感に対するざわつきだ。
史人は断るべきだと思った。断る理由もある。恋愛をする余裕がない。仕事が忙しい。面倒を見る責任を増やしたくない。昨夜は勢いだった。今日からは切り替えるべきだ。
けれど断る理由を言葉にするほど、昨夜を否定することになる。否定すると、昨夜が恥になる。恥になったら、史人は自分を責める。自分を責めると、また宵だまりへ逃げる。逃げるなら、最初から否定しないほうがましだ。
そう考えてしまう自分が、すでにどこかで負けている気がした。
律がスマホの画面を見せた。
「番号でも、LINEでも」
史人の私用スマホはポケットの中にある。取り出すと、画面が光る。光った瞬間に、仕事とは別の緊張が生まれる。通知音に怯える日々の中で、今度は別の通知を待つ人間になるかもしれない。そんな未来が怖い。
それでも史人は、スマホを取り出した。自分の指が少し震えているのが分かった。震えは寒さのせいにできる程度だが、朝はもうそこまで寒くない。震えは自分のせいだ。
史人がスマホのロックを解除すると、画面が白く光った。その光が、二人の間の距離を測る定規みたいに思えた。ここから先、画面の向こうで繋がる。繋がるのは、夜の勢いよりも厄介だ。夜の勢いは朝になれば終わる。画面の繋がりは、朝になっても残る。
律が言った。
「そっち、見せて」
史人は渋々、自分のID画面を出した。指が慣れていない動きをする。仕事用のスマホなら迷わないのに、私用の画面は触れるたびに生活が露わになる。露わになるのが恥ずかしい。
律は画面を覗き込み、指先で自分のスマホを操作した。長い指が、画面の上を正確に滑る。操作が速いのに丁寧で、史人はまた別の違和感を拾った。律は、こういう細かい動作がやけに綺麗だ。綺麗な動作は、習慣に裏打ちされている。習慣は人生の形だ。律の人生が、史人の知らない形をしている気がして、胸がざわつく。
スマホが小さく震えた。通知音は鳴らない。バイブだけが、掌に控えめな信号を送る。
画面に表示された。
律が友だちに追加されました。
その一文が、史人の胸に妙に重く落ちた。たった一文なのに、昨夜の熱よりも現実的な拘束力を持つ。拘束力があるのに、手を離せない。
律が満足そうに笑った。
「できた」
史人は「うん」としか言えなかった。言えなかったことが、また答えになる。答えにしたくないのに、答えになってしまう。
律が自分の画面を操作して、ぽん、と短いメッセージを送ってきた。史人の画面に通知が出る。
りつ
名前だけ。たった二文字。たった二文字が、宵だまりの暖色の匂いを呼び戻す。呼び戻すと同時に、昨夜の体温も呼び戻す。呼び戻された体温が、史人の腹の奥で小さく熱を持つ。
史人は返信しなければならない気がした。返信しなければ、礼儀がない。礼儀は仕事で叩き込まれている。礼儀を守ることは、関係を円滑にする。円滑にしたいわけではないのに、礼儀の癖が身体を動かす。
史人は短く打った。
ふみと
名前だけなら、約束ではない。挨拶ではなく、確認。そう自分に言い聞かせる。
律の目が少しだけ柔らかくなった。
「ええやん」
史人はその言葉を受け取りたくなくて、すぐに画面を消した。スマホをポケットに戻す。戻した瞬間、胸が軽くなる。軽くなるのに、別の場所が重くなる。繋がったという事実は消えない。消えないものが、ポケットの中で脈打っている気がする。
駅が近づくと、人が増える。朝の通勤の匂いがする。整髪料、コーヒー、紙の匂い。人の流れの中で、律の存在が少しだけ薄くなる。薄くなるのが寂しい。寂しいと認めたくなくて、史人は歩幅を少しだけ速くした。速くして、人の流れに溶ける。溶けることで、安全になる。
改札が見えた。ここで別れる。別れは自然なはずだ。自然に別れれば、昨夜のことは勢いとして終わるはずだ。終わるはずだ、と史人は必死に思う。
律が足を止めた。史人も止まる。改札の電子音が規則正しく鳴り、駅員のアナウンスが遠くで流れる。生活の音が、二人の沈黙を覆ってくれる。覆ってくれるのに、沈黙は残る。沈黙は、言葉にできないものの形だ。
律が軽い声で言った。
「また、宵だまり行く?」
史人の心臓が跳ねた。約束を作らないはずなのに、問いが出てしまった。問いが出たら、答えが必要になる。答えを出したら、関係が形になる。
史人は答えを避けたかった。避けたかったのに、宵だまりのだし巻きの匂いが頭に浮かぶ。あの暖色の膜。氷の音。笑い声の膜に紛れれば、言葉にしなくて済む。言葉にしなくて済む場所があるなら、答えは出さずに済む。
史人は視線を逸らしながら言った。
「…行くかもしれん」
律が笑った。満足そうな笑いではない。押し付けない笑い。押し付けない笑いが、史人には一番厄介だった。押し付けられたら断れる。押し付けられないと、自分が選んだように感じてしまう。
律が言った。
「ほな、たまたま会えたら」
その言い方が、ずるい。約束じゃない形で、再会の未来を作る。史人が欲しがっている“安全”を律が与えてしまう。与えられると、史人は拒めない。
史人は短く頷いた。
「…うん」
律が改札へ向かう。史人とは反対方向のホームへ行くらしい。律は振り返らずに歩き出した。振り返らない背中が、今朝の光の中で小さく遠ざかる。遠ざかる背中を見送ると、史人の胸の奥に微かな空洞ができた。空洞は渇きに似ている。渇きは水では埋まらない。
史人は改札を通った。電子音が鳴る。仕事の始まりの音だ。仕事の音に混ざると、律の声が遠くなる。遠くなるのに、ポケットの中のスマホがやけに重い。画面は消えているのに、繋がった事実が脈打っているように感じる。
ホームへ向かう階段を上がりながら、史人は自分に言い聞かせた。
これは約束じゃない。便利なだけや。連絡先なんて、ただの手段や。
言い聞かせるほど、言い訳が薄くなる。薄くなるほど、胸の奥の熱がはっきりする。熱は、期待の形をしている。期待などしてはいけない。恋愛をする余裕がない。余裕がない現実は、これから始まる仕事が証明してくれる。
それでも史人は、改札の電子音の向こうで、宵だまりの暖色を思い出してしまった。たまたま会えたら。約束ではない言葉が、史人の心を少しだけ軽くした。軽くなった心の隙間に、微かな期待が芽を出す。芽は小さくて、すぐ折れそうで、だからこそ史人は目を背けたくなる。
目を背けながら、史人は電車に乗った。扉が閉まり、車内の空気が仕事の匂いに染まる。その匂いの中でも、指先に残る熱だけが消えなかった。
夜の部屋は、昼の部屋より狭い。狭いのに、隙間が多い。照明の下でだけ明るく、照明の外側は薄い影になって、そこに音が溜まる。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の回転、隣室の水道の気配。遠い車の音が、窓ガラスで一度ひしゃげてから入ってくる。史人はテーブルの上に置いたスマホを、何度も見た。画面は暗い。通知はない。暗いままの画面が、かつては救いだった。今は違う。暗いままでも、胸の奥が勝手に騒ぐ。来るはずのない通知を待つ癖が、身体に残っている。それでも、いまは呼吸がある。逃げ場の呼吸じゃない。戻るための呼吸だ。律は台所に立ち、エプロンを胸元で結び直した。結び目を確かめる指が丁寧で、丁寧さが強がりではなくなっている。イタリアで身につけた動作だと史人は思った。向こうの市場の匂いを、ここへ連れてきたみたいに。「何作る?」律が振り返って言った。声は軽い。軽い声は膜ではなく、確かめの声になっていた。史人は冷蔵庫の中身を思い浮かべた。買い物は帰りに済ませている。袋から野菜を出して冷蔵庫に押し込み、冷える音と一緒に少しだけ安心した。生活は音があると分かりやすい。音があると、空白が薄まる。「鍋、でもええ?」史人が言うと、律は少し考えてから頷いた。「鍋はええな。あったかい」律の言葉に、史人の胸が少しだけ緩んだ。あったかい、は一番単純な答えで、一番強い合意でもある。鍋は誰かの体温を借りなくても、あったかくなる。逃避ではなく生活として、そこにある。史人はまな板を出し、包丁を手に取った。刃の重さが、手に馴染む。仕事のキーボードより、ずっと素直な道具だと思う。切れば切れる。切った分だけ形になる。進捗表の色みたいに、何をしても詰められることがない。切り口が揃わなくても、誰も責めない。律は野菜を洗い、手を拭いたタオルをきちんと掛け直した。掛け直す動作が、境界線の動作に見える。雑に扱わない。雑に扱うと、自分が雑に扱われる。律がその理屈を身体で知っているのが分かる。史人は白菜を切りながら、律の横顔を盗み見た。頬の線が少し柔らかい。けれど目の奥はまだ鋭い。鋭さは恐れの鋭さではなく、選ぶための鋭さだ。鍋に出汁を張る
昼の光は、夜より残酷だと史人は思うことがある。夜は暗さが隠してくれる。昼は輪郭が出る。輪郭が出ると、見ないふりをしていたものが、机の上に置かれてしまう。午前の作業を切り上げて、史人はノートパソコンの蓋を閉じた。独立してから、閉じるタイミングを自分で決められるようになった。それでも、手が反射で震える瞬間がある。蓋を閉じても通知が鳴る気がする。梅田の終電レースが、身体の裏側にまだ貼り付いている。史人はその感覚を、呼吸で押さえた。最近は呼吸が少しだけ役に立つ。律の呼吸を見て学んだのかもしれない。台所から味噌汁の匂いが漂ってきた。律が小鍋を火にかけ、湯気を見ながら味噌を溶いている。湯気は祖父母宅の台所の湯気と似ていて、生活の匂いは人を油断させる。その油断の隙間に、影は入り込む。律のスマホがテーブルの上で震えた。音は鳴らない設定になっている。震えだけで十分だ。律の肩が、ほんの少しだけ上がる。上がった肩がすぐに落ちる。律が呼吸を選んだのが分かる。それでも指先は冷たくなるらしく、律は鍋の取っ手を握り直した。史人は椅子から立ち上がりかけて、止まった。止まることが、今の二人の合図になっている。何かが起きたとき、勢いで触れない。勢いで聞かない。まず止まり、息を整える。律は鍋の火を弱めてから、スマホを手に取った。画面を見て、目が一瞬だけ固くなる。固くなったのに、息は止まらない。律は親指で画面を滑らせ、通知の内容を確認する。確認したあと、スマホを伏せた。伏せる動作がゆっくりで、生活の動作に戻そうとしているのが分かる。史人は声を出さず、コップに水を注いで律の横に置いた。律は頷いて水を飲んだ。喉が鳴る。喉が鳴ると、史人の胸の奥の緊張が少しだけ緩む。律は水のコップを置き、息を吸って吐いた。吐く息が長い。長い息は、戻るための息だ。史人は言葉を選んだ。大丈夫? は言わない。大丈夫と言わせる言葉になるからだ。代わりに、必要なことだけを確認する。「今、読む?」律は一瞬だけ史人を見た。目の奥に影がある。影は恐怖の影だ。恐怖はまだ消えていない。でもその影の中に、薄い光もある。光は、境界線を引けるようになった光だ。「読む」
史人の部屋の鍵は、いつもより重かった。金属の重さではなく、手の中で鳴らない重さだ。ポケットの底で触れたとき、冷たいはずの感触がぬるく感じる。身体が勝手に体温を乗せる。自分のものだったはずの鍵が、誰かの手に渡る前に、別の意味を帯び始めるのが怖い。玄関の前に立つと、廊下の蛍光灯が白くて、少しだけ梅田の白を思い出した。あの白は人を干上がらせる。ここは違うと分かっていても、白は白だ。史人は息を吸い、吐いて、鍵穴に差し込んだ。音が小さく、乾いている。回す指の腹が少し汗ばんでいるのが分かる。背後で足音が止まる。律が立っていた。空港から戻って数日、律は祖父母の家に荷物を置き、必要なものだけをリュックに詰めて来た。史人の部屋で一度、試す。そこまでを二人は言葉にした。試す、という言葉が便利なだけではないと、史人は知っている。試すと決めることは、いつでも止まれると決めることだ。止まる権利を最初に置く。それが今回の合意だった。ドアを開けると、部屋の匂いがした。洗濯洗剤と、パソコンの熱が残ったような乾いた匂いと、少しだけ煙草ではない紙の匂い。律の匂いはまだ混ざっていない。混ざっていないことが少し寂しく、同時に安心する。混ざったら戻れない気がして、どこかで怖い。「入って」史人はそう言った。言葉が短い。短くないと、余計なものが紛れ込む。「お邪魔します」律は靴を脱ぎ、揃えた。揃え方が丁寧すぎて、史人は笑いそうになり、笑わなかった。律は気を張っている。気を張っているのに、張り詰めていない。張り詰める一歩手前で、止まれる感じがする。それが留学の成果なのだろうと、史人は勝手に思った。リビング兼寝室の狭さは変わらない。ベッドと机と、本棚と、最近買った折り畳みの小さなテーブル。宵だまりで飲んだ帰りに、何度もこの部屋へ戻った。その導線に律が乗ると、過去の逃避が一瞬だけ顔を出す。史人は喉の奥がきゅっとなるのを感じた。律は視線を部屋の隅に滑らせ、軽く息を吐いた。息が止まっていない。史人はそれだけで少し落ち着く。「荷物、ここでええ?」律がリュックを持ち上げる。置き場所を聞くのが、律の条件提示の仕方だと史人は理解している。勝手に置かない
ホテルを出た瞬間、空気が変わった。夜の間に溜まった湿り気が、朝の光に薄く引き延ばされている。ロビーに漂うコーヒーの匂いはまだ強く、スーツケースの車輪が床を擦る乾いた音が、どこか遠い。窓の外には滑走路が見え、昨夜と同じ点滅が今は淡く、昼に飲み込まれかけていた。史人はカードキーを返却機に入れる前、指先に残るプラスチックの角の感触を一瞬だけ確かめた。握りしめれば、昨夜の熱まで握りしめられそうで怖い。握りしめないほうがいい。逃避に戻らないために、ここで眠ったのだと、自分で決めたのだと、忘れないために。律はフロントを横目に見ながら、ひとつ息を吸った。浅くない。胸の奥まで入って、肋骨の裏側に柔らかい重みが広がる。その重みが「生きてる」を支えるのだと、律は知っている顔をしていた。以前の、息を止める顔ではない。史人はそれに気づいた瞬間、言葉が喉に詰まった。上手く言えない。おかえりの次に何を置けばいいのか、まだ分からない。ただ、呼吸が止まっていない。それだけで、胸の中の硬い塊が少しだけ溶ける。連絡通路を渡ると、窓が大きくなり、海の色が見えた。空港の外側は、思っていたより明るい。明るさは現実を連れてくる。昨夜の余韻を抱えたまま現実に踏み出すと、いつか転ぶ気がする。史人はその恐怖を、足の裏の感触で誤魔化した。床が固い。歩ける。歩くしかない。電車の時間を確認しようと、律がスマホを取り出す。画面の白さが朝の光と重なり、史人は反射で身構えた。通知音が鳴っていないのに、身体が先に構える癖は、まだ完全には抜けていない。律の指先が画面を滑り、数秒、止まる。律は眉を少しだけ上げた。見つけたのは、情報だった。脅しでも、契約書でもない。ただの、駅周辺の案内の一行。けれど律は、その一行に目を留める顔になった。逃げ場を探す顔ではなく、自分で選ぶ顔。「なあ」声は小さく、滑走路の遠い音に溶けそうだった。それでも史人は聞き取る。「ちょっと寄り道したい」史人は足を止めた。すぐに理由を聞きそうになって、飲み込む。理由を聞けば、正しさで埋めてしまいそうな気がした。今は、正しさより、律が今ここで何を欲しがっているかを確かめたい。「寄り道?」
朝の光は、夜の約束を容赦なく薄める。ホテルのカーテンの隙間から差し込む白さは、昨夜のスタンドの円い灯りとは違って、輪郭をはっきりさせた。ベッドのシーツの皺も、床に落ちたタオルの端も、窓の外の滑走路の線も、現実の線として並び直される。史人は目を開けた瞬間に、自分が息をしていることを確かめた。胸の奥が浅くならない。終電の計算も、通知音の幻も、今はない。代わりに、隣の体温がある。体温があるのに、逃避の甘さだけではない。昨夜、言葉で合意した「止まれる」という感覚が、まだ身体の奥に残っている。律はまだ眠っていた。横顔の角が、梅田の夜より少しだけ丸く見える。寝ているのに眉間の皺が薄い。眠りが浅いときに出る肩の硬さも、今はない。史人はそれを見て、胸の奥が熱くなりそうになり、熱くなりすぎる前に息を吐いた。熱くなるのは悪いことではない。ただ、熱だけで動くと、また同じ場所に戻る。戻る場所が、宵だまりと1Kだけになってしまう。史人は静かにベッドを抜けた。床は冷たい。足裏が冷えると、頭が少し冴える。洗面台の前で顔を洗う。水が頬を叩き、夜の余韻を削る。鏡の中の自分は、寝不足の目をしているのに、目の奥が変に澄んでいた。澄んでいるせいで、怖い。澄んでいると、逃げ道がない。逃げ道がないのは、悪いことではない。選ぶしかないからだ。コーヒーメーカーのボタンを押すと、低い振動音が小さく響いた。豆の香りが、空調の乾いた匂いに混ざり、部屋に生活の気配を増やしていく。史人は紙コップに注ぎ、湯気を見つめた。湯気はすぐ消える。消える速度が、今の自分の生活と似ていると思った。整えても、放っておけばまた散らかる。散らかる前に手を入れるしかない。律が身じろぎをした。布団の擦れる音が微かに聞こえ、次に、息を吸う音が聞こえた。律は目を開け、天井を見て、状況を確かめるように瞬きをした。目が史人を見つけるまでに一拍ある。その一拍が、昨夜の「止まれる」拍に似ていた。律が掠れた声で言う。「……朝やな」史人は頷いて、コーヒーを差し出した。「飲む?」律は起き上がり、受け取った。指が史人の指に触れ、触れた瞬間に引っ込めない。触れたまま、律は紙コッ
未明のホテルの部屋は、昼の白さをすっかり失っていた。壁の灯りは落とされ、ベッドサイドのスタンドだけが、淡い円を床に作っている。空調の乾いた息が一定の間隔で吐かれ、肌の汗を薄く冷やした。窓の外には、滑走路の点滅が規則的に並び、黒い空を切り取るガラスに、細い光が浮かんでいる。機体灯が遠く動くたび、ここが「空港の夜」だと改めて突きつけられる。史人はベッドの端に座り、手のひらを膝の上で組んだ。指先に残る体温が、まだ熱い。熱いのに、落ち着いている。さっきまでの熱が、虚しさに沈んでいかない。それが不思議で、怖かった。怖いのは、これがただの一夜の慰めに戻れないからだと、史人は薄く理解していた。律は浴室から出てきたところだった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋の薄い灯りの中で一瞬だけ立ち止まる。ホテルの部屋着は体の線を隠しきれず、肩から首筋にかけての白さが、灯りを柔らかく受けている。史人は視線を逸らすべきか迷い、迷ったまま見てしまった。見てしまっても、律は何も言わない。言わないまま、窓の方へ歩く。窓際に置かれた小さなテーブルの上には、さっき律が飲んだ水のボトルが半分残っている。律はそれを指で回し、キャップの感触を確かめるように握った。握った指が、ほんの少し震えた。震えは寒さのせいではない。史人は、それが「言葉」を出す前の揺れだと感じた。史人は息を吸い込み、吐いた。吐く息は長くする。長くすると胸の奥が少し広がる。広がった場所に、律の存在が入ってくる。入ってくるのに、押し潰されない。押し潰されない自分になったのだと、史人は思い込みたい。律は窓の外に目をやった。点滅する灯りを眺めながら、喉の奥で何かを飲み込む仕草をした。言葉を選ぶときの癖だ。梅田で、鍵盤に触れる前も、こんなふうに息を止めかけた。あの時は音が先で、言葉は後だった。いや、言葉は後に来なかった。来なかったことが、ずっと史人の胸の奥で残響になっていた。律が背中越しに言う。「なあ」史人はすぐに返せない。喉が固まる。返事をしない沈黙が、律を追い詰めるかもしれないと思い、史人は無理に声を出した。「うん」律は振り返らなかった。振り返らないまま、続ける。
梅田の朝は、いつも白い。空の色ではない。ビルのガラスに反射した光でもない。史人の目に刺さるのは、入館ゲートの発光と、天井に並ぶ蛍光灯と、ディスプレイの白背景だった。白が多い場所は、人の影を薄くする。薄くなるほど、人間は機能になっていく。史人は、その機能として今日も歩いている気がした。ビルのエントランスは、無駄に広い。無駄に磨かれた床が、靴底の音を少しだけ反響させる。香りは薄い。清掃洗剤と、空調の乾きと、誰かの整髪料が混ざっているのに、どれも決定打にならない。決定打がない空気は、個性を奪う。奪われた空気の中で、史人は首から下げた入館カードを指で確かめた。
未明の空気は、甘い疲労の匂いを含んでいる。シーツの皺の間に残る体温が、乾いた部屋の匂いを薄く塗り替えて、史人の肺の奥に沈んだ。窓の外では、車がたまに遠くを走る音がする。音の途切れ目があるたびに、世界がまだ続いているのだと知らされる。それが少し怖い。世界が続くなら、朝が来る。朝が来るなら、仕事が来る。仕事が来るなら、また窒息が始まる。その窒息の輪郭が、今だけぼやけている。ぼやけさせているのは隣の体温だと、史人は認めたくないまま知っている。律は仰向けに寝ていて、呼吸は深くはないが、落ち着いている。眠りに落ちたわけではないらしい。瞼は閉じているのに、眠りの重さがない。そこにある
宵だまりの暖簾は、夜の湿り気を含んで少し重い。史人はその暖簾をくぐる前に、無意識に肩をすくめた。雨上がりの冷気がまだ服の繊維に残っていて、駅からここまでの短い距離でさえ身体が固まっている。固まっているのは寒さのせいだけではない。今日一日、蛍光灯の白さに削られた神経が、やっと逃げ込める場所を前にして警戒を解けずにいる。引き戸を引くと、木の軋む音と一緒に、出汁と油の匂いが流れ出てきた。匂いはあたたかい。あたたかい匂いが鼻腔に入った瞬間、史人の胸の奥の硬い板が少しだけずれる。ずれた隙間から息が入る。息が入ると、やっと自分が生きていると分かる。仕事の中での生存ではなく、生活の生存
朝の電車は、人の匂いで満ちている。整髪料とコーヒーと、紙の匂いと、寝不足の汗の匂い。匂いが混ざると、誰が誰だか分からなくなる。分からなくなるのは楽だった。大原史人という個体が、ただの通勤客の一つに溶ける。溶ければ、昨夜も今朝も、別の誰かの出来事みたいに押し込められる。押し込められないのは、指先だった。つり革を握る掌の奥に、まだ熱が残っている気がする。残っている気がするだけで、実際には同じ温度のはずなのに、脳が勝手に思い出す。律の指。絡められた指。ペットボトルの水を受け取ったときの、短い触れ方。触れた瞬間の皮膚の感覚は、仕事のデータよりも正確に記憶に残る。残ることが恥ずかし