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208:日常への帰還

last update تاريخ النشر: 2026-05-31 11:52:13

 土井精機の工場内に絶え間ない切削音が響いている。

 高排熱特殊合金の銀色のブロックが五軸加工機の内部で複雑に回転し、超硬合金の刃先が正確に表面を削り取っていく。

 熱を逃がすためのクーラント液が、計算された絶妙な圧力で加工点に向かって勢いよく噴射されていた。

 季節は既に夏。

 熱気あふれる工場は、文字通り灼熱の職場だ。

 機械類が駆動して、熱を放っている。

 職人たちの声が工場の高い天井に響いている。賑やかで活気あふれる現場だった。

 職人たちは汗を流しながら、仕事に励んでいた。

 オライオン・システムズの妨害を退け、特許ゴロの難癖をはねのけた。

 政府プロジェクトのセンサーハウジング量産が本格的に軌道に乗り始めてから、工場はかつてないほどの活気に満ちている。

 琴葉は完成したばかりのセンサーハウジングを手に取り、検査室の三次元測定機が弾き出したデータと照らし合わせていた。

 モニターに表示される数値は、すべての測定箇所において要求公差5ミクロン以内を完璧
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  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   216

    「いいえ、あなたはただの犯罪者だ」 伊吹が冷酷に言い放つ。 その声は平坦で、怒りも憎しみすらもない。ただ路傍のゴミを見るような冷たさだけがあった。 警察官たちが伊吹から峻嗣を引き取り、その腕に手錠をかけた。 暴れる峻嗣は複数人に押さえ込まれ、パトカーの後部座席へと押し込まれていく。「おのれ、伊吹……! 土井琴葉ぁ……!」 バタンとドアが閉められ、峻嗣の呪嗟の声は完全に遮断された。 パトカーはすぐにサイレンを鳴らして走り去り、路地裏には再び夜の静けさが戻ってきた。 伊吹はスーツの袖口を軽く手で払い、琴葉の方へと向き直った。 その顔には先ほどまでの冷徹な気配はすっかり消え去り、いつもの穏やかな青年の表情が戻っている。「怪我はありませんか、琴葉さん」「ええ。ありがとう、伊吹。少し驚いただけよ」 琴葉はこわばっていた肩の力を抜いた。 まだ心臓は少し早く動いているが、伊吹の涼し気な瞳を見ていると、自然と呼吸のリズムが正常に戻っていくのを感じた。「警察を待機させていたって……最初から彼が来ることを分かっていたのね」「はい。彼の足取りは完全に把握していました。ただ、現行犯でなければ確実に逮捕することはできない。危険な目に遭わせてしまって申し訳ありません」 伊吹が頭を下げるのを見て、琴葉は小さく笑った。「いいのよ。あなたが必ず守ってくれるって、分かっていたから」 その言葉に、伊吹は少しだけ目を丸くする。やがて嬉しげな笑みを浮かべた。「これで本当に最後です。過去の因縁は、すべて清算されました。父は療養所で罪と向き合い、叔父は刑務所へ行く。僕たちを脅かすものは、もう何もありません」「そうね。なんだか、長くて暗いトンネルをやっと抜け出した気分だわ」 伊吹がそっと右手を差し出した。 琴葉はためらうことなく、その大きな手を握り返した。 彼の手のひらは温かく、これまで

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   215

     峻嗣は叫ぶ。「お前がいなければ、世良グループは私のものだったんだ! 俺の財産も、地位も、失ったのはすべてお前のせいだ!」 理不尽極まりない言いがかりだ。 確かに琴葉は、彼のAI筐体に罠を仕掛けて自壊させた。 けれどもそれは峻嗣の傲慢さによるものであり、人間の手を介した技術を過度に軽視した結果でもある。 自業自得以外の何物でもない。「知らないわよ! あんたの身から出た錆でしょ!」 辛うじて言い返すが、身勝手な憎しみに狂った相手に届くはずもなかった。 琴葉は後退ろうとしたが、足がコンクリートに縫い付けられたように動かない。 狂気と暴力を目の前にして、口の中がカラカラに乾く。 峻嗣が鉄パイプを高く振りかぶり、獣のような唸り声を上げて琴葉に突進してくる。 迫り来る凶器の風切り音が聞こえた。 琴葉が身を守るために両腕で頭を覆おうとした、その瞬間だった。 無音の影が、琴葉と峻嗣の間に滑り込んだ。「ぐぁっ!?」 峻嗣の短い悲鳴が夜の路地裏に響いた。 琴葉が恐る恐る目を開けると、そこにはダークネイビーのスーツの背中があった。伊吹だ。 伊吹は振り下ろされた鉄パイプの軌道を、左腕で下から柔らかく受け流していた。 そのまま円を描くような滑らかな動作で峻嗣の右手首を捕らえ、自身の体捌きに合わせて相手の重心を完全に崩す。 ガキンッ、と硬い音を立てて、鉄パイプがアスファルトに転がり落ちた。「ああっ、腕が……!」 伊吹は流れるような動きのまま、峻嗣の腕を背中側へ捻り上げて冷たいコンクリートの地面へと押し倒した。 片膝で峻嗣の肩甲骨のあたりを的確に制圧し、一切の反撃を許さない。 合気道の達人特有の、力みを感じさせない完璧な制圧だった。 伊吹の呼吸はまったく乱れておらず、スーツの裾さえ汚れていない。「峻嗣叔父さん。あなたの浅薄な思考など、手にとるように読めていましたよ」 伊吹の声は、絶対

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   214

     琴葉の言葉に、伊吹は冷静な態度で頷いた。「ええ、その通りです。彼は金も権力も、周囲の取り巻きもすべて失いました。文字通り、一文無しです」「じゃあ、もう何もできないじゃない」「失うものが何もない人間ほど、最後に何をするか分かりません」 伊吹の瞳が鋭い光を放った。「権力を笠に着て裏から他人を操っていた男が、自身のすべてを奪われた。その憎悪の矛先は、真っ先に僕に向くはずです。ですが、僕の周囲には常に何重ものセキュリティが敷かれています。彼が近づくことは不可能です」「……まさか、私を狙ってくるって言うの?」「逆恨みの果ての、極めて短絡的な思考です。しかし追い詰められた人間の凶行は、時に理屈を超えます。今日僕がここへ来たのは、あなたを確実に送り届けるためです」 琴葉の背筋に、ぞくりとした冷たい感覚が走った。 確かに、土井精機のセキュリティは世良本社のそれに比べれば無防備に等しい。 工場長や職人たちがいるとはいえ、夜になれば人通りも少なくなる。「そこまで追い詰められているのね……。分かったわ。戸締まりをして、すぐに出ましょう」 琴葉は急いでタブレットを鞄にしまい、作業着の上から薄手のジャケットを羽織った。◇ 夜の8時を回った頃。 土井精機の工場のシャッターを下ろし、琴葉は外の空気を吸い込んだ。 夏の夜風が、火照った頬を撫でていく。 昼間の熱気がまだわずかにアスファルトに残っていた。 伊吹は「車を工場の前まで回してきます」と言い残し、歩いて3分ほどの場所にある提携駐車場へ向かっている。 琴葉は街灯の薄暗い光の下で、バッグの持ち手を握り直した。(伊吹が警戒しているとはいえ、いきなり襲ってくるなんてことがあるのかしら) そんな考えが頭をよぎった直後のことだった。 工場の壁沿いに積まれた廃材の陰から、不自然な黒い塊が飛び出してきたのだ。

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   213

    「手紙? 隔離されているのに、手紙を出せるの?」 琴葉は軽く眉を寄せた。「施設側の検閲は通していますがね。内容は……少し驚くものでした」 伊吹は手元の鞄を横に置き、軽く両手を組み合わせた。「父は、自分のやり方が間違っていたと認める内容を書いてきました。ニュースや新聞の差し入れを通じて、現在の世良グループの状況を知ったようです。下請け企業との共存、技術者への正当な対価の支払い、そして何より、琴葉さんと協力して作り上げたクリーンなサプライチェーンの構築。それらが結果として最大の利益を生み出している現実を突きつけられたのでしょう」「お父さんが、自分の非を認めたのね」「ええ。世良の陰惨な権力闘争の中で生き抜いてきた父は、他人を蹴落とし、冷酷に支配する生き方しか知らなかった。だから僕にもそれを強要した。ですが、温かい心と冷静な経営は両立するのだと、今の僕を見て気づいたようです。息子への教育は根本から間違っていたと、不格好な文字で綴られていました」 伊吹の表情は晴れやかだった。 長年彼を縛り付けていた鎖が、ようやく完全に解き放たれたのだと琴葉は感じた。 お湯を注いだ急須から、香ばしい緑茶の香りが立ち上る。 琴葉は湯呑みを2つ用意し、伊吹の前に置いた。「それで、お父さんの処遇はどうするつもり? 施設から出してあげるの?」「いいえ」 伊吹は湯呑みを手に取り、一口飲んだ。その動作には迷いがない。「今更反省したところで、彼が過去に行った冷酷な切り捨てや、多くの企業を泣かせてきた事実が消えるわけではありません。経営の第一線に戻ることは二度とないでしょう。父にはこのまま、引退生活を続行してもらいます。彼自身も、それを望んでいました」「そう……。厳しい決断だけど、それが一番正しい形なのかもしれないわね」「はい。過去の因縁は、僕と彼の中ではこれで終わりました」 伊吹は湯呑みをテーブルに戻し、ネクタイの結び目に軽く触れた。「ですが、まだ終わっていない人間が1人

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   212:過去の清算

     土井精機の事務所には、かすかな機械油の匂いが染み付いている。  琴葉はデスクに広げたタブレット端末から顔を上げ、傍らに置かれたマグカップに手を伸ばした。  中身のブラックコーヒーはすっかり冷めきっていたが、特有の強い苦味が疲労した脳をいくらかすっきりさせてくれる。 窓の向こうの工場フロアでは、五軸加工機が低い稼働音を立てていた。  国策である半導体プロジェクトに向けたセンサーハウジングの量産は、何の問題もないペースで進んでいる。 特許ゴロによる理不尽な訴訟騒ぎを退けて以来、現場の空気は驚くほど明るかった。(本当に、長い戦いだったわね) 琴葉はタブレットの画面をオフにして、深く息を吐き出した。 外資系ファンドによる敵対的買収騒動も落ち着いた。  世良グループの株価はかつてない水準まで回復している。 半導体製造ラインは完全に国内のサプライチェーンで完結し、その中枢には土井精機の技術がしっかりと組み込まれていた。 ふと、デスクの隅に置かれた小型テレビの画面に目を向ける。 夕方の経済ニュース番組が、世良グループの直近の業績について報じていた。  キャスターの滑らかな声が、新体制を率いる若きCEOの手腕を称賛している。 番組の後半、画面の隅に1枚の顔写真が表示された。世良グループの前CEOであり、伊吹の父親である宗佑だった。『一方、前CEOの世良宗佑氏は現在、郊外の療養施設にて一切の経営から退いた生活を送っているとのことです……』 短いアナウンスを聞き流しながら、琴葉は複雑な感情を抱いた。 宗佑は、伊吹を徹底的に冷酷な後継者として育て上げようとした張本人だ。  温かさや情を切り捨て、ただ利益と権力のみを追求する機械のような存在になることを強要した。  その結果、伊吹は心を壊しかけていたのだ。 ――と。 事務所のドアが開く音がした。  振り返ると、伊吹が立っていた。  仕立ての良いダークネイビーのスーツに、清潔感のある白いシャツ。深い青色のネクタイが、彼の涼やか

  • 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~   211

    「金の出所が割れれば、あとはこちらの土俵です。世良グループの資本力と情報網を使ってダミー会社を訴え返し、連鎖的に破産させます。そして最終的に、峻嗣派が蓄えていた隠し資産を根こそぎ差し押さえます。彼らの資金源は完全に断絶し、二度とビジネスの世界で再起することはできなくなる。逃げ道のない、金銭的な死刑宣告です」 応接室の空気が張り詰めていた。 伊吹の描いた盤面は、防御の枠をはるかに超えている。 特許ゴロという末端の害虫をただ追い払うだけでない。 その害虫を利用した根源の敵を、法律という正規のルートを使って物理的に息の根を止める。「法を悪用し、我々の盤面を荒らした代償は、破産という形で支払わせます」 伊吹は一切の感情を交えずに、ただの事実として宣告した。 かつて世良本家の陰惨な生存競争の中で生き残るために、他者を蹴落とし続けていた頃の冷酷さが、そこには確かにあった。 けれど琴葉は、今の伊吹に対して少しも恐怖を感じなかった。 かつての彼の冷酷さは、自分を見失った末の孤独と怯えから来る狂気だった。 しかし今の彼は違う。 彼が見せている容赦のない牙は、自分たちの技術や国策プロジェクト、何よりも琴葉と土井精機という「守るべき領域」を外敵から防衛するための、極めて合理的な武器なのだ。 伊吹がいるからこそ、琴葉も安心して仕事を進められる。 彼はもう、闇雲に周囲を傷つける怪物ではない。 対等なパートナーとして、共通の目的に向かって進む共同経営者だ。「分かったわ」 だから琴葉は笑ってみせた。 伊吹への信頼を込めて。 反訴状の束を手元に引き寄せる。 用意されていた委任状のサイン欄に迷いなくペンを走らせた。「技術の証明は私がやったんだから、この反訴の責任の半分は私にもあるわね。徹底的にやりなさい。うちの部品に泥を塗ろうとした連中には、相応のペナルティを受けてもらわないと」 琴葉が力強く言い切ると、伊吹の顔から冷徹な仮面が外れて、本来の穏やかな青年の表情が戻った。「ありがと

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