LOGIN「伊吹、あんた分かってない」
「何をですか?」
伊吹は首を傾げた。男性としては少し長い髪がサラリと揺れる。
「人間はね、その『無駄』な時間で息をしてるの。コーヒーを淹れながら『あーあ、うまくいかないな』ってぼんやり考える。その隙間に、新しいアイデアが落ちてたりするのよ」
「隙間……」
「そう。あんたがやってるのは、私の遊びを埋めて、ガチガチに固定してるだけ。それじゃあ、いい仕事はできない」
琴葉の説教も、伊吹には届いていないようだった。
彼は不思議そうに瞬きを繰り返し、少し考え込んでから口を開いた。「つまり、琴葉さんには『ぼんやりする時間』というタスクが必要、ということですね?」
「タスクって言い方……」
琴葉はうんざりしたが、伊吹は名案を思いついたというようににっこりと笑った。
「わかりました。では、スケジュールに『ランダムな空白時間』を組み込みましょう。一時間に十
琴葉は首を振った。 気の毒ではあるが、彼女にはどうにもできない。 詩織1人のために黒田大臣への追及を緩めることはできないし、伊吹が情をかけるとも思えなかった。「お嬢! 大変だ、テレビ見たか!?」 と。 バンッ、と勢いよく事務所のドアが開いた。 飛び込んできたのは、作業着姿の工場長だった。 白髪交じりの頭にタオルを巻き、息を切らしている。彼の後ろからは、数人の若い職人たちも顔を覗かせていた。「世良グループが、えらいことになってるぞ! 大臣に賄賂を贈ってたとかで、テレビの全局が一斉に報じてる!」 工場長の慌てふためく様子に、琴葉は全く動じることなく、落ち着いた声で返した。「ええ、見てるわよ。黒田大臣の逮捕でしょう?」「見てるわよ、じゃないだろう! 世良の新経営陣が内部告発したって言ってたぞ。新経営陣って、まさか……」 工場長は言葉を詰まらせて、琴葉の顔をまじまじと見つめた。 土井精機の職人たちは、伊吹が琴葉と「契約結婚」を持ちかける形で姿を表し、最新設備を導入してくれたことを知っている。 そして数日前、世良のトップが交代し、彼が暫定CEOに就任したというニュースにも驚かされたばかりだった。「そのまさかよ。あの人が、世良の大掃除を始めたの」 琴葉はマグカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。 冷静な琴葉の態度に、工場長は戸惑いを隠せない。「お、大掃除って……こんな特大のスキャンダルを自分から暴露するなんて、世良グループは潰れちまうぞ。うちへの影響はないのか? いや、うちはもう専属契約を切ったから関係ないかもしれないが、他の町工場は……」「心配いらないわよ、工場長」 琴葉は自信に満ちた笑みを浮かべて、職人たちを見回した。「株価は一時的に下がるでしょうけど、企業としての信頼はむしろ回復するわ。それに、伊吹……世良新CEOは、トップに立ったその日のうちに
(あの時、役員室で宗佑に突きつけたデータは、そのまま検察への手土産になったってわけね) 伊吹の狙いは、極めて明快で合理的だった。 現在、世良グループは峻嗣が引き起こしたAI事業の大失敗によって市場からの信頼を失った。政府の半導体プロジェクトからも外されかけている。 その危機的状況を覆すためには、単にトップが代わっただけでは不十分だ。 社会に対して「世良グループは根本から生まれ変わった」という強烈なアピールが必要になる。 だからこそ、伊吹は新体制の初仕事として、過去の負の遺産をすべて公の場に引きずり出したのだ。 自ら検察に全面協力し、徹底的に腐敗の膿を出し切る。 一時的な株価の下落や社会的批判は避けられないだろうが、長期的には「自浄作用のあるクリーンな企業」としての信頼を獲得できる。 結果として、政府のプロジェクトに残留するための最強の交渉カードを手に入れたことになる。(さすがだわ。宗佑へのクーデターだけでなく、世良グループを……引いては末端の工場まで守ってみせた) 琴葉は伊吹の鮮やかな手腕に、心底感嘆した。 伊吹は愛人の子として世良本家に放り込まれ、誰にも守られずに血みどろの生存競争をたった一人で生き抜いてきた。 幼い頃に出会った琴葉への過剰な憧れだけを命綱にして、彼女の言葉を絶対のルールとする鳥籠に自らを閉じ込めることで、過酷な現実から身を守っていた。 自分の意思で決断することを恐れ、彼女の顔色ばかりを窺っていたあの少年が、今や巨大企業の舵取りを完璧にこなしている。 誰の指示を受けるでもなく、彼自身の冷徹な計算と覚悟に基づいて。 ふと、琴葉の脳裏にある少女の顔がよぎった。 いつかのチャリティーパーティーで出会った、黒田詩織。 黒田大臣の孫娘である彼女は、幼い頃に伊吹に介抱された。その経験から彼を自分の王子様だと思い込み、恋心を抱いていた。 そして宗佑は、琴葉を排除した後の伊吹の再婚相手として、扱いやすい詩織を強引にあてがおうとしていた。 琴葉は思わずた
春も終わりを迎え、初夏の気配が混じり始めた陽光が、土井精機の事務所を明るく照らしている。 昼休み開始のチャイムが鳴り終わり、工場内は一時的な休息の空気に包まれていた。 プレスの駆動音や金属を削る音は止んで、代わりに職人たちの穏やかな話し声や笑い声が遠くから聞こえてくる。 琴葉は作業デスクの上で手早く弁当を済ませると、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを手に取った。 豆から挽いたコーヒーの香ばしい匂いが、事務所の空気を満たしていく。 午前の作業の疲労が温かい液体と共にじんわりと解けていくのを感じながら、琴葉は壁掛けのテレビに視線を向けた。 画面では、見慣れた昼のワイドショーが流れている。 芸能人の些細なスキャンダルや、季節のグルメ特集。 緊迫した逃亡生活や、神経をすり減らすハッキング攻防戦を過ごしてきた琴葉にとって、そうした平和なニュースはひどく新鮮で、平和の象徴のように感じられた。 伊吹が世良グループの暫定CEOに就任し、クーデターを成し遂げてから、まだ数日しか経っていない。 土井精機は、世良からの理不尽な専属契約を既に正式に破棄した。 琴葉と工場の独自の高い技術力を武器に、新しい顧客と取引を始めている。 資金ショートの危機は去り、工場には活気が戻っていた。 琴葉はマグカップを口に運ぶ。 と、その時。『ここで番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします』 和やかな雰囲気だったテレビの画面が、突如として切り替わった。「速報」という赤いテロップが大きく表示される。 スタジオのアナウンサーの表情が、一気に険しいものに変わる。『先ほど、東京地検特捜部は、現職の黒田大臣およびその関連政治団体へ強制捜査に入りました。黒田大臣を収賄などの容疑で逮捕した模様です』 琴葉の手が、空中でピタリと止まる。『関係者への取材によりますと、黒田大臣は過去数年間にわたり、国内最大手の複合企業である世良グループから、巨額の違法献金を受け取っていた疑いが持たれています』 画面がさ
『続いて、空席となったCEOのポストですが』 別の役員が進み出る。『この危機的状況を乗り越え、当局との交渉や組織の再建を主導できるのは、この不正を暴き、道筋を示した世良伊吹常務しかおりません。伊吹常務の暫定CEO就任を動議します』『賛成!』『世良伊吹新CEOを支持します!』 会議室に拍手が巻き起こる。 保身に走る役員たちの態度の豹変ぶりは滑稽ですらあったが、これで伊吹は、名実ともに巨大グループの頂点に立ったのだ。『……承諾いたします。皆さんのご期待に沿えるよう、世良グループの再建に全力を尽くしましょう』 伊吹の声には、おごりも高ぶりもなかった。 ただ重い責任を自らの意志で背負い込む、覚悟を決めた大人の男の響きがあった。◇ 琴葉の胸の奥に、熱いものがこみ上げた。 伊吹はかつて、無力な少年だった。 子供時代の琴葉に出会い、過剰な憧れを抱いた。 大人になっても依存から抜け出せず、彼女を独占したいあまり、身勝手な契約で縛って閉じ込めることすらした。 その彼が今、自分自身の足で立ち、巨大な権力を掌握したのだ。『では新CEOとして、最初の決裁を行います』 伊吹の凛とした声が響く。『ただちに、我が社の内部留保を解放してください。そして、AI事業の中断により資金ショートを起こしているすべての下請け工場に対し、無利子での特別救済融資を即日実行します』『えっ……し、しかし、それは莫大な額になります! まずはメディア対策や株価の維持に資金を回すべきでは……』 難色を示す役員に対し、伊吹は一歩も引かなかった。『我々の足元を支えているのは、現場の技術とサプライチェーンです。彼らを見殺しにすれば、政府の半導体プロジェクトから完全に外されれば、世良グループに明日はありません。これは絶対の命令です。今すぐ実行に移してください』
確実な勝算と宗佑追放後のビジョンを提示して、彼らを「反旗を翻す先陣」としてあらかじめ取り込んでいた。 これは突発的な会議ではない。 宗佑をしっかりと仕留めるために用意された、計算済みの公開処刑の場だ。『き、貴様ら……私に逆らう気か! 私がこの世良グループをここまで育て上げたのだぞ!』 宗佑の言葉は、もはや誰の耳にも届いていなかった。 有力な重役たちが伊吹側についている事実と、目の前には動かぬ証拠がある。 日和見を決め込んでいた他の役員たちも、事態の深刻さにパニックを起こし始めていた。『どうするんだ! このデータが検察やメディアに渡れば、世良グループは終わりだぞ!』『上場廃止どころの騒ぎじゃない、倒産もあり得る。我々も共犯として逮捕されるかもしれない!』『私は何も知らされていない! こんな違法献金、絶対に認められない!』 会議室は完全に統制を失い、怒鳴り声と責任逃れの言葉が飛び交う無法地帯と化した。 誰もが我が身を守るため、宗佑という泥舟から逃げ出そうと必死になっている。『皆さん、静粛に』 伊吹の声が、騒然とした空気を一刀両断に断ち切った。 その響きには、有無を言わせぬ絶対の威厳がこもっていた。 宗佑の威圧的な声ともまた違う、穏やかだが人を従わせる響き。 役員たちの声が、潮が引くようにピタリと止む。『今この場で誰が知っていたか、知らなかったかを議論しても無意味です。重要なのは、この腐敗の元凶をどう断ち切るか、です』 伊吹はさらに言葉を紡ぐ。『このデータは、すでに厳重なロックをかけて安全な場所に保管してあります。我々が今すぐ取るべき道は1つ。黒田大臣との癒着を断ち切り、贈賄の首謀者である世良宗佑を経営陣から完全に排除すること。そして、新体制として我々自らの手で事実を公表し、当局の調査に全面的に協力する姿勢を見せることです』『自ら公表するだと!?』 1人の役員が悲鳴のような声を上げた。 伊吹は動揺1つ見せず、落ち着
それから数十分後。 イヤホンからは、世良グループ本社の第一会議室の環境音が流れ込んできた。 突然の招集を受けた数十名の役員たちが、困惑と緊張の入り混じった声を交わしている。 そのざわめきは、巨大企業のトップ層が抱える不安を如実に表していた。『一体、何事ですか?』『こんな急に役員会だなんて。AI事業の失敗で、また銀行から突き上げでもあったのか?』『いや、総帥と伊吹常務の間で何かトラブルがあったと聞いている』『常務の解任決議という噂もあるぞ。まさか、親子の権力闘争か……』 役員たちのヒソヒソ話が飛び交う中、会議室の重いドアが開く音がした。 空気が一瞬にして張り詰める。 宗佑と伊吹が入室したのだ。『皆、急な招集で済まない』 宗佑の威圧的な声が響くと、会議室は水を打ったように静まり返った。『本日、我が世良グループの屋台骨を揺るがす、極めて由々しき事態が発覚した。ここにいる世良伊吹常務が、あろうことか私を陥れるための捏造データを作成し、不当に経営権を奪取しようと企てたのだ!』 どよめきが起こる。『ね、捏造データですって?』『伊吹常務が、総帥を?』 宗佑は声をさらに張り上げた。『彼は、我が社が黒田大臣へ不正な政治献金を行っているという、事実無根の嘘をでっち上げた。あわよくばそれを外部にリークすると私を脅迫してきたのだ。このような背信行為は断じて許されるものではない! 即刻、彼の解任を……』『お待ちください』 宗佑の言葉を遮ったのは、伊吹の落ち着き払った声だった。 マイクを通した彼の声は、会議室の隅々にまでクリアに響き渡る。『捏造かどうかは、皆さんの目で直接確かめていただきたい。今、お手元の端末に該当のデータファイルを送信しました。パスワードは不要です』 会議室のあちこちで、タブレットやノートパソコンの通知音が鳴る。 宗佑の舌打ちの音は、それにかき消された。
夜明けの光が、工場の高い天窓から幾筋もの白い帯となって差し込んでいた。 舞い上がる微細な鉄粉が、その光の中で静かに明滅している。 シュッ、シュッと規則正しい竹箒の音が、人気のないフロアに響いていた。 佐藤は慣れた手つきで床を掃き清めていた。 彼の背中は朝日を浴びているにもかかわらず、不自然に深い影を落としている。 佐藤は周囲に誰もいないことを何度も確認すると、壁際に箒を立てかけ、吸い寄せられるように第1ラインの加工機へと歩み寄った。(……よし。昨夜のブツは無事に紛れ込んでいるはずだ。あとは俺の指紋や
――20年前。3月下旬の風が強い日だった。 祖父母の家の縁側には、段ボール箱が積み上げられていた。 ようやく仕事に区切りをつけた父が、琴葉を迎えに来たのだ。 琴葉は4月から小学校への進学を控えている。 それに合わせての帰郷だった。 6歳の琴葉はリュックを背負って、庭先に来ていた男の子に向き合った。『やだぁ……いかないでよぉ……』 4歳の「いずみくん」は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。 琴葉の服の裾を握りしめて、足
「『泉伊吹』は、あの田舎町で死にました。無力で、泣き虫で、あなたを守れず、自分の痛みさえ他人に背負わせるような惨めな子供は……あの日、捨てたんです」「捨てたって……どういうこと?」 琴葉が問うと、伊吹は誇らしげに胸を張った。「言葉通りの意味です。世良家に入った僕を待っていたのは、歓迎なんて生易しいものではありませんでした」 本妻の親族からの冷ややかな視線と、分家の人間たちによる足の引っ張り合い。「愛人の子」「血統だけの野良犬」という陰口は日常茶飯事だ。
琴葉が自らの意思で、この楽園を捨てて逃げ出した。その事実を認めそうになり、心が千切れそうになる。 だが、その時。伊吹の脳裏に、ある可能性が閃いた。(待てよ) 伊吹は顔を上げた。 その瞳から、怯えた子供のような色は消えていた。 代わりに宿ったのは、冷徹なシステム管理者の光だ。 彼は素早くノートPCを開いた。スマートホームの管理ログにアクセスする。 キーボードを叩く音が、誰もいない部屋に響く。「……やはり」 ログには明確な痕跡が