เข้าสู่ระบบ「伊吹、あんた分かってない」
「何をですか?」
伊吹は首を傾げた。男性としては少し長い髪がサラリと揺れる。
「人間はね、その『無駄』な時間で息をしてるの。コーヒーを淹れながら『あーあ、うまくいかないな』ってぼんやり考える。その隙間に、新しいアイデアが落ちてたりするのよ」
「隙間……」
「そう。あんたがやってるのは、私の遊びを埋めて、ガチガチに固定してるだけ。それじゃあ、いい仕事はできない」
琴葉の説教も、伊吹には届いていないようだった。
彼は不思議そうに瞬きを繰り返し、少し考え込んでから口を開いた。「つまり、琴葉さんには『ぼんやりする時間』というタスクが必要、ということですね?」
「タスクって言い方……」
琴葉はうんざりしたが、伊吹は名案を思いついたというようににっこりと笑った。
「わかりました。では、スケジュールに『ランダムな空白時間』を組み込みましょう。一時間に十
琴葉は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。 世良宗佑の用意した盤面の上では、彼女は伊吹を縛り付けるための厄介な駒だった。 けれどこうして話してみれば、大人たちの権力闘争に巻き込まれただけの、ただの夢見がちな若い女性に過ぎない。 身内が用意した温室の中でしか生きる術を知らなかった彼女に、悪意などあるはずもなかった。(伊吹の改革の余波、か) 琴葉は内心で首を振った。 彼女が責任を感じる必要はないのは、よく分かっている。 琴葉と詩織はただの知人であり、それ以上のものではない。 だが、琴葉は少しだけお節介を焼いてみることにした。「なら、うちの工場でアルバイトでもしてみる?」 琴葉の提案に、詩織は目を丸くした。「えっ……工場、ですか」「そう。土井精機。難しい仕事じゃないわ。冷房の効いた部屋で、書類の整理や簡単なデータ入力を手伝ってほしいの。今のあなたは、1人で考え込んでいても悪い方向にしか思考が向かないわ。少し環境を変えて、手を動かしてみた方がいい」 詩織は缶コーヒーを見つめたまま、数秒ほど沈黙した。 やがて彼女は顔を上げると、すがるような視線を琴葉に向けた。「……私なんかでも、役に立てるでしょうか。アルバイトは初めてで」「それはあなたの働きぶり次第ね。時給はちゃんと出すわよ」 琴葉がからかうように言うと、詩織の顔にほんのわずかだけ、安堵の色が浮かんだ。◇ 翌朝。 土井精機の事務所のドアが開いて、詩織が緊張した面持ちで姿を現した。 動きやすい服装で来るようにとは伝えていたが、彼女が着てきたのは明らかにブランド物と分かる上質なブラウスとスラックスだった。「おはようございます。本日からお世話になります、黒田詩織です」 丁寧にお辞儀をする彼女を見て、出勤してきたばかりの工場長が首を傾げた。「お嬢、そちらのお客さんは?
初夏の強い日差しが、都内のオフィス街のコンクリートを白く照らしている。 琴葉は新規クライアントとの打ち合わせを終え、最寄り駅へ向かって歩いていた。 彼女が設計した新しい医療機器用パーツの図面は先方から高い評価を受け、正式な発注の見通しが立ったところだ。(首尾よく新しい発注をゲットしたわ。頑張らないとね) 足取りは軽く、確かな仕事の充実感が胸の内にあった。 ビル群の合間にある、緑豊かな公園を通り抜けようとした時のことだ。 琴葉はふと、木陰のベンチに座る1つの人影に目を留めた。 上質な生地のワンピースに、手入れの行き届いた髪。 だが、その背中はひどく丸まっており、足元を見つめたまま身動き1つしない。 周囲を歩くビジネスマンたちの活気から、彼女だけが完全に切り離されているようだった。 琴葉はその人物に見覚えがあった。 世良宗佑が、伊吹の新たな婚約者として強引にあてがおうとしていた少女。 黒田詩織だ。 琴葉は少し迷った後、近くの自動販売機で冷たい缶コーヒーを2つ買い、ベンチへと歩み寄った。「こんなところで、何をしているの」 声をかけると、詩織は弾かれたように顔を上げた。 その目は赤く腫れており、疲労の色が濃く滲んでいる。「……琴葉、さん」 詩織は力なく呟き、またうつむいてしまった。 数日前に世間を騒がせた特大ニュースを、琴葉は思い出す。 詩織の祖父である黒田大臣は収賄容疑で逮捕され、彼女の実家は東京地検特捜部の家宅捜索を受けた。 連日メディアに追い回され、一族の口座は凍結状態にあるという報道も出ている。 琴葉は隣に腰を下ろし、冷えた缶コーヒーを彼女の膝の横に置いた。「これでも飲んで落ち着いてちょうだい。ひどい顔色よ」「……ありがとうございます」 詩織は缶コーヒーを両手で包み込むように持つ。 しばらくの間、2人は無言でコーヒーを飲ん
「あ、すまねえ、お嬢。デリケートな問題なのに」「別にいいわ。今となっては円満離婚だし」「うーん、そうか。まあ、うちも負けていられないな。世良からの発注が復活しても、うちはもう下請けじゃなく、対等のパートナーとして渡り合えるようにしねえと」「その通りよ。世良がどうなろうと、土井精機の武器は私たちの技術力。これからは、自分たちで新しい市場をどんどん開拓していくんだから」 琴葉はデスクの上のタブレット端末を軽く叩いた。 そこには今日の午後から取り組む予定の、新しい医療機器用パーツの図面が待機している。「午後からは、昨日テスト加工したセンサーハウジングのデータ解析をやるわ。寸法公差がまだ甘い箇所があったから、プログラムを修正してもう一度五軸加工機を回すわよ」「おう! 任せとけ!」 職人たちが力強く返事をして、事務所から工場へと戻っていく。 彼らの背中には、以前のような先行きの見えない不安感はない。 確かな技術を持ち、正当な評価を得られる明日への希望が満ちていた。『――以上、東京地検特捜部による黒田大臣逮捕の臨時ニュースをお伝えしました』 テレビのアナウンサーが深々と頭を下げて、画面は再び通常の昼の番組へと戻っていった。 世間を揺るがす大事件の報道が終わっても、琴葉の心はひどく穏やかだった。(伊吹の戦いは、まだまだ続くでしょうけどね) 巨大企業の腐敗を出し切り、新しい体制を築き上げる。それは並大抵の苦労ではない。 反発する勢力もあるだろうし、市場の信頼を完全に取り戻すまでには長い時間がかかるはずだ。 それでも、琴葉は不思議と心配していなかった。 今の伊吹なら、どんな困難な状況でも最適解を見つけ出すだろう。 冷徹に、そして時には人間らしい温かさを持って乗り越えていくだろう。「さて、と」 琴葉はテレビの電源を消し、マグカップに残っていた冷めたコーヒーを飲み干した。 口の中に広がる苦味が、午後の仕事に向けた集中力を高めてくれる。 世良一族
琴葉は首を振った。 気の毒ではあるが、彼女にはどうにもできない。 詩織1人のために黒田大臣への追及を緩めることはできないし、伊吹が情をかけるとも思えなかった。「お嬢! 大変だ、テレビ見たか!?」 と。 バンッ、と勢いよく事務所のドアが開いた。 飛び込んできたのは、作業着姿の工場長だった。 白髪交じりの頭にタオルを巻き、息を切らしている。彼の後ろからは、数人の若い職人たちも顔を覗かせていた。「世良グループが、えらいことになってるぞ! 大臣に賄賂を贈ってたとかで、テレビの全局が一斉に報じてる!」 工場長の慌てふためく様子に、琴葉は全く動じることなく、落ち着いた声で返した。「ええ、見てるわよ。黒田大臣の逮捕でしょう?」「見てるわよ、じゃないだろう! 世良の新経営陣が内部告発したって言ってたぞ。新経営陣って、まさか……」 工場長は言葉を詰まらせて、琴葉の顔をまじまじと見つめた。 土井精機の職人たちは、伊吹が琴葉と「契約結婚」を持ちかける形で姿を表し、最新設備を導入してくれたことを知っている。 そして数日前、世良のトップが交代し、彼が暫定CEOに就任したというニュースにも驚かされたばかりだった。「そのまさかよ。あの人が、世良の大掃除を始めたの」 琴葉はマグカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。 冷静な琴葉の態度に、工場長は戸惑いを隠せない。「お、大掃除って……こんな特大のスキャンダルを自分から暴露するなんて、世良グループは潰れちまうぞ。うちへの影響はないのか? いや、うちはもう専属契約を切ったから関係ないかもしれないが、他の町工場は……」「心配いらないわよ、工場長」 琴葉は自信に満ちた笑みを浮かべて、職人たちを見回した。「株価は一時的に下がるでしょうけど、企業としての信頼はむしろ回復するわ。それに、伊吹……世良新CEOは、トップに立ったその日のうちに
(あの時、役員室で宗佑に突きつけたデータは、そのまま検察への手土産になったってわけね) 伊吹の狙いは、極めて明快で合理的だった。 現在、世良グループは峻嗣が引き起こしたAI事業の大失敗によって市場からの信頼を失った。政府の半導体プロジェクトからも外されかけている。 その危機的状況を覆すためには、単にトップが代わっただけでは不十分だ。 社会に対して「世良グループは根本から生まれ変わった」という強烈なアピールが必要になる。 だからこそ、伊吹は新体制の初仕事として、過去の負の遺産をすべて公の場に引きずり出したのだ。 自ら検察に全面協力し、徹底的に腐敗の膿を出し切る。 一時的な株価の下落や社会的批判は避けられないだろうが、長期的には「自浄作用のあるクリーンな企業」としての信頼を獲得できる。 結果として、政府のプロジェクトに残留するための最強の交渉カードを手に入れたことになる。(さすがだわ。宗佑へのクーデターだけでなく、世良グループを……引いては末端の工場まで守ってみせた) 琴葉は伊吹の鮮やかな手腕に、心底感嘆した。 伊吹は愛人の子として世良本家に放り込まれ、誰にも守られずに血みどろの生存競争をたった一人で生き抜いてきた。 幼い頃に出会った琴葉への過剰な憧れだけを命綱にして、彼女の言葉を絶対のルールとする鳥籠に自らを閉じ込めることで、過酷な現実から身を守っていた。 自分の意思で決断することを恐れ、彼女の顔色ばかりを窺っていたあの少年が、今や巨大企業の舵取りを完璧にこなしている。 誰の指示を受けるでもなく、彼自身の冷徹な計算と覚悟に基づいて。 ふと、琴葉の脳裏にある少女の顔がよぎった。 いつかのチャリティーパーティーで出会った、黒田詩織。 黒田大臣の孫娘である彼女は、幼い頃に伊吹に介抱された。その経験から彼を自分の王子様だと思い込み、恋心を抱いていた。 そして宗佑は、琴葉を排除した後の伊吹の再婚相手として、扱いやすい詩織を強引にあてがおうとしていた。 琴葉は思わずた
春も終わりを迎え、初夏の気配が混じり始めた陽光が、土井精機の事務所を明るく照らしている。 昼休み開始のチャイムが鳴り終わり、工場内は一時的な休息の空気に包まれていた。 プレスの駆動音や金属を削る音は止んで、代わりに職人たちの穏やかな話し声や笑い声が遠くから聞こえてくる。 琴葉は作業デスクの上で手早く弁当を済ませると、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを手に取った。 豆から挽いたコーヒーの香ばしい匂いが、事務所の空気を満たしていく。 午前の作業の疲労が温かい液体と共にじんわりと解けていくのを感じながら、琴葉は壁掛けのテレビに視線を向けた。 画面では、見慣れた昼のワイドショーが流れている。 芸能人の些細なスキャンダルや、季節のグルメ特集。 緊迫した逃亡生活や、神経をすり減らすハッキング攻防戦を過ごしてきた琴葉にとって、そうした平和なニュースはひどく新鮮で、平和の象徴のように感じられた。 伊吹が世良グループの暫定CEOに就任し、クーデターを成し遂げてから、まだ数日しか経っていない。 土井精機は、世良からの理不尽な専属契約を既に正式に破棄した。 琴葉と工場の独自の高い技術力を武器に、新しい顧客と取引を始めている。 資金ショートの危機は去り、工場には活気が戻っていた。 琴葉はマグカップを口に運ぶ。 と、その時。『ここで番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします』 和やかな雰囲気だったテレビの画面が、突如として切り替わった。「速報」という赤いテロップが大きく表示される。 スタジオのアナウンサーの表情が、一気に険しいものに変わる。『先ほど、東京地検特捜部は、現職の黒田大臣およびその関連政治団体へ強制捜査に入りました。黒田大臣を収賄などの容疑で逮捕した模様です』 琴葉の手が、空中でピタリと止まる。『関係者への取材によりますと、黒田大臣は過去数年間にわたり、国内最大手の複合企業である世良グループから、巨額の違法献金を受け取っていた疑いが持たれています』 画面がさ
夜明けの光が、工場の高い天窓から幾筋もの白い帯となって差し込んでいた。 舞い上がる微細な鉄粉が、その光の中で静かに明滅している。 シュッ、シュッと規則正しい竹箒の音が、人気のないフロアに響いていた。 佐藤は慣れた手つきで床を掃き清めていた。 彼の背中は朝日を浴びているにもかかわらず、不自然に深い影を落としている。 佐藤は周囲に誰もいないことを何度も確認すると、壁際に箒を立てかけ、吸い寄せられるように第1ラインの加工機へと歩み寄った。(……よし。昨夜のブツは無事に紛れ込んでいるはずだ。あとは俺の指紋や
――20年前。3月下旬の風が強い日だった。 祖父母の家の縁側には、段ボール箱が積み上げられていた。 ようやく仕事に区切りをつけた父が、琴葉を迎えに来たのだ。 琴葉は4月から小学校への進学を控えている。 それに合わせての帰郷だった。 6歳の琴葉はリュックを背負って、庭先に来ていた男の子に向き合った。『やだぁ……いかないでよぉ……』 4歳の「いずみくん」は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。 琴葉の服の裾を握りしめて、足
「『泉伊吹』は、あの田舎町で死にました。無力で、泣き虫で、あなたを守れず、自分の痛みさえ他人に背負わせるような惨めな子供は……あの日、捨てたんです」「捨てたって……どういうこと?」 琴葉が問うと、伊吹は誇らしげに胸を張った。「言葉通りの意味です。世良家に入った僕を待っていたのは、歓迎なんて生易しいものではありませんでした」 本妻の親族からの冷ややかな視線と、分家の人間たちによる足の引っ張り合い。「愛人の子」「血統だけの野良犬」という陰口は日常茶飯事だ。
琴葉が自らの意思で、この楽園を捨てて逃げ出した。その事実を認めそうになり、心が千切れそうになる。 だが、その時。伊吹の脳裏に、ある可能性が閃いた。(待てよ) 伊吹は顔を上げた。 その瞳から、怯えた子供のような色は消えていた。 代わりに宿ったのは、冷徹なシステム管理者の光だ。 彼は素早くノートPCを開いた。スマートホームの管理ログにアクセスする。 キーボードを叩く音が、誰もいない部屋に響く。「……やはり」 ログには明確な痕跡が







