薄曇りの午後、診察室の窓にかすかに残る雨のしずくが、灰色の光をぼんやりと反射していた。外来の患者がすべて帰った後、朝比奈澪(みお)は無言のままカルテを閉じ、一日の終わりを静かに確認していた。クリニックの中は湿り気を帯びた空気に包まれ、雨上がり特有の匂いがまだ微かに残っている。時計は午後四時をまわっていた。
カルテの整理を終え、ペンをペン立てに戻したときだった。小さく、控えめなノックの音が響いた。診察時間は終了していたはずだと、澪は眉をわずかに寄せ、扉の方へ視線を向けた。
「失礼します」
ゆっくりと開いた扉から現れたのは、長身で整った顔立ちの男だった。黒いコートの襟を軽く立て、濡れた髪を無造作に指で撫でている。彼の後ろには、スーツ姿の男性が控えていた。
「突然すみません。葛城陽真と申します」
そう名乗った男は、わずかに微笑みながら、深く頭を下げた。テレビやスクリーンで見慣れた顔だと、澪はすぐに気づいた。人気俳優、葛城陽真。だが実際に目の前に立たれると、画面越しとは違う、静かな存在感があった。
「取材の件で…こちらのクリニックにご相談に伺いました」
隣の男性が慌ただしく名刺を差し出す。マネージャーらしい彼の言葉を聞きながら、澪は応接スペースの椅子を指さした。
「どうぞ。おかけください」
声は冷静に、抑揚なく響いた。内心では、なぜこの男が自分のもとを選んだのかと、わずかな疑問が芽生えていたが、それを表には出さない。
陽真はコートの袖を静かにたぐり寄せ、椅子に腰を下ろした。その動作は無駄がなく、身体の使い方そのものが一つの演技のように洗練されていた。濡れたコートの裾を整える指先さえも、計算されているように美しかった。
「現在、連続ドラマの主演を務めていまして。精神科医役を演じるにあたり、実際の臨床現場を知っておきたくて。制作側からの提案で、専門の先生にご意見を伺うことになったんです」
静かに話す声は、落ち着いていながらも柔らかく、聴く者を心地よくさせる響きを持っていた。だが、澪はその口調の奥にわずかな違和感を覚えた。言葉の選び方も、視線の動きも、完璧すぎる。まるで舞台の上にいるような話し方だった。
「脚本はすでにある程度仕上がっているのですが、どうにも“それらしさ”が出なくて。実際の診察室で、どういう風に話すのか、どんな雰囲気なのか…そういうことを知りたくて、先生にご協力いただけないかと」
「私は医師であって、演出家ではありません。現実と創作は違います」
澪は即答した。その言い方に棘があったとは思わない。だが、陽真は少しだけ目を細めて微笑んだ。
「もちろんです。創作のために現実を都合よく使うつもりはありません。ただ、僕は…役を演じる時、その人物がどういう風に他人と距離を取るのか、どういう時に目線を外すのか、そういう些細なことが知りたいんです。先生のような方の、佇まいからでも学べることはあると思って」
その口調には熱意があるようでいて、どこか遠くを見ているような距離感もあった。まるで、今話していることが本当なのか、虚構なのか、自分自身でも曖昧になっているかのような不確かさだった。
澪はわずかに顎を引き、目線を落とした。
「あなたのような方が、精神科医の演技にどこまでリアリティを求めるのか、正直なところ想像がつきません」
「それは、僕自身にも分からないんです」
陽真はそう言いながら、視線を澪に合わせた。その眼差しには曇りがなかった。だが、あまりにも整っている。まっすぐで、澄んでいて、濁りがないがゆえに…どこか人工的にさえ感じられる。
「先生は…そういう目をしますね」
「目、ですか」
「相手をよく見る。観察する目。でも、同時に一切を距離で測るような目。たぶんそれが、医師の目なんでしょうね」
「あなたも、演技で人を見るでしょう」
「ええ。だから、分かるんです」
言いながら、陽真は軽く笑った。その笑みは丁寧で、美しく、完璧だった。だが、完璧すぎて…逆に、底が見えなかった。仮面のようだと、澪は思った。
しばらくの沈黙の後、澪は手元のスケジュール帳に目を落とし、空き時間を確認した。
「明日の夕方、時間が取れます。取材というより、観察になると思いますが」
「ありがとうございます。観察されるのは、嫌いじゃないですよ」
陽真が言ったその一言に、微かな皮肉が混じっていた気がした。だが、澪は応じなかった。ただ立ち上がり、玄関の方へ視線を移した。
陽真とマネージャーが帰っていく背中を見送りながら、澪は無意識に自分の指先を見下ろした。乾いているはずの肌に、微かに残る冷たさがあった。
取材。役作り。演技。どれも自分には関係のない世界のはずだった。だが、あの男がこちらに向けた目と声と手の動きが、どれも計算されたものに見えて…それでも一瞬だけ、それを美しいと感じた自分の心の揺れに、澪は気づかぬふりをした。
まるで、降りやまぬ雨の匂いが、まだ自分の中に残っているかのようだった。
都内の撮影スタジオには、陽が傾きかけた夕暮れの光が、ぬるくしみ込んでいた。遠くで照明機材を運ぶ音がして、スタッフの足音と何人かの笑い声が、コンクリートの地面に吸い込まれていく。車の往来も遠く、あたりは奇妙な静けさをまとっていた。まるで時間そのものが、少しだけ呼吸を止めているようだった。澪はその空間の端に立っていた。金属製の門を越えた先に広がる中庭と、スタジオの低い建物を見つめたまま、数分間まったく動かなかった。胸の奥に詰まったものが、歩みを止めていた。何を言えばいいのか、どんな顔をすればいいのか、自分でも分からないまま、それでもここに来てしまったことだけは確かだった。澪は、かつて誰かのためにこうして足を運んだことなどなかった。誰かの気配をたどるように歩いたことも、声を届けたいと思ったことも、心の底から揺れ動いたことも。けれど今は、足が勝手にこの場所を選び、手が無意識に携帯の地図を開き、言い訳の余地もないほどまっすぐにここへ来ていた。建物の中へ入ると、廊下の先にいくつかの控室のドアが並んでいた。スタッフに尋ねることもせず、澪は迷わずそのうちの一つの前で立ち止まった。扉の向こうに陽真がいる。そう確信できたのは、まるで心臓が彼のいる場所を記憶していたかのようだったから。ノックはしなかった。澪は、そっとドアノブに手をかけて、ためらいなく回した。静かに開いた扉の向こう、控室の片隅で陽真がひとり座っていた。手には台本が握られ、机の上には降板届と思われる書類が、無造作に広がっていた。ノートパソコンがスリープ状態で光を失い、部屋全体が沈黙に支配されていた。陽真が顔を上げた。その目が、瞬間的に驚きと混乱の色を浮かべた。そして言葉が出ないまま、ゆっくりと立ち上がった。澪は何も言わなかった。ただ、その場に立っていた。ドアの枠を背にして、少しだけ肩を丸めて、けれど視線は陽真から外さなかった。空気が硬く、緊張で軋むようだった。それは、ずっと言葉にされなかった沈黙たちが、ふたりの間に層を成して積もっていたからだ。陽真は、ようやく口を開いた。「どうして…」その言葉の続きを、陽真は最後まで言わなかった。澪の目が、すべてを
昼下がりの光が、ブラインド越しにゆるやかに差し込んでいた。クリニックのスタッフルームは、いつもより静かだった。診察がひと段落した時間帯、数人の看護師がコーヒーを片手に、それぞれの休憩を楽しんでいる。電子レンジが小さな音を立て、誰かの弁当が温められている最中だった。澪はテーブルの端に座り、薄い湯気を立てるコーヒーを両手で包んでいた。普段通りの昼休みの風景。けれど、内側では言葉にできないざわつきが、深いところで波を立てていた。「先生、これ…」そう声をかけたのは、若い看護師のひとりだった。彼女はスマートフォンの画面を澪の前に差し出した。何気ない日常の話題として、それを共有したのだろう。だが、画面に映る見出しに、澪の視線がすぐに奪われた。「葛城陽真、主演ドラマ降板を検討か」活字が、呼吸を止めるように胸に刺さった。コーヒーのカップを持つ指先が、わずかに震える。震えを隠すように澪は目を伏せたが、震えは簡単には収まらなかった。スマートフォンの画面はすぐに引っ込められ、別の話題に移っていったが、澪の中にはその一文が深く残ったままだった。なぜ、降板を検討しているのか。記事には明確な理由は書かれていなかった。制作との方向性の違い、過密スケジュール、体調の問題…どれもがもっともらしい建前として並べられていた。けれど、澪は違うと感じていた。あの台詞を口にした彼の震え。その後の沈黙。あれは演技の一環ではなかった。コーヒーに口をつけようとしたが、唇がカップに触れる前に、手がわずかに傾いた。中の液体がすこし波立つ。その揺れに、心の底に沈めていた何かが共振する。声を発さず、感情を殺してきたはずのこの身体が、彼の名前一つで反応してしまう。手を静かに膝の上に置き直し、指先に力を込める。けれど、その力はわずかで、すぐに抜けた。コンクリートの床が冷たく、やけに硬く感じられた。自分の存在がそこに沈み込んでいくようだった。澪の視界には、まだあの役の姿が残っていた。自分のようで、自分ではない。けれど、確かに“誰かが自分を見てくれていた”という感覚だけは、皮膚の内側に焼きついて離れなかった。陽真の目が、声が、仕草が
秋の夜はしんと静まり返り、澪の自宅リビングには照明もテレビも何もついていなかった。帰宅直後の体に重さが沈み込み、彼はそのままソファへ腰を下ろした。背中に当たる布地の感触すら、いつもより冷たく感じられた。天井を見つめたまま、時間の感覚は宙に浮いた。薄暗がりが体の輪郭を滲ませ、夜と自分の境界が曖昧になっていく。しばらく沈黙のまま座っていると、無意識にリモコンに手が伸びた。手元の微かな動きが、沈んだ心臓の鼓動と共鳴していた。テレビに火を入れると、陽真が主演するドラマが最後のシーンを迎えていた。画面の中の人物は、澪とは無関係な他人のはずだった。けれど、その声、その表情、その間合いが…すべて澪を模しているように感じられた。「あなたは、誰にも心を見せないんですね」あのセリフが、暗闇の中で澪の耳元に囁かれる。画面の中の陽真が、冷徹で、だが確かな寂しさを纏っている。深夜の部屋に、その声が響いていた。スクリーン上で繰り返される彼の表情に、澪は心臓が締めつけられるのを覚えた。まるで、自分の内側を誰かが解体し、パーツごとに観察しているような痛みだった。テレビを消そうと指を伸ばしながらも、止められなかった。代わりに澪は膝を抱え、腰をすぼめて沈み込む。部屋は暗く、静かすぎて自分の吐息が耳に響いた。それでも画面を見続けてしまうのは、恐いもの見たさだったかもしれない。自分がどう見られているのかを知りたかったのかもしれない。言葉が次々と画面から降りかかる。「感情を持たない」「誰にも寄せない」。それは、あの日聞いた患者の言葉よりも深く、澪を切り裂いていく。胸の奥がひりひりと痛み、呼吸が浅くなった。肩を落とし、体が一瞬反応を止めたように凍りついた。でも同時に、そこには安堵もあった。「誰にも触れられていなかった」という孤独を、初めて誰かが理解してくれていたような感覚。台詞の中にある冷たさと、そこに込められた温度。その矛盾が、澪の中で静かに溶け合っていった。澪は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。胸の奥が震えた。心を見られていたこと、知られていたこと、そして理解されるほどの痛みを誰かが背負っていたことを、受け入れるような衝撃だった。涙は出なかった。ただ、瞼にほんのわずかな熱が滲んで
秋の夜、照明が落とされた撮影セットに響くのは、静かな機材の音だけだった。空気には人工の温度と湿度が満ち、セットの奥に積まれたライトスタンドが長い影を落としている。窓もない空間で、時間の感覚が歪んでいた。深夜とは思えない沈黙と緊張が、役者とスタッフを包んでいた。陽真はセット中央に立ち、台本を胸に抱えている。彼が演じているのは、澪をモデルにした精神科医。澪の冷静な表情、整った言葉遣い、そのすべてを陰で模倣するように演じているはずだった。けれど、セリフを口にするたびに、胸の奥が締めつけられるような感覚が増していった。「あなたは、誰にも心を見せないんですね」その言葉を口にした瞬間、陽真は言葉を詰まらせた。読み込んできたはずの台詞だった。けれど、今はその言葉が自分自身に向けられているように感じられた。役としての台詞が、いつしか自分の内面を照らす照明になっていた。カメラが回る、その前で彼は微かに震える唇を抑え、呼吸を整えた。吸って、吐いて。動作は止めずに続けたが、言葉の背後にある意味が、重く胸に落ちてきた。彼がモデルにした存在が、目の前で言葉を囁いているような錯覚。まるで自分自身が舞台上の虚構に溶け込んでいくような、恐ろしくも耐え難い痛みだった。シーンが終わると、拍手もなくスタッフが動き始めた。陸続きの暗転のように、セットの明かりが明滅する。陽真は台詞カードを手放し、立ったまま深呼吸を繰り返していた。息切れしているのか、息をするたびに胸が痛い。撮影が終わった後の控室。陽真は机の上に山積みにされた台本を開き、目を伏せた。冷房の風が薄い袖を揺らす。誰もいない室内に、自分の心臓の音が鳴っているようだった。「演じることでしか、この痛みに触れられないと思っていたんだ」声は震えていた。つぶやくように漏れたその言葉は、自分自身に向けられていた。陽真は思い切り、台本を机に叩きつけた。紙が散り、ページがばらけて、台本は床に散乱する。ページの一枚一枚が、彼の内側の亀裂を映し出すようだった。「こんな演技、もうしたくない」と、低くつぶやいた。誰にも聞こえていないわけではなかった。ドアの向こうから声が聞こえる。マネージャーが
秋の午後、雨上がりのくもり空から降りる光は薄くて冷たく、クリニックの待合室にぼんやりと差し込んでいた。湿気を含んだ空気が床にまとわりつき、乾かない記憶と湿った感情を呼び起こすような、不安定な静けさが辺りを包んでいた。澪はいつものように診察室へ入り、カルテと向き合っていた。姿勢はいつも通りに整えられている。けれどその表情には、小さな揺らぎが見え隠れしていた。集中しているようにも見えるが、どこか視線は上の糸を探すように浮遊していた。小さなテレビから、ドラマの音声が漏れていた。聞き慣れた台詞が、遠くのスピーカーからかすかに響く。陽真が演じる役が、画面のなかで静かに語りかけている。澪の耳にはその声が、まるで誰かを模写するかのように馴染んでいた。言葉のイントネーションや間のはざまに、「彼は、僕に似ている」と感じてしまった。それは、ただの俳優の模索ではなく、見られているという実感だった。澪の指先がペンを握りしめた。患者が入室した。緊張を微かに抑えた足取りで、扉を閉じた。その人は、話しはじめる前に澪を見て、静かに言った。「先生は、自分を守るのが上手ですね」その言葉は、温かくも冷たくもない声で、澪の胸に静かに落ちた。まるで、深い湖畔の底に小石を投げ込んだような音が、静寂の中に響く。澪は一瞬、視線を止めた。呼吸が、軽く乱れた。避けようとしても、声を返すことができなかった。ただ、胸の奥に沈んでいたものが、かすかに揺れた。続けざまに、患者の言葉が続く。「誰かに触れられないようにしている、そんな感じがします」その一言で、澪は勢いよく心の扉を閉じたくなった。手のひらに汗が滲む。声を出そうとして飲み込むと、喉の奥が苦しくなった。曇った視界の奥で、小さな涙が待合室の窓に反射する光を捉えた。こぼれそうになるのを、瞼で止めた。けれどその莞爾の震えが、自分でも止められない証だった。診察室の空気にわずかな緊張が戻った。澪は冷静に診察を続けた。だが、内側では、蓋をしていた何かが亀裂を起こしはじめていた。患者の目はすでに澪自身ではない。自分が作り上げてきた殻の向こう側を観察している存在だった。その視線に晒された瞬間、澪の中に立っていた防壁が、一部だけ崩れ落ちたような感触があっ
浴室のドアを閉めた瞬間、澪は静けさに包まれた。部屋の奥にわずかに残る夜の温度。シャワーの蛇口をひねると、水音が白いタイルに落ちて、遠くの世界を遮断するようだった。裸足のまま床に立ち、湯気に包まれながら、ゆっくりと服を脱いだ。袖を抜く指先に、うっすらと熱が残っている。シャツを脱ぎ捨てたとき、腕の内側に、陽真の指が通った痕がまだ消えずにいた。湿った空気の中、澪は鏡の前に立つ。曇った鏡に映る自分の輪郭は、不鮮明で、どこか現実味が薄かった。額に手を当てる。肌が火照っているのは、浴室の熱のせいだけではない。陽真に触れられた部分が、皮膚の下でまだ疼いている。あの夜、唇が、指が、自分の上を通りすぎていった感覚が、体の深部にまで染み込んでいた。澪は指先で鎖骨をなぞる。そこも、陽真の指が通った場所だ。目を閉じてみても、温度だけが抜け落ちずに残る。触れられることを拒まなかった。拒めなかった。その事実が、胸の奥に静かな波紋を生んでいる。けれど、本当はそれよりもずっと重いものが、今も心に沈んでいた。「心を寄せないまま抱かれるのは、演技と同じです」陽真が寝室で最後に残した言葉。その一言が、鋭い刃のように澪の内側を切り裂いていた。澪は、鏡を見つめる。曇った表面に、自分の輪郭が滲んでいる。頬も、目元も、唇も、普段通りの無表情を保っているように見える。けれど、内側ではひどくざわついていた。言葉の裏にある“痛み”が、全身に広がっていく。自分は、なぜ彼を拒んだのか。なぜ、あの熱を受け入れきれなかったのか。濡れた髪をかき上げる。水滴が頬を伝い、顎の先から落ちていく。その冷たさにさえ、陽真の手の熱が勝っていた。澪は、鏡の前でふと目を閉じた。誰かを見返すことが、こんなにも怖いとは思わなかった。誰かと心を通わせることが、これほどまでに自分を脅かすものだったとは、今まで想像したことがなかった。ずっと、誰にも触れられない場所に閉じこもって生きてきた。母の目を避け、過去のすべてをしまい込んできた。けれど、陽真はその箱のふたを、優しく、けれど容赦なく開けてしまった。シャワーの湯を肩にかける。熱が、冷