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観察と予期せぬ接近

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-08-03 07:33:38

階段を上がりきった先には、小さな鉄製の扉があった。クリニックの屋上へとつながるその扉は、普段なら施錠されているが、今日は澪が鍵を外していた。業者が換気設備の点検に来ていたためだった。澪自身は滅多にこの場所に上がることはない。だから、陽真がそこに立っていたことは、意外だった。

「少しだけ、ここにいさせてもらってもいいですか」

陽真がそう言ったとき、すでに彼は手すりにもたれかかり、薄い夕焼けに照らされた空を見上げていた。ジャケットは脱いで腕に掛けており、シャツの袖口が風に揺れている。夏の終わりが近づくこの季節、日が落ちるのは思っているよりも早い。空は淡く色づき始めていて、陽真の横顔をやわらかく染めていた。

澪は一瞬、断ろうとした。もう診察は終わっている。職務としてのやりとりは完了したのだから、これ以上の接触は本来不要だった。だが、足が勝手に止まり、そのまま屋上へと歩を進めていた。コンクリートの床を踏む音が、ゆっくりと二人の間に近づいていく。

「先生も、よければご一緒に」

陽真が振り返らずにそう言った。その声に特別な感情の色はなかった。むしろ、ただそこにある自然な響きだった。だが、その自然さが逆に澪の足を止めさせた。

澪は黙って横に歩き、隣のベンチに腰を下ろした。手すりに背を向けるようにして、空を見上げる。雲は薄く、太陽の輪郭がぼんやりと透けていた。

「…ここは静かですね。都内とは思えないくらい」

「防音がしっかりしているだけです。実際は、向こうの幹線道路の音が絶えず聞こえているはずです」

「でも、それも聞こえないふりができるなら、静けさになります」

陽真はそう言って笑った。ベンチに腰かけると、背筋を伸ばし、目を細めながら空を見ている。その横顔は、光を受けてなめらかな輪郭を浮かび上がらせていた。頬の線は鋭くも穏やかで、瞼の奥にわずかな疲労の影が差している。だが、その静けさがかえって美しさを強調していた。

彫刻のようだ、と澪は思った。人間の表情というよりも、感情を排して形に昇華された、完成された美。だがそれが、逆に心を遠ざけているようにも見えた。

「先生は、何か演じたことはありますか」

陽真がふと尋ねた。

「ありません」

「学生の頃の文化祭とか、そういうのも」

「人前に出ることが苦手だったので」

「僕も、最初はそうだったんです」

陽真はそう言って、軽く笑った。だが、その笑みにはどこか影があった。

「小さいころ、親が劇団に入れて。自分からやりたいって思ったわけじゃなかったけど、誰かになりきるっていう行為には救いがありました。自分自身じゃなくなることで、何かが楽になる。そう思った瞬間から、芝居はもう逃れられないものになっていた」

風が吹いた。陽真の髪が揺れ、首元のシャツの襟が少しだけめくれた。澪はその動きを目で追いながらも、視線をすぐに外した。見てはいけないものを覗いたような気がした。

「自分じゃない誰かを演じることで、本当の自分に触れないまま、生きられる」

陽真の声が、少しだけ低くなった。

「でも時々、演じているはずの人物が、どこかで自分と混ざってしまうことがあるんです。誰かの言葉を借りて話しているのに、それが自分の本音になっているような気がして。そんな時、怖くなるんです。僕は今、誰を演じているのか。そもそも、自分は誰なのか」

澪は答えなかった。ただ、その言葉の奥にある震えを、感じ取っていた。陽真のような人間が、こんな風に心の内を語ることに、澪は少なからず戸惑いを覚えていた。だが、不思議とそれは嫌悪ではなかった。ただ、目の前の人物の脆さに、指が触れてしまいそうな距離まで近づいていることに、身体が気づいている。

「誰かに見られている時、人は自分を演じる。私たちは皆、そうやって社会の中で自分を守っている」

澪の声は淡々としていた。

「その“誰か”が常にいる状態が、俳優という職業なのでしょう」

「ええ。だから、時々“誰もいない場所”が欲しくなる。でも、そういう場所に立つと、自分が見えなくなる。鏡がなくなってしまったみたいに」

陽真は空を見上げたまま、目を閉じた。夕暮れの光が、まつげの影を落としていた。その姿は、美しいというよりも、どこか寂しかった。満たされたものが何ひとつなく、ただ静かに存在している。そんな感触があった。

澪はその横顔を見つめた。ほんの数秒だけ、意識の枷が外れたように。その目元に、肌の質感に、呼吸のリズムに、理由もなく心が惹きつけられた。美しいと思った。だが、同時に危ういとも感じた。

陽真が目を開けた。そのままゆっくりと澪の方を見た。

「先生は、鏡がなくても自分を保てる人ですか」

澪はその問いに、すぐには答えられなかった。内心で言葉を探し、それでも見つからず、わずかに眉を寄せた。

「私は…」

その続きを言う前に、風が吹いた。二人の間を切り裂くように、冷たい空気が抜けていった。

澪は立ち上がった。夕暮れの色が濃くなり、屋上に長い影を落としている。陽真はそれを見て、何も言わずに後を追った。

階段へと続く扉の前で、澪は一度振り返った。陽真はまだ、手すりのそばに立っていた。夕焼けに染まったその輪郭が、ひどく静かで、まるでこの世界から切り離された存在のように見えた。

何かを言うべきか、それとも黙って去るべきか。答えは出なかった。だが、澪は一歩だけ扉を開け、振り向かずに中へと戻った。

背中に残る風の匂いと、目に焼きついた横顔だけが、あとからじわじわと胸の奥に沁みていった。まるで、ほんのわずかに、自分の輪郭が揺れたような気がした。

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