ログイン相変わらず、あのウサギキャラクターのマスコットチャームが付いた写真付きの投稿だった。咲夜は画像を拡大し、端が少しだけ写り込んでいるリュックを指差した。「やっぱり見覚えがあると思ったんだよね。千尋くんのリュック、前に『千野千鶴』のアシスタントのSNSで見かけたの。ちょっと見てみて。なんとなく似てると思わない?」そう言ったものの、咲夜自身もあまり確信は持てなかった。写真にはリュックのほんの一部しか写っておらず、全体のデザインは確認できなかったからだ。千暁は咲夜の言葉に従い、写真のリュックをじっくり観察した。「確かに少し似てる気はする。でも、こういうリュックってよくあるタイプだからな。これだけじゃ判断は難しい」まさに千暁の言う通りだった。千尋のリュックはごく一般的なもので、誰が持っていてもおかしくない。五十人集まれば、二、三人は同じようなものを背負っていても不思議ではない。咲夜は今度はウサギのマスコットを拡大した。「千尋くんって、ウサギが好きなの?」千暁は画面のマスコットを見つめながら答える。「それは良太に聞いたほうが早いな。ちょっと待ってろ」そう言うなり、彼は良太に電話をかけた。ほどなくして、ぼさぼさ頭の良太が二人の前に現れた。髪をかき上げながら大きなあくびをし、不満そうに口を開く。「で?こんな時間に呼び出して、何の用だよ?」やっと横になったばかりだったのに、千暁からの電話で叩き起こされたのだ。しかも相手は気軽に文句を言える相手ではない。理不尽だ。本当に理不尽だ。良太は心の中で自分の不運を嘆いた。千暁はウサギのマスコットが写った画像を開き、良太に見せる。「千尋ってこのウサギのキャラクター好きか?」「いや、全然」良太は訳が分からず首を傾げた。どうして急にそんなことを聞くんだ?――待てよ。その瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。良太は息を呑む。「まさかとは思うけど……千尋が何かやらかして、それをお前が突き止めたとか言うんじゃないだろうな!?」そんなはずない。いや、そんなはずないよな?千暁は呆れたように良太の額を軽く叩いた。「少しはまともな発想をしろ。そんなに想像力が豊かなら、作家にでもなったほうがいいぞ」その言葉を聞き、良太はようやく胸をなで下ろした。髪をぐしゃ
その頃、千尋は一枚の作業机の前に立っていた。目の前には広げられた掛け軸。数日前、寺に来たばかりの若い修行僧が書庫の掃除をした際、窓を閉め忘れてしまった。その夜は運悪く激しい雨だったため、窓際に保管されていた書画の一部が雨に濡れてしまったのだ。そこで慧覚住職は千尋を呼び出し、修復できないか相談していた。なぜなら、その書画はすべて、かつて千尋が寺で修行していた頃に描いた作品だったからだ。千尋としては描き直せば済む話だと思っていた。だが慧覚住職は違った。「まだ救えるものを捨てる必要はない」と言って修復を勧めたのだ。今も千尋は机に向かい、傷んだ作品を慎重に修復している。隣では慧覚住職が時折声をかけ、穏やかに言葉を交わしていた。その光景を見た咲夜は足を止める。今ここで声をかけるのは少し無作法な気がした。そこで近くにいた修行僧に携帯電話を差し出す。「すみません。この携帯、黒澤さんに渡してもらえますか?」「はい」修行僧が素直に受け取る。咲夜はそれ以上邪魔をしないよう、その場を静かに離れた。もちろん彼女は気づいていない。修行僧が携帯電話を千尋の元に持っていった時、ちょうど千尋が顔を上げたことに。そして、その視界の先に、立ち去っていく彼女の後ろ姿が映っていたことにも。千尋は机の端に置かれた携帯電話に目を向け、小さく口元を緩めた。……咲夜が願掛けのガジュマルの下に戻ると、千暁はすでにしばらく前から彼女を探していたらしい。咲夜のスマホはリュックの中。そしてそのリュックは今、千暁が持っている。当然ながら連絡も取れなかった。咲夜の姿を見つけた瞬間、千暁の表情から張り詰めた空気が少し抜けた。その様子を見て、咲夜は申し訳なさそうに笑う。「ごめんね。さっき千尋くんが柱の文字に金箔を入れてるのを見かけて、少し話してたの。それで携帯を落としていったみたいだったから届けに行ってて……でも自分のスマホはリュックの中に入れていたから……本当に、わざと遠くまで行ってあなたを心配させようとしたわけじゃないの……」言葉を重ねるにつれ、咲夜の声はだんだんと勢いを失っていった。そう言いながら咲夜は思い出していた。散歩に出る前、自分は確かに「遠くには行かない」と約束していたのだ。それなのに裏庭
咲夜はしばらくその場で待っていたが、千暁はまだ住職たちとの話が続きそうだった。彼女は小声で「少し散歩してくるね」と声をかけると、本堂を出て寺の裏庭を歩き始めた。裏庭は境内の賑わいとは対照的に、静寂に包まれている。しばらく歩いていると、不意に見覚えのある姿が目に入る。千尋だった。先ほどまでの登山用の服装ではなく、今は質素で落ち着いた作務衣姿に着替えている。片手には硯を持ち、もう片方には筆を握り、塗装の剥げた柱の文字に金色の縁取りを施していた。ただ、上の方の文字には手が届かない。千尋は脇に置いてあった梯子を運び、自ら登って作業を続ける。だが登ったところで、自分が硯と筆を梯子の下に置いたままだったことに気づいた。降りようとしたその時――「これ?」咲夜が硯と筆を手に取り、上に差し出した。千尋は身をかがめて受け取る。「ありがとうございます、花江さん。千暁さんは?一緒じゃないんですか?」「住職さんたちとお話中なの」咲夜は素直に答える。「お布施のことで相談してるみたい。私は暇だったから少し散歩してたの」「なるほど」千尋は再び筆を走らせ始めた。柔らかな笑みを浮かべながら尋ねる。「花江さんは、どうして明覚寺に来ようと思ったんですか?」咲夜は少し困ったように笑う。「その呼び方、やっぱりやめない?咲夜でいいから」だが千尋は首を横に振った。「僕は花江さんよりずっと年下ですから。年上の方をサン付けで呼ぶのは当然です。礼儀ですから」そこまで真面目に言われると、咲夜も返す言葉がなくなってしまった。千尋はくすりと笑う。「まだ質問の答えを聞いてませんよ」そう言われて初めて、咲夜は自分が話を逸らしていたことに気づいた。「あ、ごめん」彼女は申し訳なさそうに笑った。「別に無視したわけじゃないの。明覚寺はよく当たるって聞いたから。お参りして、今年一年が順調に過ごせるようお願いしに来たの」それは決して嘘ではなかった。先ほどのお参りでも、会社の発展や家族の健康を願っていたのだから。その言葉を聞いた千尋の筆先が一瞬だけ止まる。しかしすぐに何事もなかったように動き始めた。「心を込めれば、願いは届きますよ」咲夜は作業を続ける千尋を見上げた。すると、梯子がわずかに揺れているのが目に入る。少し考えた末、彼女はそ
一行はのんびりと山道を登り続け、山頂にたどり着いた頃には、すでに二時間以上が経っていた。明覚寺に着くなり、千尋は皆に軽く挨拶をすると先にその場を離れる。その様子を見て、良太が説明した。「こいつ、山に来るとまず慧覚住職に挨拶しに行くんだ。気にしなくていい。寺の中なら千暁の方が詳しいし、案内してもらえよ」ここまで登ってきた良太は、すでに完全に力尽きていた。今の彼に必要なのは観光でも参拝でもない。千尋が寺で使っている部屋に直行し、思う存分横になって休むことだけだった。そう決めると、良太は千暁に一言だけ声をかけ、そのままさっさと姿を消してしまう。すると今度は千雪が口を開いた。「私は適当に寺の中を見て回ります。花江さんはお参りしたいそうなので、荻野さん、よろしくお願いします」彼女自身にも目的があった。寺の周辺を歩き回りながら、探している「千野千鶴」らしき人物がいないか確認するつもりなのだ。ほどなくして千雪も去り、その場には咲夜と千暁だけが残った。「行こう」千暁が先に歩き出す。「案内するよ」咲夜はその後ろについていった。参拝を済ませた後、千暁はさらに寺の奥へと彼女を連れていく。辿り着いたのは裏庭だった。そこには樹齢千年とも言われる巨大なガジュマルがそびえ立っている。枝という枝には無数の短冊が結ばれていた。色とりどりの短冊が風に揺れ、触れ合うたびに、涼やかな音色が響いた。咲夜は木の下に立ち、目の前で揺れる短冊を眺める。仕事の成功を願うもの。学業成就を願うもの。家族の健康や平穏を祈るもの。そして恋愛成就を願うものも少なくない。夢中になって次々と目を通していると、不意に目の前に二本の新しい短冊が差し出された。顔を上げると、短冊を手にした千暁がいた。「書くか?」咲夜は短冊を見つめる。せっかくここまで来たのだ。書かない理由もない。彼女は笑いながら一本を受け取った。「二本も持ってきてるのに断ったら、さすがに悪いでしょ」二人はガジュマルの下に置かれた石机に向かった。机の上には墨と筆が用意されている。長方形の石机を挟み、二人は向かい合う形で立った。千暁はすでに筆を取り、真剣な表情で書き始めている。咲夜も筆を手に取った。そして短冊に丁寧に文字を綴る。
そう言うと、千暁は咲夜をじっと見つめた。「ほらな。俺の誠意が伝わったから、ちゃんと願いが叶っただろ?」その声には隠しきれない上機嫌さが滲んでいる。咲夜はそんな彼を静かに見つめた。――本当に。こういうことを言う千暁は、どこか少し可愛らしい。少なくとも、彼のまた違った一面を見た気がした。他人には見せない顔。自分だけが知っている顔。そんなことを考えながら見つめていたせいか、気づけば少し見入ってしまっていた。我に返った咲夜は慌てて視線を逸らす。そして何気なく前方に目を向けた。そこで目に入ったのは、先を歩く良太と千尋の背中だった。その時になって初めて気づく。千尋も登山用のリュックを背負っていた。しかも、そのリュックにはかなり使い込まれた年月が感じられる。――あれ?咲夜は目を細めた。なぜだろう。どこかで見たことがある気がする。見覚えがあるのだ。だが、どこで見たのかが思い出せない。記憶を辿ってみても答えは出てこなかった。「何を見てるんだ?」千暁が咲夜の視線を追う。その先にいるのが千尋だと気づいた瞬間、千暁の胸の奥で、じわりと嫉妬心が湧き上がった。――あいつの何がそんなに気になるんだ?そう思った千暁は、わざと歩調を速める。そして咲夜の前に回り込み、その視界を遮った。だが咲夜は、そんな彼の心境など知る由もない。ただ純粋な疑問として口にした。「黒澤家にこんな人がいたんだね」普段の千尋はあまり表に出てこないから、世間でもほとんど知られていない存在だった。千暁は軽く咳払いをする。「そんなに気になるのか?」「別にそういうわけじゃないけど」咲夜は正直に答えた。「ただ、あのリュックに見覚えがある気がして」その言葉に、千暁も千尋の背中に目を向けた。「ああ、あれか」彼はすぐに思い当たった。「もう十年以上使ってるやつだよ。明覚寺の慧覚(えかく)住職が買ってくれたものなんだ。あいつはものすごく大事にしてるから、普段は他人に触らせることすらしないんだ」慧覚住職は明覚寺の住職であり、千尋が寺で修行を始めた頃からずっと師事している人物だった。あのリュックは、千尋が幼い頃に山道で転げ落ち、その時に使っていたリュックを失くしてしまったことがきっかけだった。落ち込んでいた幼
千暁は口元を緩めた。「一緒に行くか?」そう言って、咲夜を山頂までの道のりに誘う。その提案を聞いた咲夜は、特に断ることもなく頷いた。「いいよ」咲夜が承諾すると、千暁は彼女に向かって手を差し出した。「リュック、貸して」咲夜は反射的に「大丈夫、自分で持てるから」と言いかけた。だが、その前に千暁はすでに彼女のリュックのショルダーベルトに手を伸ばしている。そこまでされては断りきれない。咲夜は結局、リュックを千暁に渡した。すると今度は良太が素早く咲夜の持っていた袋を受け取る。「おく――咲夜、俺が持つよ」危うく「奥さん」と呼びそうになったが、寸前で言い直した。咲夜が断る暇もなく、両手の袋はあっという間に良太の手に移っていた。それだけでは終わらない。気が利く良太は、今度は千雪にも声をかけた。「小林さん、そのリュックもこっち」「いえ、大丈夫です」千雪は慌てて手を振る。だが良太は聞かない。結局、彼女も押し切られる形でリュックを預けることになった。良太は千雪のリュックを背負いながら、手に持っていた袋を後ろの青年に放り投げる。「おい、手を空けてんじゃない。ちゃんと持っとけ」青年は不意を突かれながらも慌てて受け取った。咲夜は改めてその青年に視線を向ける。興味を含んだ眼差しに気づいたのか、千暁が先に紹介した。「良太の従弟だ。黒澤千尋」そう言ってから、今度は千尋に向き直る。「こちらは花江咲夜」千尋はすぐに人懐っこく笑った。「花江さん、初めまして」甘い笑顔とともにそう挨拶され、咲夜は少し照れてしまう。その様子を見た良太が千尋の肩を叩いた。「お前、分かってるじゃないか」そう言いながら千尋を引っ張って先に進んでいく。千雪は視線の端で咲夜と千暁の様子を見ながら、口元を押さえてくすりと笑った。そしてそのまま良太たちの後ろについていく。二人きりになれるよう、さりげなく場を譲ったのだ。千雪はずっと前から思っていた。――千暁は絶対に咲夜のことが好きだ。人の視線は嘘をつけない。千暁は咲夜と会ってからというもの、いつも咲夜を目で追っていた。その視線が咲夜から離れることはほとんどない。一方、千暁は咲夜に向かって言った。「前に千尋と一緒に明覚寺に来て、願掛けをしたことがあるんだ。今はその願
「晴南さん、一人だと……少し怖いの」背後から、震える洸の声が追いかけてきた。晴南はすぐさま手を伸ばし、洸の手をしっかりと握り締めると、宥めるように優しく声をかけた。「どうした?慣れない環境で落ち着かないのか?」洸はただ、消え入りそうな様子で小さく頷いた。その痛々しい姿に、晴南の胸は締め付けられた。「俺がそばにいる。何も怖いことはないよ」「……ごめんなさい。私、あなたと咲夜さんの邪魔をしてしまったかしら」洸の視線が咲夜へと向けられる。それはまるで、今この瞬間に初めて彼女の存在を認識したかのような、白々しいまでの素振りだった。洸は緊張に声を震わせながら言葉を継いだ。
「あなたと結婚するわ」区役所の前。閉庁時間を過ぎ、もはや人の出入りのないガラスの自動ドアを見つめながら、花江咲夜(はなえ さくや)はスマートフォンを取り出し、ある番号へ電話をかけた。今日は、森崎晴南(もりさき せな)と入籍する約束の日だった。それなのに、彼女は朝九時から午後五時半まで待ち続け、手元には十数枚もの整理券が溜まっていた。結局、晴南が姿を現すことはなかった。入籍を言い出したのは晴南の方なのに、すっぽかしたのも彼だった。これで、咲夜が彼に約束を破られたのは三度目になる。咲夜はもう使い物にならない整理券をゴミ箱に捨て、背を向けると、晴南の宿敵である荻野千暁(お
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願い
咲夜が病院を後にして間もなく、真奈美から電話がかかってきた。鳴り続けるスマートフォンを、咲夜は手に取ろうともせず放置したまま、自動的に通話が切れるのを待つ。だが、着信は執拗に繰り返された。出ない限り、母が決して諦めないことなど分かりきっている。結局、咲夜は小さく息をつき、妥協するように通話ボタンを押した。「咲夜、森崎家が資金を引き揚げるって!両家の提携も全部白紙よ。これで満足なの?」電話の向こうから、激情に駆られた真奈美の罵声が飛んできた。これまでどれほど理不尽を押しつけられても耐え続けてきた咲夜が、なぜ今になって意地を張るのか、真奈美には理解できなかったのだ。