LOGIN朝食を食べているだけなのに、凛の頬はずっと熱を帯びたままだった。海斗が向けてくる視線は、テーブルに並んだ料理よりよほど熱い。恥ずかしいやら腹立たしいやらで、どうにも落ち着かない。凛はまた手を伸ばし、海斗の頬を押して横を向かせようとする。このまま見つめられていたら、本当に吸い込まれてしまいそうだ。ところが手のひらが頬に触れた途端、海斗はその手をつかんだ。穏やかで、それでいて深い眼差しには笑みまで滲んでいる。凛はとうとうため息をつき、少し強い口調で言った。「海斗。食事に集中させてくれる?」海斗は、もちろん食べさせないつもりなどない。「先に食べて」その「先に」が妙に引っかかった――食べ終わったら、何かするつもりなの?そう思った瞬間から、凛はなんとなくそわそわし始めた。そして食事を終え、片づけられたテーブルの上に抱き上げられたところで、その予感は確信に変わる。海斗は凛の両脇に手をつき、そのまま唇を重ねてきた。やっぱり。昨夜と同じように、海斗の手は服越しではなく腰へ回り、深いキスを繰り返す。凛の身体にも、たちまち昨夜の熱が戻ってきた。息が絡み合うなか、海斗が耳元で囁く。「昨日は凛がしてくれたから、今度は俺の番」「え?」凛は顔を上向けたまま、息を整えるだけで精いっぱいだった。海斗が何を言ったのか、ほとんど耳に入っていない。聞こえるのは荒い呼吸と、やけに大きな鼓動ばかりで、もうどちらが誰のものなのかさえ、わからなかった。海斗はそんな凛に構わず、何をするつもりなのかを告げる。「君は足を使っただろ?だから、俺は手を使おう」……脇に置いてあった携帯が鳴り出し、凛はあわてて手を伸ばした。茂からの着信だった。神谷家の名前が目に入った途端、それまでの甘い空気が少しずつ引いていく。海斗は不満そうに眉を寄せたが、凛はまだ乱れた息のまま彼を見てから、通話に出た。「もしもし」「何度かメッセージを送ったんだけど返事がなくて、電話したんだ。今、忙しかった?」電話越しの茂の声には、どこか遠慮が滲んでいる。海斗は凛から離れ、気にせず話していいと目で伝える。それからティッシュを取り、凛に背を向けて手を拭いた。ティッシュの箱も凛のそばへ置いておく。海斗は本当なら自分で世話を焼きたかったようだが、それは凛に拒まれた。
凛のほうは落ち着いてきたが、代わりに海斗のほうが落ち着かなくなったらしい。体は正直なものだ。二人はしばらく黙って見つめ合った。やがて海斗が軽く咳払いする。「一度歯止めが外れると、元に戻すのって難しいな」これ以上聞いていたらろくなことにならない。凛はすぐに話を変えた。「……その薬、いつ買ってきたの?」「朝、薬局に行ってきたんだ」ついでに、外に居座っていた二匹の蚊も追い払ってきた。薬を塗り終えると、凛はすぐに裾を戻そうとしたが、海斗に止められた。「もう少しそのままにしてて。服につくから」仕方なくベッドの端に座ったまま、凛はぼんやりと考える。昨夜、海斗に散々振り回されたせいで、昨日あった出来事をほとんど考えずに済んでいた。そもそも、凛が自分から海斗のキスに応え、その先も拒まなかったのは、身体への刺激でつらい気持ちを少しでも紛らわせたかったからでもある。けれど、紛らわせるどころではなかった。海斗のおかげで、胸に居座っていた重苦しさは、いつの間にかすっかり追いやられていた。しばらくして海斗が洗面所へ入り、戻ってくる。顎はきれいに剃られていて、海斗は凛の手を取ると、自分の顎に触れさせた。「どう?もう痛くない?」「うん。もう平気」海斗は満足そうにすると、薬が肌になじんだのを確認して、また凛を抱き上げた。「じゃあ、顔洗いに行こう」横抱きにされ、凛は戸惑う。「歩けるよ」「歩くとまた擦れて痛いだろ?」そのまま洗面所まで運ばれた。洗面台の前にはふわふわしたマットが敷かれていて、そこへ裸足で下ろされると、海斗が念を押した。「足、少し開いて。また擦れたら大変だから」凛は横目で睨む。誰のせいだと思っているのか。海斗はくすっと笑った。「俺のせいだ」二人で並んで鏡に向かい、歯を磨く。顔を洗おうとすると、凛の髪が何度も前に落ちてきた。昨日きれいに整えてもらった髪も、ベッドの上ですっかり崩れている。辺りを見回したが、ヘアゴムらしいものはなかった。「何探してる?」「顔洗うのに邪魔だから、髪をまとめたくて。ゴムがなければ、ペンか箸でも大丈夫」海斗はきれいな箸を1本持ってきた。凛はそれを髪に差し込み、くるくると何度か巻くだけで手早くまとめてしまう。昨夜は化粧を落とす余裕もなかったが、幸い薄化粧だっ
凛は暑苦しさで目を覚ました。まるで狭いサウナにでも押し込められたように身動きが取れない。重いまぶたを開けると、目の前には海斗の寝顔があった。腰には腕が回され、脚には海斗の脚が絡み、首の下にも腕が差し込まれている。昨夜、夢の中でいくら走ろうとしても全然前に進めなかったのは、これが原因らしい。凛はそっと海斗を押した。「海斗」「……ん」「もう起きる時間だよ」枕の下から携帯を探り出して時刻を見ると、もう朝の9時だった。ずいぶん寝たものだ。「海斗、9時だよ」「ん……」海斗はようやく目を開けた。寝起きでぼんやりした顔には、普段の隙のない鋭さがなく、妙に無防備だ。凛が起き上がろうとすると、大きな腕が伸びてきて、また胸元へ引き戻された。「もう少し寝よう」そう言ってぎゅっと抱きしめてくる。いつもの冷静で落ち着いた海斗とは、まるで別人だった。凛はおかしくなって、腕の中からその顔を見上げる。海斗は凛の髪に軽く口づけた。日和が休みの日になるといつまでも寝ていたがる気持ちが、今なら少しわかる気がする。「私はもう眠れないよ」そう言いながらも、凛は海斗の腕から抜け出そうとはしない。昨夜のことが次々と頭に浮かび、ふと思い出して首筋に手をやった。また跡をつけられていたら困る。そんな凛を見て、海斗が眠たげな目のまま言った。「つけてないよ。もう凛が俺のものだってみんな知ってるから」昨夜、あとをつけてきた智也と正人も含めてだ。凛が顔を上げると、海斗は続けた。「俺が凛のものだってこともね」凛はその頬に触れ、そのまま顎まで指を滑らせた。すると海斗がすっと顔を引く。「チクチクするだろ。剃ってくる」凛に触れられたときに痛くないようにしたい――そんな理由で、ようやく海斗はベッドを出た。上半身は裸のままで、引き締まった腰に、無駄なく筋肉のついた腹筋と広い肩。そこへ黒のハイネックを着ると、むしろ裸のときより目のやり場に困った。凛は慌てて視線をそらす。その拍子に、「っ……」と、小さく息が漏れた。「どうした?」海斗がすぐに振り返る。「なんでもない」凛は首を振ったが、海斗は納得していない顔だった。ベッドの反対側へ回り込むと、凛を抱き上げて端に座らせる。「ちょっと待ってて」そう言い残して寝室を出ていき、リビングのローテーブルから
彰菜は一瞬言葉を失い、否定しなかったし、利明も美雪が父に行き着くとは思っていなかった。だが美雪には、父以外にそんなことができる人間が思い当たらなかった。彰菜の実家は、神谷家のほかの嫁たちと比べれば決して恵まれているとは言えないが、それでも、茂が妻を大切にする姿は、神谷家の女性たちが羨むほどだった。誰かが彰菜に少しきつい口を利いただけでも、必ず間に入って妻をかばった。声を荒らげるような人ではないが、穏やかな態度の中にも人を黙らせるだけの威厳があった。とりわけ神谷観光が大きくなってからは、神谷家の催しにかかる費用の多くを茂が支え、一族全体の暮らし向きまで以前より豊かになった。商売の道に進んだ茂は、本家では一族の中心として扱われてはいなかったが、それでも屋敷を一歩出れば、親族の誰もが一目置く存在である。そんな父が彰菜を守り続けてきたからこそ、いつしか誰も彼女に強く当たらなくなった。彰菜を最も快く思っていない将希でさえ、厳しい言葉をぶつけることはあっても、手を上げるはずがない。だから、こんなことができるのは父しかいない。二人の表情を見れば、それで十分だった。美雪はうつむいた。「お父さん、お母さんにきついことすら言ったことなかったよね。それなのに……殴ったんだ」少し間を置いて、美雪は小さく呟く。「わかった」彰菜が何か言うより先に、美雪は再び横になり、布団をかぶった。「お母さん、お兄ちゃん、おやすみ。もう寝るね。ちゃんと自分のことは自分で気をつけるから」彰菜はその言葉に妙な引っかかりを覚えたが、今日はいろんなことがありすぎた。夫と激しく言い争い、そのうえ初めて平手打ちまでされ、頭も気持ちも追いつかず、その違和感の正体まで考える余裕はない。美雪の休息を邪魔しないようにと、二人はその場を離れる。彰菜が「おやすみ」と声をかけ、利明も少し間を置いてから言った。「ゆっくり休んで。明日、迎えに来るから」翌日、利明が病院へ行くと、病室はすでにもぬけの殻だった。看護師によれば、美雪はもう帰ったという。利明は眉をひそめ、すぐに電話をかけたが、何度呼び出しても出ない。ふと見ると、テーブルの上に一枚のメモが残されていた。【お兄ちゃんへ。ずっと休んでいたけど、そろそろ仕事を再開しないといけないから、アトリエに行くね。お父さ
眠れない夜を過ごしているのは、智也だけではなかった。広々とした個室のベッドに横たわっていた美雪。時折様子を見に来る看護師と、夜更かしはしないよう念を押しに来る医師以外、訪れる者は誰もいない。以前なら、美雪が少しでも体調を崩せば、両親や利明が付きっきりで夜通しそばにいてくれ、神谷家の親族たちも次々と見舞いに来たものだったのに、今日は夕方に彰菜が顔を出したきりだった。凛が神谷家へ戻ってきた日なのだから、無理もない。家族の関心はみな凛に向いているし、付き合いのある人間だって、今ごろはこぞって凛に取り入ろうとしているはずだから、もう誰も自分のことなど気に留めていないのだろう。そんなことを考えるたびに心拍が乱れ、モニターの数値が変動する。すると、医師や看護師が駆けつけてきて、気持ちを落ち着けて早く休むよう言い聞かせてくるのだ。美雪も素直に「わかりました」と答えて目を閉じる。ところが、モニターを確認した医師はため息をついた。「本当に大丈夫ですか?これ以上続くようなら、すぐご両親に連絡しますからね」美雪は目を開けた。「今日は家でいろいろあったので……少しだけ、気持ちを整理させてください」「遅くまで起きていてはいけませんよ。30分後にまた来ますから」そう言い残して病室を出ていった医師。美雪の主治医は神谷家とも付き合いがあり、今回の事情もある程度は耳にしていた。取り違えの件で、結局いちばん傷ついたのは二人の娘なのだろう。少し考えた末、医師は茂に電話をかけてみたが、どちらも出なかった。まあ、本当の娘が帰ってきた日だから、今はそれどころではないのだろう。結局、病院を訪れたのは彰菜と利明だった。頬の手当てを済ませたあと、美雪の顔だけ見て帰るつもりでいた彰菜は、心臓に持病のある美雪に夜更かしをさせたくなくて、起こさないよう足音を忍ばせていたのだが、近づく気配を感じた美雪がすぐに目を開ける。「お母さん、お兄ちゃん」ゆっくりと起き上がる妹を見つめる利明の表情は複雑だった。「起こしちゃったかしら?」心配そうに尋ねる彰菜に、美雪は首を振る。「ううん、眠れなかっただけ。それよりお母さん、その顔どうしたの?」彰菜は反射的に頬へ手を伸ばしかけ、薬を塗ってあることを思い出して途中で止めた。「何でもないわ。2、3日もすれば治るから」美雪は
そのころ、マンションの外には一台の黒い車が停まっていた。車内で眠り込んでいた正人は、支えを失って頭ががくりと傾いた拍子に目を覚ました。寝ぼけ眼で顔を上げると、智也は眠る前とまったく同じ姿勢のまま窓にもたれ、マンションを見上げている。時計を見ると、すでに午前2時。海斗と凛の車を追ってここまで来てから、もう6時間近く経っていた。正人はすっかり腹を空かせ、神谷家で午後に口にした軽食だけでどうにか持ちこたえている状態だった。窓を少し開けると、冷たい夜風が一気に車内へ流れ込んでくる。「智也、もう諦めようぜ。この時間まで出てこないなら、今夜はもう出てこないって。それに二人はちゃんと付き合ってるんだし、1月から一緒になったんだから、もう3月だろ?これ以上尾行を続けたら、それこそ竹内社長に覗き見で通報されるぞ」智也は煙草の灰を落とし、低い声で答えた。「それはない」「え?」思わず耳を疑う。「あいつは俺たちを通報しない。するつもりなら、車でついてきた時点でとっくにしてるだろう」正人の眠気が一気に吹き飛んだ。「じゃあ、俺たちがつけてるってことには、とっくに気づいていたっていうのか?」智也は頷いた。「前に事故に遭ってるから、今は周囲も警戒してるはずだ。それに、尾行されていることだけじゃなくて、乗っているのが俺だってことまで分かってると思うぞ」だから、凛と二人で同じマンションへ入り、それきり朝まで出てこないところを、わざと自分に見せつけているのだ。「分かってて、それでも待ってたのか?俺、本当にもう限界。首まで痛くなってきた」正人が首を回すと、ぱきぱきと音が鳴った。智也は煙草を一口吸ってから、不意に尋ねる。「なあ、二人はすると思うか?」「え?何が?」そこまで言って察した正人は、深々とため息をつく。「お前らはもう離婚したんだぞ?」「分かってる」煙草のせいなのか、智也の声はひどく掠れていた。「二人とももういい大人で、何があったって普通だろ?」「そうだな」智也に否定できるはずもない。それでも、嫉妬だけはどうにもならなかった。自分は凛とそんな関係になったことが一度もないのに、海斗は凛と手をつなぎ、抱き合い、キスをして……その先まで進んでいるかもしれない。考えるだけで胸の奥が焼けるようだった。「俺には、もう何て言えばいいのか
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活