Mag-log in焦った美雪はすぐさま反論する。「それなら、全てばらしますから」楷は淡々と答えた。「好きにすればいい。その代わり、小林の件はもっと早く動くことになるだろうけどな。海斗くんだけが動くのと、こちらまで加わるのと、どっちが早いかはお前にもわかるだろ?」将希と楷は黙って美雪を見た。昨日までは扱いに困る存在でしかなかったが、考えてみれば、凛を襲わせた一件はこちらにとっても美雪を牽制する材料になる。美雪は奥歯を噛み締めた。「証拠なんてない……」「お前は海斗くんが好きだったんだろう」将希が静かに言った。「あの男がどういう人間か、知らないわけじゃあるまい。あそこまで言い切ったということは、もう十分な証拠を押さえているだろうから、今さら逃げ切れると思わないほうがいい」美雪の身体がぐらりと揺れた。楷が追い打ちをかける。「俺がお前なら、もうこの国から出る準備を始めてる」美雪は何も言わず、踵を返して病室を出ていった。その姿が消えると、将希が楷に尋ねた。「あそこに残ったままでも、茂はまだ考えを変えないのか?」「ああ。茂は一度決めたら、誰が何を言っても聞かないからな。前なら彰菜さんが言えば多少は揺らいだかもしれないけど、今はその彰菜さんと離婚するつもりだ。本気で神谷家と縁を切るつもりなんだろうな」目を閉じ、眉間を揉んだ将希。頭の痛いことばかりだ。楷は続けた。「それに、茂が妙に落ち着いてるのも気になる。株の話まで持ち出した以上、何の準備もしていないとは思えない」将希は指を止め、ゆっくり目を開ける。「弁護士を呼べ」楷はうなずいた。「分かった」病院を出た美雪は、慌ただしく携帯を取り出し、立て続けにある二人へ電話をかけた。どちらにも、できるだけ早くこの国から出られるよう手配してほしいと頼み、自分はパスポートなどを取りに戻ることにした。美雪が病院を出た直後、柚葉の件は再び動き出し、証拠も警察に提出されたという連絡が凛と海斗のもとに入った。あとは捜査が進むのを待つだけ。凛は少し考えてから言った。「美雪さんは神谷会長のところへ行ったんだよね?神谷会長が美雪さんを切るつもりなら、このことも話したはず。そうなったら、逃げようとするんじゃないかな?警察が動く前に飛行機に乗られたらどうする?」「どこへ行っても逃げ切れはしないさ」静かに答える海斗に、焦
彰菜は今、とてもまともと言えるような状態ではない。これ以上強い刺激を受ければ、本当に精神的に持たなくなる可能性があった。利明は医師が「過去の心的外傷」という言い方をしたことが気になり、その理由を尋ねた。医師によれば、28年前の出来事は彰菜自身にとっても大きな心の傷として残っているのだという。人を傷つけたことで、自分自身も傷ついた母親。それが苦しみの原因だとわかっていながら、向き合うことも償うこともせず、ひたすら目を背け続けた結果、傷はさらに深くなり、自分へ返ってきた今、それをいったい誰のせいにできるというのか?利明は心身ともに疲れ切ったまま、母親を落ち着かせ、休ませた。……美雪も、自分のしてきたことはいずれ利明の口から彰菜に伝わるとわかっていた。そしてそうなれば、彰菜は必ず利明を信じる。利明は彰菜の愛する息子。そして何より、自分がお腹を痛めて産み、手塩にかけて育ててきたのだから。だからこそ、自分には別の逃げ道が必要だ。それも、一つでは足りないだろう。将希も凛の一件で倒れ、入院している。ならば、将希のところもまだ頼れる可能性があるはずだ。ところが、美雪が病室を訪れると、そこにいた神谷家の人間たちは揃って冷ややかな目を向けてきた。彰菜が倒れたのを機に、あの場から抜け出したあと――何かがあったのだ。だが、美雪にはそれがわからない。親族にもメッセージを送ってみたが、返事をくれる者は一人もいなかった。すでに意識を取り戻していた将希は、美雪が来ていると聞くと、ちょうど話しておきたいことがあると言い、楷に中へ通すよう命じた。美雪は楷の姿を見るなり、いつものように丁寧に挨拶をする。だが、楷からの返事はない。胸騒ぎがしたが、美雪は部屋に入り、将希に対しても丁寧な挨拶をした。しかし、もう美雪と遠回しなやり取りをする気はなかった将希は、単刀直入に言った。「凛が捨てられた子だということを外で話さないと約束できるなら、住むところは用意するし、生活の基盤もB市に残せるよう手配しよう。お前の仕事場もこちらで買い取って、そのままお前が独立して使えるようにしてやる。だから、神谷家を出るといっても、何も持たずに放り出されるわけではない」美雪は頭を殴られたような衝撃を受けた。「将希お爺様まで私を追い出すんですか?私が秘密を守
利明に支えられ、ソファに座らされた彰菜。凛と利明から立て続けに事実を突きつけられた今、上半身を肘掛けに預けるようにしてうずくまり、髪は乱れ、目は真っ赤に充血し、その表情はひどく歪んでいた。何か言おうとしているのに、声が出ない。喉に何かが詰まっているようで、どれだけ口を動かしても音にならなかったのだ。自分が声を出せないことに気づいた途端、彰菜の目に恐怖が浮かんだ。利明の両腕を強く掴み、涙をぼろぼろと流す。さっき聞かされたことは全部嘘だと言いたい。利明の身体は本当に大丈夫なのかと聞きたい。美雪に、今の話は本当なのかと問いただしたい。怒り、恐怖、絶望、苦痛……いくつもの感情が次々と押し寄せ、彰菜はもう何をどう考えればいいのかさえわからなくなっていた。「医者を呼んでくる」そう言って、利明が立ち上がる。嫌……行かないで!彰菜は必死に引き留めようとした。いまだに、傍らにいる凛を見ることができない。凛と同じ空間に二人きりで残されることが怖く、身体まで震え始めた。利明は母親にすっかり失望していたが、声も出せない状態を放っておくことなどできない。掴まれた手を外し、医師を呼びに出ていった。病室には三人だけが残った。彰菜は慌てたように乱れた髪をかき集め、顔も目も隠そうとした。それは、28年前と同じ。赤ん坊を捨てたあの日も、娘の目を見ることができず、自分の顔を見られることにも耐えられなくて、何度も髪で顔を隠そうとした。「まだ私の顔を見られないんですか?」凛は彰菜に近づき、静かに尋ねる。彰菜は答えられない。声にならない叫びを胸の内に抱えたまま、狭い一人掛けのソファで身体を小さく丸めた。傍から見れば、確かに痛々しい姿だった。だが、凛には同情できなかったし、これ以上ここで彰菜に付き合うつもりもない。「私に会いたいと言ったのは、あなたですよね?こうして会って、知らなかったことも知った。まだ何か言いたいことはありますか?ないなら、もう二度と会わなくていいと思うのですが」自分でも驚くほど冷たい声だった。凛は静かに背を向ける。その瞬間、彰菜が反射的に手を伸ばし、凛の手を掴もうとしたのだが、その腕を別の手が素早く払いのけた。「触るな」海斗だった。声は凍りつくほど冷たく、表情も険しい。凛もすかさず海斗の手を取ると、ま
彰菜は頭を殴られたような衝撃を受けた。何度も首を振る。信じられない。「証拠は?証拠はあるの!?」証拠なら、これまで何度も突きつけてきた。海斗もすっかり慣れたもので、すぐに用意していた資料を出してくる。だが、いざ目の前に差し出されると、彰菜は見ることができなかった。海斗が冷たく笑う。見たくないからといって、見ずに済ませるつもりはない海斗は、資料を利明に渡した。「自分で見せてやれ」利明はそれを受け取り、彰菜の前へ差し出す。「本当だよ、母さん。美雪は僕たちが思ってたような人間じゃなかった。みんな騙されてたんだ。特に僕は、ね」「私は信じない」彰菜はまだ同じ言葉を繰り返していた。「僕の言葉も信じないのか?」そう聞かれると、彰菜は慌てて否定した。すると、凛が横から口を挟む。「美雪さんは、私と小林さん、智也の裁判にも来ていました。小林さんが人の家庭を壊して、巨額の借金を抱えていたことも、複数の男性と関係を持つ中で感染症にかかっていたことも知っていた。それでも、あなたの息子さんと小林さんをくっつけようとしたんです」その瞬間、彰菜はベッドから転げ落ちた。耳に残ったのは、「感染症」という言葉だけ。利明が眉を寄せて助け起こそうとすると、彰菜はその腕を掴んだ。「今の、どういうこと?何を言ってるの!?感染症って何!私は別れなさいって言ったでしょ?あなたたち、もうずっと前に別れて、連絡も取ってなかったんじゃないの!?」「母さん、まずは落ち着いて」利明は彰菜を起こし、座らせた。「利明、ちゃんと答えて!」焦った彰菜は、何度も利明の腕を叩く。それから、凛を指さそうとしたものの、海斗の冷え切った視線を受け、思わず指を引っ込めた。「何適当なこと言ってるわけ?」「凛は嘘なんか言ってない」利明は、本当なら母親の状態がもう少し落ち着いてから話すつもりだったのだが、もう黙ってはいられなかった。凛に追い詰められたからではない。ここで美雪のしたことを明かさなければ、彰菜はいつまでも美雪を思いやりのある娘だと信じ続け、その言葉や視線で何の罪もない凛を傷つけてしまう。息子である利明には、母親の言葉や眼差しがどれほど人を息苦しくさせるのか、よくわかっていた。「母さん、もう目を覚ましてくれ。美雪は凛を殺そうとしたんだ。母さんが育てた
病院にて。凛は彰菜の病室に入ると、少し離れたところで足を止め、静かに口をひらく。「何かご用ですか?」彰菜はゆっくり顔を上げ、ようやく真正面から凛を見た。28年前に手放した娘は、もう立派な大人になっていた。静かで、どこか近寄りがたいほど落ち着いていて、記憶の中で泣き続けていた赤ん坊とは到底結びつかない。それでも、茂によく似た目元や、親子関係を示す鑑定結果が、目の前にいるのが自分の手で捨てた娘だと告げている。あの日、道端の草むらに置き去りにした娘が、28年かけて自分のもとまで戻ってきた。その眼差しは、あの日の雪のように冷たい。ああ、やはりこの子は、自分に過去の清算を迫るために戻ってきたのだ。彰菜は泣きたいような、笑いたいような複雑な心情だった。「凛、あなたがいること自体、私にとっては災いなの。28年前も……それに、今もね」「母さん!」利明は目を見開いた。ここまで来てもなお、母親は凛に謝るどころか、平然とこんな言葉をぶつけている!海斗は何も言わなかったが、ただ、その表情は恐ろしいほど冷え切っていた。凛はそっと海斗の手の甲に触れ、その怒りをなだめるように軽く撫でる。「あなたの不幸は、私が招いたものじゃない。でも、私が受けた不幸は、間違いなくあなたが原因です」凛は彰菜から目を逸らさない。「責任を私に押しつければ、自分のしたことから目を背けられるとでも思ってるんですか?」彰菜の顔が強張った。「今こんな状況になってるのが、誰のせいだと思ってるの!茂は私と離婚しようとしてる。それどころか、利明が会社に入ることも許して、公職への道も結婚の話も全部捨てさせて、美雪まで家から追い出した。利明も公職への選考を受けない、家同士の結婚もしない、美雪を妹とも認めない……家族がこんなにバラバラになったのよ!」彰菜が取り乱すほど、凛の声は冷静になる。「原因はあなたです。自分でしたことが、自分に返ってきただけでしょう」「私はあんたを捨てただけ!」彰菜は声を荒らげた。「なのに、何であんたは私から何もかも奪おうとするわけ!?」凛は頷いた。「うん、自業自得ですね」「あんたっ……!」彰菜の怒りがさらに膨れ上がる。利明も眉をひそめた。「母さん、何言ってるんだ?どこが凛のせいなんだよ。凛は最初から何も悪くないのに、どうして全部凛のせい
茉莉は凛の前にお菓子を寄せ、優しく笑いかけた。日和が尋ねる。「おばあちゃん、茉莉さん。おじいちゃんと靖さんは、お兄ちゃんを叱ったりしないよね?」凛も聞き耳を立て、銀髪の郁代に意識を向けた。郁代は、落ち着かない様子の二人を見て笑った。「心配しなくていいわよ。海斗くんはちょっとやそっとじゃへこたれないから」その言葉に、凛はかえって不安になった。何か言おうと口を開きかけると、茉莉がそっと首を横に振ったので、凛は仕方なく言葉を飲み込む。「大丈夫よ。お義母さんは、冗談を言ってるだけだから。お義父さんだって、海斗くんを本当に傷つけたりしないし、仮にそうなったとしても、靖が止めに入るわ」茉莉はそう言っているが、どう聞いても、海斗がまったく叱られないという話ではない。凛はますます心配になった。郁代はそんな二人を見て言った。「日和ちゃんはじっとしていられない子だから、凛ちゃんを連れてこの辺を案内してあげたら?」「分かった!」日和はぱっと目を輝かせると立ち上がり、凛の手を引いてさっさと出ていった。郁代はその後ろ姿を見送りながら、笑って首を振る。「うちの孫たちは本当に凛ちゃんのことが好きなのね」茉莉が答えた。「凛さん自身、好かれる子ですし、それに、これまでのことを思うと放っておけませんからね」郁代は小さく息をついた。神谷家のことについてはあえて何も言わない。「瑶子もあの子のことを可愛がってる。でも、今日は瑶子がいないから、代わりにあなたが少しそばにいてあげてくれるかしら?」「私まで行ったら、お義母さん一人になっちゃいますよ?」「嫁いできてからずっと私と一緒にいるのに、まだ飽きないの?」茉莉が目を細めて笑う。「じゃあ、二人を安心させに行ってきますね。海斗くんが中で殴られたり怒鳴られたりしてるなんて、本気で思い込まれたら困りますから」「はいはい、行ってらっしゃい」茉莉が二人を見つけたとき、凛と日和は池のほとりで鯉に餌をやっていた。「凛さん、本当に大丈夫だと思いますよ。お兄ちゃん、ああ見えて図太いですから。誰に何を言われてもへこまないし、下手したら逆におじいちゃんのほうを言い負かしてるかも」言い方はともかく、日和の言っていることもわからなくはないが、それでも凛は心配だった。「日和ちゃんの言う通りよ」茉莉は凛の背中をそっ
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活