LOGIN依子はとうとう我慢できず、水を差すように言った。「築山家は由緒ある大きなお家ですし、あなたは長男でしょう。最初の子どもは当然、築山姓を継ぐべきではありませんか。西尾姓にするという話は、やめておいたほうがいいと思いますけど」さらに祐一郎へ念を押すことも忘れなかった。「健二は今のところ、仕事では絃葉に及ばないかもしれません。でも、少しずつ良い方向に進んでいます。もう少し時間を与えれば、きっと一人前になれますよ。亜由美は仕事も忙しくありませんし、二人の子どもも大きくなりました。家が寂しいとお思いなら、もう一人産んでもらえば、もっとにぎやかになるでしょう。昔から、嫁いだ娘はよその家の人間になると言うでしょう。嫁いだ娘の子どもが、実家の姓を名乗るなんておかしいと思いませんか?」依子が何を心配しているのかは、誰の目にも明らかだった。絃葉は冷ややかな目を彼女に向けた。「今日は私の婚約者が正式に結婚の挨拶へ来た日です。菅原さんはこの家のお客様のはずですよね?ご自分の立場をわきまえたらどうですか?」依子は言葉を詰まらせ、顔をこわばらせた。「......」以前、祐一郎は依子と婚姻届を提出し、正式に妻として迎えると約束していた。しかし絃葉が海城へ療養に連れてきたことで、依子の目論見は完全に崩れてしまった。今では、依子がこの件を持ち出しても祐一郎は相手にしない。あまりに何度も口にすれば、露骨に不機嫌な顔を見せるほどだった。依子自身も、いまだにこの家での自分の立場が分からなかった。女主人ともいえず、かといって単なる客ともいえない。ひどく居心地の悪い立場に置かれていた。「今日はめでたい日だ。騒ぎを起こしたい者は出ていけ。ここに残るなら、心から絃葉を祝福しろ」祐一郎が冷たい声で言い放った。依子に加勢しようとしていた健二は、たちまち首をすくめ、何も言えなくなった。祐一郎は未来の孫婿を大いに気に入り、景と絃葉を直接書斎へ連れていき、茶を振る舞った。さらに使用人には料理を多めに用意させ、二人を昼食に引き留めた。書斎に入って扉を閉めると、祐一郎は単刀直入に景へ切り出した。「景、お前は先ほど、築山家に関する問題を一つ残らず考え、きちんと説明してくれた。そこまで率直に話してくれたのだから、私も西尾家の事情を包み隠さず伝えておこう
「景、お前と絃葉がこうして結ばれることは、私が生きているうちにかなえたいと願っていた、何より大切なことだ。私たち両家は昔から親しく付き合ってきた。お前の家のこともよく分かっている。絃葉は、私が幼い頃から育ててきた孫娘だ。あの子が生涯幸せに暮らせるかどうかは、私にとって最大の心配事なのだ。そのことは分かっているな?」景はわずかにうなずくと、以前、絃葉と婚姻届を提出する前に交わした書類を取り出し、祐一郎へ差し出した。「どうぞ、これを。私は幼い頃から祐一郎さんに見守られて育ちました。私がどのような人間かは、祐一郎さんならよくご存じだと思います。結婚後の財産についても、私と絃葉はすでに合意書を交わしています。すべて絃葉を第一に考え、結婚後は私の全財産を彼女と共有し、隠し事は一切しません」祐一郎はその合意書に素早く目を通すと、満足そうな表情を浮かべた。「お前の人柄については、もちろん心配していない。財産についても、十分すぎるほど誠意を示してくれている。ただ、一つだけ気がかりなのは家庭環境......お前の母親は今でも絃葉のすることなすことに難癖をつけ、気に入らないと言っているそうだな?」景は落ち着いたまなざしで、一言ずつはっきりと答えた。「確かに、おっしゃるとおりです。隠さず申し上げますが、母は今も絃葉に偏見を抱いています。しかし、私がいる限り、絃葉につらい思いは決してさせません。私は幼い頃から自立しており、海城にも京城にも、夫婦で暮らす家をすでに用意しています。結婚後に両親と同居させ、母の決めたやり方に無理やり従わせるようなことは絶対にありません。また、現在は母の考えを改めさせる方法も探しています。それでも変わらないのであれば、私が絃葉を連れて適度な距離を置きます。母のせいで絃葉が少しでも傷つくことは、決して許しません。次に、私たち二人の今後についてですが......ひとまず、次のように考えています。絃葉は妊娠、出産、育児を迎える今後3年間、生活の重点をある程度変えることになります。その過程で、気持ちにも変化が生じるでしょう。海城で彼女が担当している仕事は、少しずつ私が引き継ぎ、一時的に代行するつもりです。ただし、会社の中核となる権限はすべて絃葉が持ち、私は決して口を出しません。私自身の仕事については、できる限り彼女の都合に合わせ
週末、景は絃葉を連れ、車で多磨城へ向かった。彼女の妊娠を知った両家はこの件を非常に重く受け止め、双方の年長者が話し合った末、景が正式に結婚の挨拶へ訪れる日が決まっていた。すべてが、絃葉の当初の予想よりもはるかに早く進んでいた。両家の年長者たちは、絃葉が妊娠中期を迎える頃には、盛大な結婚式を無事に執り行いたいと強く望んでいたからだ。それもすべて、絃葉とおなかの赤ちゃんを思ってのことだった。未来の婿が初めて正式な挨拶に訪れるとあって、西尾家の本邸は早朝から大いに活気づいていた。午前10時頃、一台の黒い高級ミニバンが、ゆっくりと西尾家本邸の門前へ到着した。ドアが開き、正装した景が、絃葉の手を大切そうに取って車から降りた。今回の訪問のため、景は身なりを念入りに整えていた。長年彼を担当しているヘアスタイリストに頼み、前髪をすっきりと上げ、凜々しく端正な眉と目元を出している。スーツもシャツもネクタイも、すべて特別に仕立てたものだった。どれも新品で、隅々まできちんと整えられている。車の荷室には、贈答品の箱が隙間なく積み込まれていた。すべて景が自ら選んだ上質な品であり、西尾家の一人一人の好みに合わせて用意されたものだった。外の物音を聞きつけ、祐一郎を先頭に、健二一家と本邸の使用人たちがそろって出てきて、二人を温かく迎えた。皆に囲まれながら、一行はにぎやかに屋敷の中へ入った。西尾家のリビングでは、ローテーブルの上に高級フルーツや菓子が所狭しと並べられていた。以前の落ち着いた暗い色調のインテリアもすべて新しくなり、部屋全体がかつてよりずっと温かみのある雰囲気に変わっていた。絃葉は、隣に立つ景をじっと見つめた。いつか、このような光景を夢に見たことがあった。しかし今、それは夢ではなく、彼女の人生で本当に起きている。30歳を迎えようとしているこの年、絃葉は一生を託せる男性を、ようやく家族のもとへ連れて帰ってきたのだ。「紹介します。私の婚約者、景です」絃葉は景の腕に手を添え、改まった口調で家族全員に彼を紹介した。祐一郎はソファの中央に腰掛け、その左右には家族たちが整然と並んでいた。皆、目の前の婚約した二人を笑顔で見つめている。依子と健二の表情には、わずかに複雑そうなものが浮かんでいたが、この場の温かく和やか
絃葉はすぐに首を横に振った。「それは無理よ。うちは今、すべてのプロジェクトが進行中だから、私が最後まで見届けなければならないの。でも体調が許すなら、在宅勤務に切り替えることはできるわ」景が眉間に深いしわを寄せているのを見て、絃葉は手を伸ばし、そこをそっとなでた。「もう、そんな顔をしないで。この子が私たちにとって大切なのは分かっているけど、そこまで神経質になる必要はないわ。ただ、今日私を襲った男が見つからないままだと、やっぱり少し不安かもしれない」絃葉はふと思い出した。ここ最近、地下駐車場に車を止めるたび、どこか暗がりから誰かに見られているような気がしていたのだ。あの男が偶然現れたはずはない。間違いなく、事前に下見をしていたのだろう。相手を見つけ出さない限り、彼女の不安は消えそうになかった。景はうなずいた。「ああ、そうだな。もう調べさせている。それともう一つだが......今日から、寝室を別にしたほうがいいか?」「寝室を別にする」という言葉を聞いた瞬間、絃葉はほとんど迷うことなく首を横に振った。「嫌よ、別々に寝るなんて絶対に」「それだと俺の自制心が試されるな......分かった。できるだけ我慢するよ」低い声でそう言うと、景は突然、絃葉を腕の中へ引き寄せ、強く抱き締めた。言っていることと、していることがまるで一致していなかった。「絃葉」「何?」絃葉は、彼が続けて何を言うのか待った。景は真剣な顔で言った。「地下駐車場で起きたことを思い返すと、今でもぞっとする」絃葉は彼の力強く鼓動する胸に頬を寄せ、手をその胸元へ添えた。「うん、私も。でも、あんなことがあっても無事だったんだから、きっとこの子は幸運をもたらしてくれる子ね」景は彼女の髪を優しくなでた。その声は驚くほど穏やかだった。「ああ」絃葉は思わず小さく笑った。「ありがとう、私たちを守ってくれて」「こっちこそ礼を言わないと。君たちが俺をもっと強くしてくれたんだ」景は真剣な口調で続けた。「以前は怖いものなんて何もないと思っていた。だが今は、何をするにも用心しなければならないと思う」絃葉は顔を上げ、彼の顎にそっと口づけた。「そこまで心配しなくてもいいから。私まで不安になってしまうよ」景は考え込むようにうなず
景は絃葉に足を地面につけさせない勢いで、病院を出て車に着くまで、ずっと彼女を大切そうに抱きかかえていた。その後ろを歩く湊と正真は、興味津々で二人を眺めていた。「ちょっと。あれ、本当に景か?誰かと入れ替わったんじゃないか?」「入れ替わったどころじゃない。彼女には、あいつを別人に変える魔力があるみたいだな」「まったく、妊娠したばかりなのに、もうあんなふうに抱えてるぞ。まさか妊娠中ずっと抱いて運むつもりか?」「あいつならやりかねないな。父親になるくらいで、あそこまで興奮するものか?」その話を聞いた正真は、たちまち身を乗り出した。「それならわかるよ。父親になるのは、やっぱり特別なことだ。そうだ。絃葉さんの子どもが男の子か女の子か賭けよう。賭け金は1億円でどうだ?」湊は笑った。「俺は男の子に賭けるよ」正真は言葉に詰まった。「......どうして俺が選ぼうとしたほうを取るんだよ。じゃあ俺は男女の双子に賭ける。賭け金は2億円だ。どう、乗るか?」「俺は三つ子に5億円」「......じゃあ五つ子に10億円だ」「......」後ろで二人の話はどんどん現実離れしていき、前を歩く景と絃葉は、そろって眉をひそめた。絃葉は我慢できずに振り返り、二人をにらんだ。「あのね......二人とも、もう少しまともな話をしてくれない?」湊は笑いをこらえながら言った。「景が長年ため込んできた力を考えたら、可能性がないとは言い切れないだろ」正真も大いに納得したようにうなずいた。「ああ、俺もそう思う。見ろよあいつ、最近目の下にクマまでできてるぞ......」それを聞いた絃葉は、無意識に景を見上げた。確かに、彼の目元にはうっすらとクマが浮かんでいた。しかし景は絃葉の視線に気づいておらず、正真と湊の冗談もまったく耳に入っていなかった。今、彼の頭の中では、妊娠期間中の予定が目まぐるしく組み立てられていた。妊娠初期に注意すべきこと、必要な栄養、受けるべき検査。さらに妊娠中期と後期には、どのような準備を進めるべきか......すべてが、彼の頭の中ですでに明確な予定表となっていた。ようやく授かったこの小さな命を、必ず健康に、何事もなくこの世へ迎えなければならない。自分と絃葉の初めての子どもだ。そう考えただけで、景
湊は景の肩を軽く押した。「産婦人科の同僚に頼んで診てもらおうか?」その言葉で、景はようやく放心状態から我に返った。次の瞬間、彼は何もかも忘れたように絃葉を抱き上げた。数歩進んだところで振り返り、湊に言った。「早くしろ。何をぼんやりしているんだ」湊と正真も、景がここまで取り乱す姿を見るのは初めてだった。二人は顔を見合わせると、すぐに後を追った。湊は直接、産婦人科の同僚に連絡し、絃葉を優先して診てもらえるよう手配した。必要な検査は最短時間で行われた。血液検査で妊娠が確認され、hCGの数値も十分に高かった。ほどなくして、超音波検査の結果も出た。間違いなく妊娠しており、妊娠7週を過ぎていた。ただし子宮内に軽い出血が見られるため、しばらく安静にして経過を見る必要があるという。まさに、驚きと喜び、そして緊張が入り交じる知らせだった。絃葉が超音波検査室から出てくると、景はこみ上げる感情を抑えきれず、駆け寄って彼女を強く抱き締めた。いつも冷静な彼の声が、わずかに詰まっていた。「俺たち......父親と母親になるんだな」その瞬間、景の胸にはさまざまな思いが込み上げていた。幼い頃から一人で成長する中で味わったつらさも、これまで経験してきた苦難も、すべて無駄ではなかったと思えた。運命は彼のために最高の贈り物を用意し、30歳になったこの年に待っていてくれたのだ。景は絃葉の頬を両手で包み込んだ。その瞳には涙がきらめいていた。絃葉は不安で胸がいっぱいだったが、彼がこれほど幸せそうに感動している姿を見ているうちに、その気持ちが伝わってきた。「うん。こんなに早く授かるなんて、思ってもみなかった......」2か月前、医師からは再び妊娠するのは難しいかもしれないから、心の準備をしておくようにと言われていた。それなのに、思いがけず赤ちゃんがやってきた。あまりにも突然のことだった。「食べたいものはあるか?具合が悪いところは?」あまりにも緊張している彼を見て、絃葉は思わず小さく笑った。「まだ下腹部が少し痛むけど、それ以外は大丈夫よ」景はすぐに湊へ顔を向けた。「早くその同僚に聞いてくれ。今は何に気をつければいい?食べてはいけないものはあるのか?」ちょうどそのとき、湊の同僚が診察室から出てきた。医師
悠は状況が飲み込めず、絃葉を見つめたまま首をかしげる。なぜそんなことをしようとするのか、まったく理解できなかった。絃葉が説明しようとしたその時――カフェのドアが押し開けられた。入ってきたのは、凪杜と野々花。そして千晶。しかも凪杜は、当然のように野々花の肩を抱いている。その手と、彼女のふくらんだ腹に視線を奪われ、悠は息を呑み、声を潜めた。「つまり......あのクズ男、浮気してるってこと?」絃葉は目の前のコーヒーを手に取り、一気に飲み干す。「ええ。私もつい最近知ったの。あの二人、もうずっと前から――」「ねえ、ダーリン。足がだるいの」「いいよ、揉んであげる」
凪杜は深く息を吸い、胸の中の重苦しさを押し殺してから、絃葉の隣に横になった。「会社がどんどん大きくなって、俺もますます忙しくなった。君に構う時間すら取れなくなって......」声は低く、どこか作られたような優しさを帯びている。「絃葉、何か欲しいものはあるか?何でもいい。何か罪滅ぼしをさせてくれ」家、車、宝石、バッグ――普通の女性が欲しがるものは、だいたいそのあたりだろう。けれど、それらは絃葉にとって生まれた時から当たり前にあるものだった。何一つ、欲しいとは思わない。彼女が欲しかったのは、ただ一つ――彼の心。なのに、その心はとっくに別の誰かに与えられていた。
凪杜は彼女の視線を避け、再び口調を和らげた。「子どもが何をわかる。いちいち気にするな」その言葉に滲む無意識の肩入れは、まるで強烈な平手打ちのように絃葉の頬を打った。これまで何度、その偏りに気づかないふりをしてきたのだろう。――今になって、自分の鈍さが情けない。彼女はため息のように、かすかな声で言った。「......正直に答えて、凪杜。あなた、まだ私を愛しているの?」その瞬間、凪杜の胸が大きく揺れた。彼は彼女を強く抱き寄せ、顎を彼女の髪に押し当てる。「もちろんだよ!」声は即座に返ってきた。「また変なこと考えてるのか?俺が絃葉のことを、ずっと愛してるに決
家の寝室に戻ると――絃葉は、全身の骨の隙間にまで冷気が染み込むような感覚に襲われ、立っているのもやっとだった。残されたわずかな力を振り絞り、震える手で長らく封じていた引き出しの鍵を回す。引き出しが開いた瞬間、中に詰め込まれていた「記憶」が一気に溢れ出した。ハート型の小石。色あせたポストカード。古いレコード。凪杜が不器用に磨いた銀のチェーン――そして、リボンで束ねられた手紙の束。かつて彼が彼女に書いた「ラブレター」だった。どれも、かつては宝物のように大切にしていたもの。だが、数日前に自分の目で見たすべてが、それらの思い出を虚しく、安っぽいものへと変えて