LOGIN景は振り返り、その男をひと目見ると、数秒ほど呆然とした。そしてようやく、目の前にいる日焼けして痩せた男が凪杜だと気づいた。その眼差しが瞬く間に冷え込む。「またお前か」凪杜は歩み寄り、控えめな口調で言った。「誤解しないでくれ。今日の俺は絃葉に会いに来たわけじゃない」景は淡々と彼を見つめた。「それで?」凪杜は手にしたフルーツの詰め合わせを掲げた。「知り合いの女の子に、果物をごちそうしてほしいと頼まれたんだ。それで届けに来ただけだ。もう気持ちの整理はついた。今の俺では絃葉にふさわしくないことも分かっている。彼女が幸せなら、これ以上、生活を邪魔するつもりはないよ」景は眉をひそめ、凪杜を見つめた。男の直感が、凪杜は本当の意味で諦めたわけではないと告げている。とはいえ、以前より黒く痩せた凪杜の目は、ずいぶん落ち着いて見えた。かつてのような、欲にまみれた光も浮かんでいない。景は厳しい口調で言った。「それならいい。だが、また意図的に絃葉へ近づいていると分かったら、今度こそ容赦しないぞ」「分かってる」景は身を翻し、そのままビルの中へ入っていった。凪杜は外に立ったまま、その背中を見つめていた。無意識に拳を握り締め、その目には対抗心がわずかに浮かんでいる。今の自分が景の敵ではないことくらい、凪杜にも分かっていた。だが、焦る必要はない。もう一度はい上がり、確固たる地位を築けばいいのだ。彼は今、IT業界で新たなビジネスチャンスを見つけていた。現在はライブ配信者を大々的に募集し、今後、ライブコマース事業へ進出する計画を立てている。この事業を成功させれば、2年以内に新会社を上場させることも、決して不可能ではないと確信していた。今はまだどん底にいる。だが、恐れてはいない。絃葉の心を取り戻し、もう一度自分のもとへ帰ってきてもらうために、全力で突き進まなければならないのだ。「澤木さん!」そのとき、可愛らしい声が聞こえてきた。すぐに一人の女性が、弾むような足取りで彼のもとへ駆け寄ってきた。「この前アメリカンチェリーが食べたいと言っていただろう?これ、専門店で買ってきたんだ。ほかの果物も入っているから、みんなで分けて食べるといい」「ありがとうございます!澤木さんって、本当に優
二人の結婚式について、いよいよ正式に話し合いが進められることになった。これまでファッション業界など気にも留めなかった景が、最近ではずっとファッションウィークに注目していた。彼は時間と手間をかけ、結納や挙式、披露宴後の両家への挨拶回りで新郎新婦が着るスーツやウェディングドレスについて、さまざまな情報を調べ上げていた。最近の彼が、仕事以外で最も力を入れていることだった。景には、何かを始める前に必ず情報を整理し、ノートにまとめる習慣がある。何事にも入念に計画を立て、極めて高い集中力で真剣に取り組む男だった。これは、一生に一度の結婚式。それに注ぐ景の熱意は、築山が新型車を一台開発するときにも劣らなかった。彼にとって、この儀式は誰も見たことがないほど盛大なものでなければならない。絃葉が今世だけでなく、来世でも、そのまた来世でも決して忘れられない結婚式にしたかった。完璧を求め、何事も自分の手で進めたい景の頭の中には、すでに細部に至るまで具体的な光景が描かれていた。ひととおり調査を終えた彼は、こっそりポケットへメジャーを忍ばせていた。絃葉のバスト、ウエスト、ヒップを正確に測り、その数値を自ら選んだデザイナーへ伝え、彼女のためだけに3着のウェディングドレスとカクテルドレスを仕立ててもらうつもりだった。景がこれから迎える結婚式を思い描き、期待に胸を膨らませていたそのとき。佳樹が大量の資料を手に、険しい表情でオフィスへ入ってきた。「社長、楠原優奈の失踪について、夫である山崎豪が捜索を求める投稿をしました。ネット上で大きな話題になり、急速に拡散されています」景は資料を受け取り、素早く目を通すと淡々と言った。「彼女がTN国で味わっていることは、すべて自分が招いた結果だ。戻ってこられるかどうかは、本人の運次第だろう」「ですが、意図的に世論を誘導している者がいます。楠原優奈と奥様が以前、社長をめぐって争っていたことを持ち出し、楠原優奈が失踪したのは、奥様が弱みにつけ込んで追い打ちをかけたからだと言い広めています。今では上流社交界全体で、この話が噂になっているそうです」景の表情がわずかにこわばった。「発信源を突き止めろ。広報部には動向を厳重に監視させ、悪質な投稿への対処と削除要請を進めさせろ。根拠のない噂でも、繰り返され
「まったく、頭がおかしいんじゃないの?新手の詐欺か何かかしら」静代は一人でぶつぶつと呟いた。それ以上深く考えることもなく、この出来事をすっかり頭の外へ追いやった。最近の彼女は、築山家の家政を絃葉が取り仕切ることになるという事実に、腹を立ててばかりいた。他人のことにまで気を回す余裕などなかったのだ。しかも、絃葉は家計の見直し案をすぐさま実行に移し、静代の毎月の予算は、なんと半分以下にまで削られてしまった。次第に自由に使えるお金が足りなくなり、上流階級の夫人たちが集まってブランドバッグを披露し合う席でも、以前のように注目を集められなくなった。それどころか、いつも同じバッグを持っていると、彼女たちから何度も陰口を叩かれる始末だった。静代は絃葉に腹を立てていた。しかし今や家族全員が絃葉の味方であり、景も全面的に彼女を支持している。姑である自分は、絃葉に何の圧力もかけられないばかりか、逆に抑え込まれていた。静代の胸に燃える怒りは、日に日に激しさを増していった。そして半月後の夕方、静代のもとに一本の電話がかかってきた。相手は、正体不明の男だった。「静代様、楠原優奈のことを覚えていますか?」静代は数秒間、呆然としたあと、警戒しながら尋ねた。「あなた、誰?」「私が誰かは、どうでもいいでしょう。ただ、楠原優奈は以前、あなたと実の母娘のように親しくしていた。今、彼女が大変な目に遭っていると知れば、放ってはおけないでしょう?」男の声は不気味なほど暗く、静代は背筋が寒くなるのを感じた。「優奈ちゃんが大変な目に?何があったの?あの子はもう結婚したと聞いているけど」「ふっ」相手は冷笑した。「すべて西尾絃葉のせいですよ。西尾絃葉はあなたの息子を楠原優奈から奪うために、彼女が窮地に陥ったのをいいことに、とことん追い詰めた。今、楠原優奈は1か月もの間、行方不明になっています。失踪する直前、彼女が最後に乗った便の行き先はTN国でした。そしてそのとき、西尾絃葉もちょうどTN国へ出張していたんです」静代の心臓が跳ね上がった。彼女は即座に、話の核心を捉えたかのように問い返した。「何が言いたい?優奈ちゃんは西尾絃葉にだまされて、TN国へ行ったというの?」「さすが静代様。勘が鋭い。すぐに肝心な点へ気づきましたね」
「西尾家にも十分な財力があります。存在感を示す必要など、私にはまったくありません。ただ、私と景はすでに籍を入れ、正式に夫婦になりました。栄えるときも、損失を受けるときも一緒です。彼は懸命に働いてお金を稼ぎ、たった一人でこれほど巨大なグループを切り盛りし、さまざまな危機に対処しています。その妻である以上、私は彼の負担を分かち合い、家庭を整えて支えるのが当然だと思っています。今していることは、静代さんを狙い撃ちしているわけでも、築山家の誰かを敵視しているわけでもありません。私はただ、妻としての務めを果たしているだけです」静代は意地を張るように顎を上げた。「自分をそんなに立派な人間のように言わないでちょうだい」「静代さんは潤一さんと結婚してから、もう何年にもなりますよね。その間、この家や三人の息子さんのために、何かしてあげたいと思ったことは......一度もないんですか?」静代は答えに詰まり、その顔が一瞬にしてこわばった。「......築山家には十分な財産も事業もある。私に何をする必要がないわ」「そこが、静代さんと私の違いです。今は私の考えを受け入れられないかもしれない。でも、いずれ私の意図を分かっていただけると思います」しかし、考え方の合わない相手と食事をしても、食欲など湧くはずがない。絃葉は料理に少し口をつけただけで、用事があると言って早々に店を出た。あとには、一人で腹を立て続ける静代だけが残された。静代には、絃葉の言葉がどうしても理解できなかった。――築山家や三人の息子のために、何かをする?自分に何をしろというのだろう。築山家へ嫁いでからというもの、彼女は何不自由なく、何でも誰かが面倒を見てくれる生活に慣れきっていた。この家には、そもそも自分がするべきことなど何もなかった。やはり絃葉がしていることは、姑である自分より優位に立ち、これから築山家で肩身の狭い思いをさせるためなのだ。そう考えるほど静代の怒りは増したが、だからといって絃葉に対抗する手段もない。夫は絃葉の味方で、舅も絃葉を支持している。息子に至っては、言うまでもなく彼女の側についていた。静代は、これまで一度もなかった危機感が、突如として自分に迫っているのを感じた。恐ろしさが込み上げてくる。だが幸い、自分にはまだ二人の大切な
絃葉は歩み寄り、礼儀正しく声をかけた。「静代さん」静代は目も上げず、相変わらず傲慢な態度で言った。「座りなさい」絃葉は彼女の冷ややかな態度には、もう慣れていた。遠慮せず席に着くと、メニューを手に取り、店員にいくつか料理を注文した。静代はすぐに不満をあらわにした。「勝手に注文して、私が何を食べたいか聞きもしないの?」絃葉はメニューを閉じ、淡々と答えた。「静代さんはずいぶん前からいらしたのでしょう?ご自分の分はまだ注文していなかったんですか?今頼んだのは、どれも食べやすい京城の郷土料理です。静代さんも召し上がれるものばかりでしょう」最後の言葉は店員に向けたものだった。静代はたちまち不機嫌な顔になった。「景がいないと、取り繕う気すらなくなるのね?それが目上の人間に対する口の利き方なの?」絃葉は気にも留めず、静かに彼女を見た。「いいえ。まず私は、以前から静代さんの前ではこの態度です。取り繕っていたことなどありません。それから、敬意というものは互いに示すものです。目上の人が年下を尊重しないのなら、どれほど礼儀をわきまえた人間でも、度重なる傲慢な態度に、いずれは我慢できなくなります」静代は言葉に詰まり、表情をこわばらせた。「......」数秒たってから、ようやく不快そうに眉を上げた。「当時はすっかり見誤ったわ。まさか、ここまで口の達者な女だったとはね。景があなたの言いなりになって、今では親を少しも敬わなくなったのも無理はないわ」絃葉は腕時計を確認した。「静代さん、私は忙しいのです。お話に割ける時間は30分しかありません。ご用件があるなら、手短にお願いします。こんな中身のない言い争いに、時間を浪費したくありませんので」静代の顔が瞬く間に青ざめた。「西尾絃葉!」絃葉は目を上げ、彼女を見つめた。「わざわざ二人きりの昼食に誘ったということは、私にお話があるのでしょう?」静代は今にもテーブルをひっくり返したい衝動に駆られた。しかし昨日、築山家の全員が絃葉に示した態度を思い出し、どうにか怒りを抑え込んだ。彼女は次第に気づき始めていた。自分では、到底この絃葉には太刀打ちできないのだと。自分が築山家へ嫁いでから何年かかっても手に入れられなかった家政の主導権を、絃葉はいとも簡単に手
翌日。案の定、絃葉はまた遅刻した。車を降りた彼女はノートパソコンを抱え、無意識に腰をさすった。全身がだるく、腰にじんわりとした痛みが残っている。会社の入口には、一人の男が立っていた。腕に抱えた大量のシャンパンカラーのバラで顔が隠れ、誰なのかは分からない。ただ、かなり背が高いことだけは見て取れた。絃葉は特に気に留めることもなく、その男のそばを通り過ぎた。すると突然、聞き覚えのある声が彼女の名を呼んだ。「絃葉、久しぶり」絃葉はぴたりと足を止め、信じられない思いで振り返った。凪杜が花束を下ろす。現れたのは、日に焼けて黒く、引き締まった顔だった。精悍さの中に、以前の端正な面影もわずかに残っている。「帰ってきたんだ。驚いただろ?」絃葉は彼を頭から足元まで見つめたが、一瞬、凪杜だとは信じられなかった。以前にも増して背が高く、ずいぶん痩せて見える。顔には余分な肉が一切なく、右頬には刃物で切られたような傷痕まで残っていた。まるで一気に10歳も年を重ねたかのようだった。かつての甘い顔立ちのイケメンではなく、今の彼は、すっかり逞しい男へと変わっていた。絃葉は数秒間、言葉を失った。「どうしたの、その格好?」「金を稼ぐためだよ」凪杜は笑った。肌が黒くなったせいか、歯がひときわ白く見えた。「今日来たのは、君に報告したかったからなんだ。借金は全部返し終えた。今は手元にも少し資金が残っているから、もう一度起業するつもりだ」これほど早く、どん底からはい上がってくるとは、絃葉も思っていなかった。彼女は淡々と答えた。「そう。よかったわね。地に足をつけて、調子に乗らずに事業を続ければ、きっと大丈夫よ」凪杜は一歩近づき、花束を差し出そうとした。「これからは必死に頑張って、必ず以前のような成功を取り戻してみせる。俺がもう一度立ち直るまで、待っていてくれないか、絃葉?俺は――」しかし絃葉は、彼の言葉をきっぱりと遮った。「凪杜、私と景はもうすぐ結婚式を挙げるの」「結婚式」という言葉を聞き、凪杜の胸は大きく揺れた。「本当にあの男と結婚するのか?絃葉、あんなクソ真面目で堅物な男といたって、つまらないだけだぞ」相変わらず同じことを言う彼に、絃葉は思わず笑った。「自分が何を望んでいるか、ちゃんと分
その様子を見た野々花は、顔色をさっと強張らせ、反射的に前へ出ようとした。「それは――」「そうだ!」凪杜はまっすぐ絃葉のそばへ歩み寄り、花束とギフトボックスを彼女の手に押しつけた。「プレゼントは先に持って帰ってくれ。俺も後で帰るから」野々花はなおも何か言おうとしたが、凪杜に視線で制され、言葉を飲み込んだ。彼が明らかに彼女を早く帰らせようとしているのは、誰の目にも明らかだった。絃葉は袖の中で指をぎゅっと握りしめる。凪杜の顔を見つめ、何か言おうとしたが、結局は飲み込んだ。「......わかった。じゃあ、家で待ってるね」――会社の外。堪えていた涙がついに
車は澤木グループのビルの下で停まった。絃葉が車を降りるとすぐ、デリバリーの配達員が大きな赤いバラの花束を抱えて、慌ただしく中へ入っていくのが目に入った。その包装も、添えられたカードのデザインも、彼女には見慣れすぎていた。凪杜がいつも注文している、あの高級フラワーショップのものだ。絃葉の胸がきゅっと締めつけられ、思わず指を強く握りしめる。彼女は足早に配達員の後を追い、同じエレベーターに乗り込んだ。そしてカードに目をやると、そこには――「愛しい野々花へ、誕生日おめでとう――夫より」と書かれていた。その一文が、鋭い針のように胸を深く刺した。今日は、自分と凪杜の
西尾絃葉(にしお いとは)はスマホを握りしめ、力の入った指先がうっすらと白くなっていた。――ついに、5年もの間待ち続けた電話が来た。祖父が最も信頼する秘書の日野(ひの)からだった。「お嬢様。澤木様とのご結婚は、会長が定めた5年間の試験期間を無事に通過されました。会長のご指示により、澤木様とご一緒にご帰宅いただくことを許可いたします。また、全財産を前倒しでお嬢様に名義変更の手続きも進めております。ご都合はいかがでしょうか」「本当?!」絃葉は込み上げる歓喜を抑えきれず、声がわずかに震えた。「やった......!今日でいいから。今すぐ向かうよ!」電話を切ると、ようやく
悠は状況が飲み込めず、絃葉を見つめたまま首をかしげる。なぜそんなことをしようとするのか、まったく理解できなかった。絃葉が説明しようとしたその時――カフェのドアが押し開けられた。入ってきたのは、凪杜と野々花。そして千晶。しかも凪杜は、当然のように野々花の肩を抱いている。その手と、彼女のふくらんだ腹に視線を奪われ、悠は息を呑み、声を潜めた。「つまり......あのクズ男、浮気してるってこと?」絃葉は目の前のコーヒーを手に取り、一気に飲み干す。「ええ。私もつい最近知ったの。あの二人、もうずっと前から――」「ねえ、ダーリン。足がだるいの」「いいよ、揉んであげる」