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15.視線という名の手

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-08-31 13:08:53

部屋は静まり返っていた。

窓の外にはまだ夕暮れの名残があったが、アトリエの内部にはすでに夜が忍び込んでいた。天井の隅に吊られた裸電球がひとつだけ灯っており、その淡い光が床に伸びた影を歪ませている。薫は無言で作業台に歩み寄ると、引き出しからスケッチブックを取り出した。

礼司はその様子を見ながら、ただ呼吸を整えていた。胸の奥にある動悸は、いつの間にか律動のように脈打っており、皮膚の内側に熱がこもっていた。冷静であろうとする意志はあったが、それ以上に身体が先に反応していることに、彼自身が戸惑っていた。

薫はスケッチブックを手に取り、静かにこちらを見た。

「そのままの姿で、少しだけ、動かないでいてもらえますか」

薫の声は、ごく穏やかだった。まるで午後の陽光のように、耳の奥に染み込んでくる。だが、その言葉の中にあった「見る者」と「見られる者」という明確な区分が、礼司の内側に目に見えない緊張を走らせた。

「こう、ですか」

礼司は椅子に腰掛け、上半身を少し斜めに向けた。ジャケットの襟元を緩めると、薫が首を横に振った。

「シャツのままで、結構です。…今のままで、完璧です」

その言葉に、なぜか礼司は不意を突かれた。

完璧。

その一言が、彼の中に妙な焦燥を灯した。完璧などという言葉は、ビジネスの場でも滅多に使われない。ましてや、人の姿に向けて発されることなど、ほとんどなかった。

薫は鉛筆を構え、向かいのイーゼルに腰を下ろした。鉛筆が紙に触れる音が、ひそやかに部屋を満たす。

最初は、ただの静寂だった。だが数分も経たぬうちに、その静けさは“張り詰めた何か”へと変わっていく。

礼司は、視線を宙に留めたまま、薫の顔を直接見ようとはしなかった。だが意識は、嫌でもそこへ向かう。どこに目をやっても、薫の気配が迫ってくる。まるで、彼の視線が空気の粒子を通って、礼司の肌の上をなぞってくるようだった。

視線というものが、これほどに熱を帯びていたとは知らなかった。

見られている。それは言葉よりも濃密な体験だった。皮膚に触れるわけでもない、けれど指先より正確に“そこ”を捉える何か。まるで視線が“手”そのものとして働いているかのように、礼司の肩、首筋、喉元をなぞり、時折、呼吸の隙間にまで入り込んでくる。

指先がじんわりと熱い。いや、それは熱ではなかった。視線に晒されることで皮膚の感覚が異様に鋭敏になっている。髪が肌に触れるだけで痺れるような違和感が走った。

不意に、薫の鉛筆の音が止まった。

気配が、変わった。

視線が一度、顔に触れた。それも、唇のあたり。礼司はほんの一瞬だけ、目を動かし、薫の顔を見た。

目が、合った。

その刹那、時間が止まったような錯覚があった。

薫の眼差しは、まっすぐだった。何の迷いもなく、ただそこに“見る”という行為だけがあった。だがその透明さが、礼司には恐ろしかった。

こんなにも、見られている。

まるで、何もかもを透かされているようだった。理性も、過去も、誰にも言ったことのない秘密までも。

そして、視線を返した自分自身もまた、相手に“触れてしまった”ことを知る。

視線という名の手。

それは触れずして触れるもの。礼司は今、確かにその手の中にある自分を感じていた。

鼓動が、早まった。喉が乾き、額に汗がにじむ。呼吸は浅く、肺の奥がきしんでいる。なのに動けない。薫が何かを描いている限り、彼はその視線から逃れられない。

言葉がないことが、なおさら恐ろしかった。

会話があれば、ごまかすことができる。だが今、二人のあいだにあるのは、紙と視線と沈黙だけ。それが、礼司の神経をむき出しにする。

どれほどの時間が経ったのか。

薫が鉛筆を置いた。

「…ありがとうございました」

その一言が、礼司の全身をふるわせた。

わずかに体を動かすと、血が一気に巡ったのか、視界が揺れた。呼吸を整えようとしても、うまくいかなかった。

「終わったのか」

声が、かすれていた。

「はい。…とても静かな姿でした」

静か。そう言われて、礼司は逆に、自分の中でどれほどのものが乱れていたかを知った。

薫がスケッチブックを閉じ、ページを挟んで上からそっと手を置いた。その仕草が、絵ではなく“秘密”を封じるようにも見えた。

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