アトリエの空気は沈黙の膜で覆われていた。
ひとつ前の鼓動が、まだ身体の内側に反響しているようだった。鉛筆の擦れる音はすでに途絶え、代わって、遠くの路地から聞こえる犬の鳴き声が、薄く夜の輪郭を示している。礼司は、椅子の上で姿勢をわずかに崩した。
脱力ではなかった。むしろ、それは緊張の解放ではなく、張りつめすぎた糸が一瞬だけ、軋むように揺れたものだった。 視線を落とせば、足の指先にまで意識が届く。だが、最も鋭く熱を持っているのは、手のひらだった。対面にいた薫が、ようやく動いた。
スケッチブックをゆっくりと閉じ、その表紙の上に両手を重ねる。どこか息を飲むような仕草で一拍の間を置き、それからふと礼司の方に視線を移した。「…見てみますか?」
低く柔らかい声だった。
まるで手渡すものが“紙”ではないと知っているかのように、その声音は慎重で、なおかつどこか試すようだった。礼司は立ち上がった。
膝の裏にわずかな汗が滲んでいたことに気づく。椅子の影が床に長く伸び、薫の肩までかかっていた。 光はすでに薄闇に包まれはじめ、電球の灯りだけがふたりの輪郭を淡く切り取っていた。薫はスケッチブックを胸元まで持ち上げた。両手で、そっと差し出すように。
その動きに、礼司の喉がひとつ鳴った。
近づく。
ただそれだけの動作に、全身が神経を研ぎ澄ませていく。 歩幅を一歩、二歩。 あと一歩で、薫の手が届く距離になる。薫の手は、細く白い。
男の手ではある。だが、どこか儚さがあった。皮膚の薄さが際立ち、骨の節々が浮き上がるほど繊細だった。 その手が、今、礼司のために一冊のスケッチブックを抱えている。 まるで、それを差し出す行為自体が告白のようにも見えた。礼司は、右手を上げた。
指先が、ほんのわずか空気を押し分ける。 その手が、スケッチブックに向かって伸びていく。あと一寸。
たったそれだけの距離。 手を伸ばせば、届く。 触れられる。 そして、きっと何かが変わってしまう。触れたい。
それは純粋な欲望だった。 紙ではなく、その手に。 それを差し出している“薫という存在”に。 礼司の手は、その衝動に抗いながらも、ほんの指先ひと筋分、空気を震わせていた。だが、そのまま、動きを止めた。
触れなかった。
ほんのわずかな距離。
その一寸が、礼司のすべての抑制を象徴していた。 触れてしまえば、確かに世界は変わる。 だが、それがどんな形で変わるのか――そこに踏み出す覚悟は、まだなかった。薫は、ゆっくりと目を伏せた。
その瞬間、彼のまつ毛がふるえたのを、礼司ははっきりと見た。スケッチブックは、微かに揺れていた。
いや、それは“薫の手”が震えていたのだ。 まるで、その一瞬のために、彼もまた全身の力を込めていたかのように。 礼司がその手に触れることを、ほんの少しだけ、期待していたのかもしれない。だが、礼司は触れなかった。
彼の視線はスケッチブックではなく、薫の手に釘付けになっていた。
その白い指先、その手のひらの温度を、想像することしかできなかった。そして、それで十分に苦しかった。
薫がそっとスケッチブックを下ろした。
礼司は手を引っ込め、胸の奥でひとつ深い息をついた。 その呼吸が、肺を圧迫していた緊張をわずかに解放する。ふたりのあいだに、沈黙が降りた。
どちらも言葉を発さなかった。 語るべきものが何だったのかさえ、もう分からなくなっていた。「礼司さん」
かすれた声で、薫が呼んだ。
礼司は、すぐには答えなかった。
名を呼ばれたことが、なぜか体の奥に痛みを残した。「あなたが…そのまま何も言わずに立ち去ったら、きっと今日のことは一枚の絵になってしまう」
「絵に、なるとは?」
「つまり、触れられないままの記憶になる、ということです」
礼司は目を伏せた。
それが、どれほど重い意味を持つか、彼にはわかっていた。
《未完の肖像》がそうだったように、薫は“触れなかったもの”を絵に閉じ込めてきたのだ。 そこには、残された感情の残滓が常に漂っている。 見てしまえば、二度と無傷ではいられない。礼司は、そっと視線を上げた。
薫の顔は見えなかった。 ただ、その指先がまだわずかに震えていたことだけが、やけに鮮明に心に残った。彼は、ただ一言だけを残した。
「今日は…帰る」
薫は頷いた。
扉の前に立ったとき、夜はすっかり地に降りていた。
月の光はまだ見えず、庭の影が長く伸びていた。 空気は冷たくなっており、指先に触れた風が、まるで薫の手の温度を思い出させるようだった。触れなかった。
だが、それがいつまでも続くとは、礼司自身も思っていなかった。 あと一寸。 その距離が、今のふたりの全てを象徴していた。中原邸の門を抜けたとき、礼司の頬に冷たい風が触れた。秋の始まりの空気は昼間の名残をわずかに纏いながらも、肌を撫でる感触には確かな夜の気配が混じっていた。沈みかけた夕日が庭の植え込みを斜めに照らし、蔦の絡む塀に長い影を落としている。十四になった礼司の背丈は、大人の上衣を借りても違和感のないほどに伸びていた。肩幅はまだ線が細いが、姿勢はまっすぐで、どこか触れることをためらわせるような静けさを纏っている。まだ声変わりの途上で、言葉には柔らかさが残っていたが、目元の陰影は同年の子供たちとは違っていた。玄関にいた女中に案内を告げられる前に、礼司は軽く頭を下げて「自分で行きます」と答えた。昔から中原家は彼にとって馴染みのある場所だった。けれど今日の邸内は妙に広く、音が吸い込まれていくように静かだった。廊下をひとりで進む。壁に沿ったランプの灯りがぽつりぽつりと等間隔に点いており、その明るさが逆に、奥へと伸びる影を濃くしていた。絨毯の上を歩く礼司の靴音はほとんど聞こえず、衣擦れの音と、廊下の先にある小窓から吹き込む風が、時折木の葉の音を運ぶのみだった。薫の部屋は、廊下の最奥にある。幼い頃は一緒に押し入れに入ったり、庭で鬼ごっこをしたりもした。だが、あの頃と比べると薫は変わった。いや、変わったのはどちらなのだろう。礼司は扉の前に立ち、軽く息を吐いた。この夜の訪問は、礼司の父が中原家からの申し出に応じたものだった。薫が風邪を引いて寝込んでいると聞き、兄のように懐いている礼司を見舞いに行かせれば励みになるだろう、という。それ以上の意味は、きっと誰も込めていない。だが、扉の前に立ったままの礼司の中には、説明しようのない感情が渦巻いていた。ノックをしようとした指が、一度止まった。しなくてもいいような気がした。音を立てることが、この夜の空気を壊してしまいそうだった。結局、礼司は無言のまま、そっと取っ手を回した。
庭に足を踏み出した瞬間、礼司の頬を夜の冷気が撫でた。夏が過ぎたばかりの夜気は、すでに秋の匂いを孕み始めており、草木の湿り気と、どこか煙たい土の香りが肺の奥に沁みていく。アトリエの扉が閉まる音はなかった。振り返ることはなかったが、その背中にはまだ薫の気配が色濃く残っていた。まるで、誰かに追われているような感覚すらあった。だが、それは追う者ではなく、見送る者の沈黙だった。庭の小道には夜露が降りていた。礼司の靴底が土と擦れ合うたびに、ひそやかな音が生まれる。けれどその音は風に紛れ、すぐに闇の中に消えていった。彼は胸元に手を当てるように、右手をそっと持ち上げた。指先から掌まで、何かがまだ残っているようだった。熱。薫の手に触れかけたあの瞬間。たった一寸の距離だった。けれど、その一寸がどれほど遠かったかを、今さらのように思い知らされていた。触れてはいない。だが、触れなかったからこそ、その熱は皮膚の下に沁み込んだまま、まだ冷めずにいる。手のひらが焼けつくようだった。誰のものでもない、誰にも知られない熱。その余韻に、自分の呼吸すら濡れているように感じる。視線。あの静けさの中、薫はひとことも発しなかった。だが、何度もこちらを見ていた。礼司の輪郭を、骨格を、沈黙の中でなぞるように。礼司もまた、薫の視線に触れていた。それがただの目の動きではなく、感情を宿した熱源そのものだと知ってしまった今、もう視線をただの視線として受け流すことなど、できなかった。薫の瞳が、自分を“見ていた”。理解ではなく、欲望でもない。それは、もっと手前にあるものだった。名づけることのできない渇きのようなもの。足元に落ちた葉に、ふと目をやる。夜露に濡れたそれは、柔らかく光を帯びていた。濡れた地面に、靴の跡が浅く残る。だが、その道がどこへ続くのかを、礼司は知らない。「…まだ、届かない」誰にも聞かせるつもりのない声が、唇から零
アトリエの空気は沈黙の膜で覆われていた。ひとつ前の鼓動が、まだ身体の内側に反響しているようだった。鉛筆の擦れる音はすでに途絶え、代わって、遠くの路地から聞こえる犬の鳴き声が、薄く夜の輪郭を示している。礼司は、椅子の上で姿勢をわずかに崩した。脱力ではなかった。むしろ、それは緊張の解放ではなく、張りつめすぎた糸が一瞬だけ、軋むように揺れたものだった。視線を落とせば、足の指先にまで意識が届く。だが、最も鋭く熱を持っているのは、手のひらだった。対面にいた薫が、ようやく動いた。スケッチブックをゆっくりと閉じ、その表紙の上に両手を重ねる。どこか息を飲むような仕草で一拍の間を置き、それからふと礼司の方に視線を移した。「…見てみますか?」低く柔らかい声だった。まるで手渡すものが“紙”ではないと知っているかのように、その声音は慎重で、なおかつどこか試すようだった。礼司は立ち上がった。膝の裏にわずかな汗が滲んでいたことに気づく。椅子の影が床に長く伸び、薫の肩までかかっていた。光はすでに薄闇に包まれはじめ、電球の灯りだけがふたりの輪郭を淡く切り取っていた。薫はスケッチブックを胸元まで持ち上げた。両手で、そっと差し出すように。その動きに、礼司の喉がひとつ鳴った。近づく。ただそれだけの動作に、全身が神経を研ぎ澄ませていく。歩幅を一歩、二歩。あと一歩で、薫の手が届く距離になる。薫の手は、細く白い。男の手ではある。だが、どこか儚さがあった。皮膚の薄さが際立ち、骨の節々が浮き上がるほど繊細だった。その手が、今、礼司のために一冊のスケッチブックを抱えている。まるで、それを差し出す行為自体が告白のようにも見えた。礼司は、右手を上げた。指先が、ほんのわずか空気を押し分ける。その手が、スケッチブックに向かって伸びていく。あと一寸。たったそれだけの距離。手を伸ばせば、届く。触れら
部屋は静まり返っていた。窓の外にはまだ夕暮れの名残があったが、アトリエの内部にはすでに夜が忍び込んでいた。天井の隅に吊られた裸電球がひとつだけ灯っており、その淡い光が床に伸びた影を歪ませている。薫は無言で作業台に歩み寄ると、引き出しからスケッチブックを取り出した。礼司はその様子を見ながら、ただ呼吸を整えていた。胸の奥にある動悸は、いつの間にか律動のように脈打っており、皮膚の内側に熱がこもっていた。冷静であろうとする意志はあったが、それ以上に身体が先に反応していることに、彼自身が戸惑っていた。薫はスケッチブックを手に取り、静かにこちらを見た。「そのままの姿で、少しだけ、動かないでいてもらえますか」薫の声は、ごく穏やかだった。まるで午後の陽光のように、耳の奥に染み込んでくる。だが、その言葉の中にあった「見る者」と「見られる者」という明確な区分が、礼司の内側に目に見えない緊張を走らせた。「こう、ですか」礼司は椅子に腰掛け、上半身を少し斜めに向けた。ジャケットの襟元を緩めると、薫が首を横に振った。「シャツのままで、結構です。…今のままで、完璧です」その言葉に、なぜか礼司は不意を突かれた。完璧。その一言が、彼の中に妙な焦燥を灯した。完璧などという言葉は、ビジネスの場でも滅多に使われない。ましてや、人の姿に向けて発されることなど、ほとんどなかった。薫は鉛筆を構え、向かいのイーゼルに腰を下ろした。鉛筆が紙に触れる音が、ひそやかに部屋を満たす。最初は、ただの静寂だった。だが数分も経たぬうちに、その静けさは“張り詰めた何か”へと変わっていく。礼司は、視線を宙に留めたまま、薫の顔を直接見ようとはしなかった。だが意識は、嫌でもそこへ向かう。どこに目をやっても、薫の気配が迫ってくる。まるで、彼の視線が空気の粒子を通って、礼司の肌の上をなぞってくるようだった。視線というものが、これほどに熱を帯びていたとは知らなかった。見られている。それは言葉よりも濃密な体験だった。皮膚に触れるわけでもない、けれど
日が落ちかけていた。アトリエの西側に設えられた窓から、斜めに差し込む夕陽がゆっくりと角度を変えていく。天井から吊るされた白布のカーテンが、風のない部屋でほのかに揺れた。灯りはまだ点けられていなかったが、空気の輪郭にすでに“夜”の気配が含まれている。色がすべて淡くなり、白壁も、木の床も、絵の具の香りさえも、まるで記憶の底に沈んでいくようだった。薫が、ふと小さな箱からスケッチブックを取り出した。厚みのある表紙に指をかけながら、礼司に目を向ける。「これは…少し古いものです」そう言って、彼はゆっくりとページを開いた。礼司は無言でその場に立ち、薫の動きを見つめていた。紙をめくる音が、妙にくぐもって聞こえる。周囲のすべてが静けさに包まれているからか、あるいは、礼司の内側が何かを先に予感しているせいか。やがて、一枚の紙に薫の手が止まった。「これです」紙の上には、一人の男の上半身が描かれていた。シャツの第一ボタンが外され、襟元が少しだけ乱れている。首筋にかかる髪の影。鎖骨の線は細く、だがどこか張り詰めていた。腕は描かれていない。画面は、ちょうど胸のあたりで切れていた。その“途中”で切られた構図が、絵に強い緊張感を与えていた。「《未完の肖像》と呼んでいます」薫の声は低かった。ページを開いたまま、彼は指先で絵の縁に触れた。描かれた人物は目を閉じていた。いや、目はもともと描かれていない。まるで眠っているかのように、瞼だけが線を引かれていた。礼司は、なぜか言葉を失っていた。その絵に、見覚えがあったわけではない。ただ、そこに描かれたシャツの襟元、開いた胸元の角度、首の傾き――それらが、何か“自身の記憶の中の一場面”と強く重なった。あれは、いつだったか。夜会のあとか。あの静かな書斎の夜か。硝子越しに視線を交わした、あのひとときか。思い出そうとするほどに、記憶は曖昧になった。だが確かに、自分もまた、同じように“見られていた”のだと、礼司は肌の上に
アトリエの扉が閉まると、外の空気はきれいに切り取られた。扉の内と外とで、空気の密度が違う。礼司はそのことにすぐ気づいた。外の空気は風に揺れ、鳥の声や庭木の擦れる音を孕んでいたが、内側は静まり返っていた。まるで音すら絵の具で塗り潰されたかのように、ただ柔らかい光だけが静かに漂っていた。薫が歩くたびに、床板が乾いた音を立てた。その後ろ姿を追いながら、礼司はゆっくりとアトリエの奥へと進んでいく。室内は広くはないが、天井が高いせいか閉塞感はない。壁にはいくつかの作品が架けられており、空いたスペースにはイーゼルや額縁、スケッチブックの山が無造作に置かれていた。家具はほとんどない。代わりに、光と匂いと気配が、部屋の隅々にまで染み込んでいる。「こっちです」薫が言った。礼司は足を止め、その声の先に目をやる。そこには、一枚の大きなキャンバスが壁に立てかけられていた。縁に施された金の木枠が、夕陽の反射でわずかに光る。キャンバスは未完のようにも見えた。だが、それが“完成”であるかのような存在感を放っていた。礼司は思わず息を呑んだ。画面に描かれていたのは、一人の裸の男だった。仰向けに寝そべり、右腕を頭の後ろに回し、左足をわずかに折り曲げている。体は細身で、だが筋肉のつき方には職業的な堅さがあった。腹部の起伏、腿の陰影、鎖骨から胸元へと流れる滑らかな線。すべてが、生々しく、それでいて…美しかった。だが、最も強く礼司の目を引いたのは、男の“顔”だった。目が描かれていない。いや、描かれてはいる。だがそれは、“眠っている”という以上に、“見られることを拒んでいる”ように見えた。まるで視線を持たない肉体。見ているのは、自分だけ。絵の中の彼は、誰の視線にも応じない。ただ、見られることを受け入れ、黙してそこに存在している。礼司は、一歩近づいた。足音を立てぬよう、自然と呼吸を浅くする。男の肌には、微かな体毛まで描かれていた。腹部にわずかに残る毛、脇腹に落ちた光の筋。その丁