Se connecterその次の日。今日は、空気が違う。社内が静かすぎる。いつもは、もう少し和やかなのに。全体的に、空気が張り詰めていて。デスクで資料の整理をしている人が目立つ。「伊藤さん」山川さんが小声で言う。「本社から監査チーム、今日来ます」「……今日ですか」「はい」早い。想定より。しかも、事前に連絡がなかった。今回の案件については。早めに動く想定だったので、準備はできている。ただ、直接チームが連絡なしに来るのは想定外で。あまりにも、いつもとは違った緊張感がある。それだけに、いよいよ始まってしまったのだと気づく。もう、戻れない。真実と向き合うタイミングが。来てしまったのだ。それでも。「……分かりました」もう迷わない。「伊藤」浅井さん。「準備できてる?」「はい」「ヒアリング入る」「想定内です」短く返す。でも。内心は、全く穏やかではない。(始まる)本当に。そのとき。スマホが震える。樹から。「……」一瞬だけ、出るのを迷う。でもでも取ることにした。「……何」『愛海』焦っている声。いつもよりも、切羽詰まっている。声色からだけでも、伝わってきた。『監査、もう止まらない』「知ってる」『全部壊れるんだよ、監査が入ると』「壊れるのはそっちでしょ」言い切る。沈黙。『……やめろ。とにかくやめてほしい』「理由は?」『……』「まだ、言えない?」『……言えない』「じゃあ無理だよ」「私は、ずっとこのときを」「あの日から待ってたの」「だから、私は樹には協力できない」切る。「……」手が少し震える。でも。止まらない。「高山?」浅井さん。「はい...樹からでした」「止めに来た?」「来ました」「遅いね、もう何もできないのに」短く言う。「……はい」「何かあったら報告して」「……わかりました」今回は、素直に答える。そして、午後になり。監査チームがあひるの支社に到着した。より、空気が張り詰める。監査チームも、会議室に入る。浅井さんが準備していた内容を揃えて。部屋に人が揃い、会議を進行した。いつもよりも、冷たい空気で。この異質な空気に少しだけ緊張する。それでも、質疑応答は止まらない。いくつかの質問が私にも問われる。「この取引についてですが」「はい」淡々と
あっという間に、次の日になってしまった。 「伊藤さん、これ今日お願いできる?」山川さんに呼ばれる。「はい」渡された資料を見た瞬間、言葉が止まる。“あひるの市 婚活イベント支援”「……これ、今日ですか?」「うん、急遽。市役所から」「地域再生プロジェクトの一環で」「若い女性の意見が役所から求められていて」「一番適切なのが伊藤さんなのよ」軽い。でも。断れない。(断れるわけない)仕事。今は全部、仕事。「……分かりました」そう答えるしかなかった。会場。地方のイベントホール。入口を入った瞬間、ざわつく。「え、あの人…」 「めっちゃ綺麗じゃない?」 「誰?」視線が一斉に集まる。「……」(最悪)完全に浮いている。でも。(仕事だから)そう言い聞かせる。昨日。あのキス。曖昧なままの距離。「仕事優先」自分で言った。だから。(余計なこと考えない)会場を見渡す。そのとき。「すみません」男性に声をかけられる。「関係者の方ですか?」「はい」「よかったら、少しお話ししませんか?」一瞬、迷う。でも。(ちょうどいい)距離を取る理由になる。「……少しだけなら」席に座る。向かいの男性が、一瞬固まる。「……え、あ、よろしくお願いします!」視線が完全にこちらに固定される。「すみません…こんなに綺麗な人とマッチングできるなんて思ってなくて…」素直すぎる反応。「……ありがとうございます」淡々と返す。「普段何されてるんですか?」「事業プロジェクトを統括してます」「すごいですね…」会話は普通。違和感がない。(こういうのが普通)曖昧じゃない。分かりやすい。「もしよかったら、この後も…」一瞬、間。そして。「はい」頷く。「え、本当ですか!」明るくなる表情。「じゃあ連絡先——」「交換しましょう」自分から言う。(これでいい)(とにかく数をこなす)調査の基本だ。とりあえず、市場は入れず。どれだけ連絡先を交換したか。どんな会話をするか。色々と今後に役に立ちそうなデータを集めて。たくさんの人と話すだけ。今日の仕事は。...これで終わる。あと、2、3人と会話したら帰ろう。その瞬間。「連絡先交換してもいいですか?」 「今日一緒に回りません?」 「仕事の話
翌朝。目が覚めた瞬間。最初に思い出したのは、資料でも、内部監査でも、みゆでもなかった。浅井さんのキスだった。「……」最悪。布団の中で、額に手を当てる。本当に、最悪だ。今じゃない。絶対に今じゃない。松村。TK Network。中間業者。内部監査。樹からの警告。全部が動いている。終わりが、目の前に見え始めている。なのに。唇の感触ばかり思い出す。あの、慣れた感じの触れ方。こちらの逃げ道を奪うくせに、雑じゃない距離。「……ずるい」思わず呟く。その瞬間、胸が少しだけ刺さる。誰にでもああなのか。それとも。そう考えた自分に、さらに腹が立つ。違う。そんなことを考えるためにここにいるんじゃない。支社に着く。いつもより少し早い。PCを開く。資料を出す。今日は、仕事だけする。そう決める。「伊藤」浅井さんの声。心臓が跳ねる。でも、顔には出さない。「……はい」振り向く。普通に。できていると思いたい。「内部監査に向けた資料、午前中に詰める」「分かりました」短く返す。浅井さんは、少しだけこちらを見る。昨日のことには触れない。何もなかったみたいに。それがまた、少しだけ腹立たしい。煮え切らない。キスしたのに。あんなことを言ったのに。でも、関係は何も定義されていない。仕事は続く。戦いも続く。じゃあ、何なのか。私は、何に巻き込まれているのか。仕事?復讐?浅井さん?全部?「……」資料に目を落とす。考えるな。今は、仕事。会議室。浅井さんと二人。PCを並べる。「この送金」浅井さんが言う。「内部監査に出すなら、補足がいる」「はい」「松村側に繋がる部分は、断定しない」「状況証拠として出す」「うん」淡々と会話が進む。本来なら、この時間は嫌いじゃない。むしろ、集中できる。でも。今日は無理だった。手が近い。声が近い。昨日の車内を思い出す。「……」「伊藤」「はい」「聞いてた?」「聞いてます」「嘘」即答。「……聞いてます」「じゃあ、今何て言った」「……」答えられない。浅井さんが小さく息を吐く。「昨日のこと?」その言い方。平然としている。こちらだけが乱れているみたいで、悔しい。「……仕事しましょう」「してる」「してないです
浅井さんと、距離を少しだけ取ると決めてから。次の日。「おはようございます」山川さんに声をかけられる。「……おはようございます」返事だけして、なるべくパソコンに集中。敢えて、作業で忙しいように装う。そうすれば、誰にでもそっけないように見える。でも、本当は。自分でも分かる。不自然だ。でも、今日は浅井さんと目を合わせられない。だから徹底して、周りと顔を見て会話をするのを避ける。...浅井さんだけに、そっけないと思わせないために。昨日言われた言葉。“気付いてるくせに”やっぱりあの一言が、ずっと残っていて。気にしないようにしていたが。言われた瞬間から、全部が変わってしまった。それなのに。本人は今日もいつも通りだった。その理由もわかっている。今が、その時ではないから。それでも、今。私との関係が曖昧にされているのは明確で。この関係のもどかしさを感じたくなくて。ただ少し。真相に近づきそうな今、距離を取りたい。だから、自分で動くことにしたのだ。「伊藤」低い声。心臓が跳ねる。「……はい」顔を上げないまま返す。「昨日の監査向け資料、確認した?」「共有フォルダに入れています」「見た」「……そうですか」「一部修正する」「分かりました」短く切る。それ以上、続けない。続けたくない。「……」沈黙。視線を感じる。でも見ない。「伊藤さん……?」山川さんが小さく呼ぶ。「大丈夫ですか?」「大丈夫です」即答した。早すぎた。山川さんが少しだけ黙る。たぶん、気づかれている。田中さんも、こちらをちらっと見る。職場の空気が微妙に揺れる。でも、無理だった。今日は...普通にできない。会議中も、浅井さんを見なかった。資料だけを見る。数字だけを見る。議論だけに入る。浅井さんが何か言っても、必要最低限で返す。「その根拠は?」「三ページ目です」「補足は?」「ありません」「……」浅井さんが一瞬黙る。空気が少しだけいつもと違う。でも、見ない。見たら、自分が終わる。仕事に集中しなきゃいけない。証拠は揃ってきている。内部監査も動いている。松村側も、樹も、もう完全にこちらを見ている。今、揺れてる場合じゃない。なのに。頭の中にいるのは、浅井さんだった。最悪だと思う。自分が。
朝、いつもと同じ時間にて支社に着く。いつも通り、変わらないスタート。ただ、空気が、少し違う。「……」席に着く。PCを開く。メール。未読がいくつか。その中に、一つだけ。差出人:本社内部監査室「……」クリックする。件名:補助金関連取引の確認について本文は短い。“該当案件について、追加資料の提出を依頼します”「……」始まった。思っていたより、早い。「伊藤」声。振り向く。浅井さん。「見た?」「はい」短く答える。「来たね」淡々と。でも。目は鋭い。「……想定より早いです」「うん」「誰かが動かした」「……」一瞬で理解する。みゆ。松村。それとも。「……高山かも」言葉に出る。浅井さんは、少しだけ視線を落とす。「あり得る」短く。「止めたいなら、今がタイミング」「……」そのとき。スマホが震える。樹。「……」少しだけ、呼吸が止まる。浅井さんが、視線を向ける。「出る?」「……出ます」席を立つ。廊下。通話を取る。「……何」『愛海』低い声。いつもより、余裕がない。『やめろ』「……何を」『分かってるだろ』即答。「分かってない」静かに返す。『内部監査が動いてる』「知ってる」『あれは止まらない』「……」『お前が思ってるより、上が絡んでる』「……」「だから?」少しだけ間。『やめろ』もう一度。「……」「それ、誰の言葉?」沈黙。『……』「樹の言葉?」さらに詰める。『……違う』やっと出る。「じゃあ誰の」『……言えない』「……」それで、十分だった。「……そっか」小さく言う。『愛海』声が少しだけ強くなる。『巻き込まれるぞ』「もう巻き込まれてる」即答。『……』「それに」少し、声が震えて止まる。「巻き込まれたまま終わる気はない」沈黙。『……変わったな』小さく言う。「うん」「変わった」はっきり言う。「もう、あの時の私じゃない」『……』「だから」続ける。「止まらない」通話が切れる。「……」しばらく、その場に立つ。胸が、少しだけ重い。でも、迷いはない。会議室に戻る。浅井さん。何も聞かない。ただ、視線だけ向ける。「……止めに来ました」自分から言う。「やめろって」「……」「誰の言葉かは
あひるの市に着いたのは、夜だった。支社の明かりは、ほとんど落ちている。会議室。二人だけしかいない。新幹線から戻って、そのまま。机の上には、資料とPC。「……これ」浅井さんが画面を指す。新しく開かれたデータ。中間業者の口座。その先。さらに細かく追われた資金の流れ。「……」息が止まる。「この振込」浅井さんの声は、いつも通り低い。「名義は別会社」「でも」次の画面。「最終的に戻ってる」「……」見える。はっきりと。中間業者 → 別法人 → TK Network関連口座。さらに。もう一段。松村側のファンドへ。「……これ」やっと声が出る。「完全に」「うん」浅井さんが頷く。「確定」短い一言。でも。重い。「……」手が、少し震える。ここまで来た。本当に。「……」「五年前と違う」浅井さんが言う。「今回は、線じゃなくて証拠がある」「……」「逃げられない」確信。「……」胸の奥が、じわりと熱くなる。「……伊藤」名前を呼ばれる。顔を上げる。距離が、近い。さっきまでより。少しだけ。近い。「ここからが本番」低く言う。「……はい」答える。でも。呼吸が浅くなる。距離。近い。「……」「新幹線で」浅井さんが続ける。「“会社と向き合う”って言ってたよね」「……はい」「本気で言ってる?」「……」一瞬、迷う。でも。「本気です」はっきり言う。「……」浅井さんが、ほんの少しだけ息を吐く。「じゃあ」一歩。さらに近づく。机も椅子も意味を失う距離。「覚悟して」低い声。「……」鼓動が速くなる。「……何を」「全部だよ」短く言う。「何が起きてたのか」「高山や松村とのことも」「それと」ほんのわずかに、間。「俺と過ごす時間も」「……」意味が、遅れて落ちる。逃げ場がなくない。これは、仕事だけの文脈じゃない。流石に、気づく。「……」浅井さんは視線を逸らさない。でも。ほんの少しだけ。揺れている。ほんの一瞬。言葉にしない不安が滲む。「……戻れないよ」静かに言う。それは警告じゃない。確認に近い。「……」その続きが来る前に、分かる。(確かめてる)(私が、本当に来るのか)「……分かってる?」低く続く。でも。さっきより







