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八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない
八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない
Sunny

第1話:何を手に入れても、君だけが足りない

last update Veröffentlichungsdatum: 02.08.2026 12:08:37

落札価格が十億円を超えた瞬間、会場の空気がわずかに変わった。

息を呑む音と、抑えきれないざわめき。

前方のスクリーンには、現実味のない数字が大きく表示されている。

壇上にあるのは、灰色の空と雪解け前の川を描いた一枚の油絵だった。

岸辺には、葉を落とした細い木が立っている。人影はない。

それでも、つい先ほどまで誰かがそこにいて、何も告げずに去ったような気配が残されていた。

エレナ・カワサキが二十二歳の頃に描いた初期作品。

世界が彼女を天才と呼ぶより前の絵だった。

「十二億」

神崎玲が静かに告げると、会場中の視線が集まった。

まだ三十二歳の若さで世界的な投資会社を率い、美術市場でも名を知られる男。

濃紺のスーツに身を包んだ姿は、異常な価格を提示した直後とは思えないほど落ち着いている。

少し離れた席から、別の札が上がった。

「十二億五千万」

玲は相手を確認することもなく、番号札を上げ直した。

「十三億」

迷いのない声だった。

競売人が会場を見回す。新たな札は上がらない。

木槌の音が響いた。

「十三億円で落札です」

拍手が起こり、驚きと羨望の入り混じった視線が玲へ向けられる。

けれど、玲の胸には何も生まれなかった。

また一枚、手に入った。

ただ、それだけだった。

「嬉しくないんですか?」

隣に座る宮永結衣が、小さく尋ねた。

肩を露出した黒いドレスに、光を受けて揺れるダイヤのイヤリング。

国内外で活躍する人気女優であり、玲との交際を何度も報じられている女性でもある。

実際には、財団の仕事で何度か同席しただけだった。

「欲しかったので、買いました」

「十三億も出して?」

「金額には意味がありません」

必要なら、二十億でも支払っただろう。

金額は玲にとって障害ではない。

仕事も、富も、名誉も、望めば大抵のものは手に入った。

美しい女性から好意を向けられることも珍しくない。

それでも、玲の内側は八年前から乾いたままだった。

壇上から運び出される絵を見つめる。

技術はまだ荒く、色にも若さがある。

後年のエレナの作品ほど、残酷なまでに完成されてはいない。

それでも、画面の奥に沈む孤独だけは、間違いなく彼女のものだった。

エレナ。

胸の中で名前を呼ぶと、乾いた場所に薄い痛みが残る。

八年前、彼女は死んだ。

遺体を見ることは許されなかった。

葬儀もなく、墓もない。

最後の言葉さえ交わせないまま、ただ死亡したという事実だけを告げられた。

それでも世界は、彼女の死を疑わずに進んだ。

生前には見向きもしなかった評論家が才能を語り、美術館は回顧展を企画した。

作品価格は跳ね上がり、エレナ・カワサキは「若くして亡くなった天才画家」として完成された。

玲だけが、何も終えられなかった。

「これで四十六枚目ですよね」

結衣の言葉に、玲はわずかに視線を動かした。

「よくご存じですね」

「有名な話ですから。エレナ・カワサキが残した作品を、ほとんど一人で集めたコレクター。残る一枚を、今も探している」

公式に確認されている作品は四十七枚。

玲が所有しているのは、そのうち四十六枚だった。

残るのは、エレナが死ぬ直前まで描いていたとされる最後の一枚。

題名も、現在の所有者も分からない。完成していたのかさえ、確かな記録は残っていない。

「最後の一枚が見つかったら、どうするんですか?」

結衣の問いに、玲は答えられなかった。

四十七枚が揃った部屋に、一人で立つ。

それから何をするのか。

満たされるのか。ようやく悲しめるのか。それとも、何も変わらないのか。

分からない。

ただ、最後の一枚を手に入れれば、エレナの死に形を与えられる気がしていた。

抜け落ちた部分を埋め、彼女がいない世界を探し続けることを、ようやくやめられるかもしれない。

***

オークション後のパーティーには、玲を祝う人間が次々に集まった。

落札価格を称賛され、事業の話を持ちかけられ、結衣との関係を冗談めかして聞かれる。

玲は必要なだけ笑い、必要な言葉を返した。

何一つ、心には残らなかった。

人の少ないバルコニーへ出ると、夜の東京が眼下に広がっていた。

無数の光が瞬いているのに、ガラス越しの街は精巧な模型のように見える。

昔、エレナと夜景を見たことがある。

どの街だったのか、すぐには思い出せなかった。

作品の色も、筆の運びも覚えている。

それなのに、本人の声や匂い、笑い方は少しずつ輪郭を失っている。

そのことが、何より怖かった。

だから、玲は作品を集めている。

失われていく記憶を、一枚ずつ絵で埋めるように。

背後で扉が開いた。

「神崎さん」

加瀬がタブレットを手に立っていた。

「先ほど、財団へ報告が入りました」

玲が振り返ると、加瀬は周囲に人がいないことを確認してから声を落とした。

「エレナ・カワサキの最後の一枚に関する情報です」

玲の指が、手すりの上で止まる。

何を手に入れても動かなかった心臓が、わずかに強く鳴った。

「続けてください」

「確証はありません。ただ、最後の一枚と寸法が一致する美術品が、数年前に国内の非公式な流通経路へ入った形跡があります」

画面に表示されたのは、海沿いの小さな町だった。

古い倉庫街と、小さな湾。玲には聞き覚えのない地名だった。

「三か月後、この町で国際アートフェスティバルが開催されます」

企画書には、海外財団やキュレーターの名前が並んでいる。

その中に、ジャン・モローの名があった。

エレナの才能を誰より早く見抜き、玲と同じように最後の一枚を追い続けている男。

港町。

国際アートフェスティバル。

ジャン・モロー。

そして、消えた最後の一枚。

偶然と呼ぶには、重なりすぎていた。

「現地の調査を始めてください」

「承知しました。フェスティバルへの出資依頼は、現在保留にしています」

玲は、地図に映る小さな港町を見つめた。

海辺に並ぶ古い建物。その一角に、行方不明の絵が眠っているかもしれない。

最後の一枚を手に入れれば、八年間続いた渇きを終わらせられる。

そう信じることだけが、玲をここまで生かしていた。

「出資条件も確認してください」

「神崎さんご自身が関わられますか?」

玲は迷わなかった。

「最後の一枚があるなら、僕が行きます」

この時の玲は、まだ知らなかった。

その港町で見つけるのが、探し続けた絵ではなく。

最後の一枚よりも、二度と手放せなくなる人だということを。

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