LOGIN珍しい。いつもなら。描くことへ繋がるものを、人前で持つことさえ避ける人なのに。けれど。それより先に聞きたいことがあった。「千早さんは?」エマの眉が僅かに寄る。「……なんで奏さんが出てくるんですか」困った顔。その表情すら。可愛いと思ってしまった。愛おしい。そこまで思って。玲は自分が相当に重症なのだと悟った。「カフェに行ったので」「カフェに?」「はい。食事に行ったと聞きました」エマが僅かに視線を逸らす。「……行きましたけど」「そうですか」それ以上。聞くべきではない。分かっているのに。何を食べたのか。どこへ行ったのか。楽しかったのか。千早に何を言われたのか。全部知りたい。もう二人で出かけないでほしい、となんの立場でもないのに。つい、言いたくなってしまう。けれど。それを口にすれば、今度こそ本当に嫌われそうだった。玲は意識して視線を落とした。そこで。改めて画材が目に入る。「それ」エマが僅かに腕を引いた。「画材ですよね」「……はい」「使い方は知らないって言ってませんでした?」先日の教室。浜中さんが持ってきた、欧州では比較的使われる画材。エマは見たこともないと言った。「試してみただけです」「初めてにしては」玲はケースの端に残った顔料を見る。綺麗に溶かされ。色が均一に乗っている。「随分、ちゃんと色が乗っていますね」エマの表情が固まった。「……たまたまです」また。困った顔をする。疑うべきなのに。追及すべきなのに。先に浮かんだのは。可愛い。だった。「困らせたくないんですけど」玲は思わず笑った。「その顔が可愛くて、つい」エマが玲を見る。耳が。僅かに赤くなった。「……趣味が悪いですね」玲は一瞬、黙ったあと。笑ってしまった。「それは否定できません」「渡したいものって何ですか」明らかに話を変えられた。それさえ。今は愛おしい。***玲は車から、小さな箱を取り出した。「これです」エマが受け取る。箱を開いた瞬間。瞳の色が変わった。欧州から取り寄せた顔料。先日教室で見ていたものと同じ系統のものを中心に。いくつか別の色も加えてある。「この間、ずっと見ていたでしょう」「……だからって」「僕が勝手に持ってきただけです」エマの指が、一つずつ容
玲がカフェへ着いた時には、すでに日が傾いていた。店内には数組の客が残っている。けれど。探していた姿はなかった。「いらっしゃいませ」声をかけてきたのは、何度か見かけた学生らしいスタッフだった。玲は店内を一度見回す。「エマさんは?」自分でも。挨拶より先に名前が出たことに気づいた。「あ、エマさんなら今日はもう上がりました」「もう?」「はい。店長と一緒に」胸の奥がざらつく。「千早さんと?」「そうです。今日は二人で食事に行くって」玲は黙った。食事。二人で。以前から千早がエマへ向ける視線には気づいていた。過保護だと言われるほど彼女を守り。近づく男を警戒している。その理由を。考えないようにしていただけだった。「神崎さん、何かご注文されますか?」「ああ……」声をかけられ、ようやくスタッフを見る。「いえ。今日は大丈夫です」「エマさんにご用事ですか?」「少し、渡したいものがあって」「急ぎなら連絡します?」「連絡先は知っています」答えながら。自分が知りたいのは、そんなことではないと気づく。「どこへ行ったか、分かりますか」女の子が目を丸くした。「ご飯ですか? そこまでは……」「そうですよね。すみません」玲は軽く頭を下げ、店を出た。***東京から運ばせた車に乗り込む。八年間乗り続けている、数少ない私物の一つだった。エンジンをかける。それでも、すぐには走り出せなかった。エマが。千早と二人で食事をしている。それだけのことが。どうして、こんなにも気に障るのだろう。自分は恋人でもない。気持ちを伝えたところで、答えをもらったわけでもない。彼女が誰と食事をしようと。何かを言える立場ではない。分かっている。だからこそ。余計に落ち着かなかった。玲はハンドルへ片手を置いたまま、スマートフォンを開いた。何度か文章を打って。消す。結局。余裕のある人間を装うことを諦めた。『僕がどうこう言える立場ではないことは分かっています』送る。『ただ、渡したいものがあります。待っています』少し迷って。もう一通。『少しでいいので、今日、時間をください』送信したあと。玲は深く息を吐いた。「……重症すぎる」自分でも笑えてくる。八年間。誰かから返事が来るかどうかで、こんなにも落ち着かなくなったこ
「それもあるんだけど」それも。エマは黙った。奏の指が、グラスの縁へ触れる。いつもなら。ここで踏み込まない人だった。けれど今日は。「仕事じゃなくても」静かな声が続く。「俺は、エマにこの町にずっといてほしいと思ってる」胸の奥が締まった。「……奏さん」「分かってる」奏が先に言った。「困らせたいわけじゃない」その言葉を。最近、別の人からも聞いた気がした。「エマが何を抱えてるのか、俺は知らないし。無理に聞くつもりもない」三年間。実際にそうしてくれた。「でも」奏の目が、まっすぐこちらを見る。「いつかいなくなる前提でいるのは、もう嫌だなって思い始めた」エマは視線を落とした。「俺は、エマに長く店を手伝ってほしい」穏やかな声。「それ以上に」わずかに言葉が途切れる。「近くにいてほしいと思ってる」告白ではない。けれど。もう、気づかないふりのできる言葉でもなかった。胸が痛む。奏のことは大切だった。この町で。朝倉エマとして生きる場所を作ってくれた人。何も聞かず。何も奪わず。三年間、そばにいてくれた。もし。自分が本当に朝倉エマとしてしか生きてこなかったなら。こういう人を好きになれたのかもしれない。そう思った瞬間。スマートフォンが震えた。エマは反射的に画面を見る。【神崎玲】心臓が。強く鳴った。見なければいい。今は奏といる。そう思ったのに。指が動いた。『僕がどうこう言える立場ではないことは分かっています』一度。そこで文章が切れている。続いて。『ただ、渡したいものがあります。待っています』さらに。もう一通。『少しでいいので、今日、時間をください』エマは画面を見つめた。いつもの玲なら。もっと逃げ道を残す。無理なら構いません。都合のいい時に。そんな言葉を添える人だった。今日は。ない。待っています。時間をください。明確に。自分へ来てほしいと言っている。「……神崎さん?」奏の声で。エマは顔を上げた。見られていた。「すみません」スマートフォンを伏せる。「仕事?」「……いえ」答えた瞬間。自分でも分かった。仕事ではない。だから。余計に困る。奏は何も聞かなかった。ただ。さっきまでより少しだけ寂しそうに、グラスへ視線を落とした。「行きたいなら
夕方。奏が選んだ店は、港から少し離れた高台にあった。古い洋館を改装したレストラン。海を見下ろす大きな窓と、長い年月を経た木の床。観光シーズンには数か月先まで予約が埋まる店だと、エマも知っていた。この町へ来て三年。何度か常連客から名前を聞いたことがある。けれど、自分が来る場所だと思ったことはなかった。「ここだったんですか」入口の前で、思わず奏を見る。「うん」「予約、取れないって聞きましたけど」「ああ」奏は何でもないことのように扉を開けた。「叔母の店だから」エマは足を止めた。「……奏さんの?」「言ってなかったっけ」「聞いてません」奏が少し笑う。「うちの親族、昔からこの辺で商売してるんだよ。ホテルとかレストランとか。観光客相手のところが多いけど」そういえば。千早という名字を、この町では時々見かける。海沿いのホテル。古い旅館を改装した宿泊施設。観光案内に必ず載っているレストラン。まさか。全部が繋がっているとは思わなかった。「奏さんも、そちらを継ぐ予定だったんですか?」「一応ね。でも、俺は小さい店を自分でやりたかったから」奏は自分のカフェを思い浮かべたのか、少し目を細めた。「今の店、好きなんだよね」その表情が。エマには、とても奏らしく見えた。***店内へ入ると、スタッフが奏を見るなり笑顔になった。「奏くん、久しぶり」「久しぶりです」「珍しいね。女の人連れてくるなんて」「余計なこと言わないで」奏が苦笑する。エマも曖昧に笑って、案内された席へ向かった。窓際の奥。夕暮れの海が一望できる席だった。「……いいんですか、こんな席」「空いてたから」「本当に?」「半分本当」その答えに、エマは笑ってしまった。奏と二人で店の外にいる。それだけなのに。いつものエプロン姿ではない奏は、少し違って見えた。けれど、居心地は悪くない。三年間。毎日のように顔を合わせてきた人だから。沈黙があっても、埋めようとしなくていい。料理が運ばれてくる。地元で獲れた魚。朝採れた野菜。エマが一口食べると、奏がこちらを見た。「美味しい?」「すごく」「よかった」その笑顔が。いつもより少しだけ嬉しそうだった。***食事が半分ほど進んだ頃。奏が仕事の話を始めた。「実はさ。店、もう一つ増やそうかと
玲の言葉は、こちらが逃げようとしても追いついてくる。自分の感情を認めてからは。隠す気さえない。奏は。ずっと逆だった。三年間。エマが話さないことには触れない。聞かれたくないことを察すれば、それ以上踏み込まない。困っていれば助けるのに。見返りを求めたこともなかった。その距離に。エマは甘えてきた。「最近さ」奏が、静かに続ける。「ちょっと思うところがあって」嫌な予感がした。「神崎さんのことですか?」先に聞くと。奏は少し驚いたあと、笑った。「やっぱり、そこは分かるんだ」「……何となく」「別に、あの人が嫌いなわけじゃないよ」奏はテーブルへ手をつき、少しだけ視線を落とした。「ちゃんとしてる人だと思う。エマに無理やり何かする人でもなさそうだし」一度。言葉を選ぶように黙る。「でも、エマがあの人を見る時だけ、ちょっと違うから」心臓が。嫌な音を立てた。「違う?」「うん」「そんなことは――」「分かってる」遮る声は、穏やかだった。「エマ自身が気づいてないこともあると思う」違う。気づいている。だから。困っている。玲を見ると。八年間押し込めてきたものが、簡単に動く。昔の玲を知っている自分と。今の玲に惹かれ始めている朝倉エマが。時々。自分の中で区別できなくなる。「神崎さんが来ると、警戒してる」奏が言う。「でも、本当に嫌な人を見る顔じゃない」エマは答えられなかった。奏は。そんなエマを見て。少しだけ笑った。「だから、ちょっと焦った」「……奏さん?」「俺、たぶんずっと」そこで。奏は言葉を止めた。エマの肩が、僅かに固くなったことに気づいたのかもしれない。その先を。言わなかった。代わりに。「いや」小さく息を吐く。「今日は言わない」エマは黙って奏を見る。その横顔に。初めて。三年間、見ないふりをしてきたものが、はっきりと見えた気がした。奏はエマの過去を聞かない。恋人がいるのかと尋ねたこともない。誰かを好きになるつもりはないのかと、踏み込んできたこともない。ただ。ずっと近くにいた。その優しさの意味を。エマは知らなかったわけではない。気づかないふりをしていただけだ。「とりあえず」奏がこちらを見る。いつもの穏やかな笑顔へ戻っている。「一回、飯行かない?」告白
カフェへ戻る頃には、夕方の光が海へ傾き始めていた。窓から差し込む西日が、木の床へ長い影を落としている。「おかえり」カウンターの奥から、奏が顔を上げた。「ただいま戻りました」エマは鞄を置き、エプロンをつける。「打ち合わせ、長かったね」「少しだけ。浜中さんもいらしていたので」「また何か持ってきた?」思わず、エマは奏を見た。「……どうして分かるんですか」「浜中さんが来ると、だいたい何か増えるから」奏が笑う。「今度は?」「海外の画材です。珍しいものだったので、一つ小林さんに渡していました」「へえ」奏はそれ以上聞かず、エマの前へ水を置いた。「飲んでから入って。今日、暑かったでしょう」「ありがとうございます」冷たい水を口に含む。その間にも。店内には、いつもの時間が流れていた。常連客の話し声。食器が重なる音。開いた窓から入り込む潮風。ついさっきまで玲と話していたことが。もう、少し遠い出来事のように感じる。半年。あの人は、この町にいる。その事実だけが。まだ胸のどこかへ引っかかっていた。***夕方の混雑が落ち着いた頃。エマはカウンターの中でグラスを拭いていた。「エマ」「はい」奏が、伝票を整理しながら声をかける。「神崎さん、しばらくこっちにいるの?」指が止まった。ほんの僅かな動きだったと思う。けれど。奏は昔から、こういうところをよく見ている。「……そうみたいです」エマはグラスへ視線を落としたまま答えた。「半年ほど、ビーチハウスを借りたそうです」「半年」奏が繰り返す。「フェスが終わっても?」「契約自体は、そうみたいですね」「へえ」それだけ。声の調子は変わらない。エマも、次のグラスへ手を伸ばした。「ずいぶん気に入ったんだね。この町」「どうでしょう」答えながら。玲の言葉が蘇る。――僕はエマさんのために、この町で過ごすことを決めたので。言えるはずがない。「フェスティバルへの出資もありますし。お仕事の都合ではないでしょうか」自分でも。少し苦しい説明だと思った。奏は何も言わなかった。ただ。伝票を揃えていた指が、一度だけ止まった。「今日も一緒だった?」「打ち合わせにいらしていました」「そっか」短い返事。それ以上、聞かれない。エマは少しだけ安心した。けれど。