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第5話:彼女が生きていた証拠

Author: Sunny
last update publish date: 2026-08-02 12:44:07

それから、どれくらい生きた心地のしない日々を過ごしただろうか。

玲が最初の一枚を購入したのは、エレナの死を告げられてから三か月後だった。

探していた最後の一枚ではない。

エレナが二十一歳の頃、世界に名を知られるより前に描いた、小さな油絵だった。

画廊から連絡を受けた時、玲は会社の会議室にいた。

壁一面の画面には、海外事業の進捗と投資先の業績が並んでいる。

玲はいつもどおり数字を確認し、判断の根拠を求め、次の期限を決めていた。

声も表情も、以前とほとんど変わらない。

少なくとも、周囲からはそう見えていた。

日常は途切れずに続いていた。

ただ、どの時間にもエレナがいなかった。

スマートフォンが震えるたび、一瞬だけエレナかもしれないと考える。

すぐに、もう連絡が来ることはないと思い出す。

三か月経っても、その瞬間には慣れなかった。

会議が終わり、最後に残った加瀬がタブレットを手に近づいてきた。

「エレナ・カワサキの作品について、連絡がありました」

それまで見ていた数字が、一瞬で意味を失った。

「どの作品ですか」

「初期作品です。個人所有でしたが、売却を検討しているそうです」

「最後の一枚では」

「ありません」

玲は小さく息を吐いた。

それでも、画廊の住所を見た時には、すでに予定を空けることを決めていた。

***

作品は、都内の小さな画廊の奥に置かれていた。

縦長のキャンバス。

後年の作品と比べれば、構図も色の重なりもまだ荒い。

それでも玲には、一目でエレナの絵だと分かった。

厚く残った絵の具と、迷うように掠れた筆先。

この色を、エレナが選んだ。

離れて見直し、また近づいて筆を置いた。

彼女が生きていた時間が、確かにここへ残っている。

そう思った瞬間、三か月間ほとんど動かなかった胸の奥に、わずかな感覚が戻った。

嬉しいわけではない。

満たされたわけでもない。

ただ、エレナが完全には消えていないと思えた。

「欧州へ渡る直前の作品です」

画廊の責任者が、少し離れた場所から説明した。

「売却後も、ご本人が何度か状態を気にされていた記録があります」

エレナが一度手放し、それでも気にかけていた絵。

玲は、森の中の人物を見つめた。

「所有者の希望額は」

提示された金額は、当時の評価を大きく上回っていた。

死後、エレナの作品価格は急激に上がっている。

玲が収集を始めたと知られれば、さらに吊り上げられる可能性もあった。

それでも、金額を聞き終える前に答えた。

「購入します」

「価格交渉は」

「必要ありません」

投資価値には興味がなかった。

ただ、この絵を再び知らない誰かの部屋へ戻したくなかった。

***

作品が自宅へ届くと、玲は使っていなかった一室を改装させた。

温度。

湿度。

照明。

警備。

すべてを作品の保存に合わせた。

家具も装飾も置かず、壁にはエレナの絵だけを飾った。

この一枚は、もう失われない。

誰かの都合で売られることも、所在が分からなくなることもない。

絵の具の盛り上がりへ目を凝らすと、アトリエで交わした言葉が蘇った。

『触らないで。まだ乾いてない』

『触らないよ』

『玲は、見る時に近すぎるの』

『細かいところまで見たいから』

『離れた方が分かることもあるよ』

忘れかけていた声が、少しだけ鮮明になる。

その夜、玲は久しぶりに数時間眠った。

朝まで一度も、繋がらない番号へ電話をかけなかった。

作品を手元へ置くことで、胸の空白がほんの僅かに塞がった。

その感覚が、始まりだった。

一か月後に二枚目を購入した。

三枚目。

四枚目。

美術館、個人コレクター、財団、閉鎖した画廊、海外の保税倉庫。

エレナの作品は世界中に散らばっていた。

玲の名を使って価格を吊り上げる者も、偽物を持ち込む者も現れた。

それでも、玲は止めなかった。

一枚手に入れるたび、エレナが生きていた時間を少しだけ取り戻せる気がした。

やがて一室では足りなくなり、専用の保管施設を作った。

公開するためではない。

自分の手元に置き、二度と失わないためだった。

作品の中には、玲の知らないエレナがいた。

一人で欧州へ渡った頃。

才能を認められながら、誰にも心を開かなかった頃。

玲の隣では自由に笑っていた人が、絵の中では驚くほど孤独だった。

一枚増えるたび、彼女へ近づいたように感じる。

同時に、生きていた本人へは二度と届かないと知らされる。

作品が増えるほど、足りないものの輪郭だけが濃くなっていった。

***

ジャン・モローと再会したのは、エレナが亡くなってから一年近く経った頃だった。

パリで開かれた財団のレセプション。

二人は自然にフランス語で話し始めた。

エレナが生きていた頃は、三人で食事をし、展示会のあとに酒を飲んだ。

エレナが途中で日本語へ変え、ジャンが分からないふりをして笑うこともあった。

彼女の死後、二人で会う機会は急に減った。

向き合えば、そこにいない一人の存在があまりにも鮮明になるからだった。

エレナの死後、二人はコレクターとして競う関係になっていた。

ジャンには欧州美術界の人脈があり、玲には資金と独自の調査網がある。

そして二人とも、エレナの作品だけは譲らなかった。

「君は絵を集めているんじゃない」

ジャンが玲を見据えた。

「彼女を、一枚ずつ閉じ込めようとしている」

玲は否定しなかった。

自分の知らない場所に置かれるより、そばに置きたかった。

見たい時に見られる。

もう失われない。

それは保存という言葉だけでは説明できなかった。

「ジャンさんも、同じではないんですか」

ジャンの目が僅かに揺れる。

玲は昔から気づいていた。

ジャンがエレナへ向けていたものは、才能への評価だけではない。

疲れて眠った彼女を誰にも起こさせなかったこと。

玲が触れた瞬間、ほんの僅かに視線を逸らしたこと。

ジャンも、エレナ本人を愛していた。

ただ、彼女が選んだのは玲だった。

だから誰も、その感情を言葉にしなかった。

「最後の一枚について、何か知っていますか」

玲が尋ねると、ジャンの表情が硬くなった。

「何も」

制作記録には、四十七番目の番号だけが残っている。

題名も、完成年もない。

アトリエにあった大きなキャンバスは、ある日突然消えた。

運送記録も。

売却記録も。

保管先も見つからない。

「僕も探したよ」

ジャンが静かに言う。

「画廊も、運送業者も、修復家も。それでも何もなかった」

「本当に存在したと思いますか」

「存在した」

迷いのない答えだった。

「エレナは、存在しない作品に番号を振らない」

玲も、同じことを思っていた。

「最後の一枚を見つけたら、終われると思っている?」

ジャンの問いに、玲は少し黙った。

「そうかもしれません」

「終われないよ。絵はエレナではない」

分かっている。

どれだけ集めても、声は聞こえない。

困った顔も、笑った時の瞳も戻らない。

それでも、ほかに何をすればいいのか分からなかった。

***

その夜、玲は作品が並ぶ展示室に立っていた。

奥には、何も飾られていない壁がある。

いつからか玲は、そこへ四十七番目の作品が入ることを考えるようになっていた。

題名も。

色も。

何が描かれているのかも分からない。

エレナの最後を知るはずなのに、その存在さえ確かめられない最大の空白。

「必ず、見つけます」

静かな部屋に、声だけが残った。

一枚手に入れた瞬間だけ、胸の空白は僅かに塞がる。

けれど、すぐに以前より深い乾きが戻ってくる。

そして、その空白は八年をかけて。

玲の中から、エレナ以外のすべてを欲しがる力を奪っていった。

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