LOGINそれから、どれくらい生きた心地のしない日々を過ごしただろうか。
玲が最初の一枚を購入したのは、エレナの死を告げられてから三か月後だった。
探していた最後の一枚ではない。
エレナが二十一歳の頃、世界に名を知られるより前に描いた、小さな油絵だった。
画廊から連絡を受けた時、玲は会社の会議室にいた。
壁一面の画面には、海外事業の進捗と投資先の業績が並んでいる。
玲はいつもどおり数字を確認し、判断の根拠を求め、次の期限を決めていた。
声も表情も、以前とほとんど変わらない。
少なくとも、周囲からはそう見えていた。
日常は途切れずに続いていた。
ただ、どの時間にもエレナがいなかった。
スマートフォンが震えるたび、一瞬だけエレナかもしれないと考える。
すぐに、もう連絡が来ることはないと思い出す。
三か月経っても、その瞬間には慣れなかった。
会議が終わり、最後に残った加瀬がタブレットを手に近づいてきた。
「エレナ・カワサキの作品について、連絡がありました」
それまで見ていた数字が、一瞬で意味を失った。
「どの作品ですか」
「初期作品です。個人所有でしたが、売却を検討しているそうです」
「最後の一枚では」
「ありません」
玲は小さく息を吐いた。
それでも、画廊の住所を見た時には、すでに予定を空けることを決めていた。
***
作品は、都内の小さな画廊の奥に置かれていた。
縦長のキャンバス。
後年の作品と比べれば、構図も色の重なりもまだ荒い。
それでも玲には、一目でエレナの絵だと分かった。
厚く残った絵の具と、迷うように掠れた筆先。
この色を、エレナが選んだ。
離れて見直し、また近づいて筆を置いた。
彼女が生きていた時間が、確かにここへ残っている。
そう思った瞬間、三か月間ほとんど動かなかった胸の奥に、わずかな感覚が戻った。
嬉しいわけではない。
満たされたわけでもない。
ただ、エレナが完全には消えていないと思えた。
「欧州へ渡る直前の作品です」
画廊の責任者が、少し離れた場所から説明した。
「売却後も、ご本人が何度か状態を気にされていた記録があります」
エレナが一度手放し、それでも気にかけていた絵。
玲は、森の中の人物を見つめた。
「所有者の希望額は」
提示された金額は、当時の評価を大きく上回っていた。
死後、エレナの作品価格は急激に上がっている。
玲が収集を始めたと知られれば、さらに吊り上げられる可能性もあった。
それでも、金額を聞き終える前に答えた。
「購入します」
「価格交渉は」
「必要ありません」
投資価値には興味がなかった。
ただ、この絵を再び知らない誰かの部屋へ戻したくなかった。
***
作品が自宅へ届くと、玲は使っていなかった一室を改装させた。
温度。
湿度。
照明。
警備。
すべてを作品の保存に合わせた。
家具も装飾も置かず、壁にはエレナの絵だけを飾った。
この一枚は、もう失われない。
誰かの都合で売られることも、所在が分からなくなることもない。
絵の具の盛り上がりへ目を凝らすと、アトリエで交わした言葉が蘇った。
『触らないで。まだ乾いてない』
『触らないよ』
『玲は、見る時に近すぎるの』
『細かいところまで見たいから』
『離れた方が分かることもあるよ』
忘れかけていた声が、少しだけ鮮明になる。
その夜、玲は久しぶりに数時間眠った。
朝まで一度も、繋がらない番号へ電話をかけなかった。
作品を手元へ置くことで、胸の空白がほんの僅かに塞がった。
その感覚が、始まりだった。
一か月後に二枚目を購入した。
三枚目。
四枚目。
美術館、個人コレクター、財団、閉鎖した画廊、海外の保税倉庫。
エレナの作品は世界中に散らばっていた。
玲の名を使って価格を吊り上げる者も、偽物を持ち込む者も現れた。
それでも、玲は止めなかった。
一枚手に入れるたび、エレナが生きていた時間を少しだけ取り戻せる気がした。
やがて一室では足りなくなり、専用の保管施設を作った。
公開するためではない。
自分の手元に置き、二度と失わないためだった。
作品の中には、玲の知らないエレナがいた。
一人で欧州へ渡った頃。
才能を認められながら、誰にも心を開かなかった頃。
玲の隣では自由に笑っていた人が、絵の中では驚くほど孤独だった。
一枚増えるたび、彼女へ近づいたように感じる。
同時に、生きていた本人へは二度と届かないと知らされる。
作品が増えるほど、足りないものの輪郭だけが濃くなっていった。
***
ジャン・モローと再会したのは、エレナが亡くなってから一年近く経った頃だった。
パリで開かれた財団のレセプション。
二人は自然にフランス語で話し始めた。
エレナが生きていた頃は、三人で食事をし、展示会のあとに酒を飲んだ。
エレナが途中で日本語へ変え、ジャンが分からないふりをして笑うこともあった。
彼女の死後、二人で会う機会は急に減った。
向き合えば、そこにいない一人の存在があまりにも鮮明になるからだった。
エレナの死後、二人はコレクターとして競う関係になっていた。
ジャンには欧州美術界の人脈があり、玲には資金と独自の調査網がある。
そして二人とも、エレナの作品だけは譲らなかった。
「君は絵を集めているんじゃない」
ジャンが玲を見据えた。
「彼女を、一枚ずつ閉じ込めようとしている」
玲は否定しなかった。
自分の知らない場所に置かれるより、そばに置きたかった。
見たい時に見られる。
もう失われない。
それは保存という言葉だけでは説明できなかった。
「ジャンさんも、同じではないんですか」
ジャンの目が僅かに揺れる。
玲は昔から気づいていた。
ジャンがエレナへ向けていたものは、才能への評価だけではない。
疲れて眠った彼女を誰にも起こさせなかったこと。
玲が触れた瞬間、ほんの僅かに視線を逸らしたこと。
ジャンも、エレナ本人を愛していた。
ただ、彼女が選んだのは玲だった。
だから誰も、その感情を言葉にしなかった。
「最後の一枚について、何か知っていますか」
玲が尋ねると、ジャンの表情が硬くなった。
「何も」
制作記録には、四十七番目の番号だけが残っている。
題名も、完成年もない。
アトリエにあった大きなキャンバスは、ある日突然消えた。
運送記録も。
売却記録も。
保管先も見つからない。
「僕も探したよ」
ジャンが静かに言う。
「画廊も、運送業者も、修復家も。それでも何もなかった」
「本当に存在したと思いますか」
「存在した」
迷いのない答えだった。
「エレナは、存在しない作品に番号を振らない」
玲も、同じことを思っていた。
「最後の一枚を見つけたら、終われると思っている?」
ジャンの問いに、玲は少し黙った。
「そうかもしれません」
「終われないよ。絵はエレナではない」
分かっている。
どれだけ集めても、声は聞こえない。
困った顔も、笑った時の瞳も戻らない。
それでも、ほかに何をすればいいのか分からなかった。
***
その夜、玲は作品が並ぶ展示室に立っていた。
奥には、何も飾られていない壁がある。
いつからか玲は、そこへ四十七番目の作品が入ることを考えるようになっていた。
題名も。
色も。
何が描かれているのかも分からない。
エレナの最後を知るはずなのに、その存在さえ確かめられない最大の空白。
「必ず、見つけます」
静かな部屋に、声だけが残った。
一枚手に入れた瞬間だけ、胸の空白は僅かに塞がる。
けれど、すぐに以前より深い乾きが戻ってくる。
そして、その空白は八年をかけて。
玲の中から、エレナ以外のすべてを欲しがる力を奪っていった。
ジャンが。 先に店を出る。「明日で最後だから、また来る」エマは。 カウンター越しに。「仕事してください」と返した。「してるよ」「ここに来るのは仕事じゃないでしょう」「僕には大事」「知りません」ジャンが。 楽しそうに笑って出ていく。玲は。 その背中を一度だけ見た。気に入らない。正直に。 そう思う。ジャンが。エマの知らない部分を。 自分より先に少し知っていること。フランス語で。 あんなふうに気軽に話すこと。けれど。ジャンがいなくなると。エマは。 玲の前へ戻ってきた。「ジャン、最近毎日来るんです」「そうみたいですね」「少し疲れます」思わず笑う。「楽しそうでしたよ」エマが。 少し首を傾げた。「そう見えました?」「はい」「……話しやすくはなりました」胸の奥が。 小さく沈む。でも。「遠慮する意味がない人なので」エマが続けた。玲は。 少し笑う。「それは分かります」「でしょう?」エマも笑う。今度は。 日本語。二人だけの会話だった。「神崎さんは?」「何ですか?」「最近、忙しいんでしょう」「かなり」「なのに来たんですね」「来たかったので」エマが。 少し黙る。玲は。 もう言葉を引っ込めない。「三日も来られなかったので」「三日くらいでしょう」「僕には長かったです」「……そういうの」エマが。 少し困ったように笑う。「本当に、普通に言うようになりましたね」「嫌ですか?」聞いた。エマの表情が。 僅かに止まる。以前なら。きっと。 すぐに答えた。困ります。 やめてください。そう言われても。 おかしくなかった。でも。「……慣れてきました」小さな声だった。玲は。 何も言えなくなる。たったそれだけ。好きだと言われることに。 慣れた。拒絶ではない。それだけで。三日間。 どれだけ会議をしても感じなかった疲れが。少しだけ。 ほどけていく。「それは」玲は。 笑った。「かなり嬉しいです」「そうですか」「はい」エマが。 また少しだけ笑う。その顔を見て。玲は思った。もっと。 この人と話したい。こんなふうに。誰かがいる場所ではなく。二人で。*ビーチハウスへ戻る車の中。次の会議まで。 四十分。加瀬から。
「玲」ジャンが。 呆れたように笑った。「君、相変わらずだね」今度は。 フランス語だった。玲も。 そのまま返す。「何が?」「重い」「知ってる」「自覚あるんだ」「かなり」コーヒーを準備していたエマが。 フランス語で口を挟んだ。「自覚があるなら、少しは直してください」玲の手が。 僅かに止まる。フランス語。それ自体は。 以前にも聞いている。でも。今の言い方。明らかに。 以前より砕けていた。「……今」思わず。 口から出た。「何ですか?」エマも。 そのままフランス語で返す。「少し、話し方が違いましたね」「そうですか?」「はい」「ジャンがいるからじゃないですか」ジャンが笑う。「僕のおかげ?」「違う」エマが即答する。「あなたに丁寧に話しても疲れるから」「ひどいな」「事実でしょう」「玲、最近ずっとこんな感じだよ」ジャンが。 楽しそうに言った。玲は。 エマを見る。「ずっと?」「ジャンが毎日来るので」エマが。 少し面倒そうに答える。「もう丁寧に話すのを諦めました」「最初はもっと冷たかった」「今も十分冷たいです」「今はだいぶ優しい」「気のせいです」二人のやり取り。自分の知らないところで。ジャンとエマが。 こんなふうに話すようになっていた。胸の奥が。 ざらつく。「玲もそう思うでしょう?」ジャンに振られる。「何がですか」「僕は面倒じゃない」エマが。 先に玲を見る。「それは嘘です」反射的に。 玲は笑った。そして。エマも。 一瞬だけ笑った。「ほら。二対一」「納得いかないな」「諦めてください」エマが。 フランス語のまま。 さらりと言う。その瞬間。ざらついていたものが。 少しだけ形を変えた。楽しい。ただ。 それだけだった。エマが。 自分に対して少し砕けて話した。一緒に。 ジャンをからかった。ほんの数秒。それだけなのに。 嬉しい。エレナを失ってから。仕事。 投資。 作品。 女性。 旅行。何をしても。一定以上。 心が動くことはなかった。なのに。エマに関してだけ。三日会えない。 寂しい。少し笑われる。 嬉しい。他の男が近い。 嫌
*** ジャンが帰る予定の、二日前だった。まだ残って行って欲しい仕事がある。だからこそ、後一日延ばせないか連絡したものの。まだちゃんとした返事が来ていなかった。でも、そんなことはどうでもよくて。 ここ数日。玲は、思っていた以上にカフェへ行けていなかった。港町へ拠点を移せば。 東京にいるよりは、少し時間ができると思っていた。完全に見込み違いだった。リモートに切り替えたことで。 移動時間が消えた。そして。 その空いた時間へ。 会議が容赦なく詰め込まれた。朝はニューヨーク。 昼間は国内。 夕方から夜はヨーロッパ各所。ビーチハウスの窓から海が見えているのに。ここ三日。 昼間の海をまともに眺めた記憶すらなかった。「次、三十分後です」画面越しに加瀬が言う。「分かっています」「その後、一時間空いてますけど」玲の目が。 予定表の空白へ落ちた。「そこは入れないでください」「珍しいですね」「予定があります」「何の?」「私用です」加瀬が。 少しだけ眉を上げる。「この三日、同じこと言って全部潰れてますけど」「だから今日は潰さないでください」思ったより。 強い声が出た。加瀬は数秒黙ってから。「了解です」とだけ答えた。画面が切れる。玲は。 椅子の背へ身体を預けた。疲れている。でも。一時間半。 あれば行ける。エマに会える。そう思っただけで。 少し気分が軽くなった。自分でも。 単純だと思う。スマートフォンを手に取る。エマとのやり取りは。 相変わらず多くない。最初は。 ほとんど業務連絡だけだった。『展示導線の変更、確認しました』『ありがとうございます』それだけ。けれど。 最近は。少しずつ。 余計な一言が増えた。昨日も。 フェスティバルの資料についてやり取りしたあと。『今日、海がすごく綺麗です』エマから。 そんなメッセージが来た。玲は。 窓の外の海を撮って。『こちらからも綺麗に見えます』と返した。しばらくして。『同じ海なので当然ですね』返ってきた文章を見て。 一人で笑った。ほんの少し。エマの言葉が。 自分に対して柔らかくなった。それだけのことが。 妙に嬉しい。自分の気持ちは。 もう隠していない。好きだと。 惹かれていると。 あな
その夜も倉庫へ行った。疲れている。明日は朝から仕事。分かっているのに。どうしてもキャンバスを見たかった。棚の奥から、ゆっくりと引き出す。海。そして。まだ輪郭しかない、一人の男。玲。ずっと前から描いている。完成させないために。少しずつ描いているような絵だった。この町の海なのに。光の入り方には、八年前。玲と一緒に見た海が混ざっている。だからこそ、絶対に玲には見せられない。それでも。最近、この絵の色が急に動き始めた。ジャンと展示について話す。光について。余白について。作品と作品の間に。何を残すのかについて。その度に。倉庫へ来ると。試したいことが増えている。「……嫌だな」誰もいない空間で小さく笑った。認めたくない。でも、明らかにジャンに触発されている。エレナだった頃。絵について、遠慮なくぶつかれる人間は。多くなかった。ジャンはその数少ない一人だった。そして今。エマとしてもう一度、その刺激を受けている。ただ。描かれるものは、昔とは違う。筆を取る。昨日置いた、濁った緑を見る。今日はその上に薄い青を重ねる。少し離れる。違う。もう少し暗い。でも、黒にはしたくない。何色かを混ぜる。置く。「……」呼吸が止まった。海が一段深くなった。そして。その海の前にいる玲の輪郭が。昨日よりずっと孤独に見えた。胸が痛んだ。「違う」思わず、声に出す。孤独にしたいわけではない。でも、消すこともできなかった。この絵の玲には。八年前。私が置いていった人が混ざっている。今。目の前でエマに惹かれている玲と。エレナを失った玲。二人が、同じ輪郭の中にいる。だから描き切れない。それでも、筆を置けなかった。一時間。 二時間。気づけば日付が変わっていた。少し離れた場所から、キャンバスを見る。エレナとは、全く違う。昔の私はもっと一つの感情を強く描いた。今は。違うものが。同じ色の中に重なっている。奏への穏やかな感謝。町への愛着。玲への言葉にできない感情。過去への痛み。そして。もう一度、描けるようになったことへの。怖いほどの喜び。それが。少しずつ、今の自分の作風になっている。完成させたい。初めて、はっきりとそう思った。残したいとは、まだ思えない。誰かに見
翌日。「エマ」ジャンがカウンター越しに私の手を見る。「何ですか」「爪」反射的に、手を引いた。「何が」「色ついてる」親指の爪の脇。昨日使った顔料が僅かに残っていた。「掃除です」「何の?」「なんでもいいでしょう」「うん」意外にもジャンはそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ目を細める。その顔が嫌で。「何ですか」「別に」「なら見ないでください」「君、本当に僕には容赦ないね」「しつこいからです」「それも慣れた」「良かったですね」コーヒーを置く。ジャンが笑う。「そういうところ、エレナとは——」「ジャン」少し低く名前を呼ぶ。言葉が止まった。「前にも言いましたよね」「……はい」「似てるのか何なのか知りませんけど」カップを彼の前へ押す。「別人の故人の話を、私に当てはめないでください」「分かった」今日は素直に引いた。「ならいいです」背を向けようとすると。「でも」また声がする。「今の君の方が面白いよ」足を止める。振り返る。「何と比べてるんですか」「比べてない」「今、比べたでしょう」「言い方が悪かった」珍しくジャンが少し考える。「エマという人間が、思っていたより面白い」「そうですか」「反応薄いな」「あなたに興味を持たれて喜ぶ理由がないので」数秒、ジャンが黙る。そして小さく笑った。「本当に久しぶりだな」「何がですか」「僕にそんな態度取る人」「周りに気を遣わせすぎなんですよ」「多分ね」「改善してください」「それは難しい」「なら知りません」私が離れる。後ろで、ジャンがまた笑っていた。「楽しそうだね」声がして、顔を上げる。奏がいた。「誰がですか」「エマ」「そう見えます?」「うん」奏は、ジャンへ一度だけ視線を向けた。以前なら、それで終わった。最近は終わらない。「結構、仲良くなったね」「毎日来るので、慣れただけです」「そっか」穏やかに笑う。その目が、少しだけ寂しそうに見えた。「今日、何時まで?」「七時です」「じゃあ俺もそのくらいに上がる」「何かあります?」「送る」「歩いて帰れます」「知ってる」すぐに返される。少し困ったように笑った。「でも、俺が送りたい」「……」奏は、少し変わった。いや。多分、態度がわかりやすくなった
ジャンは、翌日も来た。その次の日も。その日は、玲と一緒に来ていた。四日目になると。 入口のベルが鳴っても、私は顔を上げなくなっていた。「いつもの?」コーヒーマシンの前から聞く。「まだ何も言ってないけど」「違うものなら先に言ってください」「いつもので」「はい」カップを用意する。ジャンは当然のように、いつものカウンター席へ座った。ここ数日。午前中は美術館。 午後はヨーロッパ側との調整。その隙間を縫うように、一日に一度はカフェへ来る。忙しい日は十分。 時間があれば三十分。最初の二日は警戒していたのに。毎日顔を合わせているうちに。 私の方も、少しずつ慣れてしまった。「そんなに暇なんですか」二日目に聞いたら。「暇に見える?」と返された。「見えないから聞いてます」「なら、時間を作ってるんだよ」「どうして」「君が面白いから」あっさり言われた。玲に同じことを言われたら。 その言葉の裏にある感情まで考えてしまう。でもジャンは違う。面白いから。 知りたいから。 話す。少なくとも今は。 それだけだった。だからこそ。 私も少しだけ楽だった。*「今日は随分遅いですね」午後四時を回っていた。「展示室で揉めた」「また?」「僕が悪いみたいに言わないで」「毎回いるなら、原因の一部ではあるでしょう」「照明を妥協しろと言われた」「それは嫌ですね」即答すると。 ジャンの眉が上がった。「そこは僕の味方?」「作品の味方です」「冷たいな」「何を期待してるんですか」コーヒーを置く。ジャンが笑った。「見て」差し出されたスマートフォンには。 同じ作品を異なる照明で撮った二枚の写真。「どっち?」「……右」「早いね」「写真だけなら」画面を少し近づける。「左は色が綺麗に出すぎてます」「綺麗なのは悪い?」「この作品なら」少し考える。「影が残った方がいいと思います」「どうして」「最初に色を見せすぎると、それだけで満足する人がいるので」指で画面を拡大する。「少し沈ませた方が、表面の色じゃなくて、その下にある層を見ようとするでしょう」言ってから。 気づいた。少し話しすぎた。ジャンの指が、画面の上で止まっている。「……何ですか」「いや」私を見る。「やっぱり面白いなと思って」







