เข้าสู่ระบบ朝倉エマは、SNSを見ない。
かつては、新しい展示を追い、知らない画家の才能に嫉妬し、評論家の言葉に腹を立てた。
名前が広がるほど、世界中から次の作品を期待された。
天才は、次も天才でいられるのか。
その視線は、すべてエレナ・カワサキへ向けられていた。
今のスマートフォンに入っているのは、天気予報と地図、仕事に必要なアプリだけ。
美術界の記事も、芸能人のニュースも見ない。
港町へ来て、三年。
朝は漁船の音で目を覚まし、窓を開ければ潮の匂いが入る。
坂を下れば、商店街の人たちが自然に名前を呼んだ。
「エマちゃん、おはよう。形の悪いトマトがあるから、帰りに持っていきな」
「ありがとうございます」
「奏くんに渡しておくね」
勤め先まで説明する必要もない。
最初の頃は、話しかけられるたび身体が固くなった。
どこから来たのか。
家族はいるのか。
以前は何をしていたのか。
けれど、この町の人たちは、答えなければそれ以上踏み込まなかった。
翌日には、天気や魚の話をしている。
その無関心に近い優しさが、少しずつ心地よくなった。
海沿いのカフェへ入ると、コーヒーの香りがした。
開店前の店内で、千早奏が豆を量っている。
「おはようございます、奏さん」
「おはよう、エマ」
この町で生まれ育ち、数年前に店を継いだ奏は、背が高く整った顔立ちをしている。
観光客の間では、海辺のカフェの格好いい店長として少し知られているらしい。
エマは常連客から聞くまで、そのことさえ知らなかった。
奏は三年間、余計なことを聞かずにいてくれた人だった。
「八百屋さんから、またトマトをいただきました」
「昨日も同じことを言って持ってきたよ。今日のランチに使おうか」
「はい」
エマはエプロンをつけ、肩までの黒髪を低くまとめた。
鏡に映るのは、細かなそばかすと控えめな化粧をした女性。
長い金髪で雑誌や展覧会の写真に写っていた女とは、まるで違う。
変えられなかったのは瞳だけだった。
琥珀と淡い茶色の中に、光を受けると薄い緑が浮かぶ。
胸元には幼い頃の傷があり、今はその上をタトゥーが覆っている。
玲だけが、その傷を知っていた。
記憶が浮かびそうになり、エマはエプロンの紐を結び直した。
玲のことは考えない。
八年前から、そうしてきた。
開店すると、いつもの客が入ってきた。
港で働く男性。近所の老夫婦。犬の散歩帰りにコーヒーを買う女性。
「エマちゃん、今日も綺麗ね」
「朝から何ですか」
「三年もいるんだから、もうずっといてね」
軽い言葉だった。
それでも、胸の奥へ静かに残った。
以前のエマは、どこへ行っても荷物を増やさなかった。
いつ移動を命じられてもいいように、人と深く関わらず、住んだ場所を帰る場所だと思わない。
それが、生き延びるための習慣だった。
けれど、この町では少しずつ物が増えた。
お気に入りのカップ。
朝市で買った小さな皿。
子どもたちからもらった絵。
冷蔵庫へ貼った祭りの案内。
気づけばエマは、どこからか来た知らない女ではなくなっていた。
カフェで働く、少し静かな美人さん。
子どもたちへ絵を教える、人気の先生。
朝倉エマとして、ここにいていいと思わせてくれる場所だった。
午後には、月に二度のアート教室が始まった。
町には絵を習える場所が少ない。
黒板を描けるなら、子どもたちにも教えてみないかと奏に誘われたのが始まりだった。
最初は断った。
人前で絵を描くことも、自分の技術を知られることも避けたかった。
けれど、子どもたちの手伝いをするだけなら。
そう自分へ言い聞かせて引き受けた一度が、今では町で人気の教室になっている。
「エマ先生、海、紫でもいい?」
女の子の画用紙には、紫の海と緑の太陽、赤と黄色の魚が描かれていた。
「もちろん」
「本当の海と違うよ」
「あなたが紫に見えたなら、紫でいいの」
子どもたちは、正しい色を探さない。
売れるか。
評価されるか。
新しいか。
そんなことは考えず、描きたいものを描く。
その姿を見るたび、胸の奥に懐かしさと痛みが生まれた。
かつては、自分もそうだった。
「エマ先生は、海が何色に見える?」
窓の外には、午後の光を受けた海が広がっている。
青。灰色。緑。反射する白。
「今日は、少し銀色かな」
女の子は嬉しそうに席へ戻った。
エマは、自分の線を子どもの絵へ混ぜない。すぐに答えを与えず、本人が選ぶまで待つ。
その時間だけ表情が柔らかくなることを、奏は知っているらしかった。
「エマも、あの時間は楽しそうだね」
片づけを手伝いながら、奏が言う。
「そう見えますか」
「見える」
奏はそれ以上、なぜ自分では作品を描かないのかを聞かなかった。
「今日はもう上がっていいよ。最近、少し寝不足でしょう」
エマの指が僅かに固くなる。
「ありがとうございます、奏さん」
店を出たエマは、家とは反対の方向へ歩いた。
古い倉庫街を抜けた先に、小さなプレハブ倉庫がある。
半年前から借りている、誰にも話していない場所だった。
奏にも。
町の人にも。
子どもたちにも。
扉を閉め、内側から補助錠を下ろす。
中には画材と、大きなキャンバスが置かれていた。
絵は描かない。
八年前、そう決めた。
黒板は消える。
教室では、子どもの絵を手伝うだけ。
そこまでは許せると思っていた。
けれど最近、夜になると指が落ち着かなかった。
海の色。
カフェの窓へ差す光。
子どもたちが迷わず置く色。
町の人の声。
朝倉エマとして暮らした三年間が、描きたいものとして身体の中へ溜まっていった。
ある夜、耐えられずに筆を一本買った。
次の日には絵の具。
その次にはキャンバス。
気づけば、倉庫まで借りていた。
エマは布を外した。
描きかけの作品は、海のようにも、人の身体の内側のようにも見える。
以前のエレナの絵とは違っていた。
エレナの絵は、美しくても見る人を画面の外へ置いた。
今の絵には、港町の光と人の温度が混じっている。
朝倉エマとして得たものが、かつての鋭さを少しずつ変えていた。
筆を握ると、呼吸が静かになる。
八年間描いていなかったとは思えないほど、手は迷わなかった。
技術が残っていたのではない。
描かなかった時間そのものが、別の形へ育っていた。
もっと描きたい。
まだ足りない。
その衝動は、もう抑えられなかった。
ようやく筆を置き、数歩下がる。
描けている。
胸の奥が熱くなり、すぐに冷えた。
この絵は、誰にも見せられない。
エレナの作品とは違う。
それでも、見る人が見れば気づくかもしれない。
色の作り方。
画面の奥行き。
迷いのない筆。
姿や名前を変えても、作品には自分が出る。
完成したあと、どうするのか。
隠し続けるのか。
壊すのか。
燃やすのか。
まだ決めていない。
エマがキャンバスへ布をかけた時、スマートフォンが震えた。
保護担当者からだった。
『三か月後の国際アートフェスティバルについて、注意が必要です』
続けて、もう一通届く。
『神崎玲が、主催者との接触を始めました』
エマの呼吸が止まった。
八年間、検索しなかった名前。
知らないままにしてきた人。
さらに表示された文章を見て、指先が冷える。
『ジャン・モロー氏も、同フェスティバルの後援を検討しています』
玲とジャン。
エレナの顔だけではなく、作品を誰より深く知る二人。
その二人が、この小さな港町へ来るかもしれない。
エマは、布をかけたキャンバスを見た。
三年かけて馴染んだ町。
初めて帰る場所だと思えた生活。
そのすぐ近くまで。
八年前に置いてきた過去が、もう迫り始めていた。
ジャンが。 先に店を出る。「明日で最後だから、また来る」エマは。 カウンター越しに。「仕事してください」と返した。「してるよ」「ここに来るのは仕事じゃないでしょう」「僕には大事」「知りません」ジャンが。 楽しそうに笑って出ていく。玲は。 その背中を一度だけ見た。気に入らない。正直に。 そう思う。ジャンが。エマの知らない部分を。 自分より先に少し知っていること。フランス語で。 あんなふうに気軽に話すこと。けれど。ジャンがいなくなると。エマは。 玲の前へ戻ってきた。「ジャン、最近毎日来るんです」「そうみたいですね」「少し疲れます」思わず笑う。「楽しそうでしたよ」エマが。 少し首を傾げた。「そう見えました?」「はい」「……話しやすくはなりました」胸の奥が。 小さく沈む。でも。「遠慮する意味がない人なので」エマが続けた。玲は。 少し笑う。「それは分かります」「でしょう?」エマも笑う。今度は。 日本語。二人だけの会話だった。「神崎さんは?」「何ですか?」「最近、忙しいんでしょう」「かなり」「なのに来たんですね」「来たかったので」エマが。 少し黙る。玲は。 もう言葉を引っ込めない。「三日も来られなかったので」「三日くらいでしょう」「僕には長かったです」「……そういうの」エマが。 少し困ったように笑う。「本当に、普通に言うようになりましたね」「嫌ですか?」聞いた。エマの表情が。 僅かに止まる。以前なら。きっと。 すぐに答えた。困ります。 やめてください。そう言われても。 おかしくなかった。でも。「……慣れてきました」小さな声だった。玲は。 何も言えなくなる。たったそれだけ。好きだと言われることに。 慣れた。拒絶ではない。それだけで。三日間。 どれだけ会議をしても感じなかった疲れが。少しだけ。 ほどけていく。「それは」玲は。 笑った。「かなり嬉しいです」「そうですか」「はい」エマが。 また少しだけ笑う。その顔を見て。玲は思った。もっと。 この人と話したい。こんなふうに。誰かがいる場所ではなく。二人で。*ビーチハウスへ戻る車の中。次の会議まで。 四十分。加瀬から。
「玲」ジャンが。 呆れたように笑った。「君、相変わらずだね」今度は。 フランス語だった。玲も。 そのまま返す。「何が?」「重い」「知ってる」「自覚あるんだ」「かなり」コーヒーを準備していたエマが。 フランス語で口を挟んだ。「自覚があるなら、少しは直してください」玲の手が。 僅かに止まる。フランス語。それ自体は。 以前にも聞いている。でも。今の言い方。明らかに。 以前より砕けていた。「……今」思わず。 口から出た。「何ですか?」エマも。 そのままフランス語で返す。「少し、話し方が違いましたね」「そうですか?」「はい」「ジャンがいるからじゃないですか」ジャンが笑う。「僕のおかげ?」「違う」エマが即答する。「あなたに丁寧に話しても疲れるから」「ひどいな」「事実でしょう」「玲、最近ずっとこんな感じだよ」ジャンが。 楽しそうに言った。玲は。 エマを見る。「ずっと?」「ジャンが毎日来るので」エマが。 少し面倒そうに答える。「もう丁寧に話すのを諦めました」「最初はもっと冷たかった」「今も十分冷たいです」「今はだいぶ優しい」「気のせいです」二人のやり取り。自分の知らないところで。ジャンとエマが。 こんなふうに話すようになっていた。胸の奥が。 ざらつく。「玲もそう思うでしょう?」ジャンに振られる。「何がですか」「僕は面倒じゃない」エマが。 先に玲を見る。「それは嘘です」反射的に。 玲は笑った。そして。エマも。 一瞬だけ笑った。「ほら。二対一」「納得いかないな」「諦めてください」エマが。 フランス語のまま。 さらりと言う。その瞬間。ざらついていたものが。 少しだけ形を変えた。楽しい。ただ。 それだけだった。エマが。 自分に対して少し砕けて話した。一緒に。 ジャンをからかった。ほんの数秒。それだけなのに。 嬉しい。エレナを失ってから。仕事。 投資。 作品。 女性。 旅行。何をしても。一定以上。 心が動くことはなかった。なのに。エマに関してだけ。三日会えない。 寂しい。少し笑われる。 嬉しい。他の男が近い。 嫌
*** ジャンが帰る予定の、二日前だった。まだ残って行って欲しい仕事がある。だからこそ、後一日延ばせないか連絡したものの。まだちゃんとした返事が来ていなかった。でも、そんなことはどうでもよくて。 ここ数日。玲は、思っていた以上にカフェへ行けていなかった。港町へ拠点を移せば。 東京にいるよりは、少し時間ができると思っていた。完全に見込み違いだった。リモートに切り替えたことで。 移動時間が消えた。そして。 その空いた時間へ。 会議が容赦なく詰め込まれた。朝はニューヨーク。 昼間は国内。 夕方から夜はヨーロッパ各所。ビーチハウスの窓から海が見えているのに。ここ三日。 昼間の海をまともに眺めた記憶すらなかった。「次、三十分後です」画面越しに加瀬が言う。「分かっています」「その後、一時間空いてますけど」玲の目が。 予定表の空白へ落ちた。「そこは入れないでください」「珍しいですね」「予定があります」「何の?」「私用です」加瀬が。 少しだけ眉を上げる。「この三日、同じこと言って全部潰れてますけど」「だから今日は潰さないでください」思ったより。 強い声が出た。加瀬は数秒黙ってから。「了解です」とだけ答えた。画面が切れる。玲は。 椅子の背へ身体を預けた。疲れている。でも。一時間半。 あれば行ける。エマに会える。そう思っただけで。 少し気分が軽くなった。自分でも。 単純だと思う。スマートフォンを手に取る。エマとのやり取りは。 相変わらず多くない。最初は。 ほとんど業務連絡だけだった。『展示導線の変更、確認しました』『ありがとうございます』それだけ。けれど。 最近は。少しずつ。 余計な一言が増えた。昨日も。 フェスティバルの資料についてやり取りしたあと。『今日、海がすごく綺麗です』エマから。 そんなメッセージが来た。玲は。 窓の外の海を撮って。『こちらからも綺麗に見えます』と返した。しばらくして。『同じ海なので当然ですね』返ってきた文章を見て。 一人で笑った。ほんの少し。エマの言葉が。 自分に対して柔らかくなった。それだけのことが。 妙に嬉しい。自分の気持ちは。 もう隠していない。好きだと。 惹かれていると。 あな
その夜も倉庫へ行った。疲れている。明日は朝から仕事。分かっているのに。どうしてもキャンバスを見たかった。棚の奥から、ゆっくりと引き出す。海。そして。まだ輪郭しかない、一人の男。玲。ずっと前から描いている。完成させないために。少しずつ描いているような絵だった。この町の海なのに。光の入り方には、八年前。玲と一緒に見た海が混ざっている。だからこそ、絶対に玲には見せられない。それでも。最近、この絵の色が急に動き始めた。ジャンと展示について話す。光について。余白について。作品と作品の間に。何を残すのかについて。その度に。倉庫へ来ると。試したいことが増えている。「……嫌だな」誰もいない空間で小さく笑った。認めたくない。でも、明らかにジャンに触発されている。エレナだった頃。絵について、遠慮なくぶつかれる人間は。多くなかった。ジャンはその数少ない一人だった。そして今。エマとしてもう一度、その刺激を受けている。ただ。描かれるものは、昔とは違う。筆を取る。昨日置いた、濁った緑を見る。今日はその上に薄い青を重ねる。少し離れる。違う。もう少し暗い。でも、黒にはしたくない。何色かを混ぜる。置く。「……」呼吸が止まった。海が一段深くなった。そして。その海の前にいる玲の輪郭が。昨日よりずっと孤独に見えた。胸が痛んだ。「違う」思わず、声に出す。孤独にしたいわけではない。でも、消すこともできなかった。この絵の玲には。八年前。私が置いていった人が混ざっている。今。目の前でエマに惹かれている玲と。エレナを失った玲。二人が、同じ輪郭の中にいる。だから描き切れない。それでも、筆を置けなかった。一時間。 二時間。気づけば日付が変わっていた。少し離れた場所から、キャンバスを見る。エレナとは、全く違う。昔の私はもっと一つの感情を強く描いた。今は。違うものが。同じ色の中に重なっている。奏への穏やかな感謝。町への愛着。玲への言葉にできない感情。過去への痛み。そして。もう一度、描けるようになったことへの。怖いほどの喜び。それが。少しずつ、今の自分の作風になっている。完成させたい。初めて、はっきりとそう思った。残したいとは、まだ思えない。誰かに見
翌日。「エマ」ジャンがカウンター越しに私の手を見る。「何ですか」「爪」反射的に、手を引いた。「何が」「色ついてる」親指の爪の脇。昨日使った顔料が僅かに残っていた。「掃除です」「何の?」「なんでもいいでしょう」「うん」意外にもジャンはそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ目を細める。その顔が嫌で。「何ですか」「別に」「なら見ないでください」「君、本当に僕には容赦ないね」「しつこいからです」「それも慣れた」「良かったですね」コーヒーを置く。ジャンが笑う。「そういうところ、エレナとは——」「ジャン」少し低く名前を呼ぶ。言葉が止まった。「前にも言いましたよね」「……はい」「似てるのか何なのか知りませんけど」カップを彼の前へ押す。「別人の故人の話を、私に当てはめないでください」「分かった」今日は素直に引いた。「ならいいです」背を向けようとすると。「でも」また声がする。「今の君の方が面白いよ」足を止める。振り返る。「何と比べてるんですか」「比べてない」「今、比べたでしょう」「言い方が悪かった」珍しくジャンが少し考える。「エマという人間が、思っていたより面白い」「そうですか」「反応薄いな」「あなたに興味を持たれて喜ぶ理由がないので」数秒、ジャンが黙る。そして小さく笑った。「本当に久しぶりだな」「何がですか」「僕にそんな態度取る人」「周りに気を遣わせすぎなんですよ」「多分ね」「改善してください」「それは難しい」「なら知りません」私が離れる。後ろで、ジャンがまた笑っていた。「楽しそうだね」声がして、顔を上げる。奏がいた。「誰がですか」「エマ」「そう見えます?」「うん」奏は、ジャンへ一度だけ視線を向けた。以前なら、それで終わった。最近は終わらない。「結構、仲良くなったね」「毎日来るので、慣れただけです」「そっか」穏やかに笑う。その目が、少しだけ寂しそうに見えた。「今日、何時まで?」「七時です」「じゃあ俺もそのくらいに上がる」「何かあります?」「送る」「歩いて帰れます」「知ってる」すぐに返される。少し困ったように笑った。「でも、俺が送りたい」「……」奏は、少し変わった。いや。多分、態度がわかりやすくなった
ジャンは、翌日も来た。その次の日も。その日は、玲と一緒に来ていた。四日目になると。 入口のベルが鳴っても、私は顔を上げなくなっていた。「いつもの?」コーヒーマシンの前から聞く。「まだ何も言ってないけど」「違うものなら先に言ってください」「いつもので」「はい」カップを用意する。ジャンは当然のように、いつものカウンター席へ座った。ここ数日。午前中は美術館。 午後はヨーロッパ側との調整。その隙間を縫うように、一日に一度はカフェへ来る。忙しい日は十分。 時間があれば三十分。最初の二日は警戒していたのに。毎日顔を合わせているうちに。 私の方も、少しずつ慣れてしまった。「そんなに暇なんですか」二日目に聞いたら。「暇に見える?」と返された。「見えないから聞いてます」「なら、時間を作ってるんだよ」「どうして」「君が面白いから」あっさり言われた。玲に同じことを言われたら。 その言葉の裏にある感情まで考えてしまう。でもジャンは違う。面白いから。 知りたいから。 話す。少なくとも今は。 それだけだった。だからこそ。 私も少しだけ楽だった。*「今日は随分遅いですね」午後四時を回っていた。「展示室で揉めた」「また?」「僕が悪いみたいに言わないで」「毎回いるなら、原因の一部ではあるでしょう」「照明を妥協しろと言われた」「それは嫌ですね」即答すると。 ジャンの眉が上がった。「そこは僕の味方?」「作品の味方です」「冷たいな」「何を期待してるんですか」コーヒーを置く。ジャンが笑った。「見て」差し出されたスマートフォンには。 同じ作品を異なる照明で撮った二枚の写真。「どっち?」「……右」「早いね」「写真だけなら」画面を少し近づける。「左は色が綺麗に出すぎてます」「綺麗なのは悪い?」「この作品なら」少し考える。「影が残った方がいいと思います」「どうして」「最初に色を見せすぎると、それだけで満足する人がいるので」指で画面を拡大する。「少し沈ませた方が、表面の色じゃなくて、その下にある層を見ようとするでしょう」言ってから。 気づいた。少し話しすぎた。ジャンの指が、画面の上で止まっている。「……何ですか」「いや」私を見る。「やっぱり面白いなと思って」