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第7話:エレナが死んで、エマが生まれた

Author: Sunny
last update publish date: 2026-08-02 12:49:49

朝倉エマは、SNSを見ない。

かつては、新しい展示を追い、知らない画家の才能に嫉妬し、評論家の言葉に腹を立てた。

名前が広がるほど、世界中から次の作品を期待された。

天才は、次も天才でいられるのか。

その視線は、すべてエレナ・カワサキへ向けられていた。

今のスマートフォンに入っているのは、天気予報と地図、仕事に必要なアプリだけ。

美術界の記事も、芸能人のニュースも見ない。

港町へ来て、三年。

朝は漁船の音で目を覚まし、窓を開ければ潮の匂いが入る。

坂を下れば、商店街の人たちが自然に名前を呼んだ。

「エマちゃん、おはよう。形の悪いトマトがあるから、帰りに持っていきな」

「ありがとうございます」

「奏くんに渡しておくね」

勤め先まで説明する必要もない。

最初の頃は、話しかけられるたび身体が固くなった。

どこから来たのか。

家族はいるのか。

以前は何をしていたのか。

けれど、この町の人たちは、答えなければそれ以上踏み込まなかった。

翌日には、天気や魚の話をしている。

その無関心に近い優しさが、少しずつ心地よくなった。

海沿いのカフェへ入ると、コーヒーの香りがした。

開店前の店内で、千早奏が豆を量っている。

「おはようございます、奏さん」

「おはよう、エマ」

この町で生まれ育ち、数年前に店を継いだ奏は、背が高く整った顔立ちをしている。

観光客の間では、海辺のカフェの格好いい店長として少し知られているらしい。

エマは常連客から聞くまで、そのことさえ知らなかった。

奏は三年間、余計なことを聞かずにいてくれた人だった。

「八百屋さんから、またトマトをいただきました」

「昨日も同じことを言って持ってきたよ。今日のランチに使おうか」

「はい」

エマはエプロンをつけ、肩までの黒髪を低くまとめた。

鏡に映るのは、細かなそばかすと控えめな化粧をした女性。

長い金髪で雑誌や展覧会の写真に写っていた女とは、まるで違う。

変えられなかったのは瞳だけだった。

琥珀と淡い茶色の中に、光を受けると薄い緑が浮かぶ。

胸元には幼い頃の傷があり、今はその上をタトゥーが覆っている。

玲だけが、その傷を知っていた。

記憶が浮かびそうになり、エマはエプロンの紐を結び直した。

玲のことは考えない。

八年前から、そうしてきた。

開店すると、いつもの客が入ってきた。

港で働く男性。近所の老夫婦。犬の散歩帰りにコーヒーを買う女性。

「エマちゃん、今日も綺麗ね」

「朝から何ですか」

「三年もいるんだから、もうずっといてね」

軽い言葉だった。

それでも、胸の奥へ静かに残った。

以前のエマは、どこへ行っても荷物を増やさなかった。

いつ移動を命じられてもいいように、人と深く関わらず、住んだ場所を帰る場所だと思わない。

それが、生き延びるための習慣だった。

けれど、この町では少しずつ物が増えた。

お気に入りのカップ。

朝市で買った小さな皿。

子どもたちからもらった絵。

冷蔵庫へ貼った祭りの案内。

気づけばエマは、どこからか来た知らない女ではなくなっていた。

カフェで働く、少し静かな美人さん。

子どもたちへ絵を教える、人気の先生。

朝倉エマとして、ここにいていいと思わせてくれる場所だった。

午後には、月に二度のアート教室が始まった。

町には絵を習える場所が少ない。

黒板を描けるなら、子どもたちにも教えてみないかと奏に誘われたのが始まりだった。

最初は断った。

人前で絵を描くことも、自分の技術を知られることも避けたかった。

けれど、子どもたちの手伝いをするだけなら。

そう自分へ言い聞かせて引き受けた一度が、今では町で人気の教室になっている。

「エマ先生、海、紫でもいい?」

女の子の画用紙には、紫の海と緑の太陽、赤と黄色の魚が描かれていた。

「もちろん」

「本当の海と違うよ」

「あなたが紫に見えたなら、紫でいいの」

子どもたちは、正しい色を探さない。

売れるか。

評価されるか。

新しいか。

そんなことは考えず、描きたいものを描く。

その姿を見るたび、胸の奥に懐かしさと痛みが生まれた。

かつては、自分もそうだった。

「エマ先生は、海が何色に見える?」

窓の外には、午後の光を受けた海が広がっている。

青。灰色。緑。反射する白。

「今日は、少し銀色かな」

女の子は嬉しそうに席へ戻った。

エマは、自分の線を子どもの絵へ混ぜない。すぐに答えを与えず、本人が選ぶまで待つ。

その時間だけ表情が柔らかくなることを、奏は知っているらしかった。

「エマも、あの時間は楽しそうだね」

片づけを手伝いながら、奏が言う。

「そう見えますか」

「見える」

奏はそれ以上、なぜ自分では作品を描かないのかを聞かなかった。

「今日はもう上がっていいよ。最近、少し寝不足でしょう」

エマの指が僅かに固くなる。

「ありがとうございます、奏さん」

店を出たエマは、家とは反対の方向へ歩いた。

古い倉庫街を抜けた先に、小さなプレハブ倉庫がある。

半年前から借りている、誰にも話していない場所だった。

奏にも。

町の人にも。

子どもたちにも。

扉を閉め、内側から補助錠を下ろす。

中には画材と、大きなキャンバスが置かれていた。

絵は描かない。

八年前、そう決めた。

黒板は消える。

教室では、子どもの絵を手伝うだけ。

そこまでは許せると思っていた。

けれど最近、夜になると指が落ち着かなかった。

海の色。

カフェの窓へ差す光。

子どもたちが迷わず置く色。

町の人の声。

朝倉エマとして暮らした三年間が、描きたいものとして身体の中へ溜まっていった。

ある夜、耐えられずに筆を一本買った。

次の日には絵の具。

その次にはキャンバス。

気づけば、倉庫まで借りていた。

エマは布を外した。

描きかけの作品は、海のようにも、人の身体の内側のようにも見える。

以前のエレナの絵とは違っていた。

エレナの絵は、美しくても見る人を画面の外へ置いた。

今の絵には、港町の光と人の温度が混じっている。

朝倉エマとして得たものが、かつての鋭さを少しずつ変えていた。

筆を握ると、呼吸が静かになる。

八年間描いていなかったとは思えないほど、手は迷わなかった。

技術が残っていたのではない。

描かなかった時間そのものが、別の形へ育っていた。

もっと描きたい。

まだ足りない。

その衝動は、もう抑えられなかった。

ようやく筆を置き、数歩下がる。

描けている。

胸の奥が熱くなり、すぐに冷えた。

この絵は、誰にも見せられない。

エレナの作品とは違う。

それでも、見る人が見れば気づくかもしれない。

色の作り方。

画面の奥行き。

迷いのない筆。

姿や名前を変えても、作品には自分が出る。

完成したあと、どうするのか。

隠し続けるのか。

壊すのか。

燃やすのか。

まだ決めていない。

エマがキャンバスへ布をかけた時、スマートフォンが震えた。

保護担当者からだった。

『三か月後の国際アートフェスティバルについて、注意が必要です』

続けて、もう一通届く。

『神崎玲が、主催者との接触を始めました』

エマの呼吸が止まった。

八年間、検索しなかった名前。

知らないままにしてきた人。

さらに表示された文章を見て、指先が冷える。

『ジャン・モロー氏も、同フェスティバルの後援を検討しています』

玲とジャン。

エレナの顔だけではなく、作品を誰より深く知る二人。

その二人が、この小さな港町へ来るかもしれない。

エマは、布をかけたキャンバスを見た。

三年かけて馴染んだ町。

初めて帰る場所だと思えた生活。

そのすぐ近くまで。

八年前に置いてきた過去が、もう迫り始めていた。

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