LOGIN正直に言えば、玲は一刻も早く店を出たかった。
海沿いのカフェへ立ち寄ったのは、結衣が希望したからにすぎない。 このあとには国際アートフェスティバルの主催者との会議がある。 確かめるべきことはいくつも残されていた。 店内は、写真で見た以上に穏やかな空気に満ちていた。 居心地のよい店なのだろう。 客たちの表情を見れば、それくらいは分かる。 けれど、玲にとっては、それだけだった。 「綺麗ですね」 向かいに座った結衣が、窓の外へ顔を向けたまま言った。 「そうですね」 玲は短く答え、腕時計へ目を落とした。 会議まで、まだ少し時間がある。コーヒーを一杯飲み、すぐに店を出ればいい。 玲の意識は、すでにこのあとの予定へ移っていた。 「本当に興味なさそうですね」 結衣が笑う。 「何がですか」 「海も、このお店も。私が来たいって言ったから、仕方なく付き合ってくれただけでしょう?」 「そのとおりです」 玲がためらいなく答えると、結衣は呆れたように眉を上げた。 「少しくらい否定してくれてもいいのに」 「事実と違うことを言う必要はないでしょう」 冷たくしたつもりはなかった。 玲は誰に対しても、必要な礼儀を欠かさない。 ただ、興味のないものへ、興味があるふりをすることができないだけだった。 美しいものを美しいと判断することはできる。人が喜ぶ理由も理解できる。 けれど、自分の感情がそこへ追いつくことは、もうほとんどなかった。 八年間、ずっとそうだった。 何かを見て、もう一度見たいと思うこともない。 誰かへ伝えたいと感じることもない。 心を動かすものがあるとすれば、エレナが残した作品だけだった。 それさえ、一枚手に入れた瞬間にはわずかに満たされても、すぐに次の空白が生まれる。 最後の一枚を除き、エレナの作品はほとんど玲の手元にある。 それでも、胸の内側に開いた穴は少しも狭くならなかった。 「いらっしゃいませ」 カウンターの奥から、男性が近づいてきた。 写真で見せられた店長だった。 千早奏。 背が高く、穏やかな顔立ちをしている。 観光客の間で人気があるという話も、結衣から聞いていた。 「本当に格好いいですね」 奏が離れたあと、結衣が声を潜めた。 玲は一度だけ、その背中を見た。 「そうですか」 「見てなかったでしょう」 「見る必要がありますか」 「ありませんけど」 結衣は苦笑した。 玲には、どうでもよかった。 誰が美しいか。誰に人気があるか。誰が誰へ好意を向けているか。 そうしたことへ関心を持つ感覚を、とうに失っている。 奏が二人の前へ水を置いた。 「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」 「ありがとうございます」 結衣はすぐにお礼を伝えた。 玲はメニューを開かずに言う。 「ホットコーヒーをお願いします」 「かしこまりました」 奏がカウンターへ戻る。 玲は再び腕時計へ目を落とした。 早く帰りたい。 この店を嫌っているわけではない。ただ、ここにいる理由がなかった。 最後の一枚へ繋がる手がかりも、ジャンの意図を示すものも見当たらない。 穏やかな海辺のカフェ。 ただ、それだけの場所だった。 「神崎さん」 結衣に呼ばれ、玲は顔を上げた。 「何ですか」 「仕事以外で、楽しいと思うことはあるんですか?」 唐突な問いに、玲はすぐには答えなかった。 楽しいという感覚を知らないわけではない。人が何を楽しいと感じるかも理解できる。 ただ、自分が最後にそう思った時を、思い出せなかった。 エレナがいた頃、彼女は玲が興味を示さない場所へ何度も連れ出した。 街角で絵を描く人のそばに、何時間も立っていたこともある。 玲が退屈そうにすれば、エレナは振り返って聞いた。 『帰りたい?』 『少し』 『じゃあ、あと一時間』 『長いよ』 『玲は待てるでしょ』 あの頃は、何をするかより、エレナがそこにいることに意味があった。 今は何をしても、誰といても、ただ時間が過ぎていくだけだった。 「特にはありません」 玲が答えると、結衣の笑みが少し薄れた。 「本当に?」 「困ってはいません」 「困っていないことと、幸せなことは違いますよ」 玲は返事をしなかった。 今日ここへ来たのは、最後の一枚のため。 フェスティバルへ関わるのも、その手がかりを追うため。 それ以外は必要がない。 玲が水の入ったグラスへ手を伸ばした時、カウンターの奥から奏の声が聞こえた。 「エマ」 知らない名前だった。 玲は気に留めなかった。 「二名お願い」 奥の布がわずかに揺れ、人の足音が近づいてくる。 それでも玲は、窓の外を見ていた。 店員が一人増える。 ただ、それだけのことだった。 「お待たせしました」 女性の声がした。 低く、穏やかで、人との間に自然な距離を置く声だった。 玲は何気なく顔を上げた。 その瞬間。 指からグラスが滑った。 水がテーブルへ落ち、透明な液体が白いクロスの上へ一気に広がる。 結衣が驚いて玲を見る。 「神崎さん?」 声は聞こえた。 けれど、意味までは届かなかった。 目の前に、一人の女性が立っていた。 肩までの黒髪。 頬と鼻の周りに散る、細かなそばかす。 白いシャツに、淡い色のエプロン。 化粧も服装も控えめで、人の視線を避けるように、ほんのわずか肩を引いている。 エレナとは、何もかも違った。 目の前の女性は違う。 髪も。 服も。 纏う空気も。 エレナとはまるで違う。 それなのに。 玲は目を逸らせなかった。 黒髪とそばかすの下にある顔立ちを、記憶と照らし合わせるように見つめる。 細い顎。 頬骨。 すっきりと通った鼻筋。 わずかに上がった目尻。 完全に同じではない。 八年という時間もある。化粧も、髪型も、表情の作り方も違う。 それでも。 似ている。 あまりにも、エレナに似ていた。 玲は、エレナの顔を忘れていないと思っていた。 玲の言葉に困った時。 笑う直前に、唇の端がわずかに緩むこと。 何かを隠そうとすると、片方の眉だけが少し下がること。 すべて知っていた。 けれど、八年の間に、記憶の輪郭は少しずつ薄くなっていたらしい。 目の前の女性を見た瞬間。 忘れかけていた細部が、一気に戻ってきた。 そして、瞳。 琥珀と淡い茶色の奥へ、光を受けるたび薄い緑が浮かぶ。 まるで、目の中に小さなひまわりが咲いているような色。 玲の呼吸が止まった。 あの瞳だけは、一度も忘れたことがなかった。 いつも、同じ色があった。 胸の奥へ、鋭いものが突き刺さる。 痛み。 懐かしさ。 信じられないほどの期待。 長い間、自分の中から失われていた感情が、一度に押し寄せた。 エレナ。 名前が浮かぶ。 ...違う。 エレナは死んだ。 八年前に。 公的に死亡したと告げられた。 遺体を見ていない。墓もない。 それでも、生きている痕跡は一つも見つからなかった。 四十六枚の作品を集め、最後の一枚を追い続けても、本人へ繋がるものは何もなかった。 目の前の女性は別人だ。 黒髪。 そばかす。 静かな服装。 玲を知らない人間の声。 どう考えても、エレナではない。 それなのに。 身体だけが、もう一度会えたのだと信じようとしていた。 女性も、玲を見たまま動きを止めていた。 ほんの一瞬。 確かに、呼吸を忘れたような顔をした。 瞳が揺れ、唇がわずかに開く。 その表情まで、エレナに似ていた。 玲の心臓が大きく鳴った。 また会えた。 理性より先に、そんな思いが胸の奥から込み上げた。 八年間、一度も許されなかった願い。 もう一度、顔を見たい。 声を聞きたい。 生きている温度へ触れたい。 叶うはずのなかった願いが。 今、目の前に立っていた。「エレナ・カワサキの作品は、見たことはありますか?」玲の問いに、エマはすぐには答えなかった。ティーカップの取っ手へ置いた指先に、わずかに力が入る。知らない。そう答えることはできた。けれど。浜中さんの前で、あまりにも何も知らない人間を演じる方が危険な気がした。美術館の企画について意見を求められ。現代美術のシリーズを見て、作品同士の流れについてまで話した。そんな自分が、世界的に知られたエレナ・カワサキをまったく知らないという方が、不自然だ。エマは一度だけ呼吸を整えた。「有名な画家ですよね」できるだけ何でもないことのように言う。「作品自体は、画像で見たことがあります」綺麗な嘘だった。完全な嘘ではない。画像でも見たことはある。自分の作品を。それを描いた本人としてではなく。ただ知っている画家について話すように口にした。玲は、しばらくエマを見ていた。疑っているのか。それとも、単に答えを聞いているだけなのか。表情からは読み取れない。やがて。「そうでしたか」玲は静かに頷いた。それだけで終わると思った。けれど。「僕は」玲の声が続く。「エマさんに、エレナの作品を観に来ていただきたいと考えています」エマは思わず顔を上げた。玲の目は、まっすぐこちらを見ている。「フェスティバルで制作される上でも、良いインスピレーションになるかもしれませんし」あくまで仕事のように。あくまで合理的な理由を添えて。けれど。その言葉を聞いた浜中さんが、分かりやすく目を丸くした。玲は気づいていないのか。それとも、気づいていて無視しているのか。エマには分からない。ただ。私情で動かない男として知られている人が。一人のカフェ店員へ、自分が誰にも貸さなかった作品を見に来てほしいと言っている。少なくとも。浜中さんには、その異常さが分かるらしい。「私のような人間に、そんな作品を見せていただくなんて」エマは小さく笑った。「畏れ多いことです」距離を取るための言葉だった。ところが。「それは聞き捨てならないな」浜中さんがすぐに割って入った。エマが振り返る。「浜中さん?」「エマさんが、自分を『私のような人間』なんて言うのはよくない」朗らかな声だった。それでも、思ったより真面目な顔をしている。「絵の感性の話なら」浜中は玲
「彼女は創作が滞ると、たまにイラストを描くことがあって」「どんな絵だったかは、あまり記憶にないのですが....なんとなく思い出してしまいました」胸の奥が、ざらついた。エレナ。また。自分が何かを描けば。そこに彼女が現れる。八年間。名前も。髪も。生活も。描くものさえ変わったつもりだった。昨日の猫には、何の意図もない。昔なら作品とも呼ばなかったような、小さなスケッチだ。玲の記憶の通り。たまに、作品作りで行き詰まったとき。落書きのように、描いていただけ。それなのに。玲は、その中からエレナを見つける。額を見つめる玲の表情は、穏やかだった。愛おしいものへ触れるように、親指が額の縁を一度撫でる。その仕草を見ている方が。似ていると言われたことより、エマには苦しかった。八年経っても。この人の中では。エレナは、まだこんなにも近い。「それでね、神崎さん」浜中さんが自然に会話を戻した。「今日話したかったのは、まさにそのエレナ・カワサキの作品についてなんだ」玲が額を静かに戻す。「二十七作目と、三十四作目」エマの呼吸が、一瞬止まった。番号だけで分かる。二十七作目。三十四作目。どちらも。自分が描いた作品だった。「本当に貸してもらえるんですか?」浜中さんは半ば確認するように尋ねた。「神崎さんがエレナ・カワサキの作品を外部へ貸さないのは、業界では有名な話でしょう。美術館からの依頼でも、財団からの依頼でも、これまではほとんど断ってきたと聞いてます」エマは玲を見そうになり、やめた。知らなかった。玲が自分の作品を集めていることは、保護担当者から聞いている。けれど。貸し出すことさえ拒んでいるとは知らなかった。「はい」玲は淡々と答えた。「今回は、お貸しします」浜中さんの眉が上がる。「本当に?」「そのつもりで調整しています」玲は資料へ視線を落とした。「二十七作目と三十四作目は、今回の展示テーマの解釈にも影響する作品だと思っています。ですから、貸し出しについては早めにお伝えした方がいいかと」「ありがたいよ」「ただ」玲は資料の一部を指で押さえた。「モロー財団が正式に入ったことで、西洋美術側の構成にも調整が入ると思います。新興作家から古典派まで幅を広げるのであれば、エレナの作品をどこへ置くかで意味が変わる
理事室の扉が開いた瞬間。エマが最初に見たのは、玲の目だった。いつもと同じ、静かな目。人にも、場所にも、それほど興味を持っていないような、温度の薄い色をしている。浜中さんへ向けていた視線が室内を流れ、エマを捉えた。その瞬間。ほんのわずかに、目の色が変わった。驚きだけではない。何も映していなかった場所へ、急に色が差したような。自分を見つけたことを、隠しきれない変化だった。エマはそれに気づいてしまい、先に目を逸らした。「……こんにちは」「こんにちは、エマさん」返ってきた声も、先ほどより少し柔らかい。気のせいだと思うことにした。玲は浜中さんへ向き直った。「お知り合いですか?」「まあ、ちょっとね」浜中さんは朗らかに笑った。それ以上は言わない。エマがこの町で人知れず倉庫を借りていること。そこで絵を描いていること。描いたものを表へ出したくないこと。事情そのものは知らなくても、浜中さんはエマが隠しているものの輪郭を察している。だからこそ。余計な説明をしなかった。そのことに、エマは少しだけ安堵する。「浜中さん。私はそろそろ——」バッグへ手を伸ばし、立ち上がる。けれど。「すぐに済みますので」玲の声に止められた。顔を上げる。「ちょうどエマさんとも、お話ししたいことがありました。少し待っていていただけますか」「私と、ですか?」「はい」何の話だろう。嫌な予感しかしない。「まあまあ、座ってなよ」浜中さんにまで言われる。「せっかくのお茶も残ってるし」二人から止められてしまえば、帰る方が不自然だった。「……分かりました」エマは仕方なく、もう一度腰を下ろした。玲も浜中さんの正面へ座る。自然に選ばれたその場所は、エマの隣だった。近い。肩が触れるほどではない。それでも、わずかに身じろぎすれば互いの気配が分かる距離だった。エマはお茶へ手を伸ばした。その時。玲の視線が、机の端で止まった。額に入れられた猫のスケッチ。まずい。そう思った時には、もう遅かった。「それでは、神崎さん」浜中さんが資料を開く。「アートフェスティバルの展示における、例の作品の貸し出しについて——」「すみません」玲が遮った。視線は、額から動いていない。「これは、誰のスケッチですか?」一瞬。部屋が静かになった。エマ
「空間が一度外へ開くことで、それまで見ていたものを振り返らせる働きがあるって」思わず。浜中さんの顔を見る。ほとんど。自分が玲ならそう言うだろうと思った通りだった。「面白いね」浜中さんが笑う。「同じ作品を見ても、全然違う」エマは何とも言えない気持ちになった。八年も離れていたのに。今の玲がどう見るかを。自分はまだ、こんなにも簡単に想像できる。しかも。当たっている。「でも、僕はエマさんの方がしっくりくるな」「……そうですか」「うん。流れを作るなら、ここでは切りたくない」浜中は会場図を見ながら頷いた。「やっぱり僕たち、絵を見る時の癖が少し似てるのかもしれない」そう言われると。今度は別の意味で気恥ずかしくなった。エマは誤魔化すようにお茶へ手を伸ばす。「偶然です」「そう?」「二人しかいないので、意見が合う確率も高いです」「そういうことにしておこうか」浜中さんが楽しそうに笑った。***一通り資料を見終える頃には、予定していた時間を少し過ぎていた。「助かったよ」浜中さんは資料をまとめながら言った。「本当に?」「本当に。専門家って、知識がある分、考えすぎることもあるからね」「私も十分考えていますけど」「エマさんは、見る時はもっと素直だよ」そうだろうか。自分では分からない。浜中さんが机の横へ目をやる。そこには、小さな額が置かれていた。エマは気づいて、目を見開いた。「……額に入れたんですか」先日描いた猫だった。倉庫の前へ現れた野良猫。鉛筆だけで描いた、十五分ほどのスケッチ。「いいでしょう」「そこまでしていただくようなものじゃ」「僕が気に入ってるんだからいいの」浜中さんは嬉しそうに額を持ち上げた。「家に持って帰ろうかと思ったけど、しばらくここに置こうと思って」「人には見せないでくださいね」思わず言う。「分かってるよ」浜中さんは笑った。「作者不明の猫」「それでお願いします」「でも、やっぱりいい線と表情だよね」エマは返事をせず、お茶を飲んだ。褒められることには。昔から慣れていたはずなのに。今は。たった一枚の猫を気に入ってもらったことの方が、妙に嬉しい。作品として評価されたわけではない。値段も。名前も。経歴もない。ただ。好きだから欲しいと言われた。それだけだった
倉庫で浜中さんと話してから。企画展の打ち合わせ日時は、驚くほど早く決まった。浜中さんと倉庫で話した翌日には連絡があり、その二日後。エマは町の美術館へ向かっていた。その連絡を受けた時、初めて知ったこともある。浜中茂。この美術館の土地を持っているだけではなかった。理事会にも名を連ね、どうやら企画にもかなり発言力を持つ立場らしい。送られてきたメールの署名を見て、エマはしばらく画面を見つめてしまった。あの人。畑でトマトを作り、長靴のまま軽トラックを運転して。自分で描いた歪んだ棚を「もう諦めた」と笑っていた人なのに。本当に不思議な人だ。美術館に着いて案内されたのも、一般の打ち合わせスペースではなく理事室だった。「どうぞ」浜中さんが自分でお茶を淹れている。今日も高価そうなスーツではない。薄いシャツに、少しくたびれたパンツ。理事室という場所だけが、妙に似合っていなかった。「浜中さん」「うん?」「理事だったんですね」浜中さんの手が止まる。「あれ。言ってなかった?」「聞いてません」「土地の話はしたでしょう」「土地を持っていることと、理事なのは違います」「そうかな」「違います」エマが言い切ると、浜中さんは楽しそうに笑った。「まあ、肩書きなんて絵を見るのには関係ないから」そういうところも。やはり不思議だった。***企画展の資料は、すでにテーブルへ並べられていた。今回扱うのは、国内外で活動する現代作家のシリーズ作品。エマも知っている作家だった。派手な色彩ではない。むしろ、余白と素材そのものの質感を生かすことで、見る側の意識を作品の内側へ引き込む。玲が好きだった作家だ。そのことだけが、不意に記憶へ浮かんだ。昔、一緒に展示を見たことがある。エマはあまり好みではなかった。玲は長い時間、一枚の前から動かなかった。理由を聞けば。作品そのものより、作品が置かれたことで周囲の空間まで変わって見えるのがいいと言っていた。そんなことまで。どうして今、思い出すのだろう。エマは資料へ意識を戻した。展示予定の作品。会場図。照明。作品同士の距離。順番。一つずつ目を通していく。しばらくして。指が、一枚の資料の上で止まった。「……これだけ、少し違いますね」浜中さんが顔を上げる。「どれ?」エマは一作品
「あれにします」エマが言う。浜中は猫を見て、それから室内を見回した。「動くものは無理だな。僕はこれ」選んだのは、画材の棚だった。「難しいですよ、それ」「もう後悔してる」鉛筆を握りながら、浜中が言った。***不思議な時間だった。会話はほとんどない。鉛筆が紙を擦る音。冷房の低い音。時折聞こえる猫の鳴き声。浜中が小さく唸る。それだけ。エマは猫を見る。丸まった背中。日に照らされた毛。耳だけが、外の音へ反応して動く。紙へ線を置く。最初は軽く。形を探るように。けれど数本引けば、手が勝手に動き始めた。背骨の曲線。肩の高さ。眠そうに細められた目。前足の重なり。油絵とは違う。色もない。やり直そうと思えば、いくらでもできる。それなのに。思っていた以上に楽しかった。誰かと同じ場所で描くことも。エマには新鮮だった。以前の制作は、いつも一人だった。アトリエへ誰かが入ることすら嫌った。描いている最中は、世界から切り離されていたかった。今は。隣で浜中が棚を描いている。誰かの鉛筆の音がある。それでも。邪魔ではなかった。むしろ。静かな安心感があった。「終わった」先に浜中が鉛筆を置く。「早いですね」「諦めた」見せられた紙を見て。エマは一瞬、言葉を探した。棚は。かなり傾いていた。「味があります」「便利な言葉だね」二人で笑う。「エマさんのは?」差し出す。浜中は、しばらく何も言わなかった。紙の上には。眠りかけた猫。柔らかな線だけで描いた、小さな一枚。油絵のような強さはない。ただ。陽の中で安心して身体を丸める猫の温度だけが、紙へ残っていた。「これ、いいねえ」浜中が言う。「そうですか?」「すごく好きだな」何度か角度を変えて眺める。「もらってもいい?」エマの指が止まった。自分が描いたものを。人へ渡す。その行為そのものに。身体が少しだけ警戒した。けれど。名前は入っていない。サインもない。作品と呼ぶほどのものでもない。そして。浜中なら。誰かへ見せびらかしたり、余計なことを調べたりしない。その信頼があった。「……名前もないですよ」「だからいいんじゃない?」浜中は笑う。エマは少し考えてから。紙をスケッチブックから丁寧に外した。「どうぞ」「本当







