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第9話:もう一度、名前を呼ぶ

Author: Sunny
last update publish date: 2026-08-02 12:51:59

テーブルの端から、水が床へ落ちる。

一滴。

また一滴。

女性は我に返ったように視線を下げた。

「申し訳ありません。布巾をお持ちします」

落としたのは玲なのに、女性はそう言い、カウンターの奥へ戻っていった。

玲は言葉を返せなかった。

肩までの黒髪。

細い背中。

静かな歩き方。

エレナとは違う。

どこから見ても、別の人生を生きてきた人間だった。

それでも、振り返れば、もう一度あの顔が現れる気がした。

「大丈夫ですか?」

結衣が尋ねる。

玲は答えられなかった。

自分の手を見る。

指が、わずかに震えている。

八年間。

何を見ても、誰と会っても、一度も起きなかった反応だった。

グラスを落とす。

呼吸を忘れる。

知らない女性から、目を離せない。

そんな自分を、玲自身が知らなかった。

「お知り合いですか?」

結衣が声を落とす。

玲は、ゆっくり首を横へ振った。

「違います」

言葉にすると、胸の奥が強く痛んだ。

違う。

目の前の女性は、エレナではない。

死んだ恋人に似ている。

ただ、それだけ。

そう思わなければならない。

けれど、思い込もうとするほど、先ほど見た瞳が鮮明に蘇る。

琥珀と淡い茶色。

その奥に浮かんだ緑。

顔を見た瞬間だけ、確かに揺れた表情。

もし、本当に他人なら。

なぜ、あんな顔をしたのだろう。

玲は自分へ都合のよい意味を与えようとしていることに気づいた。

突然グラスを落とした男と目が合えば、誰でも驚く。

それだけだ。

エレナではない。

八年間探し続けても、何の痕跡も見つからなかった人が。

有名でもない、地方の港町のカフェで。

別の名前を使って働いているはずがない。

分かっている。

それでも、身体の内側に戻った感覚だけは消えてくれなかった。

また会えた。

その思いが、一度胸へ生まれてしまった。

「エレナさんに、彼女は似ているんですか」

結衣の問いに、玲はカウンターの奥へ目を向けた。

女性の姿は見えない。

「はい」

声が、僅かに掠れた。

「とても」

結衣は何かを言いかけたが、玲の表情を見てやめた。

八年前に亡くなった恋人。

四十六枚の作品を集めても失ったままの人。

今も最後の一枚を探し続けている理由。

そのすべてを、結衣も多少は知っている。

けれど、玲がこれほど露骨に感情を揺らした姿を見るのは初めてだったはずだ。

やがて、カウンターの奥から女性が布巾を持って戻ってきた。

今度は、玲を見ないように視線を伏せている。

「失礼します」

女性はテーブルの横へ屈み、クロスへ広がった水を拭き始めた。

先ほどよりも、ずっと近い。

玲の視線が、再びその顔へ落ちる。

金髪とは違う、艶のある黒髪。

細かなそばかす。

薄い化粧。

エレナとは違う。

けれど、近くで見るほど、顔立ちは記憶と重なった。

鼻の付け根。

唇の端。

顎へ続く線。

伏せた睫毛。

完全に同じではない。

それでも、知らない他人として切り捨てるには、あまりにも似すぎていた。

八年前のエレナは二十二歳だった。

今、生きていれば三十歳。

目の前の女性も、そのくらいに見える。

時間が経てば、顔つきは変わる。

髪の色も、服装も、化粧も変えられる。

そばかすさえ、後から足すことはできる。

そんな考えが浮かび、玲はすぐに打ち消した。

あり得ない。

エレナは死んだ。

公的な記録もある。

自分は、その事実を受け入れられないまま、他人へ面影を重ねているだけだ。

女性の髪が頬へ落ちる。

彼女はそれを払わず、布巾を動かした。

細い手。

短く整えられた爪。

装飾のない指。

エレナも、同じように細い手をしていた。

絵の具がついたまま、玲の袖を引いた。

寒い日には、自分から玲の手の中へ指を滑り込ませた。

何度も触れた。

何度も握った。

もう二度と触れられないと思っていた。

その記憶が、一瞬で身体へ戻る。

女性の手が、玲の前を通った。

理性より先に、指が動いた。

布巾を持つ手へ触れる。

目の前の女性の、体温を指先で感じた。

女性の動きが止まる。

肩が、わずかに揺れた。

結衣が息を呑む音がした。

玲には、ほとんど聞こえなかった。

触れた指から、熱が伝わる。

生きている人間の温度。

柔らかく、確かな熱。

その瞬間。

玲の中で、八年前に止まった時間が動いた。

死んだはずの人。

二度と会えないと諦めさせられた人。

作品の中でしか触れられなくなった人。

その人が。

今、自分の指先にいる。

玲の呼吸が浅くなる。

触れてはいけない。

初対面の女性だ。

自分が何をしているのかも分かっている。

それでも、手を離せなかった。

指先にある温度が消えれば、また八年前の空白へ戻ってしまう気がした。

女性は、ゆっくり顔を上げた。

瞳が真正面から玲を見る。

琥珀。

淡い茶色。

その奥に浮かぶ緑。

目の中に咲く、小さなひまわり。

近くで見るほど、その色は記憶と重なった。

玲を見上げる時。

怒りを堪えている時。

何かを言いかけて、やめた時。

エレナの瞳にも、同じように緑が揺れた。

女性の目には、明らかな動揺があった。

知らない男へ突然触れられた驚きだけではない。

そう思いたかった。

自分の声を知っている。

自分が誰なのか分かっている。

玲の中で、抑えきれない期待が膨らむ。

違う人間だと分かっている。

髪も。

声も。

服も。

雰囲気も違う。

それでも、その瞬間の玲には。

理性より、八年間抱き続けた願いの方が強かった。

また会えた。

本当に。

もう一度。

エレナに会えたのだと。

胸の奥から、名前が溢れた。

玲の指先が震える。

声も、わずかに掠れた。

「……エレナ?」

女性の瞳が、大きく揺れた。

布巾が。

その手から落ちた。

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